「来て」
それは、変な医者に絡まれた日の放課後の事だった。
「へ?」
今日の夕御飯の献立を考えていた俺の手を、突然鳶一が掴んだのだ。
「あ、ちょ、ちょっと……」
ガタンと椅子を倒しながら、俺は鳶一に引っ張られて教室を出て行く。
後ろを向くと殿町がポカンと口を開け、女子の集団が何やらキャーキャーと騒いでいた。
―また、あらぬ噂が流れるんだろうなぁ…と軽く諦観する。
鳶一は無言のまま階段を上がり、屋上への扉の前までやってきて、漸く俺の手を離した。
扉と階段の間の小さな踊り場は、二人で並んで立つと少し窮屈だった。
下校する生徒たちの喧騒が、随分遠くに聞こえる。
「え、ええと…」
「昨日、なぜあんなところにいたの」
――あんな、ところ?
「…すまん、何処の事だ」
「2丁目のファミレス付近。警報が鳴っているにも関わらず、貴方はそこにいた」
鳶一の表情は相変わらず無表情で、怒っているのか、疑問に思っているだけなのか、判断がつかなかった。
「…あー、妹がそこに居ると勘違いしちゃってな…」
結局、ちゃんとシェルターに居たんだけど、と苦笑交じりに答える。
「そう」
一言だけ返す鳶一をちらっと上目使いに見るも、やはり無表情のままだ。
余りにも無愛想な態度に、しかし何故か、その態度を心地よく思う自分が居た。
「腕」
「うん?」
「腕、どうかしたの」
鳶一が俺の腕をじっと見つめる。
「ああ、昨日ちょっと擦りむいて…。大袈裟に包帯巻いてあるけど、すぐに治るみたいだ」
俺は右腕を持ち上げて左右に振った。
実際、痛み自体は既に殆ど消えていた。
「そう」
再び無表情で返事をする鳶一。
――そっか。この子はそういう子だったな。
欠けていたピースが心の奥の引き出しから零れ落ちた、そんな気がした。
「心配してくれてありがとうな」
ふぁさ
自然と左手が鳶一の髪へ伸びた。
「あ…」
自分でもびっくりしていた。
しかし、俯いて俺に撫でられたままの彼女を見ていると
――借りてきた猫のようだな
なんて、少し可笑しくなってしまって、暫く鳶一の髪の柔らかさを堪能してしまった。
「ごめんな、勝手に撫でて」
俺が手を引っ込めてると、鳶一は恐る恐る顔をあげた。
「…鳶一?」
――やべ、怒らせちゃったかな
少し不安になって、鳶一の表情を伺う。
「………ぁ」
鳶一の人形のような顔は、瞼は細められ、真っ白な頬は桃色に染まり、口が小さく開いて舌の表面が少し覗いていた。
「…ごめん、嫌だったか?」
「そんなこと、ない」
彼女は大きく頭を振って、そう答えた。
「嫌じゃない、全然」
それなら良いんだが…と若干申し訳なさそうに言う俺に対して、改めて強めの口調で否定する鳶一。
――まあ、嫌がられていなかったのなら良かった。
「…そういえば、どうして俺がファミレス前に居たの知ってるんだ?」
「私も、そこに居たから」
……そこに、居た?
最初に頭に浮かんだのは、今にも泣きそうな顔をした美しい少女だった。
――どう考えても鳶一じゃないよな…
「私は、精霊を殺すためにあそこに居た」
精霊を…殺す…?
『五河士道から、離れろーー!』
――あ
その瞬間、脳裏に昨日の光景が鮮明に蘇ってきた。
「あの機械を纏った女の子が鳶一…だったのか?」
俺の言葉に、鳶一は小さく首肯した。
「あれは、一体何なんだ?」
俺の曖昧な質問に少し間を置くと、鳶一は口を開いた。
「私は対精霊部隊、通称ASTに所属している。装備していた物は顕現装置搭載ユニット、通称CRユニット」
――AST…?CRユニット…?
想像とは掛け離れた言葉に頭の中が混乱する。
『…精霊を殺すために組織された…AST…』
今朝の不審な医者との会話が蘇る。
「…あの女の子が…精霊なのか…?」
「そう」
「鳶一は…精霊を殺すために…あの場所に来たのか…?」
「そう」
「鳶一は、あの女の子を殺したいのか…?」
恐る恐る尋ねた俺の言葉に、『そう』と事も無げに首肯する鳶一。
その様子を見て、自分の中の何かが音を立てて切れた。
「いや、だってあれ、どう見ても人じゃないか!それを殺すなんて…ダメに決まってるだろ!」
どんどんとオクターブが上がっていくのが分かる。
しかし、それを制御する事はとても出来なかった。
「なんでだよ!なんで鳶一みたいな可愛い女の子が、人を殺すとか言ってるんだよ!!」
「人じゃない、精霊」
「変わらないよ、そんなの!鳶一と同じ年代の女の子で、ちゃんと言葉を喋って…」
――それに、とても悲しそうな顔をしていた
「とにかく、あんな子を殺すなんて言ったらダメだ!」
俺の言葉に、鳶一は少し唇を噛み締めた。
「――私の両親は、五年前、精霊のせいで死んだ」
――な…
思いもよらない返答に、滾っていた心が一瞬で冷える。
「私のような人間は、もう増やしたくない」
「……――」
絶句して俯く俺の隣を、鳶一が通り抜け、階段を下りていった。
夜、ベッドの中で俺は考えていた。
明日、謝らないとな…
事情も知らずに自分の判断だけで人を怒鳴るなんて、最低な事だった。
でも、殺すなんて言葉、鳶一が使っちゃいけない、と思う…
瞼を閉じて、今日の出来事を脳裏で掘り返す。
精霊、か…
仮に、あの胡散臭い医者と、鳶一の話が全て本当だとしよう。
医者が言うには、空間震とは精霊が現れる際に発生する現象、らしい。
そして、ここで言う精霊とは、あの美しい少女の事だ。
つまり、あの少女が現れる度に空間震が発生する、という事になる。
空間震の対策はかなり取られているとは言え、過去には日本を丸ごと飲み込む規模の物もあった。
当然、そんなものは対策出来るはずもない。
その空間震を、一人の少女が起こしているとしたら…
『殺す』
鳶一の言葉に納得しそうになってしまい、頭を軽く振った。
右腕をぶつけないように、慎重に寝返りをうつ。
窓から仄かに照らす月明かりが、包帯の淡い色を反射していた。
――確か、あの医者は殺す以外にも防ぐ方法が有るって言ってたな。
帰宅した琴里に医者の事を何度か聞いてみたが、良く知らない、分からないの一点張りだった。
「話をして、精霊に、恋をさせる、か……」
医者の言葉を反芻し、その内容に苦笑する。
…馬鹿げてる。
少し横にずれた枕の位置を、左腕で直す。
全然眠れる気分では無かったが、予想以上に疲れていたらしい。
――そう、だな。話を、してみるか。
知らないうちに、まどろみの中に落ちていた。