64話 バレンタイン
「行ってきます」
玄関を出た董夜の言葉に、返事をするものは誰もいない。ただ虚しく空中に溶けるのみである。
「さて、久しぶりだな、亜夜子に文弥」
「………ウソっ!」
「さ、流石ですわ、董夜兄様」
先程まで何も無かった。いや、何も無いように感じられた場所から、亜夜子と文弥が姿を現した。文弥は驚愕に目を見開き、亜夜子も悔しそうだ。
「それで?何かあったのか?」
「はい、ご当主さまからの命令で参りました」
「母さんから?」
思ったよりもビックネームが出たことに、董夜が目を細めた。そんな彼に今日最初のサプライズが忍び寄る。
「ご当主さまからのチョコレートを預かって参りました」
「ちょ、チョコ…………あぁ、そういうことか」
ズッコケそうになるのをなんとか堪え、董夜はようやく今日が何の日か思い出した。
「わざわざありがとう。ごめんな、母さんが迷惑かけて」
「いえ、それに………」
「おねえちゃんもチョコを「うるさい」……ブハッ!」
亜夜子から真夜のチョコを受け取り、苦笑いを浮かべる董夜に、亜夜子が頰を赤らめて何かモジモジしている。
そして文弥が何か言いかけたところで、亜夜子からビンタが入った。
「ふ、文弥ぁぁ!」
「ぐ、グハッ」
数メートル吹っ飛び、倒れ伏したまま動かない文弥に董夜が駆け寄る。
「董夜兄様、ちょ、チョコです!」
「あ、ありがとう」
一向に起き上がろうとしない弟を無視して、チョコを渡す亜夜子。董夜も笑顔を引きつらせながら受け取った。
「それでは、私たちはこれでお暇致しますわ!ほら文弥、いくわよ!」
「は、はい。失礼します」
優雅にお辞儀をして、亜夜子と文弥が一瞬で消えた。しかし、董夜の眼には走り去る二人の姿がはっきりと見えていた。
「あら董夜くん。奇遇ね」
「本当に奇遇なんですよね?」
駅に到着し、董夜がコミュターを待っていると、真由美を乗せたコミュターが停車した。
「はい、董夜くん」
「あぁチョコですか?ありがとうござい」
「ううん、違うわ」
「え」
真由美がバックの中をゴソゴソとあさり始め、取り出したのはまぁまぁの大きさの紙袋が二枚。
「董夜くんのことだからたくさんチョコもらうと思って」
「お気遣いどうも、多分二枚もいらないと思いますけど」
紙袋を渡しながら、まだまだあるわよ、と微笑む真由美に董夜も頬をかく。
無意識にチョコを期待していた自分が恥ずかしくなったのだろう。
「あ、董夜くん。放課後に屋上に来て欲しいのだけど」
「?……分かりました、それじゃあ四時に屋上で」
「ええ」
コミュターが『第一高校前』に着き、先に降りた董夜が真由美の手を取る。そして真由美は怪しく微笑んで、学校へと走っていった。
「あ、一緒に行かないんですね」
「あ、四葉くん!」
「奇遇だね、四葉くん!」
「四葉くん!」
「四葉くん!」
「え、え、ちょ、ま」
◇ ◇ ◇
「ねっ、深雪、どうかな?おかしくない?似合ってる?」
「大丈夫よほのか、とても似合ってるわ」
「おはよう」
董夜が教室に入る。普段なら周りから挨拶が返ってくる筈なのだが、今日はおぉー、とどよめきが広がった。
「お、ほのか、その髪飾り似合ってるね」
「えへへ、達也さんに貰ったんです」
「へぇ、良かったな」
嬉しそうなほのかと、いつも通りの董夜。しかし、そんな董夜に冷ややかな、冷ややか過ぎる視線を送る者がいた。
「董夜さん、それは?」
「ん、あぁ、通学路でもらったんだよ、全部この学校の人」
深雪の視線の先にあるのは、董夜が両手に持っている二つの紙袋に入った、既に満杯のチョコレートと思わしきもの。
「取り敢えず、真由美さんのところに行ってくる」
「そんなっ!?ご自分から(チョコレートを)貰いにいくんですか!?」
「え、うん(追加の紙袋を)貰いにいくけど」
「そ、そんなっ」
深雪に訝しげな視線を送り、董夜が教室から出ていく。そんな遠のいて行く董夜の背中に手を伸ばし、崩れ落ちる深雪。
先程まで嬉しそうな表情全開だったほのかも、深雪を慰める事に従事し、周りからは昼ドラだ、という声が漏れていた。
◇ ◇ ◇
女子の制服は男子の制服に比べて着替えるのに手間がかかる。
短い休み時間、体育前の更衣室はA組の女子で賑わっていた。
「誰にチョコをあげるのかって………。悪気は無いのは分かるけど、少し煩わしくなっちゃって」
「みんな気になるのよ。リーナは可愛いから、それで誰にあげるの?」
「ミユキもじゃない………取り敢えずタツヤとトウヤにだけよ」
はぁ、と息を吐きながら着替えるリーナ。そこでふと、深雪が下着姿のまま固まり、体操着を落としてしまっているのに気づいた。
「あぁもう、何やってるのよ」
「…………ナ」
リーナが屈んで深雪の体操着を拾う。そして深雪を見上げた時、今度はリーナが固まった。
「まさかとは思うけれど、そんなことはないと思うけれど………リーナ」
「な………な」
殺気すら篭っている極寒の視線がリーナを見下ろしていたのだ。『なによ』と言おうとしたリーナだが、上手く呂律が回っていない。
「董夜さんにあげるチョコ、義理よね?」
「も、勿論じゃない!本命なんてあげる筈にゃいでしょ!」
慌てて立ち上がるリーナだが、そこで更衣室に自分たちの他に誰もいない事に気づいた。
「(に、逃げやがったわね!)」
「そう!そうよね!良かったわ!リーナとは友達でいたかったもの!」
「え、ええ」
「さ、早く着替えて仕舞いましょう」
間違ってもトウヤの事を好きにならなくて良かった、と心の底から思うリーナだった。
◇ ◇ ◇
「あの、董夜さん」
「ん?」
昼休み。董夜が達也たちと合流するために教室を出ると、後ろから深雪が呼び止めた。
「あの、放課後に少しお話がしたいのですが、お時間はありますか?」
「放課後?」
放課後は四時に屋上で真由美と会う予定の董夜は少し考え、とある案が浮かんで来た。『どうせ同じ時間なら、一緒にしちゃってもいいんじゃないか』と。
「いいよ、それじゃあ四時に屋上で」
「はい!ありがとうございます」
修羅場の原因となっているのは毎回深雪と真由美だが、それを引き合わせるのは董夜なのだ。
◇ ◇ ◇
「タ、タツヤッ!」
「ん、リーナ」
放課後、学校中が甘酸っぱい雰囲気に包まれる中。風紀委員の巡回を押し付けられた達也もまた、見た目は甘酸っぱい時間を過ごしていた。
「こ、これ、一応あげるわ」
「あ、あぁ」
リーナが後ろ手に隠していたチョコレートを取り出す。達也は一瞬不意を突かれ、チョコを受け取った。
「そっ、それじゃあ!」
「あぁ」
達也の口から明確な言葉が出てこない。走り去っていくリーナの後ろ姿に、達也の心の中で体験したことのない
「リーナッ!」
リーナが校舎の陰に隠れる直前、達也は自身が思ったよりも大きな声でリーナを呼び止めた。
「ありがとう」
「〜〜〜〜!!」
達也の言葉に、リーナは顔を真っ赤にさせて、先程よりも速く走り去って行った。
『董夜さんに会うと、胸がドキドキするんです』
『何だか、顔を正面から見れないというか』
『そんなことを感じると、あぁ好きだなーって思います」
思い出されるのは、数年前。司波家と董夜が沖縄旅行に行き、帰って来た後の深雪の言葉。
その言葉が今更達也の頭の中に響く。
「俺は、リーナが」
「好きなのか?」
◇ ◇ ◇
「ふうー」
第一高校には屋上に続く階段が二つある。そのうちの一つ、目の前の扉を開ければ屋上、という所で深雪が大きく深呼吸をしていた。
その手には大事そうにチョコレートを包んだ、可愛らしい包みがあった。
「この扉を開ければ董夜さんがいる」
『やぁ深雪。お前を、お前だけを待っていたよ』
『好きだ』
『俺の人生に、付いて来てくれるか?』
「キャーーー!!」
顔を真っ赤にさせ、しゃがみこんで悶えている深雪。そして気持ちが落ち着いたのか、決心のついた目をして大きく息を吐き、ドアノブへと手をかけた。
「董夜さん!お待たせしました!」
「董夜くん!待たせちゃったかしら!」
運命の神様がいるとしたら、さぞ残酷な性格をしていることだろう。
深雪と同じタイミングで、深雪とは逆の扉から真由美が出て来たのだ。
「あぁ二人とも、大して待ってないから大丈夫だよ」
爽やかな笑みを浮かべて振り返る董夜。しかし、真由美と深雪は困惑を極めていた。
「あの、董夜さん。これは?」
「え、二人とも放課後に用があるみたいだったから、どうせなら一緒にしちゃおうと」
崩れ落ちる深雪と真由美に、今度は董夜が困惑する。
「はぁ、もういいです」
「そうね、董夜くんはこんな人だったわね」
「?」
真由美と深雪が苦笑いを浮かべながら立ち上がり、二人同時にチョコレートを差し出した。
「はい、董夜くん」
「どうぞ、董夜さん」
「「
「あぁ、なるほど。ありがとう」
二人からチョコレートを受け取り、嬉しそうに笑う董夜に。真由美と深雪からも自然と笑みがこぼれた。
しかし。
「董夜お兄様!チョコを届けに来ました!」
「董夜兄ぃの言われた通りにしたら、校門通してもらえたよ!」
「い、泉美ちゃん!?香澄ちゃん!?」
「と、董夜さんんん!!」
どうやら一緒にされたのは、深雪と真由美だけではなかったようだ。
深雪と真由美を修羅場にし過ぎると、チョコを渡しづらくなっちゃうんですよ!!
ということです、思ったよりヘビーじゃなくなって、ライトな感じになりました。
亜夜子と泉美のキャラが被ってる気がする。