Ace Combat side story of 5 -The chained war-   作:びわ之樹

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最終話 The chained belief

《お前の望みは、じき達成される。――報復の連鎖は、俺たちで、もう終わりだ》

 

 言葉が喉へ(つか)えたように息が詰まる。

 蒙獏とした闇の中――否、背に朝日を控え、明るみを帯びた空。眼下には揺蕩うオーレッド湾の水面、手元には液晶を多用したX-02『ワイバーン』の計器盤、そして眼前には炎を纏い満身創痍となった『クフィルC10』。幾度となく瞼の裏を過ぎった光景の中で、記憶の澱をかき混ぜるように、青年の声が鼓膜の奥へと響いてくる。

 

《俺が死んでも、連なる怨恨はもうない。…だから、パウラ。全部終わったら、お前は日常に戻れ。パウラ・ヘンドリクスとして、報復の連鎖の先に、生きてくれ》

 

 待って。

 違う。それは違う。

 カスパル少佐やオットーを、私の周りにいた全てを奪ったあなたは確かに憎い。憤ろしいし、憎いし、殺したい。それは偽らざる真実に違いない。

 でも、だけど。殺したいけれど、一方であなたには生きてほしいという思いが確かにある。生きてほしいし、また口喧嘩もしたいし、謝りたいし、話したい。今まで溜めに溜めた感情が胸の底から溢れ出て、自分でも整理が付かない。胸の内はあまりにも混沌として矛盾に満ちているけれど、殺したいのも、生かしたいのも、きっとどちらも本当に違いない。

 

 胸の中には怒りがある。罪悪感もある。そして、その間で揺れる好意も――。

 

 ああ、うん、そうか。そうだ。興味や父性といった言葉で誤魔化すまでもなく、やっぱり私は、どこかであなたのことが好きだったのだ。無駄口は多く、おせっかいでお調子者で。でも世話焼きで、無口な私にまで無駄口を叩いて、そして劣勢でもあらゆる困難を跳ね返してきて。『あの時』反射的に否定したけれど、私はきっと、あなたのことを好きだった。

 

 だから。

 怒って、殴って、謝って、叱られたいから。ようやく動き始めた自分の心で話したいから。報復の連鎖の先へ、あなたも。

 

《夜は、沈む俺たちが持っていくから。…()()()、光の中へ――》

 

 待って。違う。そんなものは、私一人だけで連鎖の彼方へ生き残ることは、誰も望んでいない。

 一緒に行きたいし、生きたいのに。

 なのに、声が、言葉が出ない。自らの言葉で真意を紡ぎたいのに、虚しく手が伸びるだけで、声は意味を成してはくれない。溢れかえった感情の洪水が喉に詰まってしまったかのように、唇からは言葉一つ漏れてはくれない。

 

 伸ばした掌の中から、炎に包まれた『クフィル』がするりと抜けて、水面目掛けて墜ちてゆく。

 待って。行かないで。まだ、話したいことがいっぱいあるのに。伝えたいことがいっぱいあったのに。

 

 待って――。

 

******

 

 伸ばした手。補強の鉄骨が走る天井。

 白色と黒鉄、モノクロ二色の殺風景な色彩を、窓から注ぐ朝日が照らしている。枕元の目覚まし時計は午前7時30分にわずかに届かず、まるで熟睡しているかのように沈黙を保っていた。

 

 何の変哲もない、朝の光景。

 目覚まし時計のアラームを解除し、ゆっくり上半身をもたげながら、少女――パウラ・ヘンドリクスはぼんやりとした眼で周囲を見渡した。書類やファイルが山積みとなったデスクに小さな丸テーブルと二脚の椅子、空になった隣のベッド。先ほどまで目の前にあった夜明け前の空の光景は既に面影一つ無く、見慣れた部屋の内装だけが、淡く色彩を与えてくれている。

 

 壁にかけられたカレンダーが告げるのは、2012年10月9日の朝。オーレッド湾の上空で全ての終止符が打たれてから、既に2年近くが経過していた。

 

 ふるふると頭を振るって意識を覚まし、ベッドの上にパジャマを脱ぎ捨てて、ベッド下の衣装ケースから白いTシャツを引っ張り出す。床にぺたりと足を付け、素足のまま向かうは壁掛けの鏡の方。胸元から上を映し出すサイズのそれに向かい、寝癖の目立つ部分を適当に手串で整えながら、パウラはぼんやりと自らの顔を見つめた。

 

 成長期も終わりとはいえ、風貌といい背丈といい、2年前とほとんど変わっていない。大きな目も、色素の薄い銀色のような髪もそのままである。

 彼女なりに髪を整え、顔をごしごしと擦り、シャツへと腕を通しかける。ふと視線が落ちたその時、少女は自らの体の方へと視線を落とし、意味深に自らの掌を胸へと当ててから、もう一度正面の鏡を見やった。

 

 胸元に当てた手は、そのまま引っかかりなくするりと降りて、滑らかに下腹部へと至っていく。姿は2年前からそのままと評したが、パウラにとって誠に遺憾なことながら、()()もまた結局、2年前から変わることはなかった。血筋か、はたまた幼少のころの栄養状態のせいなのか、肝心の両親の姿すら記憶に朧なパウラにとっては、今更詮索のしようもない。

 ため息一つ、脳裏に過ぎるのはハルヴ隊のクリスの姿。なかなかに豊かなものを持っていた彼女だが、一体何を食べればああなるのやら。

 …そういえば、エリクはどちらが好きだったのだろう。そんな益体の無い疑問を意識の外に、パウラはシャツに頭を通し、次いで壁に掛けてあったツナギ型の作業着へ脚を通していく。淡い青色の色調に、胸元に白く記されたのはL.M.A.の文字。

 

 腕を通し、前のジッパーを胸元まで引き上げるのと、廊下からこつこつと足音が聞こえ始めたのはほぼ同時。パウラの鋭い嗅覚は、そこから漂うコーヒーの芳しい香りもいち早く感じ取っていた。数秒の後、扉を開けて姿を見せたのは、この二年余りでよく見知るようになった人の姿である。

 

「あら、あらあら。おはようございますパウラさん。今日はお早いですね」

「ん、サヤカこそ。おはよう」

 

 黒スーツに身を包み、胸からルーメン・メディエイション・エージェンシー(L.M.A.)のネームカードを下げたサヤカが、携えていたトレーをテーブルに下ろしながらパウラへ声をかける。

 先の疑問が不意に脳裏を過ぎり、パウラはちらりとサヤカの胸元へと視線を向ける。…小さくは、ない。と言うよりは、むしろ。

 盗み見て、省みて、項垂れて。2年近くの時を経て垣間見えたエリクの好みに、パウラは人知れずため息を付きたくなった。

 

 2年前の戦争の後、パウラがこうしてサヤカの庇護に入り、L.M.A.の一員となったいきさつは一応の説明を要する。

 スーデントールにおけるベルカ残党との交戦、サピン一部部隊による反乱とオーレッド強襲、円卓における大航空戦、そしてラーズグリーズによる『SOLG』迎撃。夜半から早朝にかけて行われた一連の戦闘によりベルカ残党の目論見は潰えたものの、その後に続く混乱はけして短いものでは無かった。中でも早朝の航空戦と『SOLG』迎撃の余波による首都オーレッドの混乱は大きく、一時は軍や警察の通信回線すらもパンクし機能不全に陥る有様だったのだ。

 その状況で、情報収集艦『アンドロメダ』経由で『SOLG』迎撃戦の終息とエリクの戦死を知ったサヤカは、L.M.A.の輸送機とヘリを動員しオーレッド湾へ急行。その際に引き連れていた一部の部隊がオーレッド湾北岸に不時着したX-02『ワイバーン』を発見し、情報収集のためパイロットのパウラごと機体を回収したのであった。

 

 回収されたパウラから報復の連鎖の結末を知り、サヤカは逡巡の後にパウラの保護を決断。オーシア軍の混乱がこれに幸いし、サヤカはオーシア軍に察知される前にパウラとともにルーメンへと帰還して、偽装の為にL.M.A.職員としたのだった。公式にはパウラはレクタ軍所属であったため、ほとぼりが冷めたころを見計らい『レクタ軍としてオーレッド救援へ向かった際に僚機は全滅。直後に自らも軍を退役し、オーシアへ移住』という筋書きを仕立てて手続きを済ませたのである。レクタのロベルトよろしく戸籍を偽装すればここまで回りくどい手続きをする必要は無かったのだが、事が戦争の暗部にも関わる関係上、少しでも脛の傷を負わない方法が選ばれた。

 なお当然ながら、パウラのX-02もどさくさに紛れてL.M.A.により回収された。翼の一部や主脚を失った無残な姿ではあるが、今も既存の部品を流用しながら、格納庫の奥で細々と修復されている。

 

 ともあれこのような紆余曲折を経て、パウラは正式にL.M.A.安全保障部門所属の航空特技官となった。階級はかつてのエリクから一段下がった三等特技官が与えられ、サヤカ付きとしてその身を護る傍ら、社所有のF-5E『タイガーⅡ』を駆って輸送時の護衛任務等に従事しているという訳である。

 

 心身の治療、表裏もろもろの手続きを含め、パウラが正式にL.M.A.職員となったのは2011年の7月。当初は互いに複雑なものを抱えていた両者も、今や1年以上の付き合いである。今ではL.M.A.の宿舎でサヤカと同じ部屋に住み、上官と部下と言うよりは姉妹、あるいは親子のような、隔てない関係となっていた。

 

「はい、朝食をお持ちしました。お砂糖は?」

「2個。苦いの嫌い」

「ふふ、いつも通りですね。そういえばエリクさんもよくカフェモカを飲んでおいででしたっけ」

 

 サヤカが持ってきたトレイの上には、香ばしい香りを漂わせるコーヒーと、バターの甘い匂いに包まれたシュガークロワッサンが二つ。微笑しながらコーヒーに砂糖を入れるサヤカの向かいで、パウラはクロワッサンを手に取り、薄い唇を開いてかぶりついている。その様だけを見れば、昨今の世界情勢とは裏腹に、平穏な日々を象徴する穏やかな朝の光景そのものと言っていい。

 

「クロワッサン、お好きですか?」

「バターの香りが好き。このクロワッサンは甘いし、おいしい」

「うふふ、それにお月様の形ですしね。甘いのがお好きでしたら、今度はあんぱんを調達して来ましょう。きっと、気に入りますよ」

「…あん、ぱん?」

「はい、あんぱん。私の故郷では馴染み深い菓子パンで、甘くておいしいですよ」

「そっか…楽しみ」

 

 ちょっと甘くなったコーヒーを片手に、パウラの脚が嬉しそうに椅子の下で揺れる。無邪気な幼児のようなその仕草は、些か18歳という年齢には不相応な様に見えるかもしれない。

 そもそも幼年期から同年代の女子とは切り離されてきたパウラにとっては、その年頃の女子らしい生活や仕草というものを肌で感じる暇が無かった。まして彼女は一人前の兵士として、報復を企図する人々の中で感情を押し殺して生きて来たために、少女としての自我の形成すら未発達なままここまで至って来たという背景もある。サヤカとの穏やかな生活の中で少女らしい情緒が今更ながら醸成され始めて来たのも、いわばこれまでの人生の反動というべきものだった。

 

 一方のクロワッサンをおいしそうに平らげ、マグカップを両手で支えるパウラの様に、サヤカは笑ましく目を細める。二つ目のクロワッサンに手を伸ばした所でパウラもその視線に気づき、怪訝そうに首を傾げて応じた。

 

「なに?サヤカ」

「いえ。パウラさんが、よくお喋りするようになったと思いまして、つい」

「……」

 

 そう、かもしれない。サヤカからの言葉に口内で思いを紡ぎ、パウラは内省するように手にしたクロワッサンを眼前に掲げた。鋭角の両端と弧を描く形と相まって、それはさながら夜空に浮かぶ三日月のようでもある。

 

「…あの時」

「え?」

「オーレッド湾の上空で、エリクと対峙したあの時。言いたいこと、話したいことがたくさんあったのに、私はほんの少ししか話すことができなかった。話した所で、もう手遅れでもあった。…もし、もっと早く。あの時の空戦で出会った時から、…レクタにいた頃からもっと話して、感情をぶつけて、真意を伝えていれば、こうはならなかったかもしれない」

「…後悔、ですか?」

 

 サヤカの言葉を前に、パウラの首は横にも、縦にも動かない。

 後悔は、もちろん多分にある。まだ互いが仲間だった頃に本音をぶつけあい、信頼を繋いでいれば。あるいはベルカのための復讐という念が心に既に無く、あるのは個人的な怨恨と好意という複雑な愛憎の念のみだったことが伝えられていれば。もしかしたらエリクは死なずに済んだのかもしれない。それを想えば、今のパウラの在り様が後悔に根差しているというサヤカの読みは、あながち間違いではない。

 

 だが、それだけかと言われれば断じて違う。

 それを裏付けるように、パウラの脳裏に浮かぶのは在りし日のエリクの姿だった。

 たとえ相手が初対面であろうが反りの合わない人間であろうが、エリクは自らの意思と感情を、自らの言葉で隠すことなく表現する。それが一時の感情的な衝突になったとしても、結果的にはそれが互いへの理解を深め、信頼を作り出すことに繋がっていたのだ。少なくともレクタではそうだったし、おそらくサピンに移ってからはサヤカやサピンの人々に対してもそうだったのだろう。結果的にはエリクのそのやり様が繋がりを生み出し、一時的とはいえサピンやウスティオ有志の連合軍を形成して、ベルカ残党の企図を挫くに至った。

 

 言葉と感情は信頼を生み、信頼は繋がりを形作っていく。そんなエリクの生き様から生じた思いが、今の自らの在り様へと脳裏で繋がり、パウラはゆっくりと首を横に振った。

 

「エリクを見習った」

「うふふ、そうでしたか。なるほど、エリクさんを」

「感情と、意思と、言葉で人と繋がること。そうして人を信じること。私は、エリクからそれを学んだ」

 

 嬉しそうに目を細めたサヤカと目を合わせ、パウラは手にしていたクロワッサンを一口齧った。さくさくという軽やかな食感と口いっぱいに広がるバターの香りに、続いてもう一口。それを見つめるサヤカの目は、細くも確かに澄んでいる。

 

「だから、私は我慢しないことにした。欲しいものは欲しいと言って、怒りたい時には怒って、話したいことは話す。きっとエリクも、それは間違いだとは言わないと思う。…だから」

「だから?」

「おかわり」

 

 クロワッサンを平らげると同時に、差し出した空っぽの皿。それを見て一瞬きょとん、としたサヤカの顔は、一拍置いて微笑へ変わった。

 

「ふふ、分かりました。2つでよろしかったですか?」

「うん、2つで」

「はい。それでは少々お待ちを。今日は昼頃にお客様もお見えになるので、お昼はちょっと遅くなりますしね。お腹を満たしておくのは正解です」

 

 空の平皿を手に、席を立つサヤカ。自らのマグカップも持って立ち上がった辺り、どうやら自分もコーヒーをおかわりしに行くらしい。

 ほどほどにお腹が膨らんだ所で、パウラはおや、とあることに気づいた。常にサヤカと一緒にいる、とある姿が見当たらない。

 

「そういえば、()()()は?」

「え?…ああ、今日も朝から格納庫で整備の見学中です。まだ何も分からない筈なのに、よっぽど飛行機が好きなんですね。もう、誰に似たのでしょう」

 

 愚痴のような言葉とは裏腹に、サヤカの横顔に浮かぶ幸せそうな微笑み。その様と脳裏によぎったもう一人の面影に釣られて、パウラも口角が思わず緩んだ。

 平穏な日々、一口傾けたコーヒーからは苦みに混じった甘み。マグカップをことん、と置いた後も、パウラの顔には微笑が浮かんでいた。

 2年前、報復の連鎖のさなかに在った頃には、ついぞ浮かべることの無かったその表情を。

 

******

 

 尾から響くジェットエンジンの轟音が、振動となって古びたキャノピーを軋ませる。

 高度120、100。地表近くまで高度を落とした今となっては、地面からの反響も生半可なものではない。年代物と言って遜色ない老体が酷使に耐えかね、機体全体がびりびりと震えているかのような錯覚すら感じられた。

 

 主脚展開、固定よし。エンジン回転数低下。下がり行く高度と速度に、目下の滑走路は圧迫感を以て徐々に迫ってくる。

 タッチダウン。

 心の中でのコールと同時にどん、と重い音が鼓膜を揺らし、地面との摩擦が速度を急速に奪っていく。

 機体の停止を見届け、滑走路の脇から走り出て主脚止めを嵌めてゆく作業員。それらを見届け終えてから、男――カルロス・グロバールはキャノピーを開け、アスファルトの地上へと降り立った。後方を省みれば、アレックスが駆るMiG-21UPG『ディビナス』も同様に翼を休める様が見て取れる。2年前には5機のMiG-21UPGを保有していたニムロッド隊も、今は他に機影を見て取ることはできなかった。

 

「アレックス、書類の処理の方は頼む。俺は挨拶回りをしてくる」

「了解しました。行って来ます」

 

 指示を受けたアレックスが書類の束を携え、L.M.A.の管理棟へと向かってゆく。思いの外立派な建物の様に、カルロスは思わず息を漏らした。

 今回、カルロスらがわざわざルーメンのL.M.A.まで足を運んだ目的は、帰還がてらの事務作業である。すなわちサピンとの契約切れに伴いお役御免となったニムロッド隊はレオナルド&ルーカス安全保障の本拠へ戻ることになった訳だが、その途上のL.M.A.で滞っていた資材費等の精算を済ませるというのが、この訪問の目的であった。

 片や経営が傾き人材の雇用すらままならないというのに、ここの繁盛ぶりは何ということか。ここ数年でめっきり景気が悪くなった自らの社を省みて、カルロスは溜め息が出るのを抑えられなかった。

 

「あらあら、カルロス様。ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりましたわ」

「サヤカか。久しぶりだな。景気もいいようで何よりだ」

 

 不意にかけられた声に、カルロスはそちらへと体を向ける。

 いつも微笑んでいるような細い目に、きっちりと纏った黒いスーツ。いついかなる時でもその出で立ちを崩さない様は、見間違えるはずも無くサヤカ・タカシナのものだった。

 

「諸事情あって、サピンを離れることになった。これまで世話に…」

 

 別れの挨拶に手を差し伸べたその刹那、サヤカの影からさっと抜け出た小さな体躯。それは素早くサヤカとカルロスの間に割り込み、その身でもってカルロスの握手を遮った。

 ぴたりと手を止めたカルロスは、怪訝な顔でその姿を見やる。身長は150㎝前後というところか。子供のような姿だが、L.M.A.の作業用ツナギに身を包んでいるのが些かアンバランスでもある。透き通った白髪のような髪はよほど適当に梳かしているいるのか、毛先がしばしばあらぬ方向を向いており、小柄な体躯と相まってまるで路地裏の白猫か何かのようだった。

 

「………」

「…………」

「こらこら、パウラさんいけませんよ。この方が今朝お話したお客様です」

「…そうなの?」

「ええ。ここは私で大丈夫ですから、パウラさんは通常業務に戻って下さいませ」

「そう。サヤカが言うなら、分かった」

 

 サヤカの言葉にこくこくと頷き、小柄な姿は背を向けて、すぐ傍の格納庫へと走っていく。布に覆われた奥の黒い機体にちらりを目を奔らせながら、カルロスはその白髪の少女が乗機と思しき『タイガーⅡ』の下に蹲るのを目で追っていった。

 見覚えが無いが、あれもここの職員なのだろうか。もしそうだとすれば、サヤカといい妙な職員を揃える会社だとしか言いようがない。

 

「失礼致しました、カルロス様。何分世間に疎い子なものでして」

「…そのようだな。戦闘機乗りには見えんが、新しい航空技官か?」

「はい。ご心配ならずとも、空戦経験豊富な方です。技量も保証付きですわ」

「何?」

「カルロス様でしたら申し上げてもよろしいでしょう。――2年前の、オーレッド湾上空での航空戦。あの子は、それに参加したベルカ残党の生き残りです」

 

 少女の風貌から予想だにできなかったサヤカの言葉に、カルロスは息を呑み言葉を失った。

 2年前、オーレッド湾上空。となれば、その戦闘とは戦争の最終盤、『SOLG』迎撃に際しエリクが出撃した最期の戦闘のことに他ならない。それに参加したベルカ残党であるならば、いわば当時は敵味方の間柄だった相手ではないか。それも、間接的にとはいえエリクを殺した相手と言っていい。

 

「…らしくないな」

「…?とおっしゃいますと?」

「あの子供は、つまりはエリクの仇になる訳だろう。それを平然と懐に入れるとは、あんたらしくもない」

 

 互いの姿を、そして両者の平穏な間柄を見て取り、カルロスは浮かんだ疑問を口にする。

 言葉にこそ出さなかったが、サヤカがエリクに対し悪くない感情を抱いていることを、カルロスはそれとなく察していた。いつの頃からか他の傭兵連中とは異なって深入りするようになり、頼まれもせずに乗機を用意し、あまつさえサピンからの脱走計画では主導まで演じて見せた。サピンとの関係悪化すら起こりかねないリスクを抱えてまで、敢えてそれを犯すほどにサヤカはエリクに入れ込んでいたのだ。

 

 そんなエリクを殺した仇を、サヤカが平然と受け入れているのがそもそも不可解である。

 そもそもカルロスが知るサヤカといえば果断にして怜悧、退くことを知らない強靭な精神を持つ女である。かつてとある傭兵に言い寄られた際にも、話だけでも聞く、他の同僚に相談するといった面倒な応対を挟まず、実力行使――具体的には回し蹴りで昏倒させた後、尻にスパナをねじ込む――で解決したという所からもその一端が伺い知れる。

 そんなサヤカが、今こうして愛した男の仇とともに、穏やかに一つ屋根の下にいる。その様が、カルロスの中ではどうしても過去の姿と結びつかなかったのだ。

 

 しばしの沈黙。サヤカは身じろぎせず、細い目を薄く開いてカルロスを凝視している。

 ふう、という息の音とともに、先に口を開いたのはサヤカの方だった。

 

「…お節介、でございますよ、カルロス様」

「…気を悪くしたのなら、悪かった。言いたくなければいい」

「いいえ。……実を申し上げますと、あの子をオーレッド湾の北岸で発見し、救助した時。本当は、私はあの子を殺そうとしました」

「………」

 

 視線を逸らしたサヤカが、やや目を伏せながらぽつりぽつりと語り始める。どこを見ているのか焦点が判然としないその瞳は、彼女が懐かしいものを思い描いているようにも、自らの中へと目を向けているようにも見えた。

 

「わが社の社員によって、あの子がコクピットから抱え出された時。私はそこに歩み寄って、あの子の襟元を掴み上げました。何と言っても、間接的にとはいえあの人を殺した人ですからね。殺す、私の手で殺さなければならないと思いました。事実、そうすることは容易だったでしょう」

「……」

「でも、掴み上げてあの子の目を見た時、その思いが変わってしまったんです。ぐったりと力の抜けた体、虚ろに開いたままの唇、止まらない涙で感情が全て流れ出てしまったような空っぽの瞳。その姿はまるで、復讐を果たしてしまい、空っぽになったエリクさんそのままの姿でした」

 

 サヤカの言葉に、記憶の中にあるエリクの姿が蘇る。

 宿敵である『グラオガイスト』を自らの手で屠った直後から、エリクは目的を失った空っぽの存在となり、まるで蝉の抜け殻のようになっていた。それを省みれば、復讐すべき相手も仲間も失ったその瞬間は、エリクと同じ状態になっていたとしてもおかしくはない。

 

「エリクさんの面影が過ぎると同時に、あの人の声も頭に蘇りました。『復讐の連鎖を断ち切る』と、そうおっしゃって再起したエリクさんの姿が。――そうして、思ったのです。あの人は、その言葉通りに信念を全うして死んでいった。もし私がこの子を殺して復讐を果たしてしまえば、それはあの人の想いを汚してしまうだけだ、と」

「…信念、か…」

「けして諦念や忍耐とは思わないでやって下さい。…あの人の思い出も、思いそのものも、大切にしていきたい。そう考えただけの結果でございます」

 

 結びを付け、サヤカの瞳がカルロスと交わる。こんなにも澄んだ瞳をする女だったか。真っ先のその思いが浮かび、カルロスは開きかけた口を閉ざした。

 信念。サヤカやエリクがそう表現し、それに殉じて死んでいった言葉ではあるが、カルロスは複雑な思いを抱かずにはいられない。

 

 サピンにいる時には詳しくその中身を聞くことは叶わなかったものの、後に聞いた所では、その信念とは『ベルカ残党の策謀を阻止し、報復の連鎖を断ち切る』ことだったという。

 カルロスに言わせれば、信念とは生き方の柱であり、選択肢を定める際の指標である。生き方の筋である以上、それが死を招き入れるものであってはならず、まして途中で消えてしまうものであってはならない。特に後者のそれは目標というべきものであり、信念とは似て非なるものである。

 その思いを信じるサヤカの前で口には出せないが、エリクの言う信念とはすなわち目標の域を出るものでは無かった。この点、信念についてエリクと十分に言葉を交わして想いを伝えられないまま、結果的にエリクを送り出してしまった手前、カルロスも責任は感じざるを得ない。

 

 だが。

 戦闘の最期、自らの『信念』を信じ抜いたエリクは、その命で以て実際に報復の連鎖を断ち切った。あくまで結果論かもしれないが、事実その信念を柱にして、生き方を全うしたのである。

 矛盾を内包し、自らの信念によって死へと引き寄せられていったその様は、かつての『ヴァイス1』やフィオン同様、カルロスにとってけして肯んじられる在り様ではない。しかしながらその短くも太く真っすぐな生き様に、清廉な風を感じられずにはいられないのもまた事実だった。

 

「報復の連鎖の否定…今の人類には高尚過ぎる命題なのかもしれないがな。昨今の世界情勢を見ると、それも歴然だ」

 

 湿りを帯びた空気を払うように、カルロスはそれとなく話題を変える。事実エリクの信念が清々しく見えるほどに、世界は今なお戦争の気配が色濃く漂っていた。

 

 オーシアとユークトバニアの両首脳による直接会談により、2年前の戦争は電撃的に終戦。それに伴い、サピンを始めとする東方諸国における戦争状態も、ひとまずは終わりを迎えることになった。

 しかし、状況が戦前へ戻ろうとも、戦闘と侵攻の事実と記憶が消える訳では無い。諸国間には隙間風が入るような空々しい空気が漂い、諸国間の交流も奥歯に物が挟まったような状態となっていた。

 

 各国の国交にヒビが生じたことも問題ではあるが、それ以上に深刻なのが各国の経済的な窮乏である。

 特に大規模な侵攻を許したラティオ、早期に参戦し兵器人員を大量に失ったウスティオやレクタにおいては影響が著しく、国家経済は一気に悪化することとなった。中でもラティオは国土の荒廃が著しく、経済はおろか軍事や公共サービスすら崩壊寸前という有り様であり、一説には海外のとある多国籍企業を誘致して、各種サービスの大規模な民営化を図ることすら検討されているという。国という枠組みそのものを企業に委任するかのような対応だが、裏を返せばそれだけラティオが窮乏しているという証拠でもあった。

 

 経済不安の波は、周辺諸国へも影響を及ぼす。ユークによる支援が薄くなったファト、戦時中の両端を持する姿勢から信用を失ったゲベートでも不況の影は忍び寄っており、いつ第二のラティオとなるかは予断を許さない。東方諸国随一の大国であるサピンも例外ではなく、目下の厭戦ムードから軍備の縮小と国土復興を余儀なくされていた。図らずも、ベルカ残党の目論見は遅ればせながらに達成されつつあるといえる。

 

 ついでながら、各国の軍備縮小の機運は、所属する軍人たちの進退へも影響を及ぼした。

 ウスティオにおいては、エースパイロット部隊として名高い『ガルム隊』の一番機は円卓において戦死。生き残った二番機の男も、軍縮の機運の中で軍を退役した。風の噂によるとオーシアでNGOを立ち上げ、円卓をはじめとした各地で未回収となっている戦没者の遺骨回収事業を始めたのだという。

 サピンのニコラスに関しては、そもそもがあの性格と経歴である。本人も退く気がなければ、サピンも手放す気は毛頭無い。『アークトゥルス』追撃に係る命令違反は不問に処されたばかりか、戦中の戦果とサピン第2航空師団によるクーデター未遂の鎮圧から大佐へと特進。第2航空師団の飛行隊長を務める傍ら、副師団長として同航空師団の綱紀粛正に当たっているという。

 

「左様でございますね。…しかしカルロス様にとっては、そのような戦場がある方が都合がよいのではございませんか?傭兵さまは、戦場があればこそでございます」

「そうだと言いたい所だがな、これだけ続けば先に社の体力に限界が来る。あんな機体を支給してくるようじゃ、わが社もどの道長くはない」

 

 親指を立て、自らの後方で燃料補給を受ける乗機を指すカルロス。その姿を見て、サヤカもまた『ああ…』と声を漏らして、その真意を察したらしい。

 

 MiG-21同様に切り落とされたような機首。中翼位置に設けられた強い後退角を持つ主翼に大きな尾翼、そして丸みを帯びた胴体断面と小さなキャノピー。『フィッシュベッド』とは異なりキャノピー後方からドーサルスパインは伸びておらず、キャノピーはいわゆる涙滴型に象られている。

 MiG-17F『フレスコC』。戦争でMiG-21UPG『ディビナス』を失った後、本社から支給されたのが、旧式と言うも愚かなこの機体であった。

 驚くべきことに、ベース機の初飛行は60年以上前。支給されたこのF型も近代化改修モデルではなく初期量産型に当たるタイプであり、ご丁寧なことにレーダーすら搭載していない。カルロスはかつて一時的にMiG-19『ファーマー』やSu-22『フィッター』に搭乗したことはあったが、更に旧式のこの機体が支給されてきた時には流石に言葉を失った。

 

 余談ながら、この機体は社が購入したものではなく、何とルーカス会長が所有していた私物を無理やり再武装したものなのだという。ここに至ればいっそ財産をわずかでも金に換えて社を畳めばいいようなものを、少しでも儲けを上げて資金捻出に当てようとする辺り、社の末期的な症状にカルロスは頭を抱えたくなった。

 

 機体がこうなら、人員も人員である。人件費削減のため人手は減りに減らされ、パイロットとして残るのはカルロスとアレックスのみという有り様であった。

 ニムロッド隊のうち、ニムロッド2のオズワルドは傷の治りが悪く、パイロットをリタイアして社の整備部門へ異動。ニムロッド3のフラヴィは軍の再編成を進める母国エルジアに招聘され、今は再びエルジアの軍人として活動している所だった。ニムロッド4のブラッドはスリル極まる戦場に嫌気が差し、故郷に戻ってパン屋を始めると言っていたが一体どうなったことやら。

 とはいえ、2人は2人であり、それ以上増えようもない。サヤカの言う通りに世界で紛争が起こった所で、もはやできることは限られていた。

 

「…同情はしてくれるな。無いものはもうどうしようもない。…それより、あんたはどうなんだ。戦場があればこそなのは、仲介業のそちらもだろう」

「はい、その点は心配しておりません。人が人である限り、きっと戦争は続きますから。お仕事は無くなることはございません」

「…あんたたちの兵器が、それを助長してもか?」

 

 あっけらかんと言い放ったサヤカに、カルロスは言葉を投げかける。

 探るような、カルロスの瞳。サヤカは一瞬首を傾げ、一拍応じて口を開いた。予想以上にしっかりとした、芯のある言葉でもって。

 

「矛盾している、とは私は思いません。兵器が、力がどのような使い方を成されるかは、用いる人間の想い次第。確かに憎しみを煽り立てるための力にもなりますが、同時にそれを断ち切るための力にもなりえます。…そう、2年前の戦いのように。兵器はあくまで無色。それを使う人間の『色』にまで、我々は干渉するべきではありません」

 

 そこで一息置いて、サヤカは一度目を閉じた。

 まるで、心に浮かんだ誰かに問いかけるような、静かな時間。間を置いて開いたその瞳は、先と同じく澄んだものだった。

 

「だからこそ、私は話します。話して、語り合って、心を交わして、その人間の『色』を確かめます。――誰かの為を想う人の為に、力を貸す。少なくとも私は、これからそうしていくでしょう。…あの人とあの子から学んだ、その想いを以て」

 

 サヤカの口元に浮かぶ、慇懃でも無礼でもない、ただ穏やかな微笑。その様を見て、その言葉を聞いて、カルロスもつられるように口を緩めた。

 

 なるほど、そうか。

 エリク、お前は自らの信念を立てることには誤ったかもしれないが、こうして人の想いを繋げることは成し遂げていたんだな。

 戦争は続き、人の心は分断されてゆく。しかし、たとえ空は一つに繋がらなくとも、こうして人の心は未来へ繋がっていくのかもしれない。報復の連鎖とは趣の違う、さながら正の連鎖として。

 

「そうか。…野暮なことを聞いたかな。エリクと…あの子というのは、さっきの子供か?」

「ええ、二人とも大切なパートナーであり、ある意味師匠ですから。…ほら、噂をすれば」

 

 ちら、と横目を向けるサヤカに釣られるように、カルロスもそちらへと目を向ける。

 『タイガーⅡ』が収まっていた方の格納庫からのそのそと歩み寄って来たのは、先ほどの白髪の少女と、その腕に抱えられた幼児の姿。黒い髪とやや朱を帯びた肌の色は、サヤカのそれと共通して見える。

 

「あらあら、パウラさん、どうしましたか?」

「ペンキをひっくり返したら放り出された。床のにつまづいた」

「あらあら、そうでしたか。今度から気を付けましょうね」

 

 少女の腕の中から小さな手を伸ばす幼児。サヤカは少女から幼児を受け取り、慣れた素振りで自らの腕の中へと抱きかかえた。幼児はあぅ、あぅぅと声を上げながら、嬉しそうにこちらへ――正確にはこちらの背後の『フレスコ』へ腕を伸ばしている。

 

「あんた…まさか子持ちだったのか」

「はい。…うふふ、飛行機が好きなもので、見たことが無いカルロス様の機体に興味を持っているみたいですね」

「…ふぅむ…」

 

 サヤカと子供。仕事第一の気配が濃厚だったサヤカの印象と今の光景が今一脳内で結びつかず、カルロスは名状しがたい呻き声を漏らした。傭兵稼業ゆえに致し方ないが、何を隠そうカルロスは未婚である。

 

「しかしいつの間に…。名前は?」

「ヒカリ――ヒカリ・B・タカシナ。それがこの子の名前でございます。私の故郷では漢字で以て名を宛てるのですが、このように記します。字の成り立ちは日の光を示すもので、本来は『ヒカル』と読みますが、敢えて崩して記しました」

 

 幼児を抱えたまま、サヤカは器用に携帯を操作して文字を表示する。かくかくとした線で『晃』と記されたその文字は、そのような文字体系を用いる習慣のないカルロスにとっては難解な記号にしか見えなかった。

 

 なるほど、これでヒカリと読むのか。ヒカリ・B・タカシナ。――『B』。

 

 不意に引っかかりを覚えながら、カルロスはまじまじと幼児の顔を見る。見慣れない『フレスコ』を見て大層嬉しいのか、初めて顔を見るこちらに気づく素振りもなく一心に機体を見つめる瞳。その様を見ながら、カルロスはふと既視感を覚えた。

 

 黒髪ながら、僅かに色素が薄く赤みがかった色調。そして、サヤカと比べて幾分薄い肌の色。何より、その澄んだ瞳の姿。

 まさか。

 

「…サヤカ」

「はい?」

「この子供の父親は、もしや…」

「カルロス隊長!」

 

 脳裏に過ぎったその名を問いかけた刹那、唐突にかけられたアレックスの声に、カルロスの言葉は飲み込まれた。どうやら精算事務は終わったらしく、ヘルメットも被ってすっかり離陸準備を整えている。

 

「お待たせしました、こちらは準備OKです。燃料も注入が終わったとのことです」

「ああ、それは重畳でございました。…時にカルロス様?先ほど、何か…」

「……いや、何でもない。アレックス、すぐに上がるぞ。駐機の手数料がこれ以上増えては叶わん」

「あらまあまあ。それでは、お気を付けて」

 

 アレックスに倣ってヘルメットを被り、手早くアレックスに指示を出すカルロス。サヤカに一礼を返して、自らも乗機『フレスコ』へと歩を進めていく。

 

 エリクと、サヤカの子供。それを口にして確かめるのは、今更野暮なことだっただろう。あとは二人の…いや、あの様を見れば白髪の少女を含めた三人の問題なのかもしれないが、いずれにせよ部外者である自分が立ち入る話ではない。今はただあの子供の笑顔と、未来へと思いを繋いだ人々の姿がただ眩しい。

 

 コクピットに収まり、キャノピーを閉じて、計器類を手早くチェックする。

 車輪止め、解除。エンジン回転数上昇。

 甲高い音が響き、風圧が周囲を揺らしていく。操縦桿から伝わる振動は、エンジンの調子が良好であることを告げていた。

 滑走路へ出、ブレーキを解除して、機体の速度を徐々に上げていく。空は快晴、途上にも曇雨天の予報は無し。このままならば、帰路は平穏のまま終わるに違いない。

 

 速度を上げる機体の中から、カルロスはちらりと横を見やる。

 食い入るようにじぃっとこちらを凝視したままの白髪の少女。その隣で目を細めるサヤカ。子供――ヒカリはその腕の中で、きゃっきゃと笑いながらこちらへ手を振っている。

 

 ふわり、と脚をもたげる浮遊感。風の虜となった『フレスコ』の翼は、徐々に速度を上げながら、蒼空の彼方へと駆けてゆく。

 エリクの、人々の想い。全てが未来へと繋がっているかのように、空は遥かに澄んでいる。

 

 このポンコツも、たまには思いきり走らせてやるか。

 

 後方にアレックスの『ディビナス』を捉えながら、カルロスはフットペダルをひとしきり強く踏み込み、『フレスコ』の機速を上げていった。

 ヒカリに満ちた、広い空の向こうへと。


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