ある鎮守府のエンゲル係数   作:ねこまんま提督

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矢矧とハゼの天ぷら

 九月に入ったが、昼間晴れるとまだ暑い。

 岸壁では、提督と駆逐艦たちが釣りをしていた。

 

「クソ提督、そっちの角は根が張り出してるから気をつけるのよ」

 

 曙が水面を指差す。

 

「この辺?」

「もう少し右。そこ、引っ掛かるから」

 

 提督はブラクリ仕掛けを落とした。

 オモリと針が一体になった仕掛けで、岸壁の隙間や根の際を狙う。

 エサはアオイソメ。

 

「潮、そっちはどう?」

「まだです。……あ、来ました」

 

 細い竿先が震える。

 上がってきたのは、赤いベラだった。

 

「……ベラです」

「ベラね」

 

 曙が魚を見て、ため息をつく。

 

「今年もハゼ、少ないわね」

 

 狙っているのはハゼだ。

 三陸の岸壁で釣れるのは、東京湾のマハゼとは少し違う。

 リュウグウハゼやアナハゼなど、岩場にいるハゼを狙う。

 

 釣れたハゼはバケツで生かしておき、あとで泳がせ釣りのエサにする。

 狙いはアイナメだ。

 

「エサ代の方が高くつくのです」

「言わないの」

 

 曙が仕掛けを落とす。

 しばらくして、また竿が動いた。

 

「今度こそハゼ……!」

 

 上がってきたのはフグだった。

 

「……」

「今年はフグも元気だなあ」

 

 提督が苦笑する。

 

 少し離れたところでは、ヴァトールが竿を持っている。

 この夏の欧州作戦で鎮守府に加わったばかりのフランス駆逐艦だ。

 

「Mon Amiral……これでいいですか?」

「うん。底まで落としてから、少しだけ動かしてみて」

 

 ヴァトールが仕掛けを落とす。

 しばらく待つ。

 

「……来ました」

「おっ」

 

 竿を上げる。

 釣れたのは丸くふくれっ面をしたクサフグだった。

 

「Ah……」

「フグだね」

 

 ヴァトールはフグを眺める。

 

「これは食べられないですか?」

「うん。食べない方がいいね」

 

 ヴァトールはフグを海へ戻した。

 

「Au revoir」

「さあ、次はハゼを釣ろう」

 

 ・

 ・

 ・

 

 昼前。

 バケツにはベラとドンコばかりが増えていた。

 やっとかかったハゼも、アイナメではなくカサゴに喰われた。

 

 そのとき、湾口の方から艦隊が戻ってきた。

 

「……あれ?」

 

 提督が竿を置く。

 

 先頭を走っているのは矢矧だった。

 

 その後ろに雪風とモガドール。

 雪風とモガドールは見るからに被害を受け、艤装からは薄黒い煙が上がっていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 桟橋には明石と大鯨が待っていた。

 

 艤装を大きく損傷したモガドールが、天津風に肩を貸されている。

 雪風も制服の一部が焦げていた。

 

「司令っ、第二遊撃部隊、キス島撤退作戦より帰投しました。……道中撤退でした」

「うん。おかえり、雪風。お風呂に入っておいで」

「はいっ」

 

 最後に矢矧が上がってきた。

 矢矧の艤装には、大きな傷はない。

 

「提督」

「おかえり、矢矧」

「先制雷撃で、敵の隊列に穴が開いたのが見えていたの」

「うん」

「なのに、指示が遅れた」

 

 矢矧は少し黙った。

 

「半拍くらい」

「そうか」

「私が焦って砲撃を外した。そのせいで雪風が被弾して、モガドールも……」

 

 矢矧がモガドールを見る。

 

「……ごめんなさい」

「矢矧」

「なに?」

「今日はもう戦果稼ぎ、なし」

「……は?」

 

 矢矧が顔を上げた。

 

「八月は諦めた分、九月は取り返さないと、って……」

「もう、無理に取り返さなくていい」

「でも」

「三年以上、毎日フルで3-2に通わせてたでしょ」

「それが私の仕事でしょ」

 

 提督はのんびり海を眺めながら、大きく伸びをした。

 

「これからは、ペースを落としていい。ブルネイ周回の比率も増やそう」

「そんな悠長な……」

「戦果を目指すのは三ヶ月に二回。今までが頑張りすぎだったんだよ」

 

 矢矧は何か言いかけて、やめた。

 

「明日、東京湾に遠征でも行っておいで」

「東京湾?」

「うん。タンカー護衛任務」

 

 矢矧が、じっと提督を見た。

 

「私が遠征? 何を企んでるの?」

 この提督が、この顔をしている時が一番(たち)が悪いことを、矢矧は知っていた。

 

 ・

 ・

 ・

 

 その夜、執務室に四人が呼ばれた。

 磯風、浜風、霞、朝霜。

 

「矢矧の面倒を見つつ、羽を伸ばさせてやってほしい」

 

 提督が言うと、霞がじろりと目を細めた。

 

「三年ぶっ通しで働いてた働き者が、丸々ひと月休んだせいでリフレッシュするどころかリズムが狂っちゃった。それを立て直せ、ってことでしょ?」

「まあ、そう」

「本人には言ってないのね?」

「言ったら遊ばないでしょ、あの子」

 

 霞が、盛大にため息をついた。

 

「……ま、いいけど。調子崩されたままだと困るし」

 

 磯風は腕を組んだまま、短く頷いただけだった。

 浜風は手帳を開いて、潮見表と月齢を確かめている。

 

 そして朝霜だけが、にやにやと笑っていた。

 

「いひひっ、任せてよ司令。あたし、遊ばせるのは得意だからさ」

 

 ・

 ・

 ・

 

 木更津沖に到着すると、沖合にはすでにタンカーが停泊していた。

 

「よーし任務完了っ」

「さあ、釣りよ釣り」

「釣り道具は準備してあります」

「バケツもあるぞ」

 

 矢矧は四人を見回した。

 

「……あなたたち、最初からそのつもりだったのね」

 

 誰も答えなかった。

 

 九月の東京湾は、岸近くまで濁っている。

 

 葦の際に立つ(くい)

 沖に浮かぶ、ぽつんとした船影。

 その向こうに、工場の煙突がかすんでいる。

 

「ここらがいいんじゃない」

 

 霞が竿ケースを開けながら言った。

 中から出てきたのは、竹の和竿だ。

 

「……ここ?」

 

 沖に出るでもなく、岩礁を攻めるでもない。

 ただの、干潮であらわになった浅瀬。

 

 霞が矢矧に竿を渡す。

 

「短っ」

「足元を釣るんだから、これで十分」

 

 矢矧は竿を継ぎ合わせながら、小さく息を吐いた。

 

「……釣りは、久しぶりだわ」

 

 誰に言うでもない呟きだった。

 

 仕掛けはハゼ天ビンに袖針。

 オモリは軽い。

 

「これ、投げなくていいの?」

「遠くに投げる必要なんてないわ」

 

 霞が仕掛けを落とした。

 

 トン、と泥砂にオモリが着く。

 

「ほら。こうしてトントンしてハゼの注意をひいて」

 

 矢矧も仕掛けを落とす。

 トン。

 

「……」

 

 もう一度。

 

「こう?」

「浮かせすぎだ」

 

 磯風が言った。

 

「ハゼは底だ。底を切るな、浮かすな」

「分かってるわ」

「分かっているなら、その竿をそんなに大きく動かすな」

「……」

 

 矢矧が竿を見る。

 確かに、普段の釣りとは動かし方が違う。

 

「ハリスも長い」

 

 浜風が言った。

 

「それと、イソメのタラシも」

「……見てたの?」

「見ていました」

 

 浜風がハサミを差し出した。

 矢矧は仕掛けを直す。

 

「これでいい?」

「うん」

 

 霞が頷いた。

 

「じゃあ、もう一回」

 

 矢矧が仕掛けを落とす。

 オモリが底に触れた瞬間——それまで指先に乗っていた重みが、ふっと消えた。

 

 ——トン。

 

 小さいのに、はっきりしていた。

 そのまま底をとり、アタリを待つ。

 

 しばらく待ってもアタリがなければ、少し浮かせる。

 もう一度落とす。

 

 トン。

 

 糸を張る。

 待つ。

 

 グン。

 

「!」

 

 矢矧の手が動いた。

 小さく合わせる。

 

「来た!」

 

 朝霜が声を上げる。

 上がってきたのは、小さなマハゼだった。

 

「……こんなに、小さいの?」

「やったじゃん、矢矧!」

 

 朝霜が駆け寄ってくる。

 

「ちゃんとハゼだ!」

「こんなので喜ぶ?」

「最初の一匹じゃん!」

 

 朝霜が笑う。

 矢矧は小さなハゼを見た。

 

「……そうね」

 

 ハゼをバケツに入れる。

 

 パシャッ。

 

「ほら、もう一匹釣ろうぜ!」

 

 朝霜が自分の竿を構えた。

 

「競争?」

「もちろん!」

 

 矢矧も竿を持ち直す。

 

 ・

 ・

 ・

 

 二匹目。

 三匹目。

 

 矢矧の手返しが、少しずつ速くなっていった。

 

 イソメを付ける。

 仕掛けを落とす。

 トン。

 小突く。

 待つ。

 グン。

 合わせる。

 抜き上げる。

 針を外す。

 またイソメを付ける。

 

「……」

 

 浜風が自分の竿から顔を上げた。

 矢矧の動きが、いつの間にか自分たちと同じになっている。

 

「戻ってきたな」

 

 磯風が小さく言った。

 

「何が?」

 

 浜風が聞く。

 

「勘だ」

 

 矢矧は聞こえていない。

 また仕掛けを落とした。

 

 トン。

 

 ・

 ・

 ・

 

 昼前。

 沖からエンジン音が聞こえてきた。

 

「おーい!」

 

 ぷかぷか丸だ。

 操船しているのは阿武隈。

 船には提督と、ヴァトールたちも乗っている。

 

「矢矧、釣れた?」

「見て」

 

 矢矧がバケツを持ち上げる。

 中にはハゼが何匹も入っている。

 

「おお、いっぱい釣ったね」

「最初は全然だったのよ」

 

 霞が笑う。

 

「でも今は、あたしたちより早いくらい」

「そうなの?」

「そうよ」

 

 矢矧が少しだけ得意そうな顔をした。

 提督はそれを見て笑った。

 

 ・

 ・

 ・

 

 ぷかぷか丸の船上。

 簡単な調理場に油の入った鍋が置かれている。

 

「今日は天ぷらにしよう」

 

 提督がハゼを捌いていく。

 小さなハゼは背開きにする。

 頭と中骨は別にして、こちらは骨せんべい。

 衣をつけて油へ。

 

 ジュワッ。

 

 揚げたてを皿に並べる。

 

「はい、矢矧の分」

「ありがとう」

 

 矢矧が一匹取る。

 塩をつけて、ぱくり。

 

 サクッと、乾いた音がした。

 中の身はほろりと解けて、淡白ながらも深みのある甘みと、汽水(きすい)の仄かな香りがよぎって、すぐに消えた。

 

「……美味しい」

「だろ?」

 

 朝霜も一匹取った。

 

「うまっ!」

 

 霞は天つゆをつけて食べている。

 浜風は骨せんべいをぽりぽり齧る。

 磯風は二匹目の天ぷらに手を伸ばした。

 

 ヴァトールも興味深そうに皿を覗き込んでいる。

 

「これが東京湾のハゼですか」

「そう。九月はこれから良くなるよ」

 

 提督が答える。

 みんなで釣ったハゼを食べる。

 それだけの昼食だった。

 

 ・

 ・

 ・

 

 帰りのぷかぷか丸。

 併走する矢矧が遠くを行くフェリーを見ていた。

 

「提督」

「ん?」

「昨日、何を企んでるのって聞いたわね」

「うん」

 

 矢矧は、少し間を置いた。

 

「……別に、答えなくていいわ」

 

 提督は何も言わず、ただ笑った。

 少し間を置いて、矢矧が続ける。

 

「彼岸ハゼって、これからが本番なんでしょう?」

「そうらしいね」

「……また来てもいい?」

「もちろん」

「そう」

 

 矢矧は海を見たまま、少しだけ笑った。

 

 ぷかぷか丸は、ゆっくりと鎮守府へ戻っていった。




夏イベおつかれさまでした。
長く継続三群を続けてましたが、先月卒業。

緊張の糸がぷっつりと……と言いつつ9~12月は狙うんですけどね(引き継ぎ戦果かもったいない)。
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