極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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十話

 キズナと不動明王との戦いが日本呪術界に与えた影響は、非常に大きなものとなった。

 まず、不動明王が破壊した街の復興には、年単位の時間がかかることは想像に難くない。三〇〇棟以上の家屋が全焼し、博物館は跡形もなく焼失。信じがたいことに、クレーターまでできてしまっている。通常、呪術が絡む事件は、秘匿されるのが一般的だが、今回はあまりに規模が大きいために、秘匿するのは困難であった。結果、正史編纂委員会は、呪術に関する部分のみを非公開とし、火災の原因をでっち上げることで有耶無耶のままに終わらせた。

 クレーターに関しても、表向きはガス管が破裂した事とされた。

 大火災は、翌日のニュース番組で取り上げられ、世間の大きな反響を呼び、至上希に見る大災害として人々の記憶に残ることとなった。

 おそらく、一〇年もすれば、教科書にも掲載されることだろう。

 そうした事件も、時を置けば新たな話題に置き換えられていく。特に規模の割りに犠牲者も少なかったこの災害は、復興の予算が組まれ、家を失った人々への補償がある程度なされたところから急速に話題としての新鮮味を失っていった。

 もちろん、それは市井の間でのこと。

 刻み込まれた痛々しい傷跡も、数年もすれば綺麗に片付くことだろう。

 だが、それが呪術側からすれば話は別である。

 不動明王に焼き尽くされた街並みなど、後でいくらでも修復できる。よって、それについては行政に任せておけばいい。重要なのは、この事件に引きずられるようにして発覚した、月沢キズナの正体である。

 まさか、彼女がカンピオーネである、などと想像もしていなかった正史編纂委員会は、対応に追われることとなった。

 それと平行して、いつ、どこで、どんな神を殺害したのかといった調査がなされた。

 結果は、不明。

 キズナの一八年の歴史を遡ってみても、『まつろわぬ神』と出会った形跡は特になく、複数の権能を所有するに至った経緯は一切の謎と結論付けられた。

 これについて、本人は、「生まれる前から」と冗談めかした回答しかせず暗に明かすつもりはないということを表明した。

 

 そして、諸々の後始末が片付いた一二月の上旬。

 学校から帰る途中で、キズナは、馨に呼び止められて近くの喫茶店に足を運んだ。

 冬独特の突き抜けるような青空が広がる日だった。

「わたしがカンピオーネだって知られてから態度を変える連中がいて、困ったもんよ。気味が悪いっていうのか、人間不信になるね」

「お願いですから、人間不信にだけはならないでくださいね」

 キズナの文句とは裏腹に、馨の言葉は以前となんら変わるところがない。

 相手の望むのは何か、ということを察し、その通りに振舞う。王佐の才とでもいうべきだろうか。馨にはそれがある。

「ふうむ」

「どうしたんです、急に。村上先生の小説に出てくるような相槌をして」

「いやあ、別に意識したわけじゃないけど」

 ずいぶんとマニアックなツッコミに対して、キズナは困ったようにはにかんだ。

「まあ、いいや。それで、結局おじいさん方はまだそんなことを言ってるわけか」

 そんなこと、というのは、キズナが海外への進出を企てていることを知った正史編纂委員会の上層部がなんとかキズナを日本に留めようと画策していることである。

「お気になさらず、海外でも月でも好きなところに行っていいですよ」

「おわー、適当。一応、説得役なんじゃないの」

「先輩が、僕程度の説得で意思を変えるとは思ってませんので。失敗するとわかっていることに時間と資金を投じるのは愚かしいことですよ」

「それは、まあ、そうかもしれないけどさ。まるで話がわからない人、みたいに捉えられているのが釈然としないな」

「では、日本に残ってくれますか?」

「それとこれは別問題」

「ですよね」

 互いに、微笑みをかわしてから、カップを口に運んだ。

「カンピオーネをどうこうする力があったら、呪術の歴史は大きく変わることでしょうね」

 それから、馨は真剣な表情でキズナを見つめた。

「先輩の正体。一応、僕なりの推測は立てています。というか、すでに先輩が答えを言っていましたけど」

「お、さすが。……その推測とやらを聞きたいね」

「以前先輩は、生まれる前からカンピオーネだったと冗談交じりに言いました。でも、もしもそれが冗談ではなかったとしたら……ファンタジーな事柄で、証明のしようもありませんが、これなら納得のいく話です」

「つまり」

 キズナは、馨の推測を楽しむように先を促した。

「つまり、先輩は元々この時代の方ではない。なんらかの権能を用いて、月沢キズナとして生まれてきた過去のカンピオーネというのが、僕の推測です」

「わたしが持っている権能の中に、生まれ変わる権能がある、と言いたいのね?」

 キズナがそう確認すると馨は神妙な面持ちで頷いた。

 馨が、わざわざ口にだすということは、彼女の中でこの考えが信憑性があるという結論に達しているということでもある。本当のところはキズナの口から聞かなければわからないのだが、それでもそれなしで真実を言い当てるとなると、それはもうさすがとしか言えない。

「それだけを聞くと、突拍子もない意見よね」

「はい、ですが僕なりの根拠があります」

「その根拠を聞いてもいいかな?」

「はい。例えば、先輩の魔王としての活動実績が乏しいにも関わらず、すでに複数個の権能が確認されていること。これは、はっきり言って異常です。現代、『まつろわぬ神』が力を振るえば、その痕跡をトレースすることは不可能ではありませんし、各地の呪術結社が情報収集を行っています。そのうちの一つにも引っかからないというのは、おかしいのです」

 キズナが今生で『まつろわぬ神』を討伐したのは三回だけ。そのうち二回は、オオクニヌシと不動明王である。ヴォバン侯爵との戦闘を含めれば、都合四度しか戦場に出ておらず、不動明王以外は、すべて辺境の地での戦いであった。

 とはいえ、馨も知らないことであるが、キズナは出入国記録を残さず海外に出ることがよくあった。キズナの行動を追うというのは、困難を極めるのである。また、ヴォバンと侯爵とドイツで戦ったのが、キズナであると断定されていないのも、彼女に出国記録がないからである。

「次に、先輩の尋常ならざる呪術の才。初めから知っているかのように術を使ってましたよね?」

「まあ、わたし天才だからー」

 おどけたように言うキズナ。これが事実だから性質が悪い。実際にキズナは天才なのだ。およそ日本に存在する呪術の九割は理解していると言える神懸かった才能を有する。

 そのため、これだけでは根拠薄弱と言わざるを得ない。

「そして、水原さんの存在」

「龍巳が、どうしたって」

「あの方も不思議な方ですよね。例えば、雅楽への造詣があまりにも深い。失われた秘曲を再現した天才として、表からも注目を集めていましたが、はっきり言って異常でしょう、これは」

「まあ、そうね」

 そういえば、そんなこともしていたなあというくらいでしかなかったが、確かに、失われた秘曲の再現を行ったというのであれば、注目されても仕方がない。

「それで、先輩はあの方といつごろからのお知り合いなのでしょうか?」

「前世から」

 迷いなく答えるキズナに馨は、ため息をつく。

「それ、本当じゃなかったら、先輩はただの重い女ですよ」

「お、お、重くないわッ。失礼極まる後輩だなッ」

 全力で否定するキズナを、馨は微笑ましそうに眺めている。からかわれていると察して、キズナは無理矢理にでも感情を押さえつけた。慌てた分だけ陥穽に嵌る。

「ほかにもいろいろとありますが、先輩達には不審な点が多いというのが僕の意見です。不動明王との戦いでも、水原さんが神獣に跨っている姿が確認されていますしね。先輩は、転生の権能を持つカンピオーネで水原さんは、先輩に引きずられてこの世に生まれた従者ともとれます」

「……極論ね。SF作家になれるんじゃない?」

「僕は好きですよ。SF」

 わかっていたことだが、馨は政治的にかなりできる女だ。

 無論、そんな言葉での戦いなど、カンピオーネにはまったく意味を成さないことなので、キズナにとっては脅威ではないが、彼女なら、キズナの存在をうまいこと外交カードに利用しかねない。

 さすがに怖気のする話である。

 付き合いが数年になるこの後輩の恐ろしいところは、天性の政治能力である。さらに、そこに自分なりに状況が面白くなるようなアレンジを加えるということもやってのける。

 政治家としての才能は数十年に一人の逸材だ。

 沙耶宮馨は、性別こそ違えど一人の政治家を彷彿させる。もしも、彼女がキズナがかつて過ごした時代にいたのなら、果たしてあの男とどこまで張り合ったであろうか。それを思うと、自然と笑みがこぼれる。

「先輩?」

「ああ、ごめん。ちょっと、あなたがあまりにも知り合いに似ているものだから」

「ちなみに、そのお知り合いがどなたなのか尋ねても?」

「それは、秘密」

 キズナは、笑ってこの話を打ち切った。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 馨と喫茶店で話をしてからさらに二ヶ月ほどが経った。

 キズナは、新潟駅にやって来た。彼女にしては珍しく公共交通機関を使っての移動だ。時間がかかるので普段は権能で空を飛ぶのだが、時折こうしてゆったりとした旅がしたくなることもある。新幹線で直通なのに、わざわざ在来線を使って何時間もかけてきたのがその証拠である。

 季節は真冬。東京都内はそうでもないが、山間部は尋常ではない量の雪が降り積もっている。電車もダイヤが大いに乱れていた。朝早くに家を出て、到着したのは昼過ぎである。さすがに、途中で電車から抜け出してしまおうかと思った。

 キズナは、抜群に目立つ少女である。

 駅のホームを歩いているだけで、様々な視線に曝される。

 日本人離れした黄金色の髪。多くが黒い髪を染めているのに対して、キズナのそれは生まれながらの地毛である。多少童顔なために、実年齢よりも若く見られがちなために、美しいというよりも可愛らしいという感想が目立つが、そんな彼女も高校卒業を間近に控える身である。日本の法律ではそれでも未成年ではあるが、高校を出るということは、精神的には大人の仲間入り、もしくは予備軍という扱いになる。人によっては進学をせずに就職を選ぶ者もいる。

 大人のきざはしを登り始めたキズナは、おそらくこれからさらに女らしさを磨いてゆくのだろう。

 少女から女への生まれ変わる転換期を迎えようとしている。

 それは、心踊ることであると同時に、少なからぬ不安を抱かせることでもあった。

 後一ヵ月半もすれば、キズナはこの国から外へ旅立つことになる。

 今の時代、進学や就職の道を行く者は多々あれど、世界を当てもなく流離おうというのは希少であろう。

 資金、時間、将来、そういった数々の課題が横たわるからだ。しかし、キズナにとって、そのようなものは瑣末なことである。時間は有り余っているし、資金はいくらでも、どうとでもなる。将来についても言わずもがな。所詮は資金も時間も将来も、真っ当に仕事をする人間が考える事柄であり、カンピオーネとして世に出た彼女が今さら気にかけることではなかった。

 結局、彼女は望まずして搾取する側にいる。

 『王』が生活について頭を悩ませることなどない。

 そういったことを考えると、先のことを悩む必要がないだけ同世代の中では恵まれている。

 コンビニで買ったビニール傘を差し、ブランド物のベージュのコートを身につけたキズナは、目に付いたレストランで時間を潰すことにした。

 通された席に座って、紅茶を頼む。

 窓の外には、雪に覆われた道を、車が走っている。東京では、あまり見ない光景だが、度々龍巳の下を訪れるキズナにとっては、すでに見慣れた風景である。

 日本海側でも豪雪地として知られる県だ。平野部でも毎年、くるぶしくらいまでは最低でも雪が積もる。

 キズナは腕時計を確認する。時刻は三時過ぎ。

「もう行っちゃおっかな」

 約束の時刻までは、まだ、かなりある。それでも、電車の中でじっとしている時間があまりに長かったためか、身体を動かしたくてしかたがなくなってきた。

 とはいえ、相手はまだ学校に行っている時間帯だ。まさか、学校に突撃するわけにもいかない。ここは、この地方都市の散策をするしかない。

 キズナは、そうと決めると紅茶の最後の一口を飲んでから、会計をして外に出た。

 湿り気を帯びた重い雪が、ブーツの裏で固まって鈍い音を立てる。

 

 二月一四日。

 

 空は無機質な灰色ながら、地上は浮ついたな活気に包まれていた。

 

 

 

 □

 

 

 

 龍巳は、表向きは市内の高校に通う一般人となっている。もちろん、呪術師としての顔を併せ持つ彼は、普通の高校生に比べれば多少忙しさで勝るが、それも部活動に熱心な学校に進学した中学時代の友人を思えばどっこどっこいと言ったところだろう。 

 それに、忙しさでいえばキズナとは比べ物にならない。彼女は、そもそも呪術の天才であるし、媛巫女という役職にまで就いている。そして、この媛巫女は未成年者であっても奉職する義務を課せられるのである。

 秋にカンピオーネとして名乗りを上げてから、媛巫女としての職務が激減して喜んでいた姿を思い出す。

 正史編纂委員会も、さすがに、魔王に仕事を押し付ける真似はできなかったのだ。

 龍巳は、一年間過ごした教室を見回す。

 高校三年生の二月。

 センター試験が終わってから三週間ほど経って、空気が弛緩し始めた頃だ。これから、三月の本番に向けてラストスパートと行くべきなのだろうが、張り詰めていた精神が、センター試験と私立入試を乗り越えたことで、たわみ始めた。今は、ちょうど中だるみの時期というわけだ。

「そういえば、今日は人が多いな」

 龍巳は、どうでもいい感想を漏らした。

 この日は、珍しくクラスメイトがそろっていた。

 昼休みを過ぎたころ、購買から『期間限定新潟進出! よーぐるっぺー』を購入してきた時である。

 

 センター試験が終わってから登校の義務がなくなったので、私立一辺倒であったりセンター利用の学生は、学校に来ることなく遊び呆けている。

 加えて、学校に来る学生たちも、受験に必要な授業科目だけを選択して、それが終わったら即帰宅という者が多い。

「多いな、じゃねえよ。当然だろ」

 隣の席の有賀が呆れたように言った。

「何が」

「そりゃあ……」

 有賀は、急に神妙な顔つきになって声のトーンを落とした。

「今日はバレンタインだろう」

「ああ、そうか。今日は一四日か」

 それで妙に空気が浮ついていたのか。

「気づいてなかったのかよ」

「いや、知ってはいたけど、それが原因で登校人数まで変わるとは思ってなかった」

 バレンタインデーは、恋人達の聖なる日であり、日本ではチョコレートを送るのが一般的とされる。一節には、日本で一年間に消費されるチョコレートの実に二割を一日で消費するとされるほどのビッグイベントだ。

 慣例的に女性から男性へ送るのであるが、最近はその限りではない。

 友達同士で交換するというのもいつの頃からか広まっていて、テレビなどで取り上げられる。

「三年は気合の入れようが違うからな」

「なんで」

「最後だからさ。今日が高校最後のバレンタインだぞ?」

 ずい、と顔を寄せてくる元野球部。引退してから半年。かつては坊主頭だったが、最近は垢抜けようとしているのか、髪を伸ばしている。

「もう、会えねえから、みんな盛り上がってんだよ」

「そういうことか」

 男女ともに、最後のイベントだからこそ、その重要性は跳ね上がる。それこそ、受験勉強を一日忘れるくらいにだ。

 友チョコを交換している女子もいれば、そのチョコレートを虎視眈々と狙う男子もいる。

 なるほど、これは季節の風物詩というべき光景だ。

 とはいえ、これも今日で見納めかと思うと、胸に来るものがある。

「おまえ、確か進路海外だろー。向こうには、こんな青春イベントたぶんねえぞ」

「有賀。おまえは海外のなにを知ってるんだよ」

 青春イベントがない、なんてことはないと思う。

 それに、高校を出た時点で、厳密な意味での青春イベントは終わりだと思うのだ。高校から先は、大人の領域に足を突っ込むわけだから、青春と一口に言い切れないのではないかと。

 龍巳は、購入した乳酸菌飲料で喉を潤しながら、時計を見た。昼休みが終わるまで、まだいくらか時間がある。

「てか、龍巳はなんで学校来てんの? 大学受験しないんだろ?」

「家にいてもすることないじゃないか。そういう有賀こそ、推薦決まってるじゃないか」

 スポーツ推薦が決まっている有賀は、龍巳に次いで進路が確定した言わば勝ち組だ。受験戦争とも縁がないので、気楽に過ごしているはずなのだが、勉強嫌いにもかかわらず、ほぼ毎日学校に顔を出していた。

「うちのお袋専業主婦だぞ」

「それが」

「一日中家にいてみろ。あのお袋とずっと一緒にいるわけだろ。なんていうのか、暇人に向けられる親の視線が……ぶっちゃけ痛い」

「なるほど」

 母親と一日中一緒にいるよりは、気心の知れた友人と時間を共にするほうが幾分かマシということだろう。授業を受けずに、控え室扱いの教室で駄弁ってることもできるので、間違った選択ではないのかもしれない。

「へい、そこの男子ー。なに、二人でバラ色醸しだしてんのサ」

 と、言いながら現れたのは、クラスのムードメーカー的な位置付けの女子生徒。

 机の前に来た彼女を見て、有賀は嫌そうな顔をした。

「誰がバラ色か。何、もしかしておまえそっちの気があるわけ?」

「ば、バカな事言わないでよね。今の、あれよ。言葉のアヤってやつよ」

「はいはい、そうですね。そういう事にしておきますよ」

「全然、信じてないでしょ。言っとくけど、ありもしないことを言いふらしたら、家に帰れなくするからね」

「こえーよ。いったい何されんだよ、俺」

 有賀はげんなりした表情でそう言った。

「壬生さん。何か、用事?」

 有賀と壬生のやり取りを見守っていた龍巳は、会話が一段落したと見るや尋ねた。

 壬生は、ふふん、と自慢げにビニール袋を掲げた。

「ほい、これ。今年最後だからねー」

 と、袋の中を見せられた。

 中身は、チョコレート。市販品のチョコレートがバラバラに入っていた。どれでも好きなものを選べということか。

 いわゆる義理チョコであろう。手作り感は皆無で、とにかく安い菓子で数をそろえて袋に詰め込んだという感じだ。

 それを見た有賀が、また余計なことを言う。

「うわー、これ、女子力低いとかそういう次元か」

「黙れ。あんたには、これで十分よ」

 ビシ、と有賀の額に四角いなにかが叩きつけられた。

「痛え! なんだァ」

 そして、有賀は自分を強襲した物体を見る。机の上に転がっていたのは、一辺が一センチほどの四角いチョコレート。一〇円菓子の代名詞の一つである。

「ちょ、ちろるかよ! もっといいのあるだろ!?」

「文句言った罰よ。『古文』を見習いなさいよ。文句言わずに粛々と選んでるわ!」

「コイツは当てがあるからいいとしてもだ。まったく当てのない男にちろるとか、究極的にやっちゃいけないことやろが!」

「なに? あんた、相手いないの? ご愁傷様ー」

「許せん! 男の純情を踏みにじるこの魔女、許せん!」

 二人は、ぎゃあぎゃあと、言い合いを始めた。

 なんということのない、平々凡々としたいつもの光景だった。

 ちなみに、『古文』とは、一部からの龍巳の呼び名である。入学以来、古文漢文の分野に関して全国一位を取り続けた男には相応しいといえよう。

「仲いいな、君ら」

「よくない!」

 龍巳の感想に、二人は同時に、声をそろえてそう言った。

 

 

 五時間目が終わったころを見計らって龍巳は荷物を纏めて玄関に向かった。

 一、二年生は六時間目まで普通授業で、国公立受験を控えた生徒も六時間目があるのだが、龍巳はそもそも受験をしないので関係がない。暇を持て余したがゆえの登校なので、帰宅時間もまた自由である。

 そこに、有賀も付いてきた。

「おまえも帰るのか?」

「おう。俺は、もうこれ以上この学校(せかい)にはいられん。帰る。帰ってパソコンの電源を入れる」

 なにやら打ちひしがれている模様だ。

「まあ、いいんだけど……」

「相手がいる奴にはどうせわからんだろうよ。この無常感は。今年こそはと期待してたのに、ちろるしかないんだ。ああ、無常」

「楽ありゃ苦もあるって。今が苦しい時なんだろ」

「来年。そうだ。まだ、来年がある。来年度から本気出す」

「その意気だ。俺たちは、まだ一〇代だ。未来は広いぞ」

 と、話をしているうちに、校門を出た。

 そこは小さな路地になっていて、住宅街の真ん中に学校が建っているということがわかる。普段はここから自転車、バス、電車とそれぞれの方法で帰宅することになるのだ。

 龍巳が普段使う交通手段は、バスか自転車。今は冬で路上には雪が積もっているため、バスを選択するしかない。

 そうしてバス停を目指して歩いていると、すれ違う人のひそやかな声が聞こえてくる。

「あの娘、すっごい可愛くなかった?」

「人形みたい」

「ハーフっぽくね。どこの学校だろ」

 などという会話だった。

「なんか、めっちゃ美人がいるっぽいぞ!」

「みたいだな」

 嬉々としている有賀には悪いが、会話の端々から聞こえてくる特徴が龍巳の知るとある人物に相当しているような気がしてならない。

 確かに、今日水原家を訪れる約束はしていたが、それは夕方の話で、今はまだ四時前である。

 彼女の権能であれば、公共交通機関の影響は先ず受けないだろうし、何かしらの約束をしたら、時間きっかりに現れるのが常である。

「おい、古文。あれ、そうじゃねえか?」

 やや興奮した面持ちで、有賀が視線を向けた先には、やはり、彼女がいた。人気のないバス停のベンチに座る彼女は、それを遠巻きに見る人の視線を気にすることなく、スマートフォンを弄っている。

 それから、彼女はふと顔を上げた。

 龍巳と視線が交差する。

 そして、スマートフォンをカバンに押し込み、すっくと立って、つかつかと早足で龍巳のところまで歩み寄った。

 腰に手を当てて、仁王立ちになる。

「遅い!」

「いや、どっちかっつうとそっちが早いんだけど」

 龍巳の隣で、有賀がこの世の終わりのような表情で愕然としていた。

 

 

 

 □

 

 

 

「おまえなんか、おまえなんか地獄に落ちて死んでまえー!」

 男の涙を流して、有賀は去った。

「何、アレ?」

「あー、まあ、気にしないでやってくれ」

 キズナは不思議そうに尋ねたが、有賀の心境を思うと踏み込ませてはならないのだろうと思う龍巳であった。

「それで、なんでこんなところにまで来たんだ。うちに来るって言ってたじゃないか」

「何か不都合でもあった?」

「いや、ない」

「じゃあ、いいじゃん」

 キズナはトントンと片足のつま先で雪を退かした路面をつつく。

 膝まであるブーツはご丁寧に雪国用の滑り止め付きのようで、底に付いた雪を振動で落としたのだ。

「じゃあ、行くか」

 予想外に衆目を集めることになったので、そのことには多少辟易しつつも、龍巳はキズナと一緒に帰宅することにした。

 そんなことに慣れっこなキズナは当然、気にしない。

 黙っていれば、容貌がさらに際立ち、高貴な姫と形容することもできそうなくらいの気品を醸し出す。バスの中でも電車の中でも、目立っていながら声をかけられないのは、偏に彼女に声をかける猛者が誰一人としていなかったからだ。

 そんなキズナは、雪の少ない土地で暮らしてきたとは思えない足取りで雪道を進む。

 水原家には、最寄のバス停から徒歩五分。市内の中心地に聳えるビル群を見下ろす高台にある。

 バスから降りた二人は、深々と降る雪の中を歩いた。

 途中、小さな公園に立ち寄って、高みからの景色を眺めた。

「うーん、この地形。越後山脈とこの高台が、平野部を囲んでいるって感じなのかな」

 と、一通り眺めたキズナが龍巳に尋ねた。

「このあたりは、もともと砂丘だったらしい。それを宅地開発なんかで舗装したりして今の住宅地になったと聞いている。元の砂丘は、縄文時代以前からの川の流れや海水面の低下なんかで形勢されていったらしい」

 水との共生と戦いが、新潟の歴史である。今でこそ、米どころと名高い新潟も、ほんの数一〇年前までは水はけの悪い湿地帯が広がった、稲作に不向きな土地だったのだ。特に、今現在ビッグスワンなどのスタジアムが建設されている亀田のあたりは、腰まで泥に浸かって稲作をしていたという。

 以前、社会科で習ったことと、独自に調べたことを混ぜ合わせて説明すると、キズナは、聞いているのかいないのかわからない曖昧な返事をした。

 キズナにとって、この街の歴史などは大した意味を持たないのだろう。

 キズナは、前触れもなく龍巳の首筋に指先を伸ばした。

「うお、冷たッ!?」

 龍巳は、ひんやりとしたキズナの指に驚いて、身を引いた。

「いきなり何をする?」

「いや、なんとなく」

 と、言いながら、キズナは自分の指先をこすり合わせている。

 寒風吹き荒ぶとまでは行かないが、雪が降り積もるくらいには気温が低いのだ。寒いのは当たり前か。まして、キズナはマフラーこそ巻いているが、手袋をしていないのだからなおさらだ。

「そろそろ行くか」

「ん」

 龍巳は、キズナの手をとって歩き始めた。キズナは、少し驚いたようだったが、特に抵抗することなく、そのまま龍巳の隣を歩いた。

 右手の中に感じる小さな彼女の手は、やはり冷たく凍えていた。痛々しいくらいに白くなった指は、百合か骨のような無機質さがあって、触れるだけで壊れてしまいそうだった。だから、龍巳はキズナの手を強く握らず、そっと触れる程度に抑えた。

 この凍えた手の平が、少しでも温まるようにと願いながら。

 


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