極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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プロローグ

 気づけば、見知らぬ場所にいた。

 

 身体も視界も、ゆらゆらと揺らいでいる。

 上下も左右も分からない。

 落ちているようでもあるし、飛んでいるようでもあった。いや、そもそも、この身体は移動しているのか、それとも静止しているのか、それすらも曖昧で、地に足が着いていないこの感覚は、水面に揺れる漂流物のようだ。

 

 ――――ここは、どこだ?

 

 胸のうちから湧き出た疑問は、答えを得る前に溶けていった。

 頭が上手く働かない。

 思考するために必要な何かが、絶対的に不足している。

 ただ、ひたすらに、心地よい。

 

 

 ――――そうか、夢。

 

 この浮遊感は、眠りに落ちるあのつ瞬間によく似ていた。

 導き出される答えは脳裏を掠めて消えていく。

 それも、当然のこと。意識すらも明確でない今、答えを出すことに意味があろうか。

 所詮は泡沫の夢。

 目を覚ませば、全てを忘れているのだから。

 故に、思考することそのものが無駄でしかない。

 意味もなく川を流れる木々ですら、河口というゴールに行き着くのだ。ここが夢の世界なら、その流れに身を任せるのも一興。

 そうして彼は、再びまどろみに身を任せた。

 

 

 そこは、この世ならぬ戦場だった。

 空には大きな満月。

 深い黒のテンガイに、青白い顔を浮かべている。

 奇妙なことに、月夜にもかかわらず、雨が降っている。空には確かに、月がある。しかし同時に、空は分厚い雨雲に覆われてもいた。雲がありながら、月光は絶えず地に降り注ぐ。そんな、常にはあらぬ不思議な光景がシュバルツヴァルトに広がっている。

 月光がスポットライトなら、この戦場は、舞台だ。役者は、すでに揃っていて、激しく舞台上を躍動している。

 木々の間を、縫うように走る漆黒の獣。

 狼と呼ぶにはあまりにも大きな身体で群れをなし、津波のごとく大地を駆ける。

 皆一様に同じ姿。統率された無駄のない動きは、まさに軍隊のそれ。しかし、牙を剥き出しにして走る様は、やはり獣か。獰猛な魔狼の大群は、小さな集落程度簡単に食い尽くしてしまえる。

獲物へ向かって猛進する魔狼の津波。

 あらゆる命は、彼らを前にして形を残すことなどありえない。

 しかし、ここは戦場だ。

 魔狼たちが一方的に相手を蹂躙するだけでは戦争にはならない。

 無数の魔狼をして、乗り越えきれない障害が、彼らの進軍を阻んでいる。

 一頭、また一頭と、魔狼たちが絶命していく。

 頭を潰され、喉を裂かれ、肉体を両断される。

 魔狼たちに相対するのは、姿も形も異なる悪鬼羅刹の集団だ。

 骸骨が槍を構えて魔狼の目を突けば、背の高い鬼は金棒を振るって魔狼の頭を叩き潰す。

 大の大人を超える巨体を持っているということ以外に外見的特徴のない狼の群れとは異なり、その軍勢は実に個性的だ。

 骸骨の群れがあり、大鬼、子鬼の群れがある。空からは数え切れないカラスの集団が狼たちに襲い掛かり、青白い東洋の龍が蛇体をくねらせて唸っている。

 和洋を問わず、異形という異形が集結し、軍団を形成している。

 狼たちは、すべての兵を同じ武装で固めた一国の正規兵であり、異形の軍勢は、寄せ集めの傭兵集団と言ったところか。

 打ち捨てられた兵の死体は、この世に留まることなく塵となって消える。 

 この世の命ではない彼らは、死した後はこの世から痕跡も残さず消さるのみ。だというのに、その戦いは凄惨を極めた。初めから消費されることが使命だからだろう。互いに命が尽きるまで武器をぶつけ合い、血肉を削りあう。

 殺すことに意味はなく、殺されることにも意味がない。

 所詮はただの一兵卒。この場においては端役でしかないのだ。

 そう、この戦いの趨勢を決めるのは、無数の軍ではない。ここを舞台とするのなら、当然、主人公が存在するはずだ。

 夜空を眩い虹が切り裂いた。

 閃光は幾千の矢となって、地上に降り注ぎ、七色の花を咲かせる。

 魔狼の軍勢は、ただそれだけで半数以上を失った。

「クハハハ! なるほど、それが貴様の権能というわけか!」 

 しわがれた老人の声が、森に響く。 

 その大音声は、ただそれだけで森の木々を揺さぶった。

「まだあるはずだな。さあ、見せてみろ! 小娘!」

 そして、大地を覆い尽くさんばかりの狼の大群は、夢幻の如く消え、その代わりに三〇メートルはあろうかという巨大な狼が月に向かって咆哮した。

 

 

 オオオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 

 『彼』の名はサーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。一般的にはヴォバン侯爵と呼ばれる、三世紀に渡って、欧州の魔術師たちを震え上がらせ続ける現存最古の魔王(カンピオーネ)の一人だ。

 その権能(チカラ)は地を裂き、あらゆるものを粉砕する。

 歴史上、彼の手にかかって消滅の憂き目にあった都市はいくらでもある。

 無数の狼を使役し、自身もまた巨大な狼へと変身する権能は、ヴォバンの持つ権能を代表するものだ。

 巨狼に変身したヴォバンは、その強靭な脚力で地を蹴って、大きく跳んだ。

 数百メートルの距離を、ただ一歩でゼロにする。

 着地で地面はひび割れ、振動し、その衝撃で魔物の群れを吹き飛ばす。

「今さらこのような木偶どもでどうにかできると思うまい!」

 ヴォバンに群がる魔物たちは、まるでゴミ屑のようにあっけなく蹴散らされている。

 ヴォバンにとっては赤子の手を捻るようなもの。神獣にも届かない亡者亡霊クラスの雑兵など、視線に入れるだけ無駄だというものだ。

 進行方向の大地が盛り上がり、木々を巻きこんで巨大な人型のゴーレムとなった。

「ハハハ! そう来るか!」 

 戦いに餓える獣は、岩石と木の巨人に掴みかかった。

 巨狼の突進を、ゴーレムは正面から受け止める。

 重量は、やはりゴーレムのほうが上らしい。ヴォバンを受け止めたゴーレムは腕を振り上げて、ヴォバンの顔面を殴りつけた。立て続けに第二撃。岩石で構成された巨大な腕を、ヴォバンは正面から開いた大顎で受け止めた。そして、噛み砕く。いともあっさりと、ゴーレムの拳は砕け散った。

「軽い拳だな」

 ヴォバンは鋭利な爪を一閃。ただそれだけで、ゴーレムの胸が大きく抉れる。

 だが、岩石と木を主として構成される非生物のゴーレムは、身体の欠損で機能を停止することはない。物理的に破壊されつくし、行動不能に陥るまでは、どのような状態であろうとも動くことができる。

 片腕を失い、胸部を半分ほど削り取られながら、まだゴーレムは動いている。

 そして、ゴーレムは岩石の腕を三度振り上げた。

 せめて一矢報いよと、主が最期の命令を下したのだ。

 とはいえ、直前の交錯で、彼我の戦力差は明確になっている。ゴーレムの攻撃は、ヴォバンには通じない。そして、その身体は、ヴォバンの攻撃を防ぐだけの硬さもない。加えて言うなら、速さにおいても、狼と化したヴォバンに勝てるはずもなく――――ゴーレムが拳を振り下ろすよりも前に、ヴォバンの爪がその上半身を薙ぎ払っていた。

 崩れ落ちる下半身。

 ただの岩塊へと成り下がる上半身。

 役目を終えたゴーレムは、不出来な岩と木の塊となって地上に落下する。

 そして、零れ落ちる岩塊をすり抜けるようにして飛来した虹色の矢が、ヴォバンの胸板に直撃した。

 

 

「まったく元気なおじいちゃんなんだから……」

 虹の力を凝縮した矢を受けて、ヴォバンは背中から倒れた。その様子を見て、月沢キズナは嘆息する。

 手には虹色の弓。煌々たる輝きを、三日月形に凝縮したそれは、如何なる宝玉よりも美しい。

 月光を溶かし込んだかのような、金糸の髪を肩口で切りそろえ、透き通るような白磁の肌。そして、瞳はガラス細工のような玻璃――――神祖の血を引くものの中で、特に力の強い者にしか発現しない希少な瞳だ。

「太陽神から狼の権能を簒奪するなんて。アポロンもアポロンだけど、おじいちゃんもおじいちゃんで捻くれ者だね」

 呆れ混じりに呟く声を受け止めてくれる者は周囲には居ない。いたところで、邪魔になるだけだから別にかまわない。ただ、言葉を呟くことで、心が落ち着いてくれるのだ。

 キズナは、弓が発する虹色の輝きを一旦消した。暗闇に紛れて、移動するためである。

 キズナの強力無比な霊視力は、三百年間正体を明かされることのなかったヴォバンの第一の権能の正体を見破っていた。

 狼は大地に属する聖獣。アポロンは太陽神。一見するとつながりがないように思えるし、そのために三百年もの期間、秘密が守られていたのだ。

 あの狼の権能がアポロン由来だからといって、キズナに利益があるといえば、決してそのようなことはないのだが、敵を知り、己を知れば百戦危うべからずともいう。精神的に楽になるのは確かだ。

 キズナがいるのは、鬱蒼とした針葉樹林の中。それも、背の高い木の枝に立ち、幹に背を預けている。

 ヴォバンを虹の矢で狙撃してから、すぐに場所を移している。

 呪術の心得もあるキズナにとって、障害物は視覚を妨害するものではない。夜の森の中からでも、敵の姿を明確に捉えることができる。

「もうばれたか」

 一矢放つごとに場所を変え、夜闇と森に姿を紛れ込ませていたのだが、鼻が利くのか、目がいいのか、それとも他の何かなのか。ヴォバンもまた、キズナの潜む場所を知っているようだ。

 ヴォバンが咆哮し、突撃してくる。

 手慰み程度で生み出したゴーレムや、使役する使い魔程度ではあの怪物を止めることはできない。よって、攻撃力の高い虹の弓矢で応戦する。

 番える矢は同時に三矢。

 一矢一矢が、極太の光線となって放たれる。

 その尽くが、ヴォバンの身体を直撃するのだが、勢いを殺すことができない。

 やはり、先ほどヴォバンを吹き飛ばした矢。虹の力を一点に凝縮したものでなければ、あの鎧のごとき肉体を突破することは難しい。

 しかし、キズナには力を貯める時間がない。

「なかなか楽しませてもらったぞ、小娘!」

 なぜなら、ヴォバンはもう目と鼻の先にいるのだから。

「オオオオオオオオオオオオオ!」

 気合の咆哮。爆風と思える大音声がキズナの身体を打ち据え、彼女の頭を目掛けて巨大な拳が振り下ろされた。

 巨狼状態のヴォバンの全体重を乗せた一撃は、キズナのいたあたり(・・・)を根こそぎ吹き飛ばした。拳そのものが大きいので、細かい狙いをつける必要がないのだ。木々は倒れ、地面は割れた。粉塵が舞い上がり、澄んだ夜気を汚していく。

「大雑把にもほどがある。そんなんじゃ相手の生死を確認できないじゃない」

 だが、それでもキズナは、生きていた。如何なる手法を用いたのか、その身には傷一つなく、別の木の天辺に立っている。

「ふん。上手く避けたか。ならば、これならどうだ!」

 ヴォバンは腕を大きく横薙ぎに振るった。大気は捻れ、猛烈な突風が豪腕に纏わりつく。

 キズナは腕をクロスして、身を守るが、その巨腕は少女が踏ん張ったところで受け止められるものではない。衝突力は新幹線と正面衝突するよりも強いだろう。そんなものの直撃を受けては一たまりもない。

 キズナの身体は、目にも止まらぬ速度で吹き飛ばされ、木の枝をへし折りながら地面に叩きつけられた。それだけに留まらず、数度バウンドし、地面に突き出た岩にぶつかることでようやく止まった。

「さすがに、死んだか」

 鋼以上の硬度を持つ骨格に代表される、カンピオーネの防御力は、車に引かれた程度の衝撃には平然と耐える。呪術に対しても、体内に内包する呪力が膨大極まるため、人間の使う程度の術では傷一つ負うことはなく、権能クラスの攻撃も受け流すことができる。

 そんなカンピオーネを殺すには、やはり肉体の耐久力を超えた物理ダメージを与えるのが一番だ。

 ヴォバンの一撃は、まさにそれ。

 巨大な拳による打撃は、防御能力を持たないカンピオーネにとっては鬼門と呼べるだろう。

 だから、岩に叩きつけられた少女が、気だるそうに起き上がったときは目をむいた。

 自分の拳は確かに敵を捉えていた。跳ね飛ばされた勢いで地面と激突し、岩に叩きつけられたのだから、死んでいるのが当たり前。そうでなくても、怪我を負い、動けなくなるのが道理である。

 それにもかかわらず、あの少女は何食わぬ顔で立ち上がった。着衣にも乱れはなく、擦り傷すらも負っていない。これは明らかな異常。異常があるということは、異常を引き起こした何かがあるということだ。

 ヴォバンは、すぐにそれに思い至った。

「なるほど、不死性の権能か」

 多くの神々が有する、永遠性の象徴。そして、多くの英雄武神が持つ戦場における不死。そうした神々を倒すと、不死性の権能を獲得できることがある。

 ヴォバンの場合は、死しても灰の中から蘇る権能。怨敵、サルバトーレ・ドニは、あらゆる攻撃を無効化する鋼の肉体。その他、強い再生力を持つ者もいるし、単純に、死んでから復活する者もいる。

 さて、あの少女はいったい、どのような不死性の持ち主なのか。

 それを解き明かすことが、攻略の糸口になる。単純な防御力の強化か、それとも、何か特定の攻撃でなければ傷つかない条件指定か。あるいは、蘇生、回復の類か。

 確かめるには、攻撃を繰り返すしかない。

 体内の呪力を高め、筋肉は膨張する。

 全身の毛は逆立ち、ヴォバンの体重を受け止める地面には、その力を受けてひび割れが走る。

 対するキズナも、このまま戦い続けても埒が明かないことを理解している。キズナが使える権能の中で、攻撃力の高い弓矢が、効果を発揮しないのだ。

「あの巨体であの防御力の高さ。スピードもあるし、単純だけど、反則だよね。まったく……」

 ぼやきながらも、弓に呪力を込める。

「普通の矢が効かないのなら、奥の手を出すしかないじゃない」

 一撃だけの必殺技。

 放てば、辺り一帯を焦土に変える大技だが、使うと虹の弓矢がしばらく使えなくなってしまう。 

 だが、今回はデメリットを考慮しても使用するのがよいと判断した。

「魔軍を滅ぼす雷撃の神威を今ここに。空に満ちよ、嵐天の精。天を翔けよ風雨の王」

 朗々と聖句を謳うキズナに呼応して、夜が極光に払われる。

 空を覆う雨雲が、にわかに活気だった。

 雷鳴が轟き、風が唸る。

 極限まで高められた呪力は、ただそれだけで周囲を圧する力となる。

「権能の真の力を解放するか。いいだろう! このヴォバンが、貴様の力を吟味してくれる!」

 ヴォバンもまた、雷雨を操る権能の持ち主。そもそも、この地に雷雲を呼び込んだのはヴォバンの権能だ。風雨雷霆を操ることに関しては、ヴォバンに一日の長がある。

 ヴォバンの呪力が、雷雲に力を与え、彼に雷撃の加護を与える。降り注ぐ雷は、直撃したものを焼失させ、吹き荒れる暴風は、あらゆるものを吹き飛ばすことだろう。

 猛烈な突風と激烈な雷に晒されながら、キズナは詠唱を続ける。彼女の周囲を包み込む虹の輝きは、それそのものが要塞のような強固さをもっていた。

「裁きを下せ。雷火の鉄槌。虹を渡り、天より降れ!」

 キズナは、極大の閃光を天に向かって放った。

 それと呼応して、雷雲の表面を虹色の雷光が駆け抜けていく。

 対するヴォバンは、狼の姿を解いていない。雷や嵐はただの牽制。カンピオーネを確実に抹殺するのに必要なのは圧倒的なまでの物理的破壊力だ。キズナを始末するのに、最適なのは雷ではなく、鉄をも切り裂く爪であり、大地を砕く拳である。

「オオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 膨れ上がったふくらはぎは、強靭なバネとなって巨体を跳ね上げる。

 森の木々を吹き飛ばし、音速を超えたヴォバンがキズナに襲い掛かる。

 時を同じくして、雷鳴と共に空から降り注ぐ虹の柱が、ヴォバンを巻き込み、周囲いったいを白く染め上げた。

 


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