この鎮守府の沖合では三つの潮流がぶつかり混じり合う。
複雑な潮境の中で、多様性が極めて高い豊かな生態系が形成される、世界有数の漁場となっている。
この日、海風たちの第二十四駆逐隊は漁場の警備任務についていた。
艦娘が深海棲艦領域に出撃するのに欠かせない「門」だが、副作用として、深海棲艦も「門」を通って本土近海にも出現してしまうことになる。
人類側が設置した「門」は、結界を施すことで姫や鬼を含む大物の深海棲艦が通れないようにしてあるが、駆逐艦のような小物は結界の網をすり抜けてしまう。
しかも、深海棲艦の側でも「門」を開いて潜水艦隊や軽空母部隊などを送り込んで通商破壊戦を仕掛けてくるから、本土近海といえども油断はできない。
結局は、毎日のように通称「1-1」と呼ばれる、はぐれ深海棲艦狩りなどの掃討作戦を行いつつ、パトロールを強化するしかないのが現状だ。
海風に従うのは、江風、山風、涼風。
警備は3人で十分なのだが、姉妹の中で錬度のやや劣る山風との隊列訓練を兼ねて、駆逐隊全員を連れてきている。
早朝に、飛鷹を旗艦とする五十鈴、夕張、島風の艦隊が、通称「1-5」と呼ばれる対潜哨戒作戦を実施していたので、鎮守府の周辺に残敵はおらず静かなものだった。
「第二四駆逐隊、母港に戻ります。皆さん、最後まで気を抜かないで!」
海風が帰投の指示を出す。
「ほいほい~。山風、涼風、帰りは競争な!」
「がってんだ! 涼風の本気、見せたげるぅ!」
「江風……と涼風も、もう油断してるし……うるさいし」
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「艦隊、無事母港に帰投しました。大変お疲れ様でした。ふぅ……」
簡単な遠征の場合、港に着いたらホースの水で艤装の潮を洗い落とし、自分で工廠に返却するのが、この鎮守府のルールだ。
「うわっはーい!」
「やったな、江風の姉貴!」
「やめて…冷たいから。……冷たいでしょー!?」
元気のいい駆逐艦娘たちがホースの水で遊び出すのもお約束。
「きゃあっ、やめな……きゃっ」
水かけっこが始まり、海風もしっかりズブ濡れにされてしまった。
もう冬は終わったとはいえ、春が来たわけではない。
屋外で水を浴びれば、とにかく寒い。
艤装をとっとと返却して、着替えの下着とジャージを受け取り、寒さにガタガタ震えながらみんなで庁舎に向かう。
フロントサッシの引き戸を開けると、狭いロビーの横には病院の受付のような小窓のついた小さな事務室。
「筑摩さんっ、風呂は空いてるかい!?」
涼風が事務室詰めの今日の当番、筑摩に尋ねる。
「ええ、今は誰も入ってませんよ」
「ラッキー♪」
早速、江風と涼風がビショビショの服を脱ぎながら、風呂場へと向かう。
この鎮守府庁舎は、もと漁協事務所で漁師の休憩所も兼ねていたので、水には強い。
床は滑り止め加工の防水タイルだ。
海風も濡れて張り付く服から早く解放されたいが、さすがに提督がいつ現れるか分からない廊下で脱ぐ勇気はなく、脱衣所までガマンする。
大人しい山風も、海風の後をとぼとぼとついてくる。
庁舎のお風呂場は本来、深海棲艦から攻撃を受けた際の穢れを落とす霊薬の張られた入渠施設であり、本来は傷ついた艦娘のためのものだ。
もっとも、霊験あらたかな霊薬という触れ込みで毎月本部から配布される、入渠用の入浴剤だが、数ヶ月この風呂に入り続けた艦娘は気付くことになる。
「これ、ただの季節の薬湯だ」と。
3月は「よもぎ」、先月は「すずしろ(大根の葉)」、1月は「しょうよう(松の葉)」だった。
少なくとも「高速修復材」のような未知の力を感じることはない。
それでも、血行促進の効果があるよもぎ湯に浸かるとポカポカと温かく、深い自然の香りに癒やされるから、メリットはあるのだが。
この薬湯がなぜ鎮守府に配られるのかについては、軍令部の妖精さんが粋な計らいをしてくれているという説と、軍令部総長が変な宗教家にだまされて法外な値段で買わされているのだという説があるが、真相は闇の中である……。
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「おう、いい湯だったぜ。さぁ、次に行こっかぁ!」
「あっ、涼風!?」
ほんの少し湯船に浸かっただけで風呂からあがり、身体も拭かずに飛び出していく涼風。
「よし、こっちも出るぜ! 山風、ついてきな!」
「……まだ入ってる」
「えー? 提督に髪拭いてもらいに行こうぜ」
「え……ぅ…行く」
続けてお風呂から出て、タオルで身体を拭くのもそこそこに、下着だけ着けて脱衣所の外に行こうとする江風と山風。
「ちょっと、提督にご迷惑を……せめて服は着なさい! あ、行っちゃった……ほんとうに、お姉さんは心配です」
提督が入っているお風呂にも、平気で「ぽいぽーいっ」と入っていく上の姉に似てしまったのか……。
心配になり、手早くジャージを着て2階の執務室に向かってみれば、妹たちが下着姿のまま提督に髪を拭いてもらっていた。
おかげで、執務室の床のカーペットや提督の制服も濡れてしまっている。
「提督、妹たちが申し訳ありません。私、床を拭きます」
「大丈夫、この部屋はそんなヤワじゃないから」
提督の言葉通り、カーペットをしいた木製だったはずの床が、いつの間にか白タイルに変わり、モップを持った小さな妖精さんたちが水滴を掃き取っていく
「はい、涼風はおしまい。湯冷めするから、早くジャージを着ちゃいなさい」
「こいつぁいけねえ、風呂場に置いてきちまったぜい」
慌しくまた下着姿で駆け出していく涼風。
「江風と山風もおしまい。ジャージは……ちゃんと持ってきてるね」
「ありがっとさン」
「……ぅん、ありが……とう」
「海風も髪を拭いてあげるから、こっちへおいで」
海風の頭に、ポスンと柔らかいタオルがのせられる。
髪をワシワシと拭かれる、少し乱暴でくすぐったいのに、妙に嬉しい感触。
鎮守府のお母さん、鳳翔が髪を拭いてくれるときのフワフワ感とはまた違う感覚だ。
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その後、提督がそれぞれにホワイトデーのお菓子をくれた。
「提督、こちらを海風に? あ、ありがとうございます。大切にいただきます……嬉しい♪」
素直に応える、海風の横では……。
「ン? 提督、チョコのお返しかい? 義理堅いねえ結構結構」
生意気な口を叩く妹のお尻を、ギュッとつまむ海風。
「イタッ!」
「これ……いい、の……!? ……ありがと……ありがとぉ……ッ」
感極まって泣きはじめる山風を、提督が優しく抱き上げる。
「んん、何だってぇ? ホワイトデー? よせやい、照れくせぇ……でも、まぁ……もらっとくかい!」
顔を真っ赤にしながら、大切そうにお菓子を抱きしめる涼風。
妹たちの幸せそうな顔を見ながら……。
(お父さん……ありがとうございます)
海風は心の中でだけ、つぶやいてみるのだった。