Ace Combat side story of 5 -The chained war- 作:びわ之樹
つんと鼻を突く航空塗料の臭いが、空気を溶かすように屋内に満ちる。
言葉で表現するならば、それは完熟したメロンを三日三晩箱に閉じ込め、それを開け放った瞬間と言うべきか。濃縮された甘い臭いは、脳天をくらくらさせるほどに強く鼻孔へ突き刺さる。迂闊に深く息を吸ったその瞬間、エリクは反射的に2、3度咳き込む羽目になった。
2010年12月17日。所はオーシア連邦東端に当たるノースオーシア州、その一都市ルーメンに居を構えるルーメン・メディエイション・エージェンシー(L.M.A.)の航空拠点格納庫。まだ真新しい、L.M.A.のロゴが入った作業着に身を包みながら、エリク・ボルストは自らの機体を前に佇んでいた。
「よう、どうした新入りさんよ。自分の機体がそんなに心配かね?」
「ん…ああいや、手持ち無沙汰半分、かな。自分の機体がどうなるのかは確かに気になるけどね」
「ははは、念入りなこった。別に色を変えるだけだ、中身に違いはないだろうに」
「まあ、そうだが。くれぐれも左翼の『三日月』は消さないでくれよ」
作業に余裕が出たのか、不意に話を振った整備員の男に、エリクも苦笑交じりに応じる。L.M.A.に所属を移してから顔なじみとなった男だが、航空機の整備を職としてから長いのだろう、50前半と思しき風貌と節くれだった太い指、そして無駄のない手際の良さが、その職歴を仄かに物語っている。もしかするとエリク同様、別の前職からスカウトされて来たのかもしれない。
男の話に応じるように、見上げた自身の愛機『クフィルC10』。見慣れた筈のその姿は、しかし昨日までとは見違えるように異なり始めていた。
エリクの『クフィル』は、レクタ空軍時代の塗装を踏襲し、基本色として配した灰色と左翼の黄色い三日月を塗装パターンとしていた。ところが眼前のその姿はといえば、基本色は闇を染め抜いたような黒一色。垂直尾翼の端を赤く染めて識別色とし、あたかもふた昔前の夜間戦闘機のような装いへと変わりつつあったのだ。基本色が黒系統となったこともあり、左翼を彩る黄色の三日月は、前にも増して月夜の印象を彷彿とさせるようになっている。
黒地と、翼端に配した赤色。
言うまでも無く、これは今の共闘相手である『ラーズグリーズ隊』の塗装パターンそのものである。三日月の塗装パターンと尾翼の『ハルヴ』のエンブレムこそ趣を異にしているが、それらを除けば今の姿が『ラーズグリーズ』への偽装を目的としたものであることは誰の目にも明らかであった。これまで慣れ親しんだ姿から変わりつつあることに、エリクも抵抗がない訳ではない。
こうした塗装パターンの変更を提案したのは、エリクでなくL.M.A.のサヤカである。彼女曰く、今後は一層ラーズグリーズとの連携が増えてゆく。ベルカ残党の目を欺き攪乱するためにも、ラーズグリーズへの偽装はやっておいて損はない、との言い分であった。抵抗を抱きつつも道理も感じたエリクは、『三日月の塗装とハルヴ隊のエンブレムを残す』という条件で、塗装色の変更に同意し、今の姿に至るという訳である。
『ラーズグリーズ』という存在が、ベルカ残党にとって脅威の象徴へとなりつつある以上、この偽装は簡単ながらこ効果的とエリクも認めざるを得ない。そしてその効果は、間もなく実施される次の作戦でも遺憾なく発揮される筈であった。
《エリク特技官、エリク特技官。第2会議室までお越しください》
「ん?おい、呼んでるぞ。お前さんだろ?」
「やっとか…悪いけどちょっと外す。ああ、尾翼のエンブレムも…」
「残しとくんだろ?分かってるよ」
壁に備え付けられたスピーカーから、事務員らしい女の声が流れる。古ぼけた見た目にも関わらず存外に音質はクリアで、点検整備は欠かしていないらしい。
片手を上げて返答一つ、了承の意を示した整備員を背に、エリクは扉へと足を踏み出す。
扉を出るとともに濁りのない新鮮な空気が肺に殺到し、エリクは再びむせ返りそうになった。
******
「遅くなりました。エリク・ボルスト二等特技官、入り…って何だ、お前だけか」
「あらあらあら、つれないですわエリク様。上司のわたくしをもっと敬愛しつつ拝跪して頂いてもよろしいのですよ?こう、跪いて私の手の甲にキスとか」
管理棟2階に設けられた、第二会議室と記された一室。新参者ゆえに一言断ってから入室したものの、中にはサヤカ一人しか人の姿は無く、エリクは露骨に口調を砕けさせた。
少人数用の会議室らしく、テーブルは部屋中央に置かれた長机二つのみ。片方に座るサヤカの前にはパソコンとプロジェクターが置かれ、既に正面のスクリーンへ画像が投影されている状態だった。部屋自体も照明が落とされ薄暗いものの、モニターの逆光でサヤカの相貌は仄かに察することができる。
「アホな事言ってないで本題だ本題。……例の作戦か?」
サヤカの冗談を頭上に躱し、彼女の向かいの席に腰を下ろす。ぎし、とパイプ椅子が軋む音、パソコンのファンが唸る音は、狭い部屋ゆえか明瞭に響いていた。
口にするは、期待を込めた読み。無言のままパソコンの反射光の中で口端を上げたサヤカの様は、それが的中だと告げている。
「ご明察でございます。先ほどまで『ケストレル』と暗号回線を使い協議を実施。行動計画の策定と、『ラーズグリーズ隊』の協力を取り付けましたので、情報共有致します」
「ウスティオの『ガルム隊』の救出…か。これでやっと、俺たちも攻勢に転じられる」
拳を握り、快心の声を漏らすエリク。久方ぶりの晴れた心地に、エリクの口元は思わず綻んだ。
そもそもエリクが再び立ち上がれたのも、ベルカ残党を破る手立てに希望を見出したのも、元はといえばサヤカがもたらした『ガルム隊』に関する情報に由来する。本来のガルム隊の二人はベルカ残党によって拘束され、今は別人がなり替わっているという事実。それはひとえにベルカ残党があの二人を脅威と見なしていることの裏返しであり、二人を救出できればベルカ残党に対抗しうる強力な戦力になる筈であった。
むろん、それは希望的観測であるには違いなく、救出後はもちろんのこと実際の救出ですら困難を極めるに違いない。それを物語るように、サヤカの顔はわずかに曇った。
「ただ、状況の変化により一筋縄ではいかない情勢となって参りました。有体に申し上げますと、時間的余裕がほぼないのでございます」
「…どういう事だ?」
「順を追ってご説明いたします。スクリーンの方も併せてご覧くださいませ」
そこで言葉を切ると同時に、サヤカの手元でカタカタとキーボードを打つ音が響き始める。
かたん、と連符がピリオドを打つのと、正面スクリーンに地図が投影されるのは同時だった。位置にしてここルーメンから東、サピンとノースオーシア州の国境付近。かつてベルカ公国軍の要衝グラティサント要塞が設けられていた、イヴレア山頂付近と伺い知れる。
サヤカの説明によると、オーシア内のベルカ残党一派は東方諸国の監視という名目でグラティサント要塞の機能を一部修復。防空設備を施しながら、実質的にベルカ残党の策謀に気づいた者たちを拘束する収容所として機能させているというのである。ガルム隊もウスティオのエースパイロット部隊設立という偽情報で所属基地から切り離されたのち、ここグラティサントに収容された――というのが、エリクがこれまで知る情報であった。
「ところが、最近のラーズグリーズの活動に警戒感を抱いたのでしょう。本要塞の収容者を、近々内陸へ移送することになったらしいのです」
「なんだって!?……万一、そうなるとすると」
「お察しの通りでございます。ただでさえ広大なオーシア領内となれば、移送先を探るのは至難の業。まして内陸ならば、いかにラーズグリーズ隊といえども容易には立ち入れません」
「移送予定日時は?」
「明後日…すなわち12月19日、正午過ぎ。要塞の立地を考えると、回転翼機または垂直離着陸機での移送となるでしょう」
ち、と舌打ち一つ、エリクは反射的に壁掛け時計へと目を遣った。今日は12月17日。今は午後3時に差し掛かりつつある所なので、移送開始まであと48時間を切っている。
「…まずいな。鈍足なヘリで移動するのが分かってるなら、移送途中を囲んで強引に拿捕する手も取るには取れるが」
「ですが、リスクは極めて高いと言えます。移送中のヘリの中ではこちらは手出しできません。最悪、拿捕が避けられないと判断すれば、ヘリの中で『ガルム』のお二人を殺害することも考えられるでしょう。これまでのベルカ残党の致しようを見ていると、あながち無いとは言い切れませんわ」
「確かにな…。だが、たとえラーズグリーズ隊を入れてもこっちはたった5機、しかも戦闘機ばかりだ。要塞の制圧なんてできる筈もない」
どすん、と椅子に深く腰を落とし、エリクは両腕を組んで天を仰ぐ。焦燥とともに鼻から吐き出した息は強く、しかし胸の重石を溶かしきるには至らなかった。
移送途中を奪取することができない以上、残るはグラティサントへ直接攻撃を行い制圧する他にない。しかし、戦闘機で陸上施設の制圧など当然不可能であり、少なくとも空挺部隊の協力は不可欠だろう。オーシアはおろかその他の軍からの直接支援も受けられない今、それを実現するのは不可能と言ってよかった。
歯を食いしばり、憤懣と困惑入り混じった右目で虚空を睨み続けるエリク。その様を眺めて却って満足したのだろう、ふふ、とほほ笑んだサヤカは、指先で机をとんと叩いて、自らへと注意を向けさせた。
「そこで、今回の作戦と相成ります。エリク様はご存知ないかもしれませんが、我々には『ラーズグリーズ隊』以外にも心強い味方がいるのでございます」
「…味方?」
「『シーゴブリン』。空母『ケストレル』に所属する、海兵航空隊でございます。以前のハーリング大統領救出作戦でも活躍した、降下戦闘のエキスパートですわ」
「…!海兵隊…そうか!あの規模の空母なら、ヘリも問題なく運用できる」
「おっしゃる通りにございます。今回はラーズグリーズ隊が実施した大統領救出作戦をベースに、地理と彼我の戦力を勘案して構築しております。こちらをご覧ください」
海兵隊、ヘリ部隊の存在。
予想だにしなかった方向から光を当てられ、エリクの胸は俄かに晴れた。確かに考えてみれば、サピンなどが所有する軽空母ならばいざ知らず、オーシアの正規空母ともなれば固定翼機以外も搭載しているのが普通である。対潜、哨戒、人命救助。多様な任務を成し遂げるのに、小回りが利き小柄な回転翼機の方が都合がいい状況というのは多いのだ。戦闘機部隊であるラーズグリーズ隊の活躍ばかりに意識が向き、補助戦力であるところの海兵航空隊の存在を失念してしまっていた。
絶望に差した光が、エリクの相貌から強張りを取り払う。
プロジェクターのファンが唸る中、エリクは残った右目でスクリーンへと目を向け、食い入るようにその表面をなぞり始めた。
まず表示されるのは、戦闘域となるグラティサント要塞の拡大図。地形はもちろんのこと、点在する施設の位置や詳細、判明している限りの防空設備が記されており、一目でその脅威と弱点が把握できる作りとなっていた。
そもそもグラティサント要塞は15年前のベルカ戦争に際し、ベルカ軍によって整備された前歴を持っている。ベルカ国境を以南の敵国から防衛するという役割を与えられたグラティサント要塞ではあったが、攻勢に転じつつあった連合軍の前にさしもの要塞もその戦力を失い、1995年5月17日の総攻撃により陥落。以降は両軍から顧みられることもないまま終戦を迎え、戦後も復興されることなく朽ち果てていった。元来の存在意義がベルカ南部国境の防衛であり、その国境も同地域のオーシア割譲によって消滅したとあっては、グラティサントの持つ戦略的価値もまた消滅したに等しいためである。
これにオーシア内のベルカ残党が目を付け、実質的な収容所として復興させたのは前述の通りである。
もっともサヤカの説明によると、往時のグラティサント要塞と今の姿は大きく異なるという。
かつてグラティサントは5つのエリアに分かれ、それぞれの役割を分割し対応していた。すなわち敵国に最も近い南東エリアには強力なトーチカや防壁を備えた『エリア・ゲート』を配し、北東および南西には高所の利を生かし全周囲へ対空火器を巡らせた防空設備『エリア・タワー』ならびに『エリア・キャッスル』を設けて対空防備を万全とした。中央には司令塔となる『エリア・ウォール』を擁し、最後方たる北西にはVTOL機発着基地となる『エリア・ガーデン』を備え、全方位に対し空を睨む布陣としている。これが、往時のグラティサントの全貌であった。
これに対し、現在表示されているグラティサントの様は、いかにも往時ほどの威容を誇ってはいない。
本来『門番』の役割を担っていた『エリア・ゲート』および防空の最前線である『エリア・キャッスル』は、小規模の観測所が設けられた他には対空火器一つなく、打ち捨てられたも同然の状態となっている。一方、中央に位置する『エリア・ウォール』は目標とする収容施設を擁している他、地上には対空火器が複数存在。北西の『エリア・ガーデン』も設備を増強され、VTOL基地としての機能を取り戻しているとのことだった。
厄介なのは、北東の『エリア・タワー』も防空設備の機能が回復していることに加え、新たにVTOL機発着機能が追加されているという点だった。おまけに新設されたこちらは飛行場型の『エリア・ガーデン』と異なり、深く穿った縦穴の側面に格納庫を設けた円柱状の発着設備を有しているという。
対空兵器を減らした一方で航空戦力の増強を行っているとすれば、こちらの数も加味すれば侮れないと言っていい。
「それにしても、よくここまで情報を掴めたもんだ」
「ベルカ残党の殿方も、公に計上できないような物資調達は我々に委託せざるを得ませんからね。現場のエージェントがある程度の情報を得て参りますし、発注される物資からある程度配備戦力も推測できるというものですわ」
「対空火器は?」
「対空砲が8ないし12、
「航空戦力は?」
「回転翼機が2ないし4、STOL機が8機前後と推定されます。調達エンジンの種類から、STOL機はYaK-38の系統機と想定されますが、断定はできません」
打てば響くとはまさにこのことだろう。矢継ぎ早の質問に臆することなく、素早く正確に回答を返したサヤカの手腕に、エリクは思わず舌を巻いた。いくらベルカ残党との接触が密だからといって、ここまで各種兵器の配置や種類まで特定できるものではない。方々に派遣されているであろうL.M.A.のエージェント、そしてサヤカの手腕と奮闘の賜物だろう。何よりガルム隊の奪還は、再起を促した当初からサヤカが上げて来た提案でもある。その実現のために費やした努力は、並々ならないものに違いなかった。
「…凄いな。先進国の諜報員が務まるぞ」
「あらあらあら、お褒めの言葉光栄ですわ。折角でしたらほら、手の甲とか脚にキスして労って頂いてもよろしいのですよ?狭い密室、男女一対、薄暗い中の爛れた昼下がり…」
「で、肝心の作戦はどうなってる?さっきの話だと、厄介なのはSTOL基地と分散したSAMだが」
くねりくねりと妙な挙動を見せるサヤカをよそに、目を再び地図へ向けたエリクが口を開く。
ざっと見る限り、STOL基地が北東と北西の二か所にある以上、当然配備機も分散していると見て然るべきだろう。収容施設が置かれる中央の『エリア・ウォール』には対空火器を示す光点が集中しており、こちらも海兵隊のヘリがおいそれと近づけるようには到底思えない。
先のサヤカの説明を踏まえると、航空戦力は最大で14、地上の対空火器は最大で20。兵力の不利を考えると、相当の力技か、作戦による一工夫が必要なところだった。
「ええ、それはもちろん抜かりなく。簡単に申し上げれば、エリク様には囮になって頂きます」
「囮?」
「はい。作戦を立案するに当たり、最大の問題は『エリア・タワー』に新設された円柱式STOL機基地でございます。発着難易度こそ高いものの爆撃での襲撃は極めて困難、かといってこれを無視すればSTOL機の挟撃に遭うことになります。そこで、エリク様の出番となる訳でございます」
解説の傍ら、サヤカが手元のキーボードを叩いてパソコンを操作する。
一拍遅れて、地図の上に現れるのは機体を示す複数の鏃。北東、北西にそれぞれ現れた鏃は、線の軌跡を残しながらおのおのの方向へと動いていった。すなわち、これがエリクとラーズグリーズ、それぞれの取るべき軌跡という訳である。
サヤカによる作戦説明をまとめると以下の通りである。
すなわち、エリクはラーズグリーズ隊に先行して単機で空域に侵入し、北東の『エリア・タワー』を襲撃。強行偵察に偽装してすぐさま離脱し、同エリアの円柱式STOL基地から敵機を誘き出すのである。その後は適当な所まで引き付けた段階で、ラーズグリーズ隊が敵編隊を奇襲し殲滅。厄介な円柱型STOL基地を叩くことなく、その戦力を無力化するというのが、この作戦初手の主眼だった。敵機の殲滅を確認した時点でエリクは『エリア・タワー』の残存部隊を、ラーズグリーズ隊は『エリア・ガーデン』のSTOL基地を攻撃し、最後に『エリア・ウォール』で合流して対空火器を沈黙させるという手筈である。
以上の動き、そしてラーズグリーズ隊の協力があることを踏まえれば、敵戦力の殲滅はまず可能と見ていいだろう。問題はその後、ガルム隊の救出であった。
敵戦力を殲滅した時点で『シーゴブリン』より海兵隊が降下し『エリア・ウォール』の制圧を行う訳だが、前段である敵戦力の殲滅に手間取れば、どさくさの中でガルム隊の二人が殺されてしまう可能性も十分に考えられる。また、ベルカ残党の勢力圏と言っていいノースオーシア州での作戦と考えると、敵の増援の可能性も無い訳では無かった。
籠る敵、そして迫る敵。いずれを見るにせよ、いかに素早く敵戦力を殲滅できるかが鍵だと言えるだろう。
「これなら、初手さえしくじらなければいけるだろう。『ガルム』の二人が無事に救出できれば、こっちとしても心強い」
「わたくしは直に拝見したことはございませんが、お強い方々と仄聞してございます。それこそ、15年前の『鬼神』そのものだとか」
微笑を湛えた頬、応じるサヤカの言葉に、エリクの脳裏は記憶を蘇らせる。
‘GALM’――すなわち地獄の猟犬。その名を冠する彼らと出会ったのは、まだレクタ空軍に所属し、対ラティオ前線が一進一退を繰り返している頃のことだった。
片や両翼端を蒼く染め、片や片翼を赤く塗り欠いた2機のF-2A。機体性能を限界まで引き出し、戦闘攻撃機であることをまったく感じさせないすさまじいその技量は、今なおこの目に鮮明に焼き付いている。ラティオ西郡迎撃戦といい円卓での攻防といい、自分たちハルヴ隊が窮地となった戦場でも、彼らは勝利を導く力となってくれたのだ。
――記憶は希望と、同時に苦みをも去来させる。
思えば、あの時共に飛んでいた仲間は、もうほとんどいなくなってしまった。隊長も、ヴィルさんも、クリスも皆死んでしまい、敵となったアルヴィンやフィンセントもまたこの手で殺め、もうこの世にいない。かつてガルム隊と共に飛んだ空を知っているのは、もはや消息不明のパウラ以外にはいないのだ。
あいつは、果たして今も生きているのだろうか。
どこに居て、何を想っているのだろうか。――今も、空に在るのだろうか。
記憶のままにそこまで思いを巡らせたその時、エリクはふと、パウラに対し不思議と何ら負の感情を持っていない自分に気が付いた。
一時はアルヴィンもろとも殺してしまいたいほどに憎悪していた筈のパウラに、今更いったいどういう気の巡りなのだろうか。裏切りの首魁であるアルヴィンを殺した今、復讐心は満たされたということなのか。それとも元々憎悪はアルヴィンのみに向かい、パウラやフィンセントはその残照を被っていただけだったのだろうか。――あるいは、新たな信念を抱いた今、かつての報復も裏切りも過去のものとして呑み込んでしまった結果なのだろうか。
――分からない。本当に、一体どういう気の巡りなのか。
自分自身で己の心に説明がつけられず、エリクはしばし頭がこんがらがる思いに巻かれた。
「…エリク様?どうされました?目が泳いでおいでですが」
「あ…いや。………」
不意にある思いが過ぎった瞬間、サヤカの声でエリクは我に返った。どうやら少しの間ぼうっとしていたらしく、正面のスクリーンでは動き終えた鏃のアニメーションが幾度目かの再生を繰り返している。
過ぎった、その思い。
益体のない、今更何の意味も持たないであろうその思い付き。
理性は、もう捨て置けと断じている。
感情は、あくまで追えと叫んでいる。
渦巻く脳裏、正面には怪訝なサヤカの顔。
逡巡、数秒。迷い、振り返り、自らの内奥を省みて、エリクは口を開いた。
「…一つ、いいか?」
「キスでございますか?」
「いやそうじゃなく。ある人物の消息を探して欲しいんだが」
「…?とおっしゃいますと?」
「レクタ空軍准尉、パウラ・ヘンドリクス。…あー…もしかしたら偽名を名乗っているかもしれないが」
「ふむ、ふむ。外見の特徴などをお伺いしても?」
「えーと、そうだな。髪は色素が薄くてほぼ銀色、短髪。背はちっこくて俺の胸の高さくらいか。他には…ぶっきらぼう、目つきが悪い、口も悪い、あと胸は無い」
意を決し、口に出すはパウラの消息捜査の依頼。
指折り特徴を語り上げ、エリクはまっすぐサヤカを向いた。片やサヤカはといえば、メモ帳を開いてしきりに何かを書き込んで、ふむ、ふむ、と頷いている。ガルム隊の消息まで探り当てたサヤカならば、パウラの消息もおそらく突き止められるに違いない。
なるほど。
そう言って、サヤカは手帳を閉じ、無言のまま左の手の甲をこちらへ伸ばした。
手の甲を見る。
意を図りかね、サヤカへ視線を戻す。
正面、サヤカ。小首を傾げて微笑数舜。促すように左手をもう一押し。
――ああ。
やっとのことで察し、同時に薄くため息をついて、エリクはサヤカの左手を手に取った。
頭を垂れ、手の甲へ落とす口づけ一つ。――曰く、手の甲のキスは敬愛の証。
頭を上げたその先には、にっこりと笑みを深く湛えたサヤカの顔があった。
「ふふ、うふふ。わたくし頑張っちゃいます。あ、手数料で給与の一割を引かせて頂きますのでご了承下さいませ」
「わかったわかった。もう今更何割でも変わらんから。…頼んだぞ」
「承りました。『
本当に、一体何なのか。
自らの心とサヤカの精神構造には、結局説明が見つからないまま。パイプ椅子の軋みを部屋に響かせながら、エリクは腰を上げて、再び自らの愛機の下へと向かった。
******
《各部最終点検完了、オールグリーン》
「推進周りの立ち上がりも良好だ。許可が出次第タキシングに入る」
日は巡り、12月19日、午前9時。出撃の時を迎えたエリクの姿は、愛機『クフィルC10』の中に認めることができる。
先日の時点では塗装の途中だった機体も、今は文字通り見違えるような姿となっていた。機体の下部まで黒一色に染まり、尾翼端に赤を、左翼に黄色い三日月を配したその姿は、さながら5機目の『ラーズグリーズ』と言っていい。細部は確かに異なれど、遠目にはラーズグリーズ隊への偽装を果たすには十分な外見だった。
格納庫を歩み出し、キャノピーに注ぎ込む陽光。柔らかな冬の太陽は、穏やかな明かりを以て今日の前途を祝福してくれている。
誘導員が、両手に携えた誘導棒で『タキシングOK』の意図を伝える。
旋回、巡る視界。
機体はゆっくりと弧を描き、やがて滑走路の端へとその位置を移し始める。
腕時計を眺め、エリクは出撃時刻の到来を計った。秒針は周り、1分を切り、やがて10秒を刻み始める。
5。
4。
ブレーキ解除。
エンジン出力、微増。
発進、今。
計器類へと注いだ目を正面に向け、意識を全身へと巡らせる。
フットペダルに力を入れようとした、その刹那。誘導員は慌てたように両手を交差させ、首を大きく横に振った。
『離陸中断』。次いで遅ればせに管理棟から照明弾が上がり、サヤカが慌てた様子で走り寄ってくる。
まさか。緊急事態。しかし、一体何が起こったというのか。
「何だ!?作戦変更か!?」
ヘッドセットに声を向ける傍ら、機体の傍ではサヤカが口に両手を翳し、何かを叫んでいる様が見て取れる。当然キャノピー越しである上エンジンの轟音下でもあるため、サヤカの声は聴きとれる筈もない。
首を振り、次いで自らの耳をとんとんと差してその意を伝えるエリク。辛うじて伝わったのだろう、サヤカは別の誘導員からヘッドセットを借り、マイクへ向けようやく口を開いた。
《エリク様、緊急連絡です!ラーズグリーズ隊が本作戦へ参加できなくなったとのこと!》
「…!?な…!?なんで今更!?」
天頂を叩かれた。
そんな錯覚を抱くほどに、それは急転直下の情報だった。しかしなぜ、一体何が。
《ベルカ残党の手中に落ちた『アークバード』が、ユークトバニアへ核攻撃を行うという情報を入手したそうです。ラーズグリーズ隊は『アークバード』撃墜を優先するため、合流できないとのこと!》
「……なん、て、こった…!」
《次いで、『ケストレル』からは『シーゴブリン』発進を見送るべきかと送って来ています。この戦力では、もはや…》
アークバード。核攻撃。予想外の言葉の羅列に混乱する頭の中で、『ラーズグリーズの不在』という重い現実が思考を覆った。元より二部隊での連携を主眼とした作戦なのである。一部隊となり、あまつさえ戦力も1機となった今となっては、サヤカの言う通り作戦の実行は無謀と言う他無い。
憤懣をぶちまけるように、拳がキャノピーを打つ。諦めが理性を覆い、絶望に心を染めてゆく。
――だが、それでいいのか。ベルカ残党に先手を打たれた。それだけでガルムの二人を、希望を諦めてもいいのか。
理性は諦念を囁く。
情動は熱を語る。行け、と。作戦による一工夫が潰えた今、残るは今まで培った技量で――力技で当たり、希望を掴めと。
サヤカへと戻した目。そしてその傍らに見えた、主翼を彩る
深呼吸、一つ。紡いだ声は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。
「サヤカ。『ケストレル』へ返信頼む。『救出作戦を継続する。『シーゴブリン』発進は定刻通り』。以上だ」
《…!エリク様!無茶です、勝機はございません!》
「整備班へ、済まないが兵装変更を頼む。増槽もいい、可能な限り武装を積む」
《エリク様!!》
「…サヤカ。俺はもう、あいつに負ける訳にはいかない。できることを全てやって、全力を賭けて、あいつの全てに打ち勝ちたいんだ。座して諦める訳にはいかない。――行かせてくれ、サヤカ」
《………》
キャノピーの先で、笑みが消え、目を開いたサヤカの顔。わずかに唇を開き呆然と立ち尽くすその様は、初めて見る『不安』を表情に宿した姿だった。
あのサヤカでも、あんな顔をすることがあるとは。普段を知っているだけにエリクはその様が可笑しく、同時に心に滲む不安や恐れがわずかに薄らぐのを感じた。
――あいつもまた、人間だ。普段は飄々として得体が知れなくとも、時に不安も覚えれば、思いをねだろうともする。
ばぁか。
マイクを切り、口の動きで伝えるはその言葉。読み取ったらしいサヤカの顔が、わずかにふっとほほ笑んだ気がした。
《エリク特技官、兵装換装完了!準備よし!》
「了解。全員すぐに退避しろ!間もなく上がるぞ!」
手に手に工具を持ち、整備員が機体の下から這い出しては駆け足で離れてゆく。周囲を見渡した誘導員は、改めて誘導棒を手に機体と滑走路を指した。
発進、よし。
「『ハルヴ』、離陸する!」
踏んだフットペダルが推力を増し、体をシートへ押し付けてゆく。
空は快晴、成層圏まで見渡せるほどに空は高く蒼い。
視界の端に揺れる、サヤカの黒髪。
風になびいたそれは、瞬く間に後方へと離れていった。