青春とは、嘘であり悪である。
青春を謳歌せし者たちは常に自己と周囲を欺き、自らを取り巻く環境の全てを肯定的に捉える。自らの取り巻く環境の全てを肯定的に捉えるのならば、彼らの目に映る世界は、きっと薔薇色なのだろう。彼らの青春フィルターを通して、見た世界はそれはもう、素晴らしいのだろう。そんな青春フィルターを通して見た世界に、俺いう存在は映らないはずだ。映っては、ならないはずだ。
俺の青春は初っ端から失敗だったのだと思う。致命的にも程がある失敗を、俺は犯している。もう、取り返しがつかないような失敗を、俺は犯したのだ。
きっと、俺は産まれる時点で何かを落としているのだろう。落としてしまったものがなんなのか、名前をつけることが出来なければ、形を思い描くことも出来ない。この世に誕生する瞬間から犯した失敗は、当然ながら、他者の失敗とはかけ離れており、青春の証にはならない。
他者の失敗は、人生のスパイスになる。それが中高校生ならば、青春の思い出とされるだろうし、大人ならば、淡い日の思い出とされるはずだ。例を挙げよう。
グダグダと捻くれた論理を持ち出して、何かがあればその論理を剣に、或いは盾にして気付けば周りの人間を変えていく。しかし、間違い続けているのだとのたまい、それでも少しはいいのかもしれないと感じて結論付けては「俺の青春ラブコメは間違っている」と言う。
自分を自意識の化物だと捉え、少しづつ変わっていくのだと考えながらも、絶対に変わらないと決意して。それでも生じる変化を慣れていないだけの違和感である、と言う。
"彼"は、孤独の二文字の前ならばどんな最低な解決策も物事の最適解も考え出してみせる。彼にかかればどんな嘘も秘密も、欺瞞も偽物さえも青春の不要物でしかないのだ。
そして彼はそれらの悪に、欺瞞に不当性を見出す。全ての者の停滞は意味無く完全な不要物であるが、形を具体的に示すことの出来ない本物だけは大切にして失くしてはならないと断じるのだ。
仮に本物を求めることが青春の意義であるのなら、欺瞞に甘んじている人間が、青春のど真ん中にいるのはおかしいではないか。しかし、多くはそれを認めないだろう。
なんのことはない。すべて作者の独断と偏見でしかない。なら、多くが欺瞞とは限らないだろう。嘘も欺瞞も詐術も糾弾されるべきものだが、実際の青春が欺瞞に満ちているかは分からない。
だが、確実に彼は正義だ。
比企谷八幡先生、彼こそが建設的で薔薇色な青春の中で正しく真の正義である。
――――結論を言おう。
俺は八幡スタイルの継承者である。
もしかしたら日記っぽくポエムっぽく少しずつ書いていくかもです。