ある鎮守府のエンゲル係数   作:ねこまんま提督

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球磨とサーモンのミキュイ

 鎮守府の裏山に熊が出た。

 仕掛けていた罠にかかった猪が、食い荒らされていたのだ。

 

「由良と鬼怒は小学校、阿武隈は公民館。阿賀野と酒匂で海水浴場をお願い」

 

 提督の執務室に軽巡洋艦娘たちが集まり、パトロールの割り振り会議を行っていた。

 戦艦や空母、重巡洋艦の艦娘たちは、すでに裏山から人里に下りる各所の警備に向かっている。

 

「提督、町役場の助役さんからお電話です」

「はいよー」

 

 内閣官房長官からの電話でさえ待たせるという横須賀提督と違い、ここの提督はフッ軽で地域密着型だ。

 さっきも地元の小学校の教頭からのパトロール依頼の電話に応えていた。

 

 

 この鎮守府がある地域は、複数の湾が複雑に入り組んだリアス式海岸で、山と海がとても近く、野生動物も多く生息している。

 町内での熊の出没も珍しくはない。

 

 とはいえ、鎮守府の裏山にまで熊が出没するのは初めてだった。

 鎮守府の裏山は、しょせん標高300~400メートル級の丘陵の(つら)なりに過ぎない。

 

 鎮守府の西に広がる、熊の生息域である峰々とも尾根はつながってはいるが、高速道路と国道で実質的には分断されている。

 同じ町内でも、熊が出るのは高速道路と国道を超えた北西側での話だった。

 

「川の鮭を狙ってるうちに、ここまで来ちゃったのかな?」

「名取、何で球磨に聞くクマ?」

 

 数年に一度、川沿いに高架下を抜けてしまい、沿岸部まで来る熊はいる。

 

「それはおかしいわぁ。織姫(おりひめ)川添いに来たなら、ゴルフ場や町中で先に目撃されてるはずよぉ」

 

 龍田がのんびりした声で指摘する。

 港の西北の織姫(おりひめ)川という川の流れ沿い、山に向かう緩やかな傾斜面には、この町の中心と言える市街地(人口にして1000人程度だが)が形成されている。

 高速道路と国道の高架を挟んだ、市街の反対側にはゴルフ場があり、クラブハウスからは織姫川への見通しも良い。

 

 

「2年前に桃櫛(ももくし)川を下ってきた熊が駆除されたけどなあ」

「桃櫛川沿いなら、先に桃櫛の漁港か町中で騒ぎになるよね」

 

 川内と那珂も首をひねる。

 湾の南西の奥の桃櫛漁港は、桃櫛川と小輪(しょうりん)川という、サケやマスが遡上する自然豊かな二本の水系が、この湾へと注ぎ出す出口になっている。

 そして、桃櫛漁港から湾の北西にある鎮守府に向かうには、町の中心部を通ることになる。

 

 

「ここからじゃないかなぁ」

 

 提督が地図で鎮守府の北東を指す。

 

「8……もう9年前かな? 野間さんのきのこ農園が廃業したでしょ。あの跡地には熊の好きなブナの木が沢山あるし、今じゃ人も滅多に近づかない。それに、あそこの峠は国道がトンネルになってるから、山伝い(やまづたい)に裏山まで来られるよ」

 

「ああ、産廃業者が不法投棄に来てたんで、霧島さんと龍田たちが(さら)って首まで埋めたってやつね」

「うふふー、人聞きが悪いわぁ。肩までしか埋めてないわよぉ」

「でもお前、その首の横でゴルフのスィング練習とかしてただろ。笑いながら」

 

 

 戦後、莫大な木材需要によるスギ、ヒノキの植林と、機械化された農地開拓によって、昭和の熊の生息域は人里離れた山奥へと追いやられていった。

 

 しかし、1970年代以降、木材需要が低下するとともに安価な輸入材に押され、国内林業は崩壊した。

 農業も高齢化と人手不足による衰退を続け、耕作放棄地が増えて里山はどんどん荒廃している。

 

 この中山間部の荒廃した山林や里山は、野生動物たちの楽園となっていった。

 

 一方で1989年から、熊を絶滅から守るという観点で熊狩りが原則禁止となり、人里に下りてきた熊も出来るだけ麻酔銃で捕獲後、山に返されるようになった。

 平成の熊はだんだん人を恐れないようになり、30年間で個体数を倍増させた。

 

 だが、荒廃した山林や里山が野生動物の楽園であっても、そこで生きていける熊の数には限度がある。

 

 生息数が増えれば過酷な生存競争が発生し、2023年や今年のようなブナの大不作が起これば、ナワバリを追われた熊たちが人里や農地へあふれ出してくる。

 

 そして令和の熊の中には、人を恐れない平成の親熊に育てられた、別種の動物が混じっている。

 

 罠にかかった鹿や猪、果樹や農作物、ゴミ、さらには商店や民家の食料まで、獲物と認識しているアーバン熊だ。

 

 

「罠にかかった猪を食べた以上、追い払って終わりって訳にはいかないね」

 

 一度味をしめた熊は、そこを自分のナワバリとして守ろうとする。

少ないとはいえ、裏山には一般の人通りもあり、いつ人がクマに襲われるか分からない。

 

 周囲の農家では、農作物を守るために罠を仕掛けているところも多い。

 そうした罠にかかった動物を求めて、農地に出てくるのも時間の問題だろう。

 

 

「球磨、裏山に登って、ちょっと熊を狩ってきてくれる?」

「だから何で球磨に頼むクマ?」

 

「お願いだよ。ノルウェーから届いた鮭で、美味しい物を作ってあげるから」

「ぐ……しょうがないクマ。それにナワバリを荒らされて、黙ってもいられねえクマ。北上、大井、ついてこいクマ。運搬と解体処理はお前らがやるクマ」

 

「えーっ」

「熊は解体したことないわよ」

「だったら勉強だクマ。分からなかったら那珂に聞けクマ」

 

「球磨殿、三八式歩兵銃をお貸しするであります」

「いらないクマ。熊ぐらい球磨にかかればナイフ一本で十分だクマ」

 

 男前に肩をぶんぶん回しながら出ていく球磨を、肩を落としながら北上と大井がトボトボと追うのだった。

 

 

 ノルウェーサーモンは世界の養殖サーモンの半数を占め、生食可能な高品質が特徴だ。

 

 フィヨルドに囲まれた湾内のいけすで、大豆や魚粉、魚油などを主原料とした「ペレット」と呼ばれる粒状の餌で育てられたノルウェーサーモンには、食中毒の原因となるアニサキスが寄生することがほぼない。

 

 そういえば、寿司ネタとしてのサーモンがアリ・ナシの論争があるが、提督はサーモン擁護派だ。

 

 そもそもマグロだって江戸時代には傷みやすく、捨てても猫さえ食べない「猫またぎ」と呼ばれていた。

 それをヅケにしたり、ネギマにしたりして、何とか食べる工夫をしていたのが、冷凍・冷蔵技術の発達で人気の寿司ネタになった。

 

 養殖・輸送の技術の発達で刺身で食べられるようになったサーモンも、立派な寿司ネタと認めていいだろう。

 

 え、日本産じゃないからダメ?

 あなたの食べてるそのマグロ、インド洋産じゃない?

 甘エビも大体、カナダかグリーンランド産ですよね?

 イクラなんてそもそもロシア語ですけど?(ヒ〇ユキ風に)

 

 

 それはともかく、ノルウェーサーモンの切り身を、砂糖を加えた食塩水に10分ほど漬け、耐熱のポリ袋に入れる。

 後は低温調理器で49℃、20分調理。

 

 サーモンのミキュイ(なんちゃって版)の完成です。

 

 ミキュイはフランス語で半生のこと。

 焼いたものよりやわらかく、なめらかな舌触りで、生よりも味が凝縮されて濃厚になる。

 

 フランス料理界の巨匠、ピエール・トロワグロが考案したといわれる、この料理。

 本当はフライパンで表面をさっと焼きながら、繊細な焼き加減で中を半生に仕上げるのだが、低温調理器を使えばそんな高等技術は不要。

 

 素人でも、理想的なミキュイ(なんちゃって版)を作り出すことができる。

 

 提督は鼻歌交じりに焦がしバターソースを作りながら、球磨の帰りを待つのだった。

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