極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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十三話

 上空に巨大な火の玉が出現し、そして熱風が吹き荒れた。キズナが二発のミサイルを撃墜したのだと、龍巳にはすぐに理解できた。

 人間大のキズナと戦闘機とでは、どうしても機動力に差が出る。特に旋回能力はキズナのほうが高く、速度は互角となれば、格闘戦において戦闘機側の勝利は絶望的だ。上空での戦いは、終始キズナが優勢に進めていた。

 龍巳は、最近になって意思疎通が取れるようになった狛犬たちと、湿地帯を駆け抜けるように走りつつも、二両のT-90Aに対して近接戦を挑んでいた。

 砲撃は音速を超え、戦車でありながら移動速度は非常に早い。重量を感じさせない軽やかさで以って大地に二筋の痕跡を残している。

 重低音の旋回音。 

 戦車の側面に回りこむ狛犬とその背に跨る龍巳を狙うため、砲塔が旋回しているのだ。

「跳べ!」

 龍巳の一声と同時に狛犬が強靭な後ろ足で地を蹴って跳躍した。

 瞬間、背中を焼く爆風に押され、狛犬は空中でバランスを崩した。

「ぐ、大地の恵みよ。我を守護せよ」

 狛犬の着地地点の地面から、柔らかそうな草が生え、無数に折り重なってクッションとなる。

 龍巳と狛犬は、緑のクッションの上に落ちる。そして、すぐに龍巳は緑のクッションから飛び降りて、神殺しの呪を唱えながら刃を一閃。煌く呪力が大きな刃となって戦車の鋼皮を抉る。伊達にキズナの従者をしていない。生前から乗り越えた修羅場は多数あり、神に対抗することのできる呪術にも心得があった。そうでなければ死んでしまうような場面が多々あったというだけだが、それも長年の研鑽を経て極めて高い威力の術として放てるまでになった。キズナの呪力で、人間離れした今の龍巳なら、『まつろわぬ神』の肉体を傷つけることも不可能ではない。

 しかし、それでも龍巳の刃で神殺しを成し遂げることはできない。

 龍巳の存在は条理を外れたものだが、理不尽には及ばない。

 砲が龍巳に照準を合わせる。

 半世紀前の戦車と異なり、現代の主力戦車は早々狙いを外すことはない。まして、それがグレムリンによって操られている戦車ならば、止まっている敵を打ち抜く程度造作もないことだろう。

 

 オオオオオオオオオオオッ!

 

 砲撃音に先んじて、咆哮が響く。

 龍巳の斬撃に合わせて地を蹴った二頭の狛犬が、先頭を走る戦車の側面に前足で強烈な一撃を叩き込んだのだ。

 鋭い爪が、戦車の装甲を大きく抉り取り、頑強な顎が砲身を噛み砕いた。

「南無八幡大菩薩」

 刀を地面に付きたて、弓矢を構えた龍巳は、破魔矢の呪法で矢を放つ。

 数キロ先の敵を狙い違わず射抜く呪術で狙うのは、狛犬に砲を向けたもう一両。放たれた矢は大きく弧を描いて、戦車の砲身に突き立ち、狙いをずらすことに成功した。

 あらぬ方向に飛んでいく砲弾が、土を跳ね上げ爆炎を吹き上げる。

 その隙を逃す狛犬ではない。

 玩具にじゃれ付くようにして拉げた戦車で遊ぼうとしていた狛犬は、自らを狙った不届き者に対して牙を向いた。

 ガリガリと鋼を削る音が響く。

 ゼロ距離になった時点で、戦車にはどうすることもできなくなる。

 狛犬は、戦車をひっくり返し、装甲に爪と牙を突き立てて、情け容赦なくこれをスクラップに変えてしまった。

「こっちのは、始末できたか」

 龍巳は一先ず安堵した。

 これで残る戦車は二両。龍巳のほうではなく、キズナを狙っていた車両は、こちら側には向かっていない。

 再び空に大きな炎。 

 拉げた鉄塊が炎上しながら墜落していく。その様子を遠巻きに眺め、龍巳は心の中でガッツポーズをした。

 敵の航空戦力は残り一機だ。

 勝利が見えてきた。そう思った矢先だった。

 龍巳に対して、最初に撃破した戦車が砲身を向けていた。

「ッ!」

 いかにカンピオーネから加護を得ているとはいえ、『まつろわぬ神』の攻撃の直撃を受ければ重傷は避けられない。

 対処が遅れた龍巳に残されていたのは、死に物狂いの回避か、全力防御のどちらか。それも、不完全なものでしかない。

 覚悟を決めて、行動しようとした瞬間、龍巳の視界を虹色の矢閃が埋め尽くした。

 戦車は搭載していた火薬に火がつき、呪力を撒き散らして爆発炎上する。

「詰めが甘いんじゃないの?」

 炎の中に轟然と立つキズナは戦いの消耗を感じさせない涼やかな表情で、からかうように言った。

「すまない、助かった」

「ううん。こっちこそ。二両も引きつけてくれたおかげで、空の敵に対処しやすくなった」

 軽やかに戦車の残骸から飛び降りたキズナは、気づけば龍巳の傍らに立っていた。移動の過程は一切見えなかった。

「心臓に悪いから、止めてくれ。本気で、ビビッた」

「この程度でビビってたらダメだってー。朱雀門の鬼と対峙したときを思い返してみなさいよ」

「それとこれとは方向性が違うだろう」

 荘子の権能は、攻撃に転じるのが難しい代わりに様々な用途での使用が可能な万能型。空を飛ぶのも、すり抜けるのも、防御にだって使える上に、こうして短距離ならば空間跳躍すらも可能となる。

「飛ぶよりも疲れるんだろ。それは」

「まね」

 空間跳躍は、あまり多用できるものではない。単純に消耗が激しいからだ。一回や二回でどうにかなるほどではないが、飛行でも移動は可能なわけだから、好んで疲れる方法を取る必要もない。だから、キズナが空間跳躍を利用するのは、イタズラか、よほどの事態に限られていた。

「イタズラで使うな」

「いいじゃないの。殺伐とした戦闘の最中に、一握の清涼を求めてもさ」

 拗ねたように唇を尖らせたキズナは、その反面で戦闘態勢を整えている。弓手には虹の弓。そして、馬手には虹の矢が出現している。

「グレムリンを倒す」

「おう。それで、方法は?」

 まつろわぬグレムリンは、非常に厄介な相手だ。攻撃能力に突出しているわけでも呪術的に強力というわけでもない。しかし、その在り方が厄介だ。事ここに至ってなお、グレムリンは姿を現していない。ただ、気配だけがある。目に見えないところから、攻撃を仕掛けてくるのは、まさにクラッカーの所業である。

「敵は、電子機器を操作しているというよりも、電子機器に憑依しているといったほうがいいみたい」

「憑依。つまり、あれか。あれとかこれにグレムリンがくっ付いていたと」

 龍巳は、破壊した戦車を指差して尋ねた。

「近いわね。意識の一部を切り離してる感じ。多分、感覚的にわたしの荘子と似てる。実在を離れて電脳世界に居しているんだわ」

「実体がない?」

「そう。グレムリンは、実体を必要としない。この場に存在するネットワークが、グレムリンの意思を現世に伝える媒介となるから。だから――――」

 キズナはそこで言葉を切って、空に弓を向けた。

「この付近一帯に存在するすべての電子機器を完全に使い物にならなくすれば、敵は姿を見せざるを得ない!」

「ちょ――――ッ!」

 龍巳が何事かと、キズナを制止するよりも、キズナが矢を放つほうが早かった。

 帝釈天の力を最大解放する『インドラの矢』が、空を割って地上に降り注ぐ。

 神話の世界で、悪鬼羅刹の軍勢を一撃の下に消し飛ばした武神の秘儀は、圧倒的破壊となって周囲一体を焼き滅ぼす。

「――――――――ッ」

 世界が虹色に染まった。

 空から降り注ぐのは、雷撃と虹。

 かつてない広範囲を対象に、無差別に爆撃している。多少の狙いは定めているのかもしれないが、龍巳の目から見て、ここまで大規模に破壊を振り撒いていては狙いもなにもあったものではない。

 大地が激しくゆれ、舞い上がる粉塵と撒き散らされる熱が龍巳を襲う。権能を使ったキズナですら、堪らず地に伏せた。

 音すらも吹き飛ばす爆音。

 指向性のある虹雷は、指定範囲内の電子機器を物理的に破壊しつくしたのである。

「どうやら、うまくいったみたいね」

 地に伏せていたキズナは、自分がもたらした破壊痕には目もくれず、ただ成果だけを見ていた。

 生き残っていた二両の戦車と一機の戦闘機は、すでに存在しない。爆撃の開始から一〇数秒ほどで、消し炭となったからだ。

「何が上手くいっただ! 危うく巻き込まれるところだったし、尋常じゃねえ自然破壊かましてるじゃないか!」

 緑豊かな湿地帯が、一分と立たずにまるで畑のように掘り返されてしまった。その事実に龍巳は愕然とした。彼も、共犯であるが、感性は一応人のそれなので、キズナ以上に衝撃を受けている。

「電子機器を破壊するだけだったら、もっと他にやり方があっただろ。別に権能使わんでも呪術で事足りたはずだ」

「これが一番手っ取り早かったのよ。細かいことはいいじゃない。誰が困るわけでもないんだし」

 今回蹴散らしたのは、自然だけ。人の手が入っているかどうかも定かではない土地で、地面を掘り返したところで困る人間はいない。

「電子機器を壊したんだろ?」

「あ……まあ、そ、それは不可抗力?」

 キズナは気まずそうに視線を龍巳から外した。

 龍巳は何も言わず、キズナの額に手刀を落とした。

「てい」

「あう」

 小突く程度の手刀。

 キズナは小突かれた額を摩る。

「やるからには勝てよ」

「うん」

 キズナは頷いた。

「大船に乗ったつもりで待っててよ」

 そうして、振り返る。

 周囲一〇キロ県内の電子機器はすべて破壊した。この周囲が尋常ならぬ破壊を受けているのは、グレムリンの支配を受けた戦車や戦闘機がいたために、雷撃がより攻撃的になったためだろう。

 電子機器は、グレムリンの能力の発現体であると同時に、グレムリンの本体を隠す隠れ蓑でもあった。それが、徹底的に破壊された今、グレムリンは巣穴を破壊されたネズミの如く、表に引き摺り出されざるを得ないのだ。

 キズナと龍巳の視線の先で、呪力が集中する。

 煙か霞か。判別できない靄のような何かが集まった。それは糸をより合わせるように絡まりあい、次第に実体を得ていく。

 ものの一〇数秒で、それは一匹の小動物に変わった。

「あれが、『まつろわぬグレムリン』?」

 龍巳はボソッと呟いた。

 それもそのはず。『まつろわぬ神』の強壮な肉体や雰囲気が微塵も感じられないその肉体は逆に異様だ。

 身の丈一メートルほど。黒い毛に覆われた猫背の身体。膝下まで届く長い毛むくじゃらの腕と、白い毛に覆われた長い指。背中には小さな羽根を生やし、胴体の上にコウモリを思わせる頭部がちょこんと乗っている。

 なるほど確かに、その外見は小悪魔と呼ぶに相応しい。

「か、かわいい!」

「おいおい」

 黄色い歓声を上げるキズナに、龍巳は思わずつっこんだ。

「かわいいか、あれ?」

 見方によってはマスコットキャラクターにいそうな雰囲気ではあるが、どっちかというとキモカワという部類な気がしないでもない。

 しかし、キズナの感性にいちいちつっこみを入れてもこの状況が変わるわけでもない。キズナがかわいさにまけることがないようにと祈るばかりだった。

「あーあ。あれが神獣だったら、配下に迎え入れてもよかったのになー」

 心底残念そうにしながら、キズナは鬼の大群を呼び出した。

 金色の狐耳と九本の尾を生やした戦闘態勢で、グレムリンに臨む。

「行け」

 キズナの号令の下、大小様々な鬼たちがグレムリンに向かって殺到する。

 黒い津波が、グレムリンを押し流そうとしたそのときだった。

「ッ!」

 キズナが目を見張り、九本の尾を鞭のように振るった。

 そのうちの一本が、火花を散らす。

「龍巳、伏せて!」

 龍巳は弾かれるように地面に再び身を伏せる。龍巳の背を掠めるように、キズナの尾が横一文字に振るわれる。

「チィッ!」

 キズナが舌打ちする。

「思いのほか、すばしっこいねッ!」

 今度は叩き付けるように尾を振るう。

 しかし、それも地面を抉るのみで敵を捉えることはなかった。

 神速の権能。

 航空機に容易く取り付きいたずらをするグレムリンは、高速移動の権能を有していたのだ。

「神速の権能。確かに、それは厄介、だけどッ」

 キズナの尾が鋭く真横に突き出された。

「ギッ」

 声を置き去りにして、何かが弾け跳んだ。

「わたしが何柱の神と戦ってきたと思ってるのよ。神速くらい、今までに何度も視たわ」

 神速が警戒すべき危険な能力なのは間違いない。しかし、高速戦闘の能力を持つ神は世の中に何柱も存在する。近接戦闘を極めた武神であれば、その多くが有する力でもあり、権能の中では非常にポピュラーな部類だ。キズナも、神速との戦闘経験は豊富。今さら神速を用いてきたところで動揺するはずもない。

 キズナに弾き飛ばされたグレムリンは猫のようなしなやかな動きで着地すると、鋭く長い爪を構えて威嚇する。

「龍巳。後は任せて、離れてて」

「ああ」

 『まつろわぬ神』が出てきた以上、龍巳の仕事はもうない。多少の斬り合いを演じることは可能だが、キズナが一対一で戦えるのだから、キズナに一任するのがベストだ。

 少々後ろめたい思いもあるが、龍巳は戦場をキズナに任せて素早く距離を取った。

 グレムリンは、龍巳には目もくれずキズナを睨みつけている。

「ギ、ギギア」

「なるほど、言葉が通じないタイプの神か」

 唸り声とも、言語ともつかない声を発するグレムリンにキズナはそう結論付けた。もとより言語の有無は戦闘能力に直結するものではない。人の言葉を話すことが、高い知能を有するということではないからだ。

 キズナの耳には、まともな言語に聞こえなくとも、グレムリンは高度な言語活動を行っている可能性は否定できない。

 例えば、プログラミング言語を音声化している、などということもありえる。なにせ、グレムリンは現代の神。電子機器に潜み生活する悪魔ゆえに、利用する言葉も電脳世界で通じるものかもしれないのだ。

「ギキギキィ!」

 グレムリンが翼を広げた。小さな翼が膨れ上がり、その面積は数一〇倍にもなる。

 そして、空気が激しく揺さぶられた。

「ッア!」

 キズナは苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。

 九尾化を解き、耳を塞いだ。

 そこに、空間の揺らめきが襲い掛かる。

 飛び退くキズナに、グレムリンが飛びかかった。

「ギギギイッ!」

「このッ!」

 グレムリンの進路を塞ぐように、巨漢の鬼が立ちふさがる。

 グレムリンの爪は、この鬼の腹部を切り裂いたが、キズナには届かなかった。

 そして、鬼を貫いてキズナの尾がグレムリンを強かに殴った。

「音……。スピーカーにでもなったつもり!?」

 畳み掛ける攻撃をグレムリンは小動物さながらの動きでかわす。実に素早く、その行動は猿のようだ。

 グレムリンは、キズナの尾が届かない距離まで離れた。

 キズナは忌々しげに渋い表情をする。戦車や戦闘機は、攻撃力が高い変わりに攻撃を当てやすかった。けれど、グレムリンはそもそも素早すぎて攻撃を当てることが至難の業だ。攻撃が当たるのであれば力技でどうとでもできるのだが、そもそも当たらないのではどうにもならない。

 現状、帝釈天の権能を撃ち尽くしたキズナには、攻撃手段が三通りしかない。九尾、ヤルダバオート、不動明王の権能だ。九尾は現在苦戦中。不動明王もすでに二度、敵の前で使用している。いまだに敵に知られていないのはヤルダバオートの重力と創世の権能だが、最大出力にするには時間がかかり、発動時間を短縮すれば一撃必殺の威力は出ない。精精敵の四肢をどれかを奪う程度だろう。頭なら、それで決着であるが、そう上手いこと運ぶはずがない。

 九尾の権能で召喚する神獣や使い魔では神速に追いつけない。事実、グレムリンは鬼の軍勢の相手をすることなく、主に斬り合いを挑んできた。召喚するだけ無駄なのだからと、キズナは早々に鬼たちに退場を命じている。

「たく、火力不足も甚だしいなあ。あんたを倒しても、大して強い権能は取れそうにないし……」

「ギギアギイッ!」

 倒す発言に怒ったのか、グレムリンはキズナに襲い掛かる。ジグザグに動いて撹乱しつつ、鋭い爪で首筋を狙っている。

 キズナは慌てずに印を結ぶ。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」

 そして、炎の嵐がキズナを取り囲んだ。

 

 

 □

 

 

 戦況は膠着状態に入った。

 電子機器という自らの最大の武器を失ってなお、まつろわぬグレムリンは強かった。強大というよりも、しぶとく喰らいついてくるタイプの生き汚さがある。神速で動き回り、猿のような身のこなしでキズナを惑乱しようとし、体毛を針状にして飛ばし、大音量の衝撃波を放った。四方八方から、キズナに攻撃を仕掛ける。一時も足を止めたりはしていない。

 一方でキズナは先ほどから一歩たりとも動いていない。

 紅蓮に輝く劫火の渦の中心に泰然と立ち、一心不乱に権能を使い続ける。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキナン・ウンタラタ・カンマン……」

 キズナが唱えるのは金剛手最勝根本大陀羅尼。密教系最強の調伏呪術、火界呪である。

 不動明王の加護を得て使用される通常の火界呪と異なり、キズナの使う火界呪は不動明王の権能そのもの。その威力たるやグレムリンの猛攻をまとめて焼き払い、逆に接近したグレムリンに焦熱攻撃を浴びせかけるほどである。近づくだけでダメージを受ける。まともに喰らえば防御系の権能を持たないグレムリンでは致命傷を負いかねない。それがわかるから、グレムリンは一定以上の距離を保って攻撃を行っている。神速はあくまでも牽制。本命は音波を初めとする遠距離攻撃だ。

 だが、それすらもキズナの炎を前にしては力不足だ。何もかもを焼き尽くす炎は、グレムリンの攻撃の一切を蒸発させてしまう。

 火界呪の炎は最強の防壁。そして、その炎は同時に最高の矛となる。

 無心に唱える火界呪の声音が、一際大きくなった。

 キズナの呪力を燃料に、爆発的に効果範囲を広げた炎の渦がグレムリンに襲い掛かる。

 グレムリンは神速を以って炎の魔手を潜り抜ける。

「視えてるよ。全部」

 炎の中で、キズナはささめくように呟いた。その顔はどこまでも無表情。無我にして空虚。元来巫女として最高峰の実力を有する彼女は、精神を統一することで世界を俯瞰するほどに意識を拡大する才がある。仏敵を調伏する火界呪を唱えるという作業は、精神集中にもってこいの状況であり、自然と集中力が高められるのである。そのため、巫女の直感が冴え渡る。グレムリンの神速を視切るほどに。

 火界呪の炎を蛇となり、網となってグレムリンの行く手を遮る。軽やかな身のこなしと小さな身体が回避を助けているが、それも限度がある。

「ギ、ギギギア」

 炎の蛇が口を大きく開けた。

 それはまるで紅蓮色の八岐大蛇。八本の炎がグレムリンに殺到する。そのすべてが、予想されるグレムリンの逃げ道を塞いでいるのだ。

 逃げ切れないと感じたグレムリンは防御のための攻撃に移った。

 全方位に音波攻撃を放つ。羽を電気的に振動させ、呪力で増幅。超振動をさらに呪力で強化して、指向性のある強烈な衝撃波として解き放つのだ。

 衝撃波が広がる。触れた地面は撹拌され、ごっそりと抉り取られた。炎の蛇は球状に広がる衝撃波とぶつかり、形が大きく歪んだ。

 八つの炎はグレムリンを中心とした半球を囲むように広がる。炎と衝撃波の接点。そこがキズナとグレムリンの呪力の境目だ。

 グレムリンの衝撃波は、キズナの炎に真っ向から対立した。ぶつけ合い、打ち砕こうとする。

 だが、それはグレムリンが回避から迎撃に移ったということ。もはや逃げることができないと、キズナに示したようなものだ。そこに追撃をかけないキズナではない。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキナン・ウンタラタ・カンマン……」

 小手先の技など必要がない。

 ただ炎を以って敵を焼き払うのみ。

 圧倒的な大火炎は、それだけ敵を骨も残さず灰燼に帰すこととなろう。

 キズナを取り囲んでいた炎の渦がほつれ、全エネルギーを前方――――グレムリンに向ける。

 それはさながら炎の津波。足を止め、炎の蛇に対処するだけで精一杯のグレムリンにはどうすることもできない。

「ギ、ギギアアアアアアア!」

 グレムリンはそれでも咆哮する。衝撃波はその力を高め、炎の蛇を押し上げた。だが、抵抗はそこまで。グレムリンの衝撃波は、キズナの放った炎の本流に僅かも抗することができずに呑み込まれた。文字通り消し飛んだ。炎が通り過ぎた後には何も残らなかった。草も消え、地面は真っ赤に融解した。大気は灼熱に炙られて陽炎の揺らめきを湛え、熱風を四方にばら撒いた。

「…………」

 だが、キズナは油断なく周囲を見回した。

 なぜかと言えば、『まつろわぬ神』を倒したはずなのに、身体に何の変化もないからだ。権能が増えることはなく、肉体は未だに戦闘態勢を続行中、となればグレムリンは死んでいないということになる。

「あの状況で避けた……ッ!」

 キズナは危機感に任せて半身になった。

 そこを何かが通り抜けていく。

 神速。

 グレムリンだ。

「一瞬だけ火界呪を押し上げたときに、包囲を抜け出してたのね」

 もう一度火界呪を使うべきか。いや、火界呪を使うと機動力を失う。念じ続けるという特性上、足を動かして使うわけにはいかないのだ。呪力をずいぶんと消費してしまったため、燃費の悪い火界呪は、キズナが求める水準の威力を発揮できるかどうか。

 そこで閃いた。

 そうであれば、形状を変えてしまおうと。

 可能か不可能かでいえば可能だと思った。

 キズナは脳裏に炎を描く。《鋼》の剣神の象徴。大地に突き立つ剣。炎より生まれ、炎に還るのは剣の宿命だ。

 紅蓮の炎がキズナの右手を貫いたようにも見えた。

「なるほどね。掌握するといろいろできるんだなあ」

 キズナは、ずっしりとした重量を感じる右手をしげしげと眺めた。キズナの手には、少女が振るうには無骨に過ぎる大太刀。不動明王の倶利伽羅剣をキズナが大幅にリメイクしたものだった。火界呪の力を一点に集中する。無形の炎だからこそできる形状変化と固定のアレンジだ。

 キズナは大太刀を右に左に持ち替えて、柄を握る。

「弓ほどではないけどね。これでも媛巫女らしく帝都を嗜む身よ。……剣術くらい叩き込まれてるわ」 

 帝都。正しくは帝都古流という日本の呪術師たちが学ぶ古武術だ。キズナも龍巳もこの帝都を幼いころから学んでいた。特に龍巳は前世から剣と弓で戦っていたこともあり、瞬く間に上位の実力者に上りつめたりもしたのだ。

「銘は……そうね。倶利伽羅竜王之太刀とでもしようかな」

 キズナは中段の構え。カンピオーネとして過ごした一〇〇余年の経験と野生的直感と、媛巫女の霊視能力が神速のグレムリンを捉える。

 キズナの背後から、一直線に翔けてくる。

 その先に、刃を置くように最小限の動きで振るう。瞬間的な未来予知に等しいキズナの直感は、擬似的な心眼ともなるのだ。神速を半ば視切っているようなもの。速いだけではキズナを撹乱するには至らない。

「ギ、キィ!」

 倶利伽羅竜王之太刀の切先が、グレムリンの肩口を掠めた。

 瞬間。刀身に込められた火界呪が一気に膨れ上がって火を噴いた。

 グレムリンが爆風で吹き飛んだ。その右腕は斬り飛ばされて蒸発する。

「ギイイイイイイイイ!」

「これ、すごいッ!」

 グレムリンは苦痛の悲鳴を上げ、キズナは倶利伽羅竜王之太刀の手応えに感激した。

「それに、火界呪のときと違って動けるってのがいいね」

 キズナはグレムリンに向かって疾駆する。常人をはるかに上回る身体能力で、距離を詰めて大太刀を振るう。

 無策に受ければ消し飛ばされる。グレムリンは神速に突入してこれを回避。斬撃の延長線上の大地が超高温に曝されて消し飛んだ。

 グレムリンは最小限の動きで、キズナの左側に回りこむ。右手に刀を持つキズナはそちら側に太刀を振るうのが遅くなる。本能で、勝利の方程式を組み上げた結果だった。

「ギイギイイイ!」

 鋭すぎる鉤爪が光る。

 キズナの頚動脈を狙って、一閃。

 しかし、グレムリンの攻撃がキズナに通ることはなかった。

 グレムリンの爪がキズナを抉る直前。キズナの姿が世界から消えたのだ。そのため、キズナを捉えそこなった鉤爪は無様にも中を薙いだだけに終わった。

 さらに、キズナの斬撃はグレムリンの予期せぬところから襲い掛かってきた。

 それは、グレムリンの背後から。

 危機感に任せて転がるように前方に身体を倒れこませたグレムリンは九死に一生を得た。命の代わりに右の羽を斬り飛ばされるだけで終わったのだから儲け物だろう。

 キズナはグレムリンの背後にいた。だが、どうやって。疑問が不安に変わり、グレムリンを責め苛む。

 グレムリンが睨みつけるキズナは、間違いなく本物。気配も太刀の脅威も何一つ変わらない。

「まあ、そう不思議がらないでよ。これ、結構疲れるし、あなたも踏ん張れば攻略できるかもよ」

 グレムリンは目を見張り、神速で飛び退いた。

 直前までは、敵に何気ない話をされていた。敵から目を逸らしたわけではない。しかし、本能に任せて飛び退いていながら脇腹を刺し貫かれた。

 神速ではない。移動の課程が一切見えなかった。どこからともなく現われ、どこからともなく斬りかかってくる。予備動作もなく、本当に唐突に現れるのだ。

 これは、勝てない。少なくとも、今は逃げに徹するより他にない。敗北ではない。戦術的撤退。次は、自分にとって都合のいい場所で敵を追い詰める。この場はグレムリンにとってあまりに不都合すぎる。敵の不可解な能力もあり、これ以上無理をしてはいけないと本能が警鐘を鳴らした。

 神速でなら、この不可解な敵からも逃れられるはずだ。

 グレムリンは撤退を選択した。

「あら。逃げるの?」

 背を向けたグレムリンに、キズナは獰猛な笑みを浮かべた。狩る者の笑みだ。

「夢に酒を飲む者は、(あした)にして哭泣(コッキュウ)し、夢に哭泣する者は、旦にして田猟す。其の夢みるに(あた)りては、其の夢なるを知らざるなり。夢の中に又た其の夢を占い、覚めて後に其の夢なるを知る」

 荘子の聖句を唱える。

 今回はこれまでと毛色が違う。なんといっても攻撃的な用法だ。

 荘子の権能を手に入れて、キズナの世界は広がった。認識が届く範囲ならどこにでも行けるようになった。空間跳躍のように物理法則を飛び越えるのも、意識が先にあって、肉体を再構成、もしくは召喚するというプロセスを経ているからだ。

 こうした、意識あっての肉体という変わった構造をしているキズナは、さらに飛びぬけた用法に手を出した。

「グギアアア!?」

 逃亡を図ったグレムリンの前に、金色の尾が襲い掛かった。九尾の権能だ。

「何を驚いているの?」

 涼やかな表情で、正面に浮かぶ金色の少女は尋ねてくる。 

 グレムリンは思わず後ろを振り返った。そして、さらに驚愕する。

 先ほどと変わらぬ位置に、大太刀を持ったキズナがいるのだ。

 この時点で、二人のキズナが存在することになる。

「ギギ、ギ」

 グレムリンは唸り声を上げた。幻ではなく、ただの分身でもない。権能によって作られたのは確かだが、それが何かわからない。

「隙だらけ」

 背後のキズナでも、目前のキズナでもない第三のキズナがグレムリンの肩に触れていた。

 そして、黒い球体を置いて飛び退く。

「ギ、ギイイイイイアアアアアアアア!」

 強烈な引力が発生して、グレムリンを呑み込もうとする。呪力を高めて全力でこれに抗う。

「さすが。動揺して隙を作っても、立て直すのは早いわね」

「まあ、逃亡しようとした時点で、わたしの勝ちは決まったも同然。精神面で負けたほうが死ぬのがこの世界の常識だしね」

 奇妙な光景だった。

 同じ顔の神殺しが、気軽に言葉を交わしている。

「キイイイイイイイイイ!」

 甘く見られてなるものか。

 グレムリンは呪力を振り絞って重力の檻から抜け出した。そして、一気に二人のキズナに襲い掛かる。

 完全にグレムリンは術中に陥っている。

 無策にキズナに飛び込んだところで、攻撃を当てられるはずがないのだ。

 当然にように、キズナの姿は掻き消えた。そして、一歩引いたところに現れたのは、大太刀を持つキズナ。

 無造作に倶利伽羅竜王之太刀を振るう。

「ギ――――」

 グレムリンはあっさりと身体を両断され、直後に発生した爆炎が跡形もなくその命を吹き飛ばした。

 


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