夜明けから一時間。
庭の芝を焼くように、朝日が斜めに差し込んでいる。
その光の帯の中に、竹ざるが並んでいた。
その上に一粒ずつ、指二本ぶんの間隔を空けて、梅が並んでいる。
赤紫蘇に染まった皮が、朝の光を透かして深い紅色に沈んでいた。
表面にはまだ梅酢の膜が残っていて、それが陽を受けて細かく光っていた。
しゃがみ込んだ大鷹が、傍らでそわそわしている海防艦の子たちに、静かに声をかけている。
「触っちゃダメですよ。皮が破れてしまいますから」
「はーいっ」
大東と日振が、両手を後ろで組んで頷いた。
大鷹自身も、梅と梅の隙間に指を滑らせるだけで、実そのものには触れない。
大鷹がふと、竹の縁を撫でる。
飛龍と蒼龍に教えてもらって編んだ、木枠つきの四角い平籠。
大根を干し、椎茸を干し、ワカメも干してきた籠だ。
縁の竹は、もう飴色に変わっている。
海からの風が、庭を抜けていった。
裏山では蝉が、朝から容赦なく鳴いている。
「ふぅ、午前の仕事はこんなとこかな? O.K.?」
アイオワが両手を腰に当てて、空を仰いだ。
今年は梅雨明けが遅かった。
梅雨明け宣言が出たのが八月に入ってから。
梅を干すのを土用干しと言うけれど、土用はとっくに過ぎている。
もっとも——
「これ、七月に梅雨が明けてたら、大変だったわ。Luckyね」
「そうだな。ちょうどヴァード作戦の真っ最中だったからな」
アーク・ロイヤルが、もはや慣れた手つきで籠の位置を少しずらしながら微笑む。
期間限定海域後段の欧州作戦は、ようやく先日に片がついたばかりだ。
今回は何を思ったか、先行する他の鎮守府の情報に頼らないという縛りを行った提督。
いつもより攻略に時間がかかり、資源も、バケツも、提督や艦娘たちの気力・体力も、根こそぎ持っていかれた。
あの最中に梅雨が明けて梅仕事に人員をとられたら、欧州作戦の攻略が瓦解しかねなかった。
この鎮守府では、農林水産業は艦隊運営よりも優先されるのだ。
「これから三日、干すからね。夜も出しっぱなしにするよ」
浴衣姿の提督が、縁側から声をかけた。
一か月の期間限定海域の戦いで、こころなしかげっそりしている。
昼は陽に、夜は露に。
三日三晩をかけて、梅は皮を柔らかくしていく。
「Three days? hey,Sis? 雨が降ったらどうするのさ?」
「夕立が降ったら……みんなで駆けだして梅を軒下に避難させるのよ」
「DD-Yudachi? Why?」
「ぽいぽい言ってる駆逐艦のことじゃない」
新入りのリノが、アトランタの隣で不思議そうな顔をしていた。
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十年以上前、梅仕事を始めたばかりの頃は、こんなふうに手際よくはいかなかった。
宮ジイの畑の奥にあった梅林。
年をとって手が回らなくなったと放置されていたそこを、提督と艦娘たちが引き継いだ。
脚立を立てて、高い枝の実をもぐ。
まだ艦娘の数も百人を超えたばかりの頃で、脚立を使えるのも数人だけだった。
下に敷いたシートに、時折パラパラと熟れた実が落ちる音がする。
摘みたての梅は、青リンゴと青草を混ぜたような、若々しい匂いがした。
葉陰は思いのほか涼しく、木の下に入るたび、ホッと息をつく艦娘が多かった。
もいだ梅はコンテナに集めていく。
籠いっぱいになるまで、そう時間はかからなかった。
「たくさん採れたじゃん」
「いい梅ですわ」
「よし、これで自家製の梅干しを作ろう」
提督たちの喜びも束の間、次の工程で早速つまずいた。
梅の重さを量り、塩の分量を計算する。
梅に対して二十パーセントの塩を使う、というのは宮ジイが教えてくれた伝統的な比率だ。
問題は、樽に詰めた梅の上に載せる重石(しきいし)だった。
「重石って、梅と同じくらいの重さがいるんだって……」
「え、そんなにですかっ?」
吹雪が困った顔で、集めてきた石と庭にズラリと並ぶ無言の樽を見比べた。
裏山や海辺から拾ってきた石は、大きさも重さもバラバラで、必要な量には遠く及ばない。
「重石、重石……あ」
ためらいがちに、提督が一つの提案をした。
「みんなの艤装、使えないかな……魚雷発射管とか?」
艦娘の艤装は、艦としての武装を人間サイズにして持ち歩くようなものだ。
金属の塊としては、申し分のない重さがある。
「駄目ですぅ、って言おうと思ったんですけど……他に案もないですし」
吹雪も少し困った顔で同意した。
「はぁ!? 何言ってんですか、撃ってもいいですか?」
「まぁまぁ、大井っち、使ってない魚雷発射管なら倉庫にいっぱいあるじゃん」
「う……北上さんがいいって言うなら……」
北上も賛成し、みんなでコソコソと倉庫から魚雷発射管を持ち出した。
「これ、そのまま載せて大丈夫かな?」
「んー、たぶん平気っしょ」
せめてもと、大井がゴミ袋を一枚、ぐるっと巻きつける。
魚雷発射管をそっと梅の上に載せると、ずしり、と樽が沈む音がした。
「これでよし、っと」
「おーっ、いいねぇ、しびれるねぇ」
得意げだった提督たち。
……が、その一件は後日、艤装の手入れをしていた明石にバレることになった。
「塩水と酢気にさらしたでしょ、これ。うっすら錆が浮いてるじゃないですか!」
こってり油を絞られた提督たちは、翌年からは大人しく、ホームセンターで買った本物の漬物石を使うようになった。
それでも、あの年の梅干しの味は格別だった。
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今年の梅も出来は良かった。
塩漬けの梅は、しばらく青々としたまま眠っていた。
そこへ加わるのが、赤紫蘇だ。
摘んできた紫蘇の葉を、たっぷりの塩でよく揉む。
最初に出てくるアクの強い黒っぽい汁は、一度捨てる。
二度目の塩揉みで出てきた汁は、鮮やかな赤紫色。
これに、樽の底からすくった梅酢を少し加えてやると、紫蘇の色がさらに濃く、発色していく。
白っぽかった梅酢に、色づいた紫蘇を漬け込む。
最初は、梅酢のほうが紫蘇に負けているように見えた。
それが一晩、二晩と経つうちに、じわりじわりと赤が滲み出す。
透明に近かった梅酢が、まるで血の色を薄めたような、深い紅へと変わっていく。
梅の実そのものも、青みを失って、少しずつ紫蘇の色を吸い込んでいった。
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――そうして、今年の梅も無事、赤く染まった。
そして今、土用干し三日目の朝。
庭に並んだ竹ざるの向こうで、大井が籠を覗き込んでいた。
「北上さん、今年の梅もいい色になりましたね」
「うん、紫蘇がよく効いてるわ~」
北上が頷きながら、乾き具合を指先で確かめる。
まだ触れてはいけないが、指を近づけるだけで、梅酢の匂いが立ちのぼってくる。
塩気と酸味、そして紫蘇の爽やかな香りが混じり合った、独特の匂いだ。
「うわ、エモッ!」
初めて梅仕事を手伝う樫が、見事に染まった梅の色に驚いている。
庭に目を戻すと、竹ざるの梅が朝の光を弾いていた。
「今年のやつ、もう食べれんの?」
乾き始めた梅に、樫が興味津々で顔を近づけている。
「こら、まだ早いよ」
提督が慌てて手を止めさせた。
「干したばかりは、塩の角が立ってしょっぱいだけなんだ。三ヶ月くらい寝かせると、味が丸くなる」
「へー、知らんかった。梅干しって熟成すんの、ガチで初耳」
樫が素直に感心する。
この鎮守府の一年を通しで経験するのは、まだ彼女にとって初めてのことだった。
「じゃ、今日は去年のを味見させて。あるんでしょ?」
「うん、こっちね」
去年の瓶が出てくると、樫はあっさり機嫌を直し、待ちきれない様子で蓋に手をかけた。
初めての梅仕事、あれから十回以上の夏を越え、今年もまた同じ工程を繰り返している。
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三日目の午後、梅の乾きが仕上がりに近づく頃。
庭では、艦娘たちが最後の天地返しをしていた。
昼餉は、縁側で摂ることになる。
台所から漂ってくるのは、サバを焼く香ばしい匂い。
皮目がパチパチと爆ぜる音がして、脂の弾ける匂いが庭先まで届いてくる。
「はい、お待ちどうさま」
鳳翔さんが、大皿に盛ったおにぎりを運んできた。
塩を振って皮目からじっくり焼き上げたサバを、骨まで丁寧に取ってほぐしたもの。
そこに白ごま、刻んだ大葉、かつお節を混ぜ込んで、ふっくらと握ったご飯。
真ん中には、去年漬けた梅干しが一粒、埋め込まれている。
「うわ、いい匂いっ」
樫が真っ先に手を伸ばした。
添えられているのは、たくあんの小鉢と、豆腐とわかめの味噌汁だけ。
それで十分だった。
一口かじると、まず来るのはサバの脂の香ばしさ。
皮の焦げた部分の苦みが、香ばしさに変わって鼻に抜ける。
ほぐし身はほろほろと崩れて、白ごまのコクと大葉の清涼感が追いかけてくる。
かつお節の旨味が、その全体を下から支えていた。
そして中心まで届いたところで、去年の熟成した梅干しが顔を出す。
しょっぱさと酸味が、脂を一気に断ち切っていく。
噛むたびに口の中に唾液が広がって、次の一口を呼び込んでくる。
「んー、酸っぱい……けど、んっ、うまっ!」
庭に目をやれば、竹ざるの梅が、朝から数えて三度目の天地返しを待っていた。
今年の梅は、まだ赤紫蘇の色を吸いきっていない。
去年のものより、少しだけ若い赤だ。
「今年のも、早く食べたいよなぁ、杉」
「樫、気が早いぜ。まだ干し終わってもないのに」
その隣で、北上が味噌汁をすすりながら、竹ざるを眺めていた。
「一年って、あっという間だねぇ」
「うん」
提督が静かに頷く。
今年の梅が、去年と同じように食卓に上がるまでには、まだしばらくの時間がかかる。
それでも、今日食べているこの一粒も、去年の夏、同じようにこの庭で干されていたものだ。
「提督、間宮さんが新艦歓迎会の献立のことで探しておられますよ」
「やっべ! 提督、さっき間宮さんに言伝されたの、マジ忘れてた!」
提督を呼びに来た梅の言葉に、樫が弾かれたように立ち上がる。
この後もちろん、樫は桃と松から叱られた。
繰り返される季節の中で、梅は静かに、確かに、去年から今年へと橋を渡していく。