その少女に出会ったのは、一度だけではない。
魔術師の冷徹さと相反する人の良さを併せ持つ彼女に、時には命を奪われそうになり、時には命を救われた。それは、死後も変わらなかった。
しかし、疑問に思う。彼女はいつから衛宮士郎の事を知っていたのか、今となっては知る由もない。そして、彼女へ抱いていた感情が好意だったのか、憧れだったのか、それも──今となっては分からない。
亜種特異点修復に向けた作業が進む中、エミヤは厨房で皿を洗っていた。
ダヴィンチの交渉術によって食糧難が解決し、多少凝った料理も作れるようになった今、エミヤは存分に腕を振るっていた。
「……初めてここに来たようだが、女神が一介の英霊に何か用かね?」
そんな彼の元へ近づく気配があった。
気付いたエミヤは振り返らずに問いかけると、聞きなれた声で返事があった。
「あら、随分な言い草ね。相応しい態度でもとってみたらどうかしら。少しはマシになるかもしれないわ」
浮遊する弓──マアンナに搭乗したサーヴァント、イシュタルは憮然とした表情だった。
「おっと、これは失礼した女神様。生憎と用意がなくてね、茶の一杯も出せない我が身を許していただきたい」
「……やっぱり聞かなかったことにして頂戴。貴方にそう言われると、なんだかむず痒くなるわ」
「全く、勝手な女神様だ」
「そもそもね、常日頃から少しくらい敬ってもいいとは思わないの?」
「然るべき風格を身に着けた上での発言ならば、私も相応の振る舞いを心がけるのだがね」
「失礼しちゃうわ。ま、許してあげる」
イシュタルは、浮遊する弓から飛び降りると、近くの席に座る。
「用件はちゃんとあるわよ。
中々の評判らしいわね。──オムライスを作って頂戴」
半熟のオムレツをナイフで開帳し、女神は差し出されたスプーンを手に取ると、これまた慣れた手つきで一口含んだ。
「……評判に違わずね。貴方、生まれる時代を間違えたのかしら」
「料理人の畑とでも? 相当の機会がなければそちらの道には進まんだろうな」
座るイシュタルに対して立ったままのエミヤは、給仕を終えて腕を組んでいた。
しかし、その心中は穏やかではない。
気の赴くままに振る舞うイシュタルは、あの
依代の仕組みは、孔明もといロード・エルメロイ二世に聞いたこともあり、無事が保証されていることは分かっている。
何度か危険に晒した手前、強くは言えないしその資格もないが、彼女が傷つくと肝が冷える。
一瞥すると、イシュタルの影響を受けているのか、際どい恰好をしていた。本人の意識があれば、どう思うだろうか。
「何か気になったものでもあるの? 見かけによらず厭らしいのね」
気が付くと、イシュタルは愉し気にエミヤを見ていた。
「さて、何を見ていると思ったのかこちらが聞きたいところだ。腕が衰えていないと確信していただけだ」
「大した自信家ね。女神を眼中に収められる事実を光栄だと思いなさい」
「先程の言葉、君に返却させてもらおうか」
オムライスを頬張る女神を尻目に、弓兵は食後のコーヒーを用意しようと厨房に体を向ける。
「……口は悪いけど、
思わず足が止まった。
イシュタルが食堂に来たのは今日が初めてなので、特異点で振る舞った機会を基準にしているのかもしれない。
だが、妙に実感が籠っていた。人格が違うと、勘違いしてしまう程に。
「……どうかしたの?」
「なに、勿体ないほどの褒め言葉だと思ってね」
「妙に素直ね。調子が狂っちゃうわ」
機嫌も悪くなく、食後のコーヒーも気に入ったようだった。
珍しいことに多くを語らず、優雅に嗜む姿は美の女神を体現している。
「それで、何があったのかしら?」
「ん? ……ああ、さっきの事か。素直に評価を受け止めただけだ」
「──嘘ね」
静かにカップを置いたイシュタルの紅い瞳が、エミヤを捉える。
「私を通して別の誰かを見ていたんでしょ? より正確には私であって私ではない誰か、と言ったところかしら」
「随分と勿体ぶるものだな。真相は既に分かっているだろう」
「貴方の口から聞くまで、ただの推測に過ぎないわ」
頑として譲らない女神に、弓兵の方が先に折れる。
「降参だ。
君が依代としている少女とは面識があってね。老婆心ながら心配していた」
「ふーん……本当にそれだけかしら」
「何か言いたげだな?」
腕組を解いたエミヤに対し、イシュタルは頬に指を添えていた。
「だって貴方──笑っているじゃない。
余程の思い入れがなければ、そんな顔はしないはずよ」
その言葉を受け止めるには、少しばかりの時間が必要だった。
エミヤの胸中を察したのか、イシュタルは不機嫌そうな顔になる。
「信じてないでしょ」
「それもそうだ。信ずるに足る確証がないからな」
そうは言ったが、内心は状況の判断で忙しなかった。
感情を表に出すようになったからとはいえ、どのような表情を作っているのかエミヤ自身は自覚している。
そう言われて直ぐに認められるはずもない。
「
「……勘弁してくれ。恩人を大切に想うのはよくある話だと思うがね」
「だって私、女神だもの。分からないわ」
「まさにそうだな。君を理解していない私が迂闊だった」
女神の機嫌を損ねると突拍子もない災難に襲われる。カルデアではよくあることだが、イシュタルまで加わるのは如何ともしがたい。
「第一にだな。そこまでよく知りもしない掃除屋に、君が構う理由などないだろう」
「あるわよ、理由」
イシュタルは、あっけらかんとした表情で続けた。
「文句を言いに来たのよ。
かっこつけすぎだって」
弓兵は怪訝な顔で女神を見返す。
「貴方はね、一人で抱え込み過ぎなのよ、マスターのあの子やマシュを見習ったらどう?」
「何を言っているのか、我々は手を貸す側であって──」
「──それがそもそもの間違いなのよ」
エミヤの返答をバッサリと切って、イシュタルは極めて冷静に諭す。
「どうして貴方一人でなんでもこなそうとするわけ?
そのままにしてたら、いずれ燃え尽きるわよ?」
「心配してくれるのは有難いがな。死んでも変わらん性格だ。こればかりは私自身でもどうにもならん。
しかし……いや、なんでもない」
「なんで微妙なところで止めるのよ。気になるじゃない」
イシュタルの忠告は尤もな話だった。しかしながら、本来の性格を考慮すれば優しすぎるほどだった。
とはいうものの、極端すぎるだけで善悪の両面を併せ持っているだけだ。
なぜイシュタルの依代に遠坂凛が選ばれたのか、エミヤは依代の災難体質ではないかと推測していたが、納得できる理由がようやく見つかった。
二人が似た者同士という単純なものだった。
「気に留めるほどの事でもない。そんなに気になるならば、答えるのも吝かではない」
「本当に素直じゃないわね」
呆れながら呟くと、イシュタルは席を立つ。
「ごちそうさま。なかなか良かったわよ」
「そう言ってもらえるなら、私の腕も捨てたものではないようだ」
待機させていたマアンナに乗ろうとする女神は振り返ると、片づけをしている弓兵にこう言った。
「そうさせてもらうわ。
────
反応したエミヤが顔を向けるが、イシュタルは飛び去った後だった。
「まったく……やってくれるな」
依代の記憶は共有していないはずだが、どこまで本当なのか。
気にはなったが、答えてはくれないだろう。
なぜか、あの呼び方が頭に浮かんだのよね。
でも、私より依代の方が気になるだなんて許せないわね。女神を本気にさせたらどうなるか、思い知らせてあげるんだから。