俺、ヤンデレ神に殺されたようです⁉︎   作:鉛筆もどき

45 / 83
前回 理子とアリアを助けに紅鳴館へ。


第43話 とんでもないものを盗まれて

時間超過・遅延(タイムバースト・ディレイ)! 」

 

 自然に口から出たその言葉は、迫りくる死の刃をみるみるうちに遠ざけた。いや、死の刃は首スレスレの場所にあるが、圧倒的に速度が遅いのだ。止まっていると錯覚させられるほど遅すぎる。

 

 雨粒は宙に浮く水滴となり、耳を叩く轟音は遮断されていた。不気味なほど静かでゆっくりとした空間の中で、唯一普段と変わらぬ速度で活動できるのは──俺だけになっている。もっとも、瑠瑠神に犯されていない左半身だけしか動かないわけだが。

 

「これが・・・・・瑠瑠神の力? 」

 

『そう、私は朝陽のことをずっと前から思って思って、想い続けて・・・・・この力を手に入れた。永遠に朝陽と一緒に暮らしたいって強く願ってね。あのロリビッチに邪魔されそうだけど、この力があれば大好きな貴方とずっと一緒に暮らせるんだよ』

 

 突然聞こえてきた瑠瑠神の声で、思考の端に瑠瑠神の世界に閉じ込められた時の記憶が甦ってくる。腕を斬られ、足を切断され、俺にとってはトラウマなことだ。次に浮かんでくる映像は、手錠や睡眠薬。そして縛り付けられている──俺の姿。だがこんなことをされた覚えはない。瑠瑠神の妄想だ。

 

『さあ、そのコウモリ女を早く殺して私の世界に来て・・・・・あなたが居なくて孤独な私を、助けて』

 

「俺はお前の世界なんか行かない。俺が助けるのは理子だけだ。だからこの拘束をとけ! 」

 

 右半身の自由を取り戻した瞬間、首との距離がゼロに近かったハルバードの冷たい感触が伝わってきた。時間の流れも次第に元に戻り始め───

 

「くっ! 」

 

 体を反らしてハルバードをやり過ごす。直後、風切り音が目の前を通過した。ヒルダは鮮緑に染まった瞳を驚愕の色に変える。あの速度で振るわれるハルバードすら避けられたのか、と。

 雨に濡れた地面に手をつき、バク転をしながらヒルダの顔にサマーソルトキックをお見舞いする。軽い打撃が足に伝わり、着地した時にヒルダはフラフラしながらハルバードを杖がわり地面に突き立てた。

 

「おのれ! 」

 

 ヒルダは超スピードで俺に肉薄。ハルバードを天高く上げ、一刀両断すべく頭に振り下ろした。

 このままの状態で盾で受けようとすれば斧の部分が直撃して腕どころか肩まで持っていかれる。それだけは避けねばなるまいと判断し、両腕をクロスさせ以前より硬度が増した盾でバックステップしながら受けた。

 

 刺先が表面を削り、凄まじく甲高い音が響き渡る。

 身の丈を超えるハルバード、外せば決定的な隙ができるはずだが───ヒルダは右足でグッと踏み込むとそのまま斧刃とは反対側の鉤爪で斜めに左盾に斬り込んできた。

 ギャリギャリッ! と不快な音が鳴りつつも完全に防いだはずだが、

 

「甘いわね」

 

 その一言と同時にハルバードで左盾が宙に舞いあげられた。

 

「なっ!? 」

 

「ふふ、私のハルバードは特注品。その盾如き傷つけられないとでも? 」

 

 ボトリと側に落ちた左盾の表面を見ると一部だけ内側に抉れている傷跡がある。形状から察するに、ハルバードの鉤爪を盾に食い込ませて盗ったということか。

 俺は冷や汗を垂らしつつ再び雪月花を抜く。

 

「そんなもので私を傷つけられるとでも思ってるの? 」

 

「やってみなきゃ分かんねえだろ」

 

 右盾の取っ手から雪月花の柄へと手を握り直し、ヒルダへと距離をつめる。キンジも背後から肉薄するが、

 

「やらなくてもわかるわよ」

 

 ハルバードを右手に、深紅の三叉槍を左手に。

 どちらも見た目は重そうだが扱い方から重量感を感じさせていない。子どもが遊ぶオモチャのように扱っている。

 キンジはどこからか刀のようなものを取り出しヒルダに斬りかかるが───

 

「だって、あなた達は遅いもの」

 

 キンジの、鋭く重い一撃。だがヒルダはいとも簡単に三叉槍で弾き返した。しかも俺を終始睨みながらだ。

 怯まずキンジは斬り続けるがどれも簡単に弾かれる。まるで三叉槍が意思を持っているように正確に。

 呆れ顔のヒルダは右手のハルバードを天高くに投げると、

 

「茶番は終わりよ」

 

 キンジとの間合いを一気につめ、みぞおちに拳がめり込ませた。決して軽くはないハルバードをオモチャのように扱うヒルダから放たれる打撃は9mm弾の比ではない。いくら防弾制服を着てるとはいえダメージは体に浸透する。キンジも例外ではなく体をくの字に折り曲げた。

 

 だが、俺がその攻防の間につめた間合い。雪月花を振るえば届く範囲にヒルダが入る。魔臓は両足の太ももとヘソの位置・・・・・あと一つはその三つを貫けば最後の一つを無意識に守ろうとする。そこが───

 

「そこが狙い目、なんて思ってるのかしら」

 

 雨音に消え入りそうな声。しかしそれはしっかりと聞こえた。

 次の瞬間、ヒルダはキンジの襟元を掴み、力任せに俺に向けてぶん投げてきた。凄まじい腕力で投げられたキンジは俺に当たり巻き込まれる形で俺も数メートルほどヒルダから遠ざけられ、地面にひれ伏してしまった。

 夜空から降りしきる雨の粒が満遍なく俺とキンジを濡らし、地面の濡れた土がじんわりと背中の傷に染み込む。

 

「そろそろ死になさい」

 

 ヒルダは空高く飛び上がると三叉槍を右手に持ち替えてルーマニア語と思われる言語でブツブツと詠唱し始めた。

 ──詠唱と分かったのは、右手に握る三叉槍が禍々しい『赤』の光を解き放っているからだ。心臓が鼓動するか如くその槍も共鳴する。鼓動は徐々に大きく、槍の穂先から石突きと呼ばれる持ち手の先まで・・・・・少し前に溜めていた俺の血を纏っていく。その異様な光景に体勢を立て直すことも忘れていて───

 

血ヲ啜ル三叉槍(ブラッディ・トライデント)

 

 ヒルダは三叉槍を強く握り大きく振りかぶった。向けられる瞳は死神であり、穂先は死神の鎌。目の前の『死』が這い寄る姿に・・・・・やっと手足が動く。

 

「まずいッ! 」

 

 冷や汗が滝のように溢れる。必死の思いで立ち上がると共に、ヒルダはニヤッと口の端を歪めた。走り出したタイミングと槍が投げられたタイミングはほぼ同じ。迫り来る槍の矛先は───俺だ。

 だが見切れる速度、防げないことは無い!

 

「うおおおッッ! 」

 

 土に足を滑らせてながら槍と向き合い、斜め上から投擲された槍を盾の上に滑らせる。バチバチと表面を抉り、不快な金属音を辺りに撒き散らしながら───通過していった。

 

「危ねえ・・・・・」

 

 ヒルダにとっても何らかの必殺の技であったはず。それを外したのにヒルダは邪悪な笑みを絶やしていない。

 ───まだ切り札は終わっていないってことか!?

 

「後ろだッ! 」

 

 キンジの怒声よりも速く回避行動に移った。土を蹴ってその場から数センチでも多く離れるために。

 だがそれは遅すぎる判断であり───

 

「うぐ! 」

 

 左脇腹を削り取る軌道で槍が突き抜けていた。

 服を断ち、肉が削がれる。大量の血が飛び散り体から力が抜けていく。だがそれでも地面にひれ伏すことなく、気力でなんとかその場に立ち留まった。

 槍は左脇腹の側面を通過したあと、ヒルダの手元へ戻っていく。

 

「お前にしては上出来じゃない? 私はあなたが腹部を貫かれる姿を想像して見てみたかったケド──まあいいわ」

 

 こみ上げる嘔吐感。直前に避けたから脇腹を削られるだけで済んだが、それでもダメージは大きい。

 

「対象となった者を傷つけるまで永遠と追尾する必中の槍 。侮ったわね、朝陽」

 

 斜め上からの投擲。しかも筋力が上がってるヒルダから投げられたのに見切れたのは・・・・・油断させるためか。追尾する槍なんて聞いたことないから絶対に当たると確信してのあの笑みだったんだろう。

 吸血に加えて筋力に武器に超能力、一体どれだけチート能力を持てば気が済むんだよ。

 

 それにしても───かなり削られたな。痛みを通り越してもはや熱いぞ。刺されなかった分マシだが、肉が丸見えで応急処置しないと死ぬかもしれないな。

 

「私、槍での近接戦闘は苦手なの。だからこっちでイクわね」

 

 ハルバードを手元で器用に回転させると───距離が充分空いていたにも関わらず、一瞬にして間合いを詰めてきた。

 左肩から侵入する進路の剣戟 。それを雪月花で受け流して、隙ができたヒルダの左側面へと刃を向ける。四つ目の魔臓がどこにあるか・・・・・知るためには斬り続けるしかない。

 ────しかし、

 

「がはっ! 」

 

 雪月花の刃が届く前に、豪速で通過したはずのハルバードが俺の右腹に打ち付けてきた。斬るのではなく一瞬だけ動きを止めることが目的である打撃。

 ヒルダは一歩だけ下がると、刺先で刺突を繰り出してきた。重量感を全く感じさせない動きだ。

 

 だが、風を切り裂き俺の体を蹂躙するはずのハルバードがほんの少しだけ横に逸れる。

 ───キンジの援護にはホントに助かるな。

 その好機を逃さず、斧刃の部分に盾を走らせながら懐に飛び込む。それでもヒルダは無駄だと言わんばかりに踏み込んだ右足を軸足に変え、優雅に一回転をした。

 

「邪魔よ」

 

 ・・・・・ただの蹴り──いや、足を俺の腹部に引っ掛けて吹き飛ばしただけ。だがそれは、60kg以上はある人体を真横に吹き飛ばすほど。眼球が飛び出しそうな速度で、景色が次々と流れていく。ただ蹴られただけで───こんな威力があるのかッ。

 

 ───ドゴッ!

 館の壁に受け身もとれず叩きつけられ、視界がグニャりと歪む。抑えきれない吐き気が、またぶり返してきた。

 

「うっ・・・・・ごほッ! 」

 

 後頭部も強く打ったらしい。手足の末端部分に力が入らず視界は夜よりも暗い。過呼吸気味にもなり全身が悲鳴をあげていた。

 

「殺った」

 

 鮮緑の瞳と目が合う。いつの間にか目の前に来ていたヒルダは横一線にハルバードを振るい・・・・・ギン!

 一線は綺麗な弧を描く中、行先を一振りの刀が滑り込んだ。僅かに反った刃がハルバードの重い斬撃を受け止めている。

 

「回復、何秒だッ」

 

「・・・・・十秒で充分」

 

 一目で名剣と分かる輝きがその刀には見覚えがある。強襲科の副読本で見た、スクラマ・サクス。若干細いが直刀に近い形状のそれは、古代ヨーロッパで造られた強靭な片刃剣だ。

 また、キンジに助けられちまったな。

 

「ゴキブリの分際で、どきなさい! 」

 

「ゴキブリは諦めが悪いのが特徴だからな、どくわけにはいかないんだよ」

 

 俺に刃が当たらないように弾き、受け流し、捌く。見事な鍔迫り合いが目の前で展開されていた。

 ヒルダの持つハルバードは斧刃もデカイが、柄も長い。柄が長いということは、狭い場所での接近戦が得意ではないということ。それにキンジの後ろが壁という事もあり、柄で吹き飛ばすこともできないはずだ。

 ────あと七秒。

 

「お前はワインにしようかしら! 」

 

「ワインになったらアリアに会えないだろうがッ! 」

 

 口調は荒々しいが、刀捌きは繊細かつ正確。人をいとも簡単に吹き飛ばすヒルダでさえ攻めあぐねている。

 ゴシック&ロリータの服装は、可憐な姿を過去に置いてきたのか、今はただのボロきれの布だ。胸の下も破けていて──

 

(魔臓・・・・・か? )

 

 血に濡れた素肌が丸見えのそこには、他の魔臓のある位置に必ず描かれている幾何学的な模様が浮かび上がっていた。

 ───残り三秒。

 

「鬱陶しいわね、女に嫌われるわよ」

 

「アリアに好かれれば充分だ」

 

 ハルバードの激しくなる攻撃の合間にヒルダの苛立ちが残滓として見える。単調になりつつある刃をキンジは完全に見切っていた。そして、

 

「十秒! 」

 

 伝えた時間きっちりにヒルダのハルバードを大きく弾いた。微かにヒルダの足は宙に浮き、今度こそ重量に引っ張られる形となる。

 

「サンキューだキンジ! 」

 

 脇腹の痛みに足を震わせながらも床を蹴るように立ち上がり、キンジのわきを通ってヒルダに近づく。右腕の盾を自らの顔の前に持っていきながら。

 

閃光(フラッシュ)! 」

 

 取っ手のスイッチを押す。ギィィ、という不気味な作動音と同時に繰り出されるは───第二の太陽が出現したのかと錯覚させる光量を放つ、盾の中に仕込まれた一度限りのフラッシュ機構。

 

「うわ・・・・・! 」

 

 目の前でもろに食らったヒルダは、左手で目を覆いつつバックステップで大きく距離をとった。追撃を恐れてかハルバードを縦横無尽に振り回している。

 

 今はヒルダが俺達の位置を特定できていないせっかくのチャンスだが、接近戦でアレに当たれば命はほぼ確実になくなるだろう。かと言って暴れ回るヒルダの弱点である魔臓の位置を狙い撃つことも不可能ではないが、外れる可能性が高い。がむしゃらに撃っていても、弾と時間の無駄になる。

 ならば、することは一つ。

 

「キンジ、アリアたちを探しに行こう。このままじゃジリ貧になる」

 

「そうだな───腹の傷はどうだ」

 

「かなり抉られて痛みを通り越したな・・・・・出血が酷い。止血は何とかできたらするから早く、行こう」

 

 重い右盾を玄関に置いて、紅鳴館内へと入る。

 ホラーゲームに出てきそうな雰囲気を醸し出す館内は、前に来た時と変わっていない。小さな点を上げるとすれば蜘蛛の巣が増えてるくらいだ。

 

 屋敷の奥まで続くレッドカーペットの上を歩きながら目的地へと急ぐ。全身が傷だらけで痛みを感じない場所はない。それに加えて脇腹を抉られるという重症・・・・・これじゃ動きも鈍るし足でまといかもな。

 

「キンジ、お前一人でアリアを探してくれ」

 

「・・・・・理由を聞かせてくれないか? 」

 

「なぁに、多分キンジも思い当たってるだろ。俺に合わせてゆっくり歩いてちゃアリアも見つからん。館内で戦闘になった時に足でまといになるしな。だからアリアを見つけたあと、ヒルダが仕掛けてきたら出来るだけ時間を稼いでくれ」

 

「その間に理子を見つけられるか? 」

 

「善処するさ」

 

 少し思案したあと、拳を俺の肩に軽く当てて館内の奥へ走り出した。背中は遠く見えなくなり───俺は二階へと足を運ぶ。絶え間なく血はドクドクと流れ続け、レッドカーペットに同色のシミを作っていく。

 階段の一段登るのも辛いのに、この先ヒルダを倒せるのか? ・・・・・って弱音を吐くな。勝てないと思ったら勝てないぞ。

 

「風穴ぁ! 」

 

 どこからかアリアの大声が聞こえた。いつも通りのアリアでホッとしたが・・・・・外から絶え間なく聞こえてくる破壊音に焦る気持ちも湧いてくる。

 至近距離からフラッシュを直視させたからまだ時間を稼げているが──時折聞こえてくる、土砂崩れのような音。これは屋敷が、未だ目が見えていないヒルダのデタラメな攻撃を受けて悲鳴をあげている声だ。もはや一撃一撃が必殺となって猛威を奮っている。

 

 その音に急かされながら二階に着く。

 二階は大きな吹き抜けとホテルのように使用人が住む部屋が廊下を挟んで細かく設置されていた。中には遊技場となっている部屋もあるが、こんな所に理子は居ない。

 理子はヒルダから紅鳴館の主を任せて良いと言われていた。だから使用人の部屋には間違いなくいない。もっとふさわしい場所があるはずだ。

 

 右手で左脇腹を押さえながら、長い廊下を歩く。

 衛生科の授業で、もしもの時に蜘蛛の巣は止血に役立つって習ったけど・・・・・止血できるほど蜘蛛の巣は張ってない。一年掃除をしなければ止血できる量の蜘蛛の巣くらい集められるんだが───自分で掃除しちまったからな。運にも見放されたものだ。

 

 自傷気味の含み笑いが廊下に響く。

 廊下の奥に着いて角を曲がると、使用人たちの部屋に続く扉はなく、代わりに同じサイズだが装飾が施されている()()()()という扉がポツンと廊下の中央の壁に設置されていた。

 

(────あそこに理子がいる)

 

 直感でそう伝えてきた。

 震える足にムチを打って歩く。

 思い出される楽しかった日々を終わらせないために。

 思い出される楽しかった日々を取り戻すために。

 

 無我夢中でその扉まで歩き血に濡れた手で扉を開ける。鍵はかかっておらず、ギギギと軋む音をその場に残しながらゆっくりと開いていく。

 廊下に滑り込んできた光景は───中世の部屋と思わせる間取りだった。

 

 一人で寝るには少しだけ大きいベッド。そばには大きなアナログ時計が鎮座している。部屋の隅にはタンスがあり、見た限り一つしかない窓からは外の冷たい風が入り込んでいた。

 

「なん・・・・・でよ」

 

 探し求めていた人は、綺麗な金髪を風になびかせながら部屋の中央に立っていた。

 美しさは相変わらず、見ただけで血とは異なる暖かい何かが胸に降りてくる。

 

「・・・・・さっきぶりだな」

 

 全身を襲う痛みを我慢して出来るだけの笑顔を向ける。だが理子は反対に俺の姿に絶句していた。

 それもそうだろう───全身血だらけで、傷だらけで、生きているのが精一杯と思わせる満身創痍の体の主が笑顔でいるのだ。しかも右目は鮮緑で染まっているから半分でも瑠瑠神に精神を犯されていることは一目で察しがつく。

 

「助けにきたよ。理子」

 

 窓から侵入する風が全身の傷口を苛めるのも構わずゆっくり近づく。だが理子は、拳銃──ワルサーP99を向けてきた。

 

「来ないで」

 

 か細く消え入りそうな声。拒絶されて胸に冷たい何かが突き刺さる。

 氷よりも冷たくて、氷棘(ジャベリン)よりも鋭い何かが。

 

「行かないわけないだろ」

 

 一歩ずつ足を踏み出す。撃たれることは承知の上で。

 

「来ないでよ・・・・・」

 

 ワルサーを持つ手は小刻みに震えている。

 それでも手元が狂って頭に当たっても構わないと、行動で示しながら歩み寄っていく。

 

「来ないでっ! 」

 

 パン! とワルサーが一発の火を吹いた。弾丸は頬を掠めて背後の壁に着弾。生暖かい血がポタリと垂れて床を濡らす。

 

「どっか行って! 」

 

 言葉の棘は鋭さを増す。棘はトリガーに込める指の力となり、弾丸となって次々と毒牙にかけようと迫る。だがそれらは服や肌を掠めるばかり。歩み寄ることに支障をきたすことは無い。

 直撃させないのは理子に残された俺に対する最後の良心かもしれないな。

 

「~~~ッ! 」

 

 ───放たれた最後の一発は、新幹線ジャックでココに傷つけられた左目横の傷を上書きしながら抜けていった。これで確実に消えない傷になったが、理子だったらそれでもいい。傷つけるより傷つけられた方がずっと気が楽だ。

 

「帰ってまたゲームでも───」

 

「うるさいッ!! 」

 

 理子は防弾制服の開いた胸元から小型拳銃(デリンジャー)を抜き、躊躇わず引き金を引いた。

 

「ぐっ! 」

 

 弾丸は腹の中央に着弾し───木造の床に片膝をつく。こみ上げる嘔吐感に耐えきれず、赤黒い何かが床に勢いよく零れ落ちる。

 目を凝らして見れば、それが血反吐だと分かるのに時間はかからなかった。

 

「ごほっ、ごほっ! ・・・・・まさか血反吐を吐くなんて思いもしなかったな」

 

「───分かったでしょ。これでもう、終わりなの。今のキョー君だったら理子でも殺れる。嫌なら今すぐこの部屋から出てって」

 

「理子に殺される・・・・・か。それはだいぶ困るな」

 

「困るでしょ。ほら、早くしてよ」

 

 血で濡れた口元を拭って、また立ち上がる。また一歩、理子に近づきながら。

 醜い怪物でも見たかのような顔をした理子は、その場から一歩後ずさった。

 ははっ、しつこい男は嫌われるかもな。

 

「な、なんでっ! なんで来るんだよ! 」

 

 敵意むき出しの険しい顔をした理子が、今度は間近に迫る。

 そして流れるような金髪がメデューサの如く意思を持ち、隠し持っていたナイフを首元に突きつけてきた。

 首元のロザリオが光っているから璃璃色金の力だろう。

 

「俺はまだ目的を果たしてないから帰ろうにも帰れないんだよ」

 

「目的って───ヒルダを倒すことでしょ」

 

「違う。理子を連れ戻すってことだ」

 

 ナイフが突きつけられているのを承知の上で踏み出す。鋭い切先が喉を刺激し銀色の刃に一滴の『赤』が伝っていく。構わずに俺は一歩踏み出すと、呼応して理子もまた一歩後ずさった。

 

「無駄だよ。理子はもうヒルダの友達になった。つまりキョー君と理子は、極東戦線でも師団と眷属で敵同士。そんな理子を連れ戻すなんて・・・・・馬鹿げてる」

 

「敵同士か。ならチャンスじゃないのか? 今俺は盾すら持ってないし、理子が首元のナイフをほんの数センチ押し込めば俺は死ぬ。得体の知れない能力を持った俺は眷属にとって邪魔な存在のはず。今がその邪魔者を殺すチャンスだぞ」

 

 さらにまた一歩踏み出す。『赤』が銀色の刃を伝う量が多くなるが、理子はそれを許さず急いで後ずさった。負けじと俺も歩み寄るが、一定の距離を保ったまま離れもせずくっつきもしない。ただ間にあるナイフ一本が壁として大きく立ち塞がっていた。

 理子は下唇を噛んで、はちきれんばかりの感情を必死に堪えている。

 

「そんな下がってばかりじゃ殺せない」

 

「・・・・・っ」

 

 ついに理子の背中が壁に当たり、後ろに下がるという選択肢は無くなった。理子に残された選択肢は二つ──俺を殺すか、ナイフを下げるか。

 理子はナイフを持つ髪に力を入れて───それから先に進むことはなかった。殺すか殺さないかの葛藤の中にいる。

 

「くっ・・・・・」

 

 首のナイフは皮膚をかき分け僅かに肉へ到達する。

 切先から理子の震えが僅かに伝わり、傷口が痛みと共に広がっていく。

 痛い。異物に感覚が集まり、それを遠ざけるために足は無意識に後ずさろうとするが───それではダメだ。これしきのことで下がったら、理子は取り戻せない。

 

 それから何秒か何分か。どれくらい時間が経ったのか分からなくなった時、

 

「・・・・・ずるい。ずるいよキョー君は。理子がキョー君を殺せるはずないって知ってるのに」

 

 切先が赤く染まったナイフは金髪の間をスルリと抜けると、音を立てて床に落ちた。髪も力なく重力に従い、理子にしなだれる。

 虚無感。理子を覆っているオーラは、ただ運命(絶望)にひれ伏したようだった。抗えない絶望に打ちひしがれてる少女──そう見える。

 

「理子だってこんな事したくなかった。でもこうするしか他に方法はなかったの。理子がヒルダの仲間にならなきゃ、キョー君の首についてたチョーカーを破壊して殺すって・・・・・」

 

「そうか。ならもういいだろ、チョーカーはもう破壊されて毒は今も体をまわってる。理子がそんな拒絶することは何も───」

 

「キョー君を拒絶してるのは・・・・・理子がもうキョー君と居る資格がないから」

 

 ・・・・・わけがわからない。

 理子の口から出た突拍子もないことに唖然としてしまう。

 

「───資格? 」

 

「そう。もう理子はキョー君に触れることもできない」

 

 資格。そんなくだらないもの、俺と居るのに必要ない。ただ理子はそれを首を振って否定。そして理子は壁にもたれかかって再び俯いた。金色の髪が顔を覆い隠して表情が汲み取れない。だが、拳を強く握りしめているのは分かる。それは悔しさからなのか、それとも憎らしさからか。

 

()()()()()、理子はキョー君に聞いたよね。『信じてる? 』って。キョー君は信じてるし、これからもずっと信じるって答えた」

 

 あの日の夜──ヒルダに理子を攫われる前夜。泣きながら俺にすがってきたのはしっかり覚えてる。本当に苦しそうに泣いていたから。

 俺が覚えてると言うと、理子は乾いた笑いを声にのせて、

 

「理子はその時のキョー君の気持ちを踏みにじった。信じてくれてるのを良い事に──裏切ったんだよ」

 

 まるで自分に言い聞かせるように、裏切ったという部分を強調した。腑抜けな自分を嘲笑うかのように次々と言葉は口から溢れ出していく。

 

「約束までしたのにね。キョー君との今までの思い出に泥を塗って、挙句に地の底まで叩き落とすマネをしたんだ。・・・・・でもこうなるって実は分かってたのかもしれない。ブラドが捕まったら、ヒルダは理子との結びは無くなる。そのまま行方をくらましたら、何か理由があって困るかもしれない。だから絶対にヒルダは理子の前に現れるってね。だから理子はその時のためにキョー君を騙してたの」

 

「それは、騙してたのはずっと前からなのか? 」

 

「───たぶんね。キョー君とずっと居れば理子に対する信頼感っていうのも上がるでしょ? 無意識のうちにもしもの時の盾を作ってたのかもしれない・・・・・きっとそうだよ。そうに違いない。理子を守れる強さがあれば最後まで頼って、なければ切り捨てる。大層なご身分だよ」

 

 外の雨がより一層強くなり理子の気持ちに拍車をかけ始めた。

 

「今まで一緒に居て浮かんできた感情も偽りだったのかな・・・・・あの心の温もりも、妙にドキドキする時も、あのモヤモヤした感情さえも全部。自分は悪くない、ただ利用してるだけって割り切って。キョー君だけじゃなく自分自身すら偽って! 」

 

 嘘の笑顔。嘘の仕草。理子が全てを否定したとしても───今までやってきたこと全てが嘘偽りだとは思えない。

 胸の前に持ってきたキツく締められた拳は、自分自身を必死に押さえつけているように見える。

 今にも飛び出しそうな何かを絶対に漏らすまいと。

 

「そんなわけないだろ。お前だって心の底から楽しそうにしてたじゃないか」

 

「楽しそうって見えた? 笑った時の顔も怒った時も涙を流した時も、全部この日のための演技──だったのかな」

 

 深く、心に突き刺さる。

 たとえその嘘の演技というのが嘘だったとしても、ささくれのようにズキズキと心を蝕んでいく。ヒルダに受けた傷よりも痛い、理子の否定。

 

「最低だよね・・・・・そうやって裏切って傷つけて、そのくせ自分は何も傷を負ってない。吹雪に体力が持っていかれて何日かレキュの集落で泊めさせてもらったことがあるよね。キョー君は覚えてないだろうけど、その時に理子が言った言葉覚えてる? 」

 

「・・・・・覚えてるよ」

 

「支えきれなくなったら理子も一緒に支えるから。瑠瑠神に苦しめられて、どうしても辛い時は私も一緒にその苦しみを背負う、だよね」

 

 小屋で介抱してもらってる時に理子がくれたその言葉は、俺を安心させてくれた。一人寂しく悩んでた時にその言葉に助けられたんだ。一人じゃない、理子がいると。

 だが理子はその言葉すら偽りだと言わんばかりに小さく笑った。

 

「───ははっ、何が支えるだよ。何が背負うだよ。結局自分の命欲しさに逃げたじゃないか。・・・・・いや、逃げたんじゃなくて切り捨てただけ? ───なんだろうね。もう色々分かんなくなってきちゃったよ。何が本当なのか、何が嘘で演技だったのか・・・・・」

 

「・・・・・」

 

 何も、言えない。

 理子に対してどんな言葉をかければいいか・・・・・分からない。浮かんでは消え、浮かんでは沈んでいく。

 しかしその反対に心の中で湧き上がってくる一つの感情が交差した。

 

「こんなに自分勝手の都合で騙して殺しかけて・・・・・ホンットに私は()()()()()だ。最低すぎて笑えてきちゃうよ」

 

 ───最低の四世。その言葉でどれだけ自分を傷つけてるか考えなくても分かる。自分が大嫌いな言葉をわざと使って、そこまで追い詰められてる。

 

「最低な四世・・・・・くふっ、言ってみればいい響きだね。なんでブラドに欠陥品だの四世だのって言われて怒ってたんだろ。やっぱり図星だったからかなぁ。自分は優秀だ、絶対に欠陥品じゃないって思いたかったのかもね」

 

「違う。理子、お前は欠陥品なんかじゃない」

 

「欠陥品だよ。優秀な遺伝子を何一つ受け継がなかったただの『最低』だ。一人で何かを成し遂げるなんて不可能で、優秀な仲間を連れても最後は自分の不手際でダメにする。ハイジャックの時も、ブラドの時も、ココの時も。理子が警戒してれば防げたことなのにね───ただの足でまとい。それがこの半年間で痛感できたよ」

 

 そんなことはない、理子に俺は助けられてばかりだ。その言葉は、館内に響いた発砲音で遮られる。ヒルダが視力を回復させてもう入ってきたんだ。

 

「もうヒルダが来ちゃったね。どうせその傷じゃヒルダには勝てっこないよ。だけど今すぐこの窓から外に出ればヒルダから逃げられるしその傷も治せる。キー君とアリアは理子がヒルダに逃すよう説得する」

 

「そんなの、理子はどうするんだ」

 

「理子はずっとこの館で暮らしてく。ヒルダの眷族になっちゃったからね。もうキョー君と顔を合わせられないし・・・・・キョー君もこんな裏切り者と顔を合わせたくないだろうしね」

 

 このまま残るなら・・・・・ヒルダに逆らう気すら起きなくなって、ずっとこの館に縛り付けられて自由になれなくなる。自分は仲間を利用した最低なやつだと、今度こそ塞ぎ込んでしまう。

 そんなの昔の理子と変わらないんだ。小さい檻が館に変わったって、閉じ込められているのは変わらない。しかも昔の理子と違ってここに居ることを望んでいる。

 だけど───それは本当に理子が望むことじゃない。

 

「今まで色んな事を二人で出来て、紛い物だろうけど幸せって思えたよ。でも理子の幸せ(わがまま)のせいでキョー君の少ない幸せを盗り過ぎちゃったみたい」

 

 違う。

 

「だからもう・・・・・お別れしなきゃね。理子が側にいたらキョー君はずっと不幸だから。今日でその不幸も理子が居なくなって少しは減る。今までホントに、ありがとね。だけどもう・・・・・オシマイだよ」

 

 ───オシマイ。

 たった四文字が耳元で囁いてきた。

 それは紛い物で、演技で、空虚。傷ついて死にかけながら得た大切な感情さえ無駄だ。彼女のためと思い続け、傷ついて何度も死にかけながら迫り来る全ての敵をはねのけ見事に勝利した。だがお前の最後は、信じた彼女に裏切られ全てを否定されて何もかもを失い・・・・・気が狂う痛みと絶望に飲まれて溺死する。それがお前の人生だ、と。

 

 

 

 

 

 ───最高じゃないか。

 たとえ紛い物でも演技でも、一緒に過ごした過去は変わらない。理子のために消えない傷を背負って、彼女のため(おの)が盾となり掴み取った勝利さえ利用されたとしても。それが理子の幸せに繋がるのであれば喜んで盾となり利用されよう。

 ならば湧き出てきた感情は、きっと幸福感だ。

 

「・・・・・さようなら、なんて言うつもりか」

 

 絶対にさようならなんて言わせない。これで今生の別れなんて許さない。もう・・・・・失いたくない。

 

「そうだよ。だって理子がいたって邪魔にしかならない。不幸にするだけだから」

 

「理子はそう思うのか。俺は一緒においしいご飯を食べて、二人でアニメの話しながら登下校して、何でもない一日の理子と過ごした時間が何よりも楽しかった」

 

「・・・・・そんなちっぽけなこと、他の人とでもできるよ」

 

「理子じゃなきゃダメなんだ。理子がいなければ俺はずっと不幸だった。だけどいつ死んでもおかしくない日々の中で、理子といる時だけが最高に楽しかった。笑顔を向けてくれればその日はどんなに辛くても頑張れた。全部理子が変えてくれたんだよ」

 

 ずっと言いたかった事を今ここで全て打ち明ける。

 理子が居なかった数日間、俺の中でどれだけ理子という存在が大きかったか身に染みて分かったんだ。ここで諦めるわけにはいかない。

 

「でも理子と過ごした日々の思い出は全部が全部楽しいものだけじゃない。辛いことも、苦しいこともあった」

 

「だから・・・・・! 」

 

「だから忘れられないんだ」

 

 たとえ目を合わせてくれなくとも、まっすぐ見つめ続ける。

 

「楽しいことばかりじゃ全部覚えきれない。理子と過ごした時に辛いこと、苦しいことが沢山あった。だから俺は全部覚えてるんだ。それに理子とニセモノの恋人になって半年間、一人だけじゃ絶対に分からなかった感情を教えてくれた」

 

「ははっ、よく言うね。それに恋人か。恋人っていう最高な幸せをただ自分のトラウマから逃げるために利用して、隠れ蓑にした───目の前に居るのはそんな最低女だよ」

 

「利用されてたとしても俺は別に構わない。心を揺さぶる笑顔も何もかも全部演技だとしても、俺は幸せだった。それは絶対に変わらない」

 

 ・・・・・ギリッ。

 呆れと怒りが混ざった歯軋りが僅かに聞こえた。

 

「そうだとしても! 理子はキョー君の心を騙して殺しかけた! そんな裏切り者をなんで許すの!? 」

 

「───裏切りは女のアクセサリー」

 

「っ!? 」

 

 ビクリと肩が震えたのがハッキリわかった。予想にしない応えを返された戸惑いが伝わってくる。

 

「いつの日か・・・・・ああ、宣戦会議の日のデートだ。理子は言ってたよな。裏切りは女のアクセサリーだって。ただのアクセサリーを付けてるのにいちいち気にしてちゃ器が小さいって思われる」

 

「は!? なんでそんな戯言に騙されてんのさ! 」

 

「裏切られて理子という存在が遠くへ行ってしまった時・・・・・初めて大切さに気づいた。俺も見事に狂わされたよ。その前にも理子がいない間は殆どお前のこと考えてた。考えさせられてたっていう方が正しいか。それで久しぶりに会えたあの夜───正直、天使だと思ったよ」

 

「ほ、ほんとに何言って・・・・・」

 

 自分でもバカみたいに考えてたな。ずっと考えて、まるで理子のことが・・・・・ホントに好きになってるみたいに。好きかどうかはまだ分からない。でも俺の中じゃ理子は特別なんだ。一挙一動を目で追ってしまうほどに。

 

「演技だよ。今まで過ごしてた時間全てが無駄になるんだよ? キョー君はそれでも良いって言うの!? 」

 

「良いも何も、俺は理子と過ごした時間の全部が宝物だよ。無駄なんてことは無い。それともお前は無駄って思ってるのか? 」

 

「無駄、か。そう思ってるよ」

 

「なら思い出が形になってるものあるよな。赤白のミサンガだ」

 

 感覚が鈍い右手で、理子の右手首に未だ付けられているミサンガを指差す。まだまだ切れそうにないソレを見る度に心が温まる。なんだかんだ大事にしてくれてるんだなって、思わず頬が緩んだ。

 

「これが何? 」

 

「演技なら渡した時に見せてくれた笑顔も感謝の言葉も嘘になるんだよな」

 

「・・・・・そう、だけど」

 

「だったら───」

 

 理子の右腕を強引に掴んでミサンガを引きちぎろうとするが、

 

「やめっ! 」

 

 大きく腕を振り払われて、ミサンガから指が離れる。

 同時に理子はミサンガを守るように左手で包み込んだ。

 

「───そのミサンガ。別にいらないだろ」

 

 理子はコクッ、と息を呑んだ。

 流れる金髪の間から覗かせる見開かれた目からは、自分が今何をしたのか分からないと訴えている。

 なぜ俺の腕を振り払ったのかと。

 

「いらないなら付けてる必要はない。邪魔なだけだ」

 

「・・・・・確かに、そうかもね。こんなミサンガ」

 

 口の端を歪めながらミサンガに隠し持っていたらしいナイフを当てた。ミサンガは防刃ではなくただの刺繍糸で作られてる。本来ならナイフに抵抗できる筈もなく、いともたやすく切れてしまうだろう。

 

「あ、あれ? 」

 

 だがミサンガは、切れない。

 

「これ、ただの刺繍糸だよね・・・・・」

 

 震える左手でしきりに切ろうとするが、ミサンガは手首に巻きついて離れない。ただの糸がナイフに抗っていた。

 

「お、おかしいな。何で切れないの? 」

 

 切先はミサンガに当たるだけで、ナイフ自身の役目を果たそうとしていなかった。

 それでも理子は、何度も何度もミサンガ(思い出)に刃を当てる。しかし紡いだ糸は一本も切れることは無かった。

 

「なんで・・・・・なんで切れないの!? なんでッ! こんなもの! 」

 

 張り裂けそうな声が響く。

 ナイフを握る手には一切の力が入ってないように見えた。

 ───辛い。心の痛みが十分すぎるほど伝わってくる。

 

「こんなものがあったら思い出しちゃう。早く、早く! 早く切れて───」

 

 プツン。

 一本の糸が切先に引っ張られ切れてしまった。ずっと見ていなければ見落としてしまいそうなほど呆気なく、静かに。

 

「うぁ! 」

 

 だがその一本が切れた途端、理子はナイフを床に落とした。刃は落ちていたもう一つの刃に当たり、神経を逆撫でする音が傷口をさらに抉る。

 理子の息遣いは荒々しく、今にも腰が抜けそうになっていた。

 

「あは・・・・・情けないな。こんな無様な姿さらけ出して。もう関わらない。思い出しても躊躇しないって決めてたのに」

 

 理子の口の端から自嘲の笑みがこぼれる。

 触れれば壊れそうで───何より独り占めしたいほど尊かった。

 

「キョー君の笑顔が苦手だった。キョー君の真剣な表情が嫌いだった。キョー君の思いやりが辛かった。理子に向けられる想いが憎悪だけだったら、こんな感情が生まれることもなかったのに・・・・・」

 

「理子。もう一回聞くぞ。今までのことは全部演技だったのか? 」

 

「分かんないよ。演技だって自分に言い聞かせても───止まんないんだよ。次から次へと溢れてくる気持ちが抑えきれないんだよ! 今だって説教したいくらいだ! 自分の命欲しさに見捨てた最低女の元に懲りずに帰ってきたこととか! 満身創痍で倒れそうなのにずっと理子のことを気にかけてることとか・・・・・理子の前に自分の命くらい大切にしてよ・・・・・」

 

 理子は傷だらけの服に手をのばしたが、まだ触れるのを躊躇って直前で止めた。

 ───自分の命を大切にか。

 

「そうだな。誰だって自分の命は何よりも大切だ。なのに進んで他人のために自分の命を削るなんてのは、所謂バカなやつ。そして命を落とすのは大バカだ」

 

「だったら、キョー君は裏切り者の理子のとこに自分の命を削ってまで来て・・・・・もう少しで毒で死んじゃうんだよ! 大バカ野郎だよキョー君は! 」

 

 確かに、理子から見れば命を削ってまで自分を助けようとする大バカかもしれない。

 今だって激痛が絶え間なく襲ってきてる。命を蝕む毒が全身に回りきったのか、服が破れて露出した肌には紫色の斑点が見えてきた。

 だけど、まだ───

 

「俺は確かに大バカかもしれない。でもまだ死んではないんだ。せめて理子を助けるまではバカ野郎にしてくれ」

 

 ()が体中にある無数の切り傷から流れ、部屋のカーペットを汚していく。既に致死量の半分以上は体から外へ流れて、ヒルダに吸われているかもしれない。

 それでも俺は言葉を続けた。

 

「俺がお前を助けたい理由はな───理子が思ってもみないとこで俺を支えてくれてるからだ。怪我でも、たったかすり傷程度だろうが本気で心配してくれた。辛い時も苦しい時も理子が側にいてくれた。命を救ってくれたことすらあった。理子がいなかったら今頃俺は死んでたよ」

 

「───嘘だ。理子はキョー君を助けた事なんて一度もない」

 

「あるさ。ハイジャックで海に振り落とされた時、理子がいなかったら俺は海のど真ん中で死んでたよ。視力を失った時はずっと付き添ってくれた。璃璃神に憑依されたレキとの戦闘だって、理子がいなかったら首が飛んでた。ヒルダが俺に槍を突き出した時だって、刺さる寸前で声かけて止めてくれたろ。他にも助けてもらったことは何度もある。それでも助けてないって言うのか? 」

 

「そっ、それは! 全部自分が生き残るためにしたことで、キョー君は勝手に生きてただけで・・・・・! 」

 

「それでいいんだ。自分のために何かをして、その副産物で人助けをした。副産物でも結果としては人を──俺を助けてくれたことには変わりないんだ」

 

 理子は全身を小刻みに震わせていた。

 その口から出る声も、潤いに満ちている。

 

「なんで、どうしてッ・・・・・どうしてキョー君はそんな理子のことを・・・・・! 」

 

「どうしても何も、俺は理子とまた楽しく過ごしたい。ただそれだけだ。あと、お前さっき自分の幸せ(わがまま)のせいで俺の幸せを盗ってるって言ったな」

 

 俯きながらも理子は小さく頷いた。

 

「別にそれでいいじゃないか。理子の本業は泥棒だろ? 幸せくらい盗られたって構わねえよ。寧ろ理子と過ごす以外の幸せなんて皆無に等しいくらいだ」

 

「──っ」

 

「もしその幸せがいっぱいになって両手から零れ落ちるようになったら・・・・・俺にでも分けてくれ。それができるのは───峰理子リュパン四世。お前しかいないんだ」

 

 尚も俯き続ける理子との間に阻むものはもう何も無い。俺たちは恋人同士のように強く抱擁できる距離にいた。両手で俯いている理子の頬を包み込む。そして顔を上に向けさせた。

 

「だから、そんな顔しないでくれよ」

 

 理子は、大きな目から零れそうになっている涙を歯を食いしばって必死に堪えていた。くしゃくしゃの顔からは絶対に泣いてやるものかという強い意志が伝わってくる。

 

「それにな。演劇だってどうするんだよ。主役二人がいないロミオとジュリエットなんて成り立つわけがないだろ」

 

「それは、キョー君が他の人とやれば───」

 

 嗚咽混じりに理子は首を横にふる。自分はふさわしくないとでも思っているのだろうか。

 目線も外そうとするから、俺は額をくっつけて強引に目を合わせた。

 

「───『僕は船乗りじゃない。だけど、たとえ貴女が最果ての海の彼方の岸辺にいようが、貴女という宝物を手に入れるためなら危険を冒しても海に出ます』・・・・・他の人とだなんてまっぴらゴメンだ」

 

「・・・・・たった一人の。理子の為だけに傷だらけになって、ホントにバカみたい」

 

 零れた涙が一筋、頬を伝って俺の手を濡らす。

 

「バカで結構だよ」

 

 俺は口の端をあげて精一杯の笑顔を見せた。

 それまで溜まっていた理子の涙は、一気に頬へと流れていく。それが今まで苦しめられていた時の感情を一気に爆発させ、声にもならない泣き声となって溢れ出した。

 

「理子だって、演技だって分かっててもキョー君と一緒に過ごすようになってから何もかもが違く見えた。いつも隣で笑ってくれるキョー君を見てて幸せだった。だからあの日の夜にキョー君に信じてもらえてた事が本当に嬉しかったんだよ! 」

 

「ああ」

 

「でもこんな理子に幸せをくれる人を裏切らなきゃいけないんだって! そう思ってたら涙が止まんなくてッ! キョー君の笑顔を見るのが辛くてしょうがなかった・・・・・! 」

 

 溢れ出した思いは止まらない。

 これまで理子が負った傷を象徴する悲痛な叫びが部屋中にこだましている。

 

「ホントは裏切るなんてしたくなかった! でも怖くて、苦しくて・・・・・どうにかしてやろうとしても、どうにも出来ない自分が憎かった。ただ怯えているだけの自分が情けなかった! 」

 

 理子の顔から手を離して、優しく頭を抱く。

 くぐもった泣き声は尚も響き、衣装についた血と涙が混ざり合う。

 

「もう会えないと思った。でもキョー君は来てくれた。傷だらけで死にそうになっても理子のためにって・・・・・うわあぁぁ・・・・・! 」

 

 服を強く掴んで涙に濡れた顔をこれでもかってくらい押し付けている。

 理子の苦しみ──表情を見なくても、痛いほど分かる。物心ついた時から監禁されて、ろくな食べ物も無く暴力を振るわれる毎日。心に植え付けられたトラウマは簡単には消えやしない。ブラドはもう倒した。あとは──ヒルダだけだ。ヒルダさえ倒せば理子から笑顔と自由を奪うヤツはいないはず。

 

「理子、帰ろう。また二人でゲームして、おいしいご飯食べてゆっくり過ごそう」

 

 もう一度、取り戻す。

 

「───いいの? こんな理子でも・・・・・ホントにいいの? 」

 

「理子だからいいんだ」

 

 その言葉を切り目に、理子は子どものように泣きじゃくり始めた。ずっとゴメンなさいと苦しそうに呟いて。今まで感じてきた傷を全て乗せて。

 

 理子を悲しませる敵全てから二対の盾で守る。盾が無くなれば自らの肉で。肉が無くなれば骨で。骨が無くなれば命を盾にして──最後の最期まで守り抜く。

 震える拳に力を込めて誓ったその瞬間、扉が大きく開け放たれた。

 

「理子! あなたは無事!? 」

 

 扉の正面に立っていたのは、傷だらけであちこちから煙が出ているヒルダだった。

 かなりの痛手を負っているらしく、服はビリビリに破け役目をほぼ果たしていない。しかも肩で息をしているあたり、苦戦させられているようだ。

 

「よおヒルダ。さっきぶりだな」

 

「朝陽ッ! 予想はついてたけど、まさかまだ生きてるなんてね」

 

「理子のために死ぬわけにはいかないんでね」

 

「笑えるわねその冗談! 理子を私から奪うだなんて、無理に決まってるじゃない」

 

「いいや、違うな。奪うんじゃない」

 

 俺は優しく抱いていた理子を自分の体から少し離した。涙で濡れた顔を見せた理子が、言葉を発するよりも速く───

 

「・・・・・っ!? 」

 

「なっ! お前ッ! 」

 

 ───小さな口に、キスをした。

 バニラの甘い香りが広がっていく。みるみるうちに理子の顔が赤くなるが、それでも離さない。

 ほんの数秒間だけの口付け。それだけで互いの気持ちが交錯し、自然と溶け合っていく。

 この暖かさ。胸が幸福でいっぱいになる気持ち・・・・・ああ、もう離したくない。

 名残惜しいが口から離れ、ヒルダに向き直る。

 

「奪い返しにきたんだよ。自分のパートナーをな」

 

「・・・・・よくも! よくもよくも私の()()()()に──! 」

 

「本音が漏れてるぞババア。お前が理子が死ぬまで一生オモチャとして理子を側にいさせるなんて、会った時から分かってたんだよ」

 

「理子! 今すぐそいつを殺しなさい! 」

 

 ヒルダに名前を呼ばれ、理子はビクリと肩を震わせる。そして防弾制服の袖で泣きじゃくった跡をゴシゴシと擦ると・・・・・

 

「ありがとね、キョー君。理子に勇気を与えてくれて」

 

 俺だけに聞こえる小声といつもの眩しい笑顔を向けてくれた。そしてヒルダに浮かべて、こう言った。

 

「今なら理子の朝陽を刺したお前を刺せる。いつまでも仲間だと思ってんじゃねぇよ、ぶぁーか」

 

 少し震えていた声音。

 だがそこには、監禁されていた時とは違うハッキリした意志が残っていた。

 ───自由になりたい、と。

 

「なん、ですって!? 私のお父様を裏切り、イ・ウーを裏切り、そこのクソ男を裏切って今度は私!? よくもまぁそんなに裏切れるわね! 」

 

「おいババア。裏切りは女のアクセサリーだって言葉知らないのか」

 

 自分を罵られ、傷つけられ、挙句に理子に裏切られ・・・・・言葉に言い表せないほどの激情をヒルダは全身で語っていた。深紅の槍を持つ手は震えて今すぐにでも投げてきそうな雰囲気だ。

 

「うっ! 」

 

 ───バチッ!

 理子の右耳につけていたコウモリ型のイヤリングが音を立てて砕け散る。

 中に入っていた毒蛇の腺液が体に入った。

 これはつまり、あと10分で死ぬということ。

 

「キョー君、これでやっと気兼ねなく戦えるね。キョー君も一緒に戦ってくれる? 」

 

 だが理子は、体をヒルダに向けたまま俺の方を見て、頬を赤くしながらニッコリと微笑んだ。涙の跡を残したままだが、いつもの可愛らしい理子の笑顔。

 

「もちろん、これが終わったらまたデートでもするか? 」

 

「まずは関係を築くところから始めないと。ほら、理子たち別れちゃったでしょ」

 

「ああ・・・・・そうだったな。だったら早く戦いを終わらせなきゃ」

 

「どこまでもふざけたことを・・・・・絶対に許さない! 」

 

 ヒルダの怒りを聞き流しつつ理子の横に立ち、俺は雪月花を、理子はナイフを抜いた。

 これで成すべきことはただ一つ。

 

 

 

 

「「──ここでお前を斃す! 」」

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。