極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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九話

 紅蓮の炎は、依然として猛り狂うように天に昇る。

 すでに、丘の周辺は火の海で、土砂降りの雨と呪術による消火がなければさらに被害を拡大していたことだろう。

 その火の海の中にあって、キズナは泰然として遠くの敵を見据えている。

 ガラスのように透き通った眼は、幽界から敵の情報を逐一引き出している。脳裏に浮かぶ不動明王の来歴を参照し、その能力の傾向と、その力が及ぶ範囲を推定する。

 不動明王は、数ある仏の中でも最強とされる魔を祓う炎の使い手である。

 『諸仏の王』と言わしめる実力は、小手調べとはいえ、キズナの百鬼を跡形もなく焼滅させるほどの力だった。

 『火界呪』

 密教系の術式として、キズナたち現代の呪術師も使用する炎の呪術だが、その力はこの不動明王の加護を恃んでのものだ。

 そのため、この呪力のカタチは慣れ親しんだものであるが、如何せん規模が桁はずれだ。

 これが、不動明王。

 仏の敵を、道に外れた者を、尽く正道に連れ戻さんと剣を振るう《鋼》の剣神の力だ。

 もはや、丘の上までは遮る物が何もない。何もかも、灰燼に帰してしまったからだ。不動明王の姿もよく見える。

 炎を背負う、青黒い肉体。

 今のキズナの位置からは逆光となって紅蓮に踊る黒い影となっている。

「さて、どうするか……」

 キズナは路地を駆け回りながら戦術を組み立てようとする。

 といっても、ここまで力一辺倒で、面制圧をしてくる相手に、戦術も何もない。

 まずは、如何にしてあの炎の城壁を突破するかだ。

 虹の弓矢は、確かに強大な力を有するが、遠距離から放っても、炎に威力削られて不動明王に致命傷を負わせることができていない。狐の力によって召喚する百鬼夜行も、まるで歯が立たない。荘子の力は攻撃にはとても使えない。やはり帝釈天の虹弓とヤルダバオートの重力制御くらいしか役に立ちそうなものがない。

「もう、接近戦なんて野蛮極まりないなぁ」

 声に苛立ちが混じる。

 本来ならば、遠距離からの呪術戦が彼女の好みである。しかし、『まつろわぬ神』やカンピオーネは、そもそも呪術に対する耐性をオプションで持っているため、生粋の呪術攻撃ではどうしても攻略できないのである。

 キズナが、顔を跳ね上げるように空に向ける。

 太陽のような火の玉が、キズナに向かって落ちてくる。範囲が広い。飛び退いてかわすのは、不可能だ。

「之の人や、物も之を傷つくることなし。大浸の天に稽くとも溺れず、大旱に金石流れ土山焦るるとも、熱しとせず!」

 キズナの身体から呪力が迸るのと、灼熱の炎が彼女の周囲一帯を焼き払うのはほぼ同時であった。

 

 

 

 ■ 

 

 

 

「く……ッ」

 龍巳は、襲い掛かる強烈な熱風に全身を叩かれて跳ね飛ばされた。

 防護の術で全身をくまなく守護していたので怪我はない。

 空中で体勢を立て直し、狛犬の背に着地すると、常よりも高くなった視点から戦場を俯瞰する。

 そして、戦慄した。

 龍巳と敵の大将が控える丘の間に広がっていたはずの住宅街が、跡形もなく消え去っていたのだ。

 今の一撃で、爆心地の家々はすべて焼き払われた。そして、同時に四方へ放たれた爆風は、その進路上の住宅を根こそぎ吹き飛ばしたのである。

 今まで、幾度もキズナと『まつろわぬ神』との戦いに付き合ってきたが、これほどまでの被害が出たことは片方の手の指で数えるほどしかない。

 これを災害として処理することができるのか否か。いずれにしても、日本史上希に見る大災害として後世に名を残すことになるだろう。

 龍巳は、刀の柄を握りこむ。

 身体の調子は問題ない。

 熱せられた身体も降り注ぐ豪雨が冷やしてくれる。

「お前はまだいけるか?」

 龍巳は跨る狛犬に声をかける。

 もちろん、とばかりに尻尾を振り、唸り声を上げた。もう片割れも、一時敵から距離を取って二頭が横に並んだ。

 龍巳は狛犬から飛び降りて、切先を二神に向ける。

「どうした、神の使いなんだろう? もう少し、頑張ってくれないと、張り合いがないぞ」

 左右に狛犬を侍らせて、龍巳は敵をせせら笑う。

「図に乗るなよ、鬼風情が。神殺しの隷下に甘んじる愚か者に、我等が劣るはずもない」

「図に乗るなよ、鬼風情が。神殺しの隷下に甘んじる愚か者に、我等が劣るはずもない」

 声をそろえて、二神が答える。

 制多迦童子と矜羯羅童子の力は、彼らの言うとおり強大だ。龍巳と狛犬が連携して立ち回ってやっと互角といったところで、龍巳は、自分の言葉ほど敵を軽視していない。

 それでも、龍巳は敵を挑発した。

 敵の力を軽んじてはいないが、自分の力を正しく認識していないわけでもない。

 現状龍巳たちと二神の力は拮抗しており、どちらが優位ともいえない。それであれば、精神的に揺らいだほうが不利になるのは自明の理。龍巳は弁舌も駆使して二神に立つ向かうつもりなのだ。

 バカで阿呆だが、腕が立つ憎めない性格の二神を相手に、言葉は意外と効果的だった。キズナが実証したように、相手は乗せられやすい性格をしている。

 そこに、活路を見出すのだ。

 龍巳は呼気を吐いて一歩を踏み出し、狛犬は咆哮する。あわせて二神が突貫し、各々の武器を振るう。

 刃と剣は旋風を巻き起こし、爪牙と槍は火花を散らした。

 

 

 □

 

 

 

 不動明王の大火炎を受けた住宅街は、直径一〇〇メートルほどのクレーターを形成していた。

 もちろん、そこにはむき出しの地面以外の何物も存在していない。

 近代日本の住宅街を象徴するかのような密集した街並みはおろか、舗装された道路も、信号機も、電柱も、およそ文明圏に存在するあらゆる物品が焼き払われ、今は何もない土色の大地が広がるのみであった。

 原子爆弾の被害を受けた当時の広島や長崎ですら、ここまでの破壊を経験してはいないだろう。

 何者の存在も許さぬ徹底した破壊の跡を巨大な松明を思わせる丘の上から俯瞰する不動明王は、不意に強烈な不安に襲われた。

 ナニカがおかしい。

 大威力の炎は、確かに敵に直撃したはずだ。

 敵の神殺しは、火球底面の中心に位置しており、その直径は五十メートルを超える。爆風は周囲一帯を薙ぎ払い、火球に倍する大きさのクレーター状の破壊痕を残した。

 いかに敵が持つ呪力耐性が強くとも、これほどの威力の一撃を受けて無事でいられるはずがない。

 しかし、この悪寒はどうしたというのだ。

 死んだ相手のことなど、考えても仕方がないというのに、死んだと思えない。

「生きているのか。我が炎を受けて」

 己の勘を信じるならば、敵は倒れていない。今も、どこかに潜んでこの首を狙っているに違いない。

 反骨精神に満ち溢れ、どこまでも喰らいついてくる神殺し。

 女の身ではあるが、もしも未だに存命していて、歯向かってくるのであれば、その時は、己が持つ力のすべてを使ってでも討伐せねばならないだろう。

 不動明王は、仏敵をまつろわせる軍神である。

 ならば、神に仇為す不埒者を放置することなどできない。

 『まつろわぬ神』であり、神話に縛られることがないとはいえ、その行動理念は失われていない。不動明王は、不動明王なりに衆生のために力を振るっているのだ。

 彼にとって神殺しは世界の悪であり、人間に煩悩を振り撒く大罪人である。

 よって、最優先で始末しなければならないのである。

 それに、神殺しと《鋼》の軍神ははるか古代から鎬を削ってきた仇敵なので、名も知らぬ神殺しとの戦闘に心踊らぬ道理がない。

 この時、不動明王は、半ば確信していた。

 敵は生きていると。必ず、この場に現れ最後の戦いを挑みに来るだろうと。

 

 

 

 □

 

 

 

 不動明王が必殺を期して放った火炎を受けてなお、キズナは生きていた。巫女服の一部は黒く焦げ付き、右の袖は半ばから焼けて無くなっている。顔には疲労の色が色濃くにじみ出ていて、頬は煤け、露となった右腕にはいくつかの裂傷と火傷が確認された。

 しかし、それも治癒術で即座にふさがる程度の小さな損傷に過ぎない。

 多くのカンピオーネや『まつろわぬ神』が持つある種の不死性を、キズナも有している。

 例えば泰山府君から簒奪した権能。

 死した後、別人となって生まれ変わる力である。

 利点は、人生を初めからやり直すことができ、生まれる時代が大きく異なるために、自分を殺害した相手と再び出会う可能性が少ないということである。

 そして、欠点は、利点と表裏一体である。即ち、時代が異なるために、その場での蘇生ができないという点だ。

 泰山府君の権能は、不死性というよりも、不滅性の権能といったほうがいいだろう。

 よって、今ここに存在している時点で、泰山府君の権能を使って凌いだわけではない。

 キズナが直前に唱えた聖句は一〇〇〇年前にまつろわぬ荘子から簒奪した権能を発動させるためのもの。キズナ自身が、この世に遍在すると評した権能は、その特性ゆえにあらゆる場所に移動することができ、無数の障害をそのままにすり抜けることができる。自由人のキズナの性格をそのまま権能にしたかのようなものである。

 おかげで、今の炎から生還することができた。

 それでも無傷ですまなかったのは、権能と権能のぶつかり合いだったからだ。

「《鋼》の弱点は鉄をも溶かす超高熱だっていうのに、炎の世界に身を置く《鋼》は、なんか卑怯くさいなぁ……」

 ぶつくさと文句を言っても仕方がない。

 キズナはガリガリと頭を掻いた後、巫女服に付いた土埃を払って立ち上がった。

 爆発の影響で、キズナはクレーターの淵の辺りまで吹き飛ばされた。そのおかげか、不動明王の側面に回りこむ形になっている。これはむしろ好機だ。

「この期に乗じて、一気に攻め落としてしまうか」

 キズナは乾いた唇を舐め、荘子の聖句を唱えた。キズナの存在が薄れていく。光学的、呪術的に自由になった状態は、あらゆる探査網を潜り抜けるステルスモードを実現する。この状態で攻撃はできないものの、接敵から撤退まで自由自在だ。

 それも不動明王にどこまで通じるかはわからず、ばれれば一気に形勢が不利になるものの、成功すれば、炎の守りの内側に侵入を果たすことができる。

 キズナは、自身の権能に全生命を託し、不動明王が誇る火炎の城壁へと身を投じた。

 

 

 肌を舐める炎は熱く、熱せられた空気はひどく乾燥していた。呼吸のたびに体内から水分が抜け出しているのがよく分かった。眼は乾くし、喉は痛い。踏みしめる地面は、かつては木々に隠れた湿り気のある土だったのだろうが、今ではその面影はなく、熱と炎に蹂躙されて乾ききった砂と化していた。可燃物のすべてを焼き尽くしながらも炎が消える様子がない。自然の炎ではなく、呪力を燃料にして燃える炎だからだ。だから、砂の上でも勢いが衰えることはなく、水をかけても消えることもない。空から降り注ぐ雨は、不動明王の炎を消すだけの力はないのだ。あくまでも、あれはその熱と炎から派生する延焼や類焼の類を防ぐことしかできないのだ。

 今、視界を覆うのは、そのような常識の埒外にある炎だ。火の粉ですら人一人を瞬時に炭化させるほどの火力を有する魔炎に囲まれていれば、さすがのキズナも緊張の色を隠せない。しかし、それは逆説的に緊張する程度で済んでいるという意味にもなる。

 荘子の権能は、ものの見事にキズナを炎から守ってくれていた。

 炎に包まれた丘は標高にしておよそ一〇〇数メートルほどと、ちょっとした小山であるが、それでも少女の足で踏破できぬほどの高さではない。

 まして、今生のキズナは山育ち。この程度の丘くらいは息も切らせず突破できる。

 そして、駆け抜けた先にその舞台はあった。

 丘の上。数時間前までは博物館が建っていたそこは、すでに更地と化していた。視界は良好。高台にあるために、周囲に広がる街並みを眼下に収める事ができる。

 そして、更地の中央に、唯一カタチを保つ者がいた。

 筋骨隆々の後姿。髪は逆立ち、天を突く。座した姿の不動明王は、波打つ剣を地面に突き立てて、立ち上がった。

 振り返る顔は、怒りに満ち溢れている。

 その姿だけで、悪鬼羅刹を降伏させるがゆえに、彼の姿は如何なる仏と比べても鬼に近い。

「不動明王様とお見受けしますが、如何に?」

「ふん、今さら問うても意味があるまい。貴様は神殺しで、オレは貴様を討ち果たす者。それだけで十分だ」

 キズナの問いを一蹴し、不動明王は地面に突き立つ剣を引き抜いた。

 不動明王の炎は頂上の周囲を取り囲み、キズナの退路を断った。

「図らずして背水の陣か……やだなあ、もう」

 キズナは、周囲の炎の動きに注意しながらも、不動明王から視線を外さない。

 相対して、より一層、あの神の力を明確に捉えることができている。これから先は、炎だけが相手ではない。不動明王自身が、敵として立ちふさがる事になるのだ。

「オレの前に神殺しが立つな。疾く、灰となるがいい!」

 炎を思わせる波打つ刀身から、想像を絶する火炎が解き放たれた。時を同じくして、キズナが虹色の光線を放つ。

 互いの攻撃は、ほぼ中央で衝突し、凄まじい轟音を響かせて喰らいあった。

 キズナは、第一矢の勝敗を気にせずに、二の矢を番えて放つ。一矢目のような光線ではなく、力を収束した矢の形状で放たれたそれは、音よりも速く飛ぶ。

 弓の弦が音を鳴らした瞬間には、対象に矢が生えているのだ。これまでは、炎の壁に邪魔をされてさしたる威力を発揮できなかったが、彼我の距離が一〇〇メートルもなければ、その威力は十全の状態で発揮される。

「ぬぐ……」

 不動明王が、剣を振るい、矢を受け止めた。

「この距離で射っても当たらない。さすがは剣の神」

 キズナは弓を下ろして、様子を見る。彼女にはまだ、余裕があり、不動明王の顔には焦燥が浮かぶ。なぜならば、キズナの矢は依然として勢いが衰えることなく不動明王の身体を貫こうとしているからだ。

「さらに三矢。これはどうかな?」

 目に見える挑発を含めて、キズナは三矢を放った。

 その直後、紅蓮の爆発が視界を覆う。炎の怒涛が、キズナの矢を呑み込んで襲い掛かってくる。

「そう来るか。なら、散ッ」

 キズナは炎に包まれた矢に命令を下す。そして虹色の矢は己の役割を変える。その内側に内包した呪力を解放して、四方を破壊する爆弾となるのだ。

 衝撃は炎の内側から広がり、風船が破裂するかのように紅蓮を吹き散らした。

 炎の濁流を凌ぎ、ほっと一息ついたとき、信じがたい光景がキズナの思考を僅かに白く染めた。

「オオオオオオオオ!」

 不動明王の咆哮が、赤い世界に響く。

 青黒い身体が、熱と衝撃をものともせず、爆発の中を駆け抜けてきたのだ。

 しかも、速い。

 もとよりキズナと不動明王の間に横たわる距離は一〇〇メートルほどであった。弓矢で狙うには十分であり、剣で斬りつけるにはあまりに遠いその距離を、不動明王はただの三歩で零にする。

 両手で握り締めた倶利伽羅剣が、赤く、紅く燃える。

「ぬうん!」

 渾身の一太刀が、キズナの頭頂部に振り下ろされた。

 破魔の神剣をまともに受けて無事でいられる保証はない。荘子の力が打ち消される可能性も考慮して、キズナは全力で横に跳んだ。

「くぅ。この野蛮人が」

 右の二の腕がばっさりと斬られた。おまけに傷口が焼かれて焦げた臭気を発している。

「女の子に焼き鏝とか、正気? 趣味悪いわ」

「ふん。貴様は女である前に魔王であろうが。仏道の敵は一人残さず殲滅するのがオレの性。貴様がどこぞの神を殺した瞬間から、我等の間には剣を交え、血で血を洗う闘争以外の道がないのだ」

「なにが、仏道の敵よ。あなたが焼いた街は、あなたが守護すべき人たちの憩いの場なのに」

「煩悩にまみれた今の世は、一度焼き払わねばならぬ。その中で生き残る者がいれば、そやつらは仏の加護を受けるに値する人間ということになるだろう」

 神罰を乗り越えられる人間だけが、彼にとって救うべき対象となるということだ。

 だとすれば、おそらく東京の人口の過半数は灰になってしまうだろう。現代の人間で、この炎を乗り越えられる人間はおそらく皆無だ。本当に、運に頼るしか生き残る術がない。

「ようするに、この世を守るためにあなたを始末しなければならないということか。面倒だなぁ、本当に」

「オレを始末? 大きく出たな、魔王風情が」

 轟、と熱風がキズナに吹き寄せる。

 それはただの風は、自然のものではない。キズナが大きく後退し、鼻先を剣先が通過する。そのたびに、四方へ灼熱の風が吹き荒れる。

 風そのものは、呪力を帯びた剣戟の副産物でしかない。そのため、キズナの身体を傷つけるには及ばないが、それだけの力をただ振るうだけで撒き散らしているというのが問題だ。

「ッ……!」

 襲い来る破壊の嵐を、避けきれぬと察して弓で受け止める。虹の力が収束しているのは何も矢だけではない。この弓もその力で構成されているので、倶利伽羅剣を受け止めるだけの固さはあった。

「つあ……ッ」

 キズナの身体が、不動明王の怪力を受け切れなかった。大きく後方へ投げ出された。仕方がない、彼女の体重は四十数キロでしかなく、身長も不動明王の胸よりも低い。怪力の権能を持っていないのだから、殴り合いで勝てるはずがない。

 剣が弓にぶつかる瞬間にキズナは、ダメージを最小限にしようと、後方へ跳躍していた。

 おかげで骨折もなければ脱臼もない。

「我が倶利伽羅剣は、如何なる守りも打ち砕く、降魔の剣。諦めて縛に付き、その首を置くがいい!」

「お断り、だッ!」 

 不動明王の踏み込みの速さは一度見た。二度目を許すほど阿呆ではない。

 キズナはすかさず矢を放つ。一矢は不動明王の膝を狙い、残り二矢は不動明王が踏みしめる地面を穿った。

「ぐおッ」 

 膝に矢を受けた直後に、足場が崩れ、さすがの不動明王もバランスを崩す。

「イタダキ!」

 その隙に、キズナはマシンガンの如き連射を放つ。並の相手であれば、これで全身を蜂の巣にして余りある。一矢の威力は低くとも、これだけの数に全身を叩かれれば、原形もとどめまい。だが、今相手にしているのは最強の仏尊不動明王である。この程度の一斉掃射に臆するような弱い精神ではない。

 倒れる身体を支えた腕から炎が迸り、壁となって虹を阻む。

 炎の壁を突破できぬと察して、即座にキズナは矢の威力を変え、一矢に呪力を集中する。

 鏃から紫電があふれ出し、雷光の煌きを纏った虹矢が一直線に不動明王に襲い掛かる。

 それ以前の、力のない連射とは比べ物にならない威力を宿した矢を、不動明王は腕の力だけで身体を跳ね上げることで回避した。

 空中で回転しつつ、彼の左手には見慣れぬ道具が納まっている。

 いや、不動明王の右手に収まるのが倶利伽羅剣ならば、左手に収まる武器は羂索と相場が決まっている。

「悪鬼羅刹を縛り上げ、我が前に引き出せ!」

 不動明王の怪力で投じられた投げ縄のような武器が、空中で蛇のようにうごめきキズナに襲い掛かる。

 まるで、意思を持つかのような変幻自在な軌道を描く羂索は、キズナの腕に絡みついたかと思うと、一瞬で全身に絡み付いて拘束した。

「ッ……」

 地面に投げ出されたキズナは、何とか起き上がろうともがくが、身体に巻きついた羂索が食い込むだけでとても逃れられそうもなかった。

「こ、こいつ」

 さらにキズナを慄然とさせたのは、この羂索から荘子の権能で逃れようとしたにもかかわらず、まったく抜け出せないということだ。

 そう、羂索とは、そもそも強制的に仏敵をまつろわせるために存在する縄だ。容易く脱出を許すはずがない。

「これで詰みだ。神殺し」

 大きな足でキズナの背中を踏みつけた不動明王が、宣言する。キズナは肺腑の底から空気を吐き出し、くぐもったうめき声を発した。

 このままでは、圧殺される。不動明王がその気になれば、キズナをこのまま踏み殺すことも可能だろう。

「貴様の過ちは、我等神仏に歯向かったことだ」

 不動明王は逆手に持った倶利伽羅剣をキズナの心臓を貫く位置で構え、左の手の平を柄頭に添えた。

「では、さらばだ。神殺し」

 不動明王は、剣に力を込める。

 そして、いとも容易く、倶利伽羅剣はキズナの心臓を刺し貫き、彼女の生命を完膚なきまでに破壊しつくした。

 

 生と死の綱渡りも、終わってみればあっという間だ。

 魂が燃えるような闘争も、命が擦り切れるかのような死闘も、過ぎ去った後に残るのは漠然とした寂寥感と充実感だけである。

 火がついた闘志が一先ずの落ち着きを見るまで、まだ幾分か時間がかかりそうだ。

 不動明王は、刺し殺した少女を一瞥すると、すぐに興味を失って視線を外した。

 生きている神殺しならばまだしも、殺した後のことなど興味がない。討ち果たした後にその死体を辱める愚を犯すはずもなく、不動明王は火に呪力をくべ続ける。

 不動明王は軍神ではあるが、戦士ではない。

 人々を悪行から救うことこそが彼の存在意義であり、戦闘は、そのための手段でしかないのだ。

 倒した敵を思ったところで仕方がない。

 

 そうして、不動明王はキズナの死体を意識から削除した。

 それが、致命的な失策だと気づかされたのは、この直後のことだった。

 

「偽りの創世記をもって、わたしはここに創造を為す」

 声は極めて至近距離から聞こえてきた。

「なに!?」

 初めて、不動明王の顔に本当の意味での焦燥が浮かんだ。

 金色の髪が視界を横切る。

「貴様、何故!?」

「答える義理はないし、そんな時間もないよ」

 キズナは不動明王の真正面に立っている。胸を貫かれたはずなのに、傷が残っていない。

 再生か治癒か蘇生か。

 そのことに思い至らなかったのは、不覚という他ないが、それでもその類の力は連続で使用できないのが一般的である。それなりの代償を――――多量の呪力消費であったり、使用制限であったりがあるはずだ。

 ならば、そのからくりを解き明かすためにも、今一度剣を振るうべきである。

 不動明王はキズナを斬り裂こうと右腕を上げようとして、その眼が驚愕に見開かれた。

 動かないのだ。自慢の怪力を振るおうにも、びくともしない。真っ黒な球体が、右腕の肘に付着してして、これが尋常ならざる重みを持っている。

「仕込む時間は十分にあった。油断大敵ってね」

 キズナが人差し指で黒球を差す。

 瞬間、その周囲が大きく捻れた。時空間が、局地的に発生した超重力によって歪められているのだ。無論、至近で巻き込まれた不動明王とてただではすまない。

「ごああああああああああッ!!」

 魂を焼き切るかのような絶叫が響き渡る。

 右腕が拉げ、螺子のように回転し、ぶちぶちと嫌な音を立ててへし折られる。飛び散る血肉は尽く黒い重力の井戸に落ちていき、何一つ残ることがない。

 不動明王は、右腕を丸ごと持っていかれた。身体のほうは、呪術への耐性で凌ぎきったようだが、倶利伽羅剣も失われた今、その戦闘力はがた落ちと言っていいだろう。

「おお、おのれェ……小娘ェ」

 右腕の傷口から大量の血を流しながら、不動明王は呻く。呻きながらも、戦意を失わず、キズナを殺すために呪力を練り上げている。

 ここからが、キズナにとって最後の正念場となるだろう。

 

 

 □

 

 

 倶利伽羅剣が失われた以上は、不動明王の武器は炎と羂索になるだろう。依然としてどちらの力も危険極まりないものであり、僅かな油断が死へと直結する危険な綱渡りとなる。

「燃えろ燃えろ燃えろ! 許さんぞ、神殺し。よくもこのオレの右腕を奪ってくれたな! 貴様の身体も魂も、纏めて焼き払ってくれる!」

 憤怒の感情をそのままに、怒れる炎が蛇のようにのたうち、キズナを襲う。

 キズナはそれらを冷静に回避し、弓で迎撃する。

 今回ばかりは、彼女も回避に専念せざるを得ない。

 荘子の権能は、明日まで打ち止めだ。 

 普段キズナが使用する荘子の権能は、空を飛び、あらゆる物をすり抜ける能力である。これを、キズナは逍遙遊と呼ぶ。

 そして、キズナはこの権能の最後の切り札を使用する場合に限り、その呼び名を変えるこだわりを見せる。

 曰く『胡蝶の夢』

 言わずと知れた荘子の代表的な説話である。

 

 ――――夢の中で、蝶となって飛んでいたところで、目が覚めた。果たして、自分は蝶となった夢をみていたのか、それともここにいる自分こそが蝶の見ている夢なのか。

 

 この説話の通り、キズナは自分の死と生を夢と現で交換する。

 死んだ自分を生きている自分が見た夢とし、現実を塗り替えるのだ。

 一度使えば、丸一日荘子の権能が使用できなくなる。その代わり、如何なる状況での死でもなかったことにする絶対回避能力であった。

 

 今のキズナには、普段からの不自然なまでの打たれ強さはない。荘子の権能が使えない以上は、その身体能力は一般的な女子高生と同等か、多少上回る程度である。カンピオーネの持ち前の頑丈さだけで、不動明王と殴り合いができるはずもなく、キズナ回避と牽制に回るしかなかった。

 だが、それでいい。

 攻撃はすでに完了している。

「おおッ!」

 羂索を鞭のように振り回す不動明王は、明らかに満身創痍。しかし、攻撃は苛烈さを増し、炎を纏った鞭は斬撃にも似た効果を発揮する。それはもはや叩くというよりも斬り裂くための武具と化している。

 頬を、肩を、首筋を、羂索が擦過する度に、鋭い痛みが脳を焼き、赤い血がにじみ出る。

 一撃の直撃が、即死に至るという中で、キズナは冷静に戦況を見極めていた。

 不動明王が炎を使わないのは、必殺のために力を蓄えているからに違いない。それはすなわち、敵側も追い込まれているということである。それが分かるだけ、キズナは精神的にまだ楽なのだ。

 そして、均衡がついに崩れ去った。

 キズナの足元を、羂索が穿つ。足場を崩されてバランスが崩れたところで、不動明王の肉体が大きく膨れ上がった。

 否、不動明王の身体は何も変化していない。変わったのは、呪力。不動明王の体内を巡る膨大な呪力が、一気に膨れ上がったために、肉体まで巨大化したと錯覚したのだ。

「我が至高の炎を以って、貴様の我欲の尽くを焼き払ってくれるわ!」

 宣言どおり、それは、不動明王が誇る炎熱攻撃を一点に収斂した至高の一撃となるだろう。

 直撃すれば、骨も残さず焼き払われるかもしれない。よくて全身大火傷で身動きが取れない状態に陥るのは確実だ。

 だが、この瞬間を待っていたのは、なにも不動明王だけではない。

 敵が攻撃に移る瞬間は、防御が最も手薄になる瞬間でもあるのだから。

 キズナの眼に、紫電を纏った虹が映る。

 つい先ほど、不動明王にすんでのところでかわされた矢だ。

 放たれてから延々と、この丘の周囲を飛び続け、機を窺っていたのだ。

「これで、王手」

 不動明王が、呪力を火炎に変換し、キズナを焼き払おうとしている無防備な背中から、神速の矢が刺し貫いた。

「ご、は……」

 紫電の虹矢が大穴を開けたのは、不動明王の左胸。心臓があるであろう位置を過たずに突き破っていた。

 飛び散る血肉がキズナの顔を汚す。

「バ、カな。このオレが、このような」

「油断大敵と、さっき言ったはずよ」

 キズナは、札を取り出して投じた。

 呪文を口の中で素早く唱えると、その札は巨大な折鶴となった。

「せっかくだから、確実に止めを刺してあげる。ちょうど、周りは何もないしね!」

 キズナは折鶴に乗って空高く舞い上がる。

 眼下に広がる炎の熱を感じつつ、敵をしっかりとその眼で見据え、呪力を練り上げる。

 不動明王は、膝をついて息も満足に吸えないほどに衰弱している。だが、それでも相手は『まつろわぬ神』なのだ。心臓を貫き、臓腑を抉ったとしても、それでも立ち上がる猛者ばかり。止めを刺すなら、跡形もなく消し飛ばすのが一番いいのだ。

「魔軍を滅ぼす雷撃の神威を今ここに。空に満ちよ、嵐天の精。天を翔けよ風雨の王。裁きを下せ。雷火の鉄槌。虹を渡り、天より降れ!」

 虹の矢が天空へと駆け上る。

 瞬間、世界を照らしたのは、尋常ならざる雷光であった。虹を纏った雷光が、空を駆け抜けているのだ。

 空の雲は分厚くなり、風雨はさらに強くなる。

「帝釈天は、その起源を天竺のインドラとする仏様。そして、天竺の英雄が持つ最強の一撃は、『インドラの矢』と呼ばれ畏れられるのよ!」

 空に満ちる呪力は、虹と雷を縒り合わせ、一つの弓を形作った。

「さあ、感謝しなさい、不動明王。仏道から外れたあなたを、このわたしが無理矢理にもといた場所に叩き込んであげるんだから!」

 虹は、インドラが雷を放つための弓ともいう。

 最強の一撃が『矢』であるのなら、それを放つための虹は『弓』として顕現する。

「くたばれ」

 それまで矢が可愛く思えるほどの巨大な閃光が迸る。

 不動明王はおろか、丘の頂上を根こそぎ薙ぎ払う光の柱は、まさに天罰を思わせる。

 虹色の呪力が夜闇を薙ぎ払い、紅蓮の炎は耐え切れずに吹き払われた。


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