思考がフリーズする。
シャロンの言葉の意味が最初全く分からなかった。
「……え?」
木葉は思わず聞き返した。
確かに才能はあるかもしれない。今からでも練習すれば有名人と肩を並べて演技することさえ可能だろう。しかしそれは役者を目指す者のみが許されることなのだ。自分はもう役者の世界に戻らないと決めた。それは両親が死んでしまった理由でもあるから。あの場に立ってしまうと、あの事件を思い出しそうだから。もう十年も経ったから忘れている可能性もゼロではない。でもどうしても本能で拒絶してしまうのだ。
だから、シャロンの後継者なんて大役を任されるはずがなかった。
「……冗談もいいところですよ?もう十年もそちらの世界から離れている女に貴方ほどの人物の後継者になんて」
「あら、私は本気よ」
そういうシャロンの目は、確かに冗談なんかには思えなかった。
「どうして……」
訊くと、シャロンがクスッと笑って答えた。
「昔の君の演技、見せてもらったわ」
昔、というのはまだ木葉の両親が存命していた時の話なのだろう。そもそも木葉が人前で演技していたのは両親に教えられていた頃だけだ。多分その時の録画を見たのだろう。
「まだ六歳ということもあって子供らしさが全面に出ていたけれど、それでも演技力や身体の使い方は夕中日暮から、顔だちや明るい笑顔は白金海から間違いなく引き継がれていたわ。もしこのまま大きくなったら、自分の両親をも超える存在になっていたかもしれない、と私の人生経験から確信したのよ」
「……」
「そんな子を、卵のまま置いておくなんてもったいないじゃない?」
「……」
何度も、何度も。
親戚から、近所の人から、友人から、先生から。
言葉の選択に違いはあれど皆口を揃えてこういうのだ。
『才能あるよ』と。
近所の人が自慢したいのかこっちの話も全く聞こうともせずに何度も役者になれと勧めてくることもあった。
自分のことを調べた友人が何で役者にならないの?と聞いてくることもあった。
親戚の人は自分の境遇を知っているくせに自分の気持ちを知ろうともせず勝手に劇のオーディションに申し込んだこともあった。
先生は進路相談の時に役者関連の専門学校のパンフレットを差し出してきたこともあった。
無水も、シャロンも。
私のことを『夕中木葉』ではなく『夕中夫妻の娘』だとして見てくる。
一人暮らしをすれば何か変わるかと思った。
中学までの友人との縁を切って、近所の人ともおさらばして、東京に出て一人暮らしをして、新しい生活を送れば、普通の女子高生として過ごせると思っていた。
でも現実は甘かった。
『夕中』という珍しい名字が原因で木葉のことは近所の人にすぐバレた。幼少期テレビで注目されたこともあって、一世代前の人の多くはあの事件のことを知っているし、ネットが身近にある時代になったから自分のことを調べることも簡単だろう。
どうあがいても、自分には役者としての選択を歩むことしか出来ないのだろうか。
多分、木葉の様子を見てシャロンが何かを察したのだろう。突然こんなことを言ってきた。
「……無理なことを言っているのは分かっているわ。でも私には時間がないの」
「……え?」
「お主、まさか……」
無水の顔から人特有の赤みが消えていく。何かを悟ったような悲しそうな目をしながら、シャロンの方を見ていた。
木葉も、この言い回しは知っていた。よく小説や漫画である王道のセリフ。
「私は長くないわ。だから、貴方に全てを託したいの」
でも実際目の当たりにすると思っていた以上に頭の中に衝撃が走る。
驚きが大きかったせいか、まともにシャロンの顔を見ることが出来なかった。
――――
―――
――
―
役者の世界が嫌いになったのは両親が亡くなった世界であり、周りの人達が耳にたこができるぐらい役者の世界へ行かせようとしたからだ。もう二度とあの世界に行くものか、と心に誓った。見るのはまだいい。だが自分があそこに立つのは二度とごめんだ。
だから、尊敬している人からの願いだったがこればかりは断ろうと思った。
だがシャロンから発せられた言葉に、メトロノームのように再び心が揺らいだ。
自分はもう長くない。
何かの病気に冒されていたのか、そう言った彼女の目は真剣そのものだった。
木葉が役者の世界を避けている理由、それは見方によれば全て自分の身勝手な我が儘だ。それが命を掛けて後世に自分の分身を残そうとしている彼女を止めるなんて……そんなこと出来るはずがなかった。
でも……でも、でも!!
「……っ」
あの光景が脳裏を過ぎる。
二発の銃声、紅く染まった舞台、甲高い悲鳴。
そして、動かなくなった二つの死体。
家族の思い出より思い出す光景。忘れようと思えば思うほど脳裏に鮮明に焼き付く。永遠に忘れられないであろうその光景が木葉の選択をより一層迷わせるものとなる。
出来ることならシャロンの気持ちに答えたい。でも自分の過去がそれを邪魔する。
考え、
考え、
考えて、
迷う。
トラウマさえ克服さえ出来れば自分の気持ちなんてどうとでもなるのに。
「無理ですよ……今更私に芝居なんて……」
無意識に呟く。
何回も何回もあの光景がリピートするのだ。いざあの場に立った時自分が平常心を保って演技出来るかどうか分からない。他のことに気を取られるようじゃ、例え才能があろうとも生き残っていけないだろう。
だから、とても演技なんて無理だ。
そんな木葉を見たシャロンは迷っている木葉を落ち着かせるような優しい声で言った。
「まあとりあえずやってみるのも悪くないんじゃない?無理かどうか決めるのはその後でも構わないでしょ?」
言われて、木葉は少し考えた。
そういえば舞台を最後にこの目で見たのはあの事件の時だった。あの日以来舞台そのものを避けていた。
十年経った今なら大丈夫かもしれない。
確かに思い出そうとすればいつでも思い出せる。だが普段生活している時には思い出すことはない。もしかしたらの可能性もある。
怖くないと言ったら嘘になる。あの恐怖がまたぶり返すんじゃないかと考えるだけで恐ろしい。
でも同時に確かめたいと思った。あの事件が今の自分にどれだけ影響しているのか。
それを確かめるのは、舞台に直接行くのが一番手っ取り早い。
「別に後継者は君だけじゃないから気楽にやりなさい。私は、ただ君の演技が見たいだけなの」
その言葉に、重く引きずってきた積み荷が少しばかり降ろされた気がした。
シャロンと舞台で再び会うことを約束する。木葉は自分のためにも一度だけ役者としての第一歩を踏み出すことにした。
もちろん引き際は見極めるつもりだ。トラウマが掘り起こされるようでは舞台に立ち続けるのは不可能だろうし、その時点で辞めるつもりだ。
でも一回、一回だけ自分にチャンスを与えてみようと思う。
役者の世界に戻るつもりはない。
でもそう考えているのは今の自分であって未来の自分がいつまでもそう考えているとは限らない。
もし未来の自分が何かのきっかけで役者の世界に戻ろうと思った時、この誘いを断っていれば未来の自分は死ぬほど後悔するだろう。
だから巡ってきたチャンスを無駄にしないためにも、木葉はシャロンの誘いを受けることにした。
――――
―――
――
―
シャロンがアメリカに帰るのは一週間後。その間木葉はシャロンと一対一で稽古することとなった。
とはいっても一週間しかない上に木葉には避けて通れないトラウマがある。まともに練習出来るか分からない状況でよくシャロンは稽古をつけてくれたものだと今なら思える。
一日目。
殆ど練習にならなかった。
辛いことは時間が解決してくれるというが、十年という長い時間をかけても木葉のトラウマは消えることはなかった。
舞台を間近で見るだけで足がすくみ、まともに立つことさえ困難になってしまう。思考はフリーズし、まともに喋れる状態じゃなくなるほど危ない状況にまでなってしまった。
シャロン曰く。
「辛いことに向き合わなくちゃいけない時もあるのよ」
とのこと。どうやら何がなんでも木葉を役者にしたいらしい。
二日目、三日目、四日目。
事件の事は深く考えないことにした。確かに舞台に上がるだけであのことを思い出してしまうのだが、それに逃げてばかりでは何も変わらない。多分このトラウマを克服しない限り自分自身が成長しない。
そんな予感が木葉の中にはあったからだ。
まずは舞台の上で声出し。練習はそこから始まった。
四日目、五日目。
ようやく役者らしい劇のセリフの練習が始まった。十年ぶりということもあって最初はそこそこ上手い素人レベルの演技だった。ここから一流の役者になるにはとてつもない時間を要するだろう。シャロンは少し頭を抱えることとなった。
六日目。
彼女の演技が変わった。
今までは台本を見ながら練習していたのだが、今日は台本を手に持たずに練習している。セリフを完璧に覚え、自分の世界を確立させて演技のみに集中するやり方。あれはまさに夕中日暮、白金海が実践していた練習の仕方だ。
誰から教わったわけでもなく、恐らく本能でそうしたのだろう。やはり木葉は二人の娘。しっかりと遺伝子は引き継いでいた。
最終日。
正直いって、ここまで成長するとは思っていなかった。
もちろんプロの目線から言えば指摘すべきところは沢山ある。だがこの短期間の内に、トラウマという厄介なものを背負いながら役者として恥ずかしくない演技が出来るまで成長した。
才能が全くと言っていいほどなかった自分が一年かけて辿り着いた領域に、トラウマを抱えながら僅か一週間で辿り着いてしまったのだ。才能というものは本当に恐ろしいものだと思い知らされた。正直嫉妬してしまうレベルである。
彼女が本気で練習すれば一年も経たない内に大女優顔負けの役者になることは間違いなかった。
まるで演技するために産まれてきたような子。やはり普通の人生を歩ませるのには惜しい人材だ。彼女は、こちら側に来るべき子だと改めて確信する。
しかし同時に嫌な予感がしていた。
木葉を育てたのはもちろん『シャロン・ウィンヤード』が死ぬ前に自分の後継者が欲しかったからであり、彼女の演技を見たいという純粋な思いもあったからである。
むしろ彼女がどこまで成長するのか楽しみにしているぐらいだ。だから嫌な予感がする理由が分からない。
ではこの嫌な予感は何なのだろうか。
まさか自分が若い子供に追い抜かれるのが怖いから?
いや、とシャロンは否定する。
成長を楽しみにしている自分が木葉に追い抜かれることに怯えるなんてあり得ない。むしろ自分自身を限界点と決められては困るのだ。これから木葉は間違いなく自分を超えるビッグスターになる。そんな彼女に憧れて役者の世界、女優の世界を目指す子供達も増えるだろう。そうなればドラマや映画の演技力の質が上がり、同時に脚本の質も上がることになるだろう。
そうなれば今よりもっと面白い映画やドラマが生まれる事になる。そんな世界を
ならばこの嫌な予感は何なのだろうか。
シャロンの嫌な予感というのはかなりの確率で当たってしまうのだ。実際収録中に嫌な予感がしたと思えば照明が突然落ちてきたり、転けそうになったり、車に轢かれそうになったこともあった。そういえば両親が亡くなる前日もそんな嫌な予感を抱きながら寝たのを今更ながら思い出した。
だから今回も嫌な予感が気のせいだとは考えにくい。だがその嫌な予感が何なのか全く分からない。それも今回は木葉にピンポイントでその予感がしている。
彼女が何らかのキッカケでこの世を去ってしまうとか?
確かにそれは悲しいし、彼女の演技が見れなくなると思うととても残念だが、だがそれは決してシャロンの人生に影響を及ぼすほどでもない。後継者は他に数人いるし、付き合いも短いので数日もすれば過去のことと割り切っているだろう。
ならば、この予感は一体なんなのだろうか。
そうなると考えられる可能性は一つ。
「(
ない、と否定しそうになったとき、嫌な予感がより一層強くなったのを感じた。
組織として生きるために
架空の娘『クリス・ウィンヤード』用意し、一人二役として演技をする。頃合いを見計らってシャロンが死んだことにしてしまえば自分は
クリス・ウィンヤードが悪い奴らとつるんで遊んでいるとでも言っておけば、イメージの悪いクリス自身が女優の世界に帰ってこいと言われる可能性は限りなく少なくなるだろう。
そうすれば女優と組織の二つの仮面を被る必要がなくなるし、これから組織の一員として動きやすくなる。
そのための策が、まさか彼女にバレてしまうというのか。
「……ふっ、まさかね」
彼女は役者としての才能はあるが探偵のような才能まで落ち合わせているとは考えにくかった。こんなことを見抜いてしまうのは厄介なFBIぐらいだろう。
これ以上考えるのは無駄だ、と結論づけてシャロンは短い髪をゆっくりとかきあげた。