読者に忘れられない物語があるように、物語も読者を忘れないことがある。
エミヤは私服を持っていない訳ではない。正確に言えば、その場で作っていると言った方が良いだろう。
ジャックの服を仕立て終えたある日のこと、エミヤはそれを機に自分も服装を変えてみようと思い立った。月では岸波白野が着せ替えを楽しんでいたこともあるし、気分を変えるにはちょうど良い。
善は急げと行動に移したエミヤは、象徴ともいえる赤い外套を脱いで畳むとベッドの端に置く。ここで何に着替えるかで迷うが、無難に黒シャツとジーンズを選んで投影すると手早く身に着ける。最後のワンポイントとして伊達眼鏡を掛ければ、月でもよく着ていた服装がほぼ再現される。違う点は、悩んだ末に髪を下さなかったことだ。
この間僅か五分の出来事だったが、着替え終わったところで彼の自由時間が終わってしまう。この後に裁縫の講座があるからだ。
折角なので、エミヤは着替えた格好で会場に向かうことにした。
一時間が経ち講座が終わった後のエミヤは、自室でダヴィンチに貰った一人用ソファに身を委ねて寛いでいる。その万能の天才がこのソファを置いた去り際に、「今度は大きいベッドに新調しておくかい?」とさぞ愉快そうに笑っていたのは、なぜか無性に腹が立つ。
「どうしたのかしらエミヤおじ様? そんな顔をして」
「……ああ、ナーサリーか。いや、服を積極的に変えておくべきだったと思ってね」
珍しく気を抜いていたエミヤは返答が少し遅れていた。その彼の目の前には一冊の本が浮いている。
しばらく浮かんでいた本はエミヤの膝の上に乗るとたちまち姿が変わり、ナーサリー・ライム──アリスと呼ばれる黒ドレスの似合う少女のサーヴァントに変容する。彼女の正体は絵本の総称、物語そのものであり実在の人間ではない。今は
弓兵の身を案じて声をかける、月で会った時よりも素直で幼い印象の彼女を心配させまいと、エミヤ自身も気付かない内に明るい声色で答えていた。
それと同時に、アリスに声をかけられるまで全く気配に気付かなかったため、気配遮断講座が相変わらず盛況なようだ、とエミヤは推察している。
そもそもエミヤがなぜ悩んでいるのかといえば、黒で統一した現代衣装に身を包み講座に向かったまでは良かったが、彼に会った人々が一瞬で判断できず二度見されたことにある。
彼自身が赤い外套のままで出歩くことが多かったため、服装がいきなり黒になったら分からないのも無理はない。会った人は彼だと分からなかったことが恥ずかしかったのか、頬を赤く染めて顔を背けていた。
最初から着替える習慣をつけておけば、間違えさせて恥をかかせることはなかった。
慣れないことはいきなりするものではないと思いつつ、いつまでも赤い外套を着ているのは堅苦しい。今後は今の格好で生活しようと決意するエミヤだった。
「今のおじ様の服はとっても似合っているわ!」
「……一応礼を言っておこう。
まあ似合う似合わない以前に、その人のイメージカラーというものがあるからな」
エミヤの眼下にいるアリスが黒、彼女の元マスターが白といった具合に。
「……ところで、なぜ私の膝の上に居るのかな?」
「お友達のジャックが、おじ様の膝の上は安心するって言っていたの。
本当にその通りだったわ! あったかくてとっても落ち着くの!」
ジャックと同じようにエミヤに背中を預けるアリス。そんな彼女はいつのまにかジャックと意気投合し、友人関係を築いていた。
保護者的立ち位置のエミヤは、ジャックの交友関係が広がったことに嬉しさを感じる。
「でも、あたし……
「……私の降参だ。仕方がないな」
終いにはアリスは顔を俯かせていた。心なしか声も沈んでいる。
エミヤはアリスのヘッドドレスを外すと、気分の浮き沈みが激しい少女の頭を優しく撫でる。
「確かに君は月で残酷な一面を見せた。だが同時に、最期まで
それに、私の方も聖人君子ではない。君に偉そうなことは言えないし、慕ってもらえるような男ではない。その言葉が聞けただけで十分だ」
「嬉しいわ。嬉しいわ。ありがとうエミヤおじ様。
でも、
エミヤに撫でられるがままになりながらも、アリスは砂糖菓子のように甘い声で精一杯に反論する。彼女が弓兵に懐くきっかけとなった出来事を思い出しながら。
アリスはロンドンに召喚された折、魔霧計画の首謀者に回収され聖杯の支配を受けていた。
それにより、サーヴァントを思いのままに操る調整を受けた彼女は、ありすを探すという想いだけが強く残ったものの、ロンドンの住民たちを眠りに誘う昏睡事件を引き起こしていた。
この事件は魔本事件と名付けられ、アンデルセンの推理とエミヤの推察により正体が暴かれた後、藤丸立香一行に討伐されるはずだった。
だが、エミヤはこのままアリスを討伐してよいものかと考えあぐねていた。確かに、討伐することが最善策であることは理解していた。
それでも、アリスを信じたかった。
ありすを看取ったことに感謝していた、アリスの言葉を。命を奪えるほどの力を持っているのに、眠りに誘うだけに留めている彼女の抵抗を。
そして本から少女の姿になり、エミヤの姿を捉えたアリスが助けを求めた声を無視できなかった。
その結果として、エミヤの想いを汲んだ立香が提案に乗ってくれたおかげで彼女を救い出すことができた。弓兵とマスターのお人好しさに、アンデルセンは終始呆れかえっていたが。
余談になるが、アリスが聖杯の支配を脱した事実に一番驚いていたのは、この後に立香達と邂逅した黒幕の一人であるパラケルススだった。
『幼子に手心を加えましたか、バベッジ……』
戦いに敗れた彼は、最期にそう言い残していた。
エミヤはパラケルススの最期の言葉について考えていたが、思考の片隅に追いやった。
「悲観的なのは私の悪い癖だ。なかなか治らなくてな。
だが、君を悲しませるのは私の望むところではない」
「そうよ! エミヤおじ様は、
はにかみながら笑うアリス、彼女が憧れと言いきる前に躊躇っていた理由をエミヤが知る由はない。
この後、エミヤがジャックとアリスの二人と遊ぶ姿を目撃される回数が増え、またもやあらぬ疑いけられたエミヤは尋問に掛けられることになる。
拝啓 わたしのエミヤおじ様。
同情はするなってお姉ちゃんに言いながら、
「一人にさせないし、寂しい思いはさせない」って熱い抱擁と共に救ってくれたんだもの、これからもずーっと、