生きるモノを
何の変哲もない貴重な時間を過ごしすぎた弊害だろうか。何の警戒もせずに通路を歩いて、分かれ道の死角から現れた影を避けることができなかった。本来のエミヤからすれば、迂闊だったことは否めない。
エミヤと出合い頭にぶつかったその相手は、髑髏を模した仮面を外している年若い少女──静謐のハサンだった。召喚当初、ナイチンゲールが烈火の勢いで静謐を治療しに来たが、エミヤと立香の二人がかりで何とか説得できた。そう思えば、静謐の後ろに目を向けるといきなりの出来事に目を丸くしている立香も居た。位置関係から、二人が並んで歩いていたことは一目で分かる。
「すまない。私の不注意によるものだ」
即刻、非を認めて謝罪したエミヤだったが、よく見ると静謐は酷く動揺していた。
「何かしてしまっただろうか?」
「……ごめん……なさい。
──失礼します、マスター」
「え? ──ちょっと待って!?」
エミヤの返答を待つことなく、立香へ振り返ることもなく、静謐は慌ててその場を立ち去ってしまった。謝罪の言葉が何を指したものなのか、その時点では分からなかった。
明日になればその理由も聞けるだろう。その予想は裏切られた。
翌日以降、静謐の調子が悪くなった。戦闘中でも上の空であることが多く、立香と必要以上の会話をしない。また、立香の部屋を前にして俯く姿が職員の間で噂になった。
争う間柄だが、やはり心配なのだろう。清姫はライバルの不調を多少は気にしていた。そして、エミヤが静謐の不調を気にしない事は無かった。廊下での一件の後に調子が悪くなっていたのだから。
カルデアに召喚される以前に出会った静謐のハサンは、聖都の軍に捕らえられ、地下牢で拷問されていた。百貌のハサンの信用を得るためという建前はあったが、そこへ助けに向かったのが立香一行だった。陽動作戦で砦内の守りを手薄にして、最奥部の牢屋へと辿り着いた。
後は救出するだけだった。しかし、そう簡単には終わらなかった。サーヴァントに悪影響を及ぼす鎖を人間の立香が断ち切り、必然的に落ちてくる静謐を受け止めようとしたところで、意識を取り戻した彼女は受け止めないでと拒絶した。
百貌のハサンが陽動に回ってしまったのことが裏目に出た。呪腕のハサンは己の至らなさを悔いた。静謐のハサンの体質について教えていなかった。
当然、静謐の叫びが意味することを理解できず、一瞬だけ理解が及ばなかった立香だったが、ここで転落する訳にはいかないと、必死の踏ん張りによって留まった。スカサハの訓練で足腰が強化されていなければ、支えきれずに二人は石畳に叩きつけられていただろう。尤も、落下しても大丈夫なようにサーヴァント総出で待ち構えていた。
転落しなかったことに安堵して、無事でよかったと声を掛ける立香に対し、抱きかかえられた静謐は戸惑っていた。なぜ死んでいないのかと立香本人に聞くほどだった。
その戸惑いの原因は静謐の毒によるものだったが、幸いにも立香に与えられた毒耐性は上位のものだった。毒そのものである静謐は、触れても死なない存在に出会った。殺したくないと望むようになった静謐は、予てからそれを求めていた。
それ以来、静謐は立香に心酔していた。
──エミヤに触れて、他に毒が効かない存在を認知するまでは。
「あまり詳しい話はできなかったけど……大丈夫かな?」
「問題はない。だが、最後は君に任せるとしよう」
「……分かった。ここで待ってるね」
詳細を理解した訳ではないが、エミヤの真意を覚った立香は信頼を込めた眼差しで答え、立ち去る男の背中を見送った。
立香の部屋を後にしたエミヤは、集めた情報から推測を纏めていた。これまでに、立香を含めた一部の女性陣に聞き込みを行っていた。
確証はないが、どこかの
そこまで考えて、エミヤは苦笑する。ここに来なければ、そのように考える事はできなかった。尤も、人の事を言える立場ではないし、いつになるかは分からないが、己も何かしらの答えを出さなければならない。
そうこうしている間に静謐の部屋に着いた。ノックをするが、中から出てくる気配はない。
カルデアの各所で目撃情報がない以上、在室で間違いない。
「聞こえていると判断して勝手に話をさせてもらう。
触れて死ななければ、誰でも良かった。確かに、発端は客観的事実によるものだ。だが、そこから生じた君の本心はどこにある?
マスターは君とここで終わりになるのは嫌だそうだ。部屋で待っているとも言っていたな。今後どうするかはそちらの判断に委ねよう」
エミヤはそれだけを言って立ち去った。彼は本来、そこまで深入りするつもりは無かった。ただ、アーラシュが静謐の動向を案じていて、最期の一瞬で自分に託されたと判断したまでだ。
借り物の理想をきっかけとした男は、その生涯を後悔していた。当然、自分の体を投げ捨てることも褒められるやり方ではなかった。だが、間違いではなかったと気付いた。
途中で投げ出すこともできた。諦めることもできた。それでも走り抜けた。誰かが喜ぶなら、笑っていられるならと、常にそう願っていた。助けなければならないという強制された人生は、助けたいという己の意思だったことに気付いた。
先の結末は違うかもしれない。ただ、似たような悩みを持つ存在に、助言しない訳にはいかなかった。
エミヤが静謐の部屋を訪れた次の日、その答えは明らかになった。
かつての日々と同じように、立香を挟んで清姫と火花を散らす静謐の姿がそこにあった。立香本人からの話によれば、昨日は清姫と静謐と我が子を取り巻く風紀の乱れを危惧した頼光による三つ巴の戦いが繰り広げられていたらしい。
部屋の主は慣れたもので、最終的には何事もなかったかのように就寝したそうだ。静謐を諭した立香の誠実さと、同時に逞しさを感じさせる。何はともあれ、これで良かったのだと安心したエミヤだった──が、それで終わるほど甘くは無かった。
その日の午後、カルデアの通路には二つの影があった。
表情に諦観の色を浮かべたエミヤの後ろを静謐はピタリとついている。
「……まだ気が済まないのかね?」
「はい。まだ……分かっていません」
彼女が悪意を以って危害を加えてくるわけではないのでエミヤは放っていたのだが、やはり尾行されているようで落ち着かない。かれこれ、一時間は同じことを繰り返している。その間、人とすれ違うたびに一体何事かと訝しげな顔をされていた。分かるものは恐らくいないだろう。
今、エミヤは部屋に帰ろうとしているのだが、このままだと部屋に押し掛けられる勢いだった。その可能性は十分にある。
「静謐……で良かっただろうか」
「はい。お好きにお呼びください」
「そうか。これから私は部屋に戻るから、君も部屋に戻りたまえ」
「それはできません」
エミヤのさり気ない気遣いを受けて、悩むそぶりを微塵も見せなかった。昨日までの様子からは考えられないほどの即決で断られた。立ち直れたことは良いことだ。
額に手を当てたエミヤは、淡い期待は叶わないものだと内心で自嘲していた。
「ならば、どうして後をつけているのか。それくらいなら話してくれてもよかろう?」
押して駄目ならば引いてみる。理由が分かれば今後の対処も容易だからだ。
「……分かりました。単刀直入に申し上げます。
私にマスターへ寄り添う者としての作法を教えてください」
「…………すまない。私としたことが聞き逃したらしい。
もう一度だけ言ってもらえるかな?」
「私にマスターへ寄り添う者としての作法を教えてください」
間違いであってほしいという儚い願いも空しく、静謐の発言は一言一句違わなかった。
聞きたいことは次から次へと湧き上がってくるが、第一に聞くことがある。
「なんだね、その……寄り添う者の作法と言うものは?」
「詳細は割愛します。エミヤ様も知っての通り、マスターの顔をまともに見ることができないほどに私は迷っていました。
でも、貴方からの助言を受け取って考えました。私はマスターの人柄に心酔し、生涯寄り添うと誓います。もう悩むことはありません」
特に変わった話ではなかった。助言が役に立ってよかったとエミヤは胸をなでおろそうとした。 その瞬間に雲行きが怪しくなった。
「だから、清姫様に奪われてしまう前にマスターの隣を確保します。
エミヤ様は戦闘も休息もマスターと長く行動を共にされていると聞きました。私も寄り添う者として頑張りたいです。ご指導をお願いします」
頭を下げられしまうと手の付けようがなかった。ここからどうやって挽回すればよいのか。エミヤは短時間で妙案を出さねばならなかった。
結局、上手い断り方を知らないエミヤが思いつくはずもなかった。
決める。決めます。決めました。初代様の晩鐘が響くことになっても、この選択を私は後悔しません。
マスターに尽くすことを、この私の誇れることにしたい。そのために、エミヤ様からの手解きを会得します。