極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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十五話

 ルーマニアの片田舎ルシュノヴは、トランシルヴァニア最大の都市であるブラショヴと観光名所として名高いヴラン城の間に位置し、中世のドイツ騎士団が建造した石造りの要塞が残っているなど、歴史的景観にも秀でた街である。赤レンガの街並みは、夕日を反射して燃えるように輝いている。日本とは趣きの異なる春の風が、窓から吹き込んでキズナの髪を揺らした。

「んーっと……たはあっ」

 窓際のベッドに腰掛けたキズナは、大きく背伸びをした後に勢いよく後ろに倒れこんだ。柔らかいベッドに沈んだ身体は、その反発力で上下し、ベッドは音を立てて軋んだ。

 観光地だけに、ホテルを確保するのは容易い。まして、今は非常事態として、少なくない数の住人はブラショヴまで避難させられている。

 閑散とした街のホテルは、利用客はおろか、オーナーすらも不在という状況で、現在は、呪術関係者が宿泊に利用しているのである。そのホテルの一室を、キズナたちは利用している。キズナが命じて衣食住を確保させたからである。

 カンピオーネの雷名は、世界各地で通用する。鶴の一声で、すべてを決することができるのである。

「いやあ、気持ちいいわー。ここって、この街でも一番のホテルでしょ。ベッドが違うよねー」

 ベッドの上でゴロゴロとしているキズナに、龍巳は嘆息した。

「いつからベッド通になったんだ? おまえなら、いつでも、どこでも寝れるだろうに」

「あ、ひっどーい。それ、女の子に言う?」

「事実だからな。その証拠に、似たようなことをブカレストでも言っていたぞ。その前に車中泊をした時には寝袋にそんなことを言ってたな」

「あー、はいはい分かりましたよ。どうせ、わたしはにわかのグータラ女ですぅ。寝れればいいんですよー」

 不機嫌そうにしながら、キズナは布団の中に潜り込んだ。

 枕に頭を預けて龍巳のほうを見る。

 龍巳は、木製の丸イスに座りながら地図を眺めていた。

「これから、どう行動する?」

 龍巳に問われたキズナは、天井に視線を移した。

「とりあえず、敵の情報を集めないことには動きたくないよね」

 動きたくない。それはつまり、いつでも動けるには動けるということでもある。『王の吉兆』のメンバーなどは、今すぐにでもキズナに敵城に乗り込んで欲しいに違いないし、キズナも乗り込もうと思えば乗り込める。ただし、その際は城に潜む敵に対して、ほぼ無防備なままに開戦となってしまう。

「今分かっているのは、敵の正体が吸血鬼の逸話を持つ者だってことだけ。細かい情報は錯綜しているのが現状なのよ」

「なるほどね。それで、これから視てこようとしているわけか」

「そういうこと」

 クスリと笑ったキズナは、静かに目を閉じる。呼吸を整えて、身体の力を抜く。

「それじゃ、龍巳。わたしの身体の面倒は任せるよ」

 そう言った瞬間。キズナの意識は身体を離れてルシュノヴの空に移った。呪力で身体を再構成。紛い物の肉体に、意識を移す。幽体分離の術。千年前、まだカンピオーネではなく、身体が満足に動かせなかったときに多用した術である。当時を思い出すから、あまり使いたくはないのだが、利用できるモノは何であれ利用するのがキズナである。

「さて、行くか」

 太陽はすでに頭だけが地平線の向こうに出ている状況。東の空から闇が押し寄せてくる。相手の活動時間に入ることになる。

 だからこそ、偵察の意味があるのだ。

 キズナはヴラン城に向けて移動を開始した。

 

 

 部屋の中には静かに胸を上下させるキズナの身体と、龍巳が残された。

「身体は任せるね……そういうことは、男に言うもんじゃねえっての」

 ため息をつきつつ、窓際に歩み寄る。

 開け放たれた窓から身体を出して、キズナが向かったであろう方角を見る。何が見えるわけでもない。国道に面したホテルの二階とはいえ、同じような高さの建物が並んでいるのだからヴラン城が見えるはずもない。

 龍巳は、冷えてきた夜風が部屋の中に吹き込まないよう窓を閉めた。

 静かに眠るキズナの顔を、龍巳はまじまじと見た。

 血色のよい白い肌に、人形のように整った顔立ち。金色の髪、長い睫毛。なるほど、どこから見ても非の打ち所のない美人である。まして、日頃から仲睦まじくしているだけに、こうして無防備な姿を見せられるとドギマギしてしまう。

「だが、眠っている女子に手を出すのは男ではない」

 自分に言い聞かせるようにして、龍巳はイスに座った。そして、刀をいつでも引き抜けるように準備しつつ、文庫本に手を伸ばしたのだった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 幽体分離の術の利点は、偵察能力の高さにある。そも実体がないために、壁をすり抜けることもできるし空を飛ぶこともできる。これらの点は荘子の権能があるため意味を成さないとしても、術を解くとすぐに意識が本体に還るという点は使い勝手がいい。逃げ帰るのは一瞬で済む。それに、権能を使うと敵に悟られる可能性も高まる。

 畑が広がる地とはいえ、国道沿いには住宅が密集している。

 普段は明かりが窓から漏れ、暖かい人の気配に満ちていたであろう国道沿いの歩道は、今や月明かりに照らされた廃墟を両側に背負ってしまっている。

 人がいたはずなのに、人気がない。それだけで、恐ろしいまでに静まり返り、異世界感が漂う奇怪な空間と化してしまった。自然の中であれば、そこかしこに生命の伊吹を感じることができるのに、ここにはそれがない。真正の無が、空間を支配している。

 キズナは、目に付いた家の壁をすり抜けて、屋内に入ってみた。

 一通り中を見て周り、ルーマニアの家庭状況を観察してみる。テレビの傍に置かれていた写真立てには夫婦と小さな子どもの写真が収められていた。この家で、暮らしていた家族だろう。今は、街の外での生活を強いられているが、ほんの数ヶ月前までは、この地に生活の基盤があったのだ。テーブルやイス、本棚。そこかしこに降り積もった埃が、人の出入りが絶えて久しいことを物語っている。

「さっさと始末しなくちゃね」

 呟いたキズナは、ふわふわと漂いながら外に出た。

 小高い丘の上。木々に囲まれたブラン城を見る。濃紺の闇に浮かぶ姿からは、胸を締め付けるかのような不気味さが押し寄せてくる。

 ブラン城を目指して、キズナは歩を進める。キズナは位置情報システムを駆使して自分の位置情報を確かめつつ、歩を進める。そろそろ、一キロ圏内に入るころだ。最前線である五キロ圏内に入って久しい。未だに、敵襲はない。念のためにかけておいた摩利支天の隠形術が功を奏したか。

 時が止まった街並みを眺めながら、夜闇に紛れてキズナは進んでいく。住宅の影を利用し、幽体の利点を活かした家をすり抜けるといった方法も使い、ブラン城に接近する。 

 ここまでで、敵の使い魔の姿はない。犠牲者たちがリビングデッドとなって徘徊している様子もない。

「奇妙な……」

 呪術師たちが侵入したときは手際よく仕留めていたようだが、今回はキズナに気がついていないのだろうか。

 ともあれ、敵が出てこないからといって、そのままブラン城に侵入するつもりはない。キズナはまた手近な家屋に侵入し、一階を見て回った後、二階に上がった。

 そして、二階の部屋の隅に置かれたノートパソコンの前に座ると、電源を入れた。

「さあて、内側を見せてもらおうかな」

 キズナは緊張で乾いた唇を舐め、青い画面に視線を落とす。

「更新が溜まってるね。ま、仕方ないか。これは邪魔だから、すっ飛ばす」

 キズナの一掴みの髪が立ち上がり天を突く。それはさながらアンテナだ。キズナの頭にアンテナが立つと同時に、画面に映し出されていた更新画面は一瞬にして変わり、壁紙が映し出される。

「お、壁紙四星球って、マニアックな。悟空じゃないのか」

 世界的に有名なテレビアニメに登場する四つ星の球が中央にでかでかと映し出された画面にけちをつける。目を瞑り、呪力を流すと、パソコンの画面に数字とアルファベットが羅列されていく。それが、キズナに情報として伝わる。グレムリンの権能を行使するに当たって、媒体の有無はあまり関係ないのだが、それでも現代社会に毒されたからか、画面があったほうがやりやすいという理由で、パソコンを使用しているのだ。しかし、これは他人のパソコン。興味本位に内部を検索してみたが、初心な少女には直視し難い情報が含まれたファイルが散見されたりもした。それらのファイルの中身が脳裏に入り込んできた瞬間、反射的にデータを破壊してしまい、焦ったりもしたが、壊してしまったものは仕方ないと諦めた。復元作業をする気にもならなかったし、そんな時間もないのだ。

 キズナは、申し訳ないと思いながらも、気持ちを切り替えてネット回線にアクセスする。新たに得た権能を申し分なく利用して、進入したのはブラン城の警備システム。博物館として使用されているだけに、監視カメラなどの電子機器は満載されているのだ。

 『まつろわぬ神』に乗っ取られていながらも、電気は生きている。今の段階で、電子機器に干渉するのは、グレムリンくらいのものだ。時代によって誕生する神の性格は変わってくる。グレムリンは、現代に生まれたからこそ、現代の環境に適応した権能を有していたが、大半の『まつろわぬ神』は前時代的だ。電子機器には干渉できまい。

 キズナは電子の海に飛び込み、ファイアウォールを潜り抜けてブラン城の警備システムに容易く到達した。

 監視カメラの映像データを、手元のパソコンに転送し、メディアプレーヤーで再生する。画面に映し出されるのは、ブラン城の中のリアルタイムの映像だ。

 漆黒の闇を、暗視カメラは容易く暴く。

 映し出された映像を、眺めながら、キズナは敵の姿を探した。

 城内に設置されたカメラが送ってくる動画を切り替えながら探し続ける。キズナはブラン城を訪れたことがないため、内部の構造は知らないし、調度品の具合もわからないが、『まつろわぬ神』が乗っ取っている割には、荒らされたような痕跡はない。

「やっぱり領主的性格の神様か。化物にしては理性的か」

 そして、いくつもの画面を同時進行で確認していた時だ。とあるカメラに、動くモノを見止めた。キズナはすぐさまその動画のみを拡大表示。

 荒い画質を、権能を使って明瞭なものに変える。

 そこは、城内のチャペルだった。モノクロでわかりにくいが、真っ白な壁に囲まれた部屋で、奥には暖炉があり、壁には絵画や像が飾られている。チャペルの中央に置かれたテーブルの傍に、一人の男が立っていた。

 見た目は四十台の半ば。頬のこけた痩せ型だ。肩まで伸びた色素の薄い髪と口ひげが引き締まった印象を与える。しかし、この男を見たときに、真っ先に視線が向かうのは、やはりその身に纏う衣服だろう。衣服は中世の貴族服だ。今ではお祭りや演劇くらいでしか見ることのないものだが、その姿は実に堂に入ったものがあり、むしろキズナのほうが衣服の選択を誤っているのではないかと錯覚するくらいだ。

 そして、その威容。

 真っ当な人間であれば、彼を視界に入れた瞬間に膝をつき、頭を垂れて服従を誓うだろう。それほどまでに、その存在は力に満ち溢れていた。

「やっぱり、そう簡単に霊視はこないか」

 監視カメラの映像を眺めながら、キズナは舌打ちした。

 霊視を得るには、敵の呪力を直接感じる必要がある。カメラ越しでは、霊視は降りてこない。だが、それでも、敵を直接見ることができただけでも収穫だ。霊視とまではいかなくても、その強大さを直感できた。

 キズナは、これ以上監視カメラの映像を見ても仕方がないと、パソコンのシャットダウンを始めようとした――――その時だった。

 画面の中の男と視線が交錯した。

 一瞬の硬直。

 そして、獰猛な笑みを浮かべた男の唇が動く。

 

 ミテイルナ

 

 ルーマニア語で、そのように呟いていた。

「チィッ!」

 跳ね飛ぶように、キズナは立ち上がる。イスが勢いよく後ろに押されて壁にぶつかり、大きな音を立てて倒れたが、もはや気にするまでもない。

 キズナが立ち上がるのと、一階のドアや窓ガラスが押し破られるのは、ほぼ同時だった。

 そして、ソレは、キズナは手近な窓ガラスから飛び出そうとするころには、部屋のドアを突き破るまで接近していた。

「ウオオオオオオオンッ」

 咆哮。ギラリと緑に光る両眼。身の丈二メートル五十はあろうかという灰色の怪物だ。

 それが、ドアを突き破った勢いのままにキズナに猛烈なタックルをしてくる。まともにぶつかれば跳ね飛ばされる。

「おおっと」

 だが、歴戦の猛者であるキズナはその程度で慌てることはなく、幽体という特性を大いに利用して家の壁をすり抜けて外に脱出した。

 キズナは外壁をすり抜けた後、屋根の上に乗り、怪物は外壁を突き破って下へ落下する。

 派手な音を立てて、地面に激突するも、神の使いが二階から落ちた程度で動けなくなるはずもなく、すぐに立ち上がってキズナを睨みつけてくる。

 月明かりに照らされた、その怪物には尾があった。腕は筋肉質で長く、指の先には鋭利な爪がついている。全身は銀色の毛に覆われていて、強靭な足は、人のモノではない。どちらかといえば、カンガルーのような形状を呈している。長く伸びた顔、耳元まで裂けた口からは乱杭歯が覗く。

「人狼。ワーウルフか」

 キズナの瞳が、玻璃色に輝く。

「呪われし者。大地に還ることなく、地上を放浪する悪鬼の類。創造主たる悪魔も恐れる怪物……スラブ系の狼信仰が源流か。そういえば、スラヴでは狼と吸血鬼は同一視されてるんだった」

 遺体に残された獣の噛み跡。あれはどうやら、この人狼につけられたものらしい。

 人狼が遠吠えをする。

 狼の遠吠えが意味するもの。

 それは、仲間を呼ぶ、という簡潔なメッセージ。

 家々の屋根の上に、続々と人狼が跳び上がってくる。

 赤い瓦を踏み砕き、殺意を瞳に湛えて唸り声を上げる。

「なるほど……いや、これはまさしく四面楚歌」

 ぐるり、と周りを見回すと、人狼がざっと十五。路上にはどこからやってきたのか大型の狼の群れ。その中に紛れてよたよたと歩く人の姿がある。遠目から見ても、死人だとわかる。

 空が急に騒がしくなり、月明かりが絶えた。

 無数の蝙蝠が飛び交って、月光を遮っているのだ。

 そして、その蝙蝠たちは渦を巻いて一点に集中する。最後の一匹が消えた頃には、蝙蝠の群れは人の姿に変わっていた。

「ようこそ、我輩の国へ。異郷の神を殺した蛮族の娘よ」

 不敵に笑う老紳士が、キズナの前に降り立った。

 敵を目前にして、キズナの身体が戦闘態勢に切り替わった。

 身体の奥深くから、力が湧き出してくる。幽体がそうなのだから、おそらく本体もそうなっているのだろう。

「蛮族、ね。確かに、わたしは極東の出、あなたからしたら完全に異民族だけどね」

 キズナは、今にも飛びかかってきそうな人狼を睨みつける。

「ちょっと、手荒い歓迎じゃないかな?」

「いやいや、この程度手荒いうちには入らぬだろう。君は神殺しなのだ。人狼程度軽くあしらえる、に違いないと思ってね。ようは挨拶だよ」

「ふうん、そう」

 キズナは油断なく『吸血鬼』を見据えつつ、周囲の様子を窺う。

 血気盛んな狼たちは、今か今かとキズナの喉笛を噛み切る機会を待っている。そして、目の前には『まつろわぬ神』。

 なるほど、見たままで判断するならば、これほど不利な状況はない。

「まあ、いいや。わたしの目的は果たしたし、今日のところは帰らせてもらうわ」

「ここまで踏み込んでおいて、逃げられると思っているのかね?」

「逆に聞くけど、わたしを捕らえられると思ってるの? ――――ヴラド・ツェペシュ」

 瞬間、空気が凍えるかと思うほどの殺気が辺り一帯を侵した。

「我輩の名を盗み視たか。不愉快だぞ、魔女めが」

「あなたを愉快な気持ちにする必要はないと思うね」

 そう言いながら、キズナは内心で舌打ちする。ルーマニアにおいてのヴラド・ツェペシュは、救国の英雄としての側面が強いために、吸血鬼としては降臨しないだろう、という予想が外れたからだ。

 ヴラド・ツェペシュ。ルーマニア最大の英雄にして、世界で最も有名な怪物・吸血鬼。その怪物から放たれた殺気を涼しげな顔で受け流し、キズナは余裕を持って対峙する。

「何れにせよ、我輩の敵となったからには始末するのが道理。オスマントルコと同じだ。君の血で、この乾いた喉を潤すとしよう」

 スッと、ヴラドが手を挙げた。

 それを合図に、四方を囲む人狼が一斉にキズナを目掛けて飛びかかってくる。

「ほう……」

 ヴラドは目を細めて、獲物を見失った(・・・・・・・)人狼たちの様子を眺めた。

 人狼の爪がキズナの肌を斬り裂く瞬間に、彼女の姿は忽然と消えたのだ。

 幻か使い魔か。それとも別の何かなのか。呪術に疎いヴラドには、細かいことまではわからない。しかし、目の前にいた神殺しが偽者であるということくらいは理解している。

「紛い物の肉体を脱ぎ捨てたか。便利なものだ」

 ヴラドは、キズナの奇襲を警戒して暫し周囲の様子を観察していたが、彼女の気配がないことを確認すると踵を返した。

「魔女よ。今すぐに、あの神殺しの居場所を探るのだ」

 ヴラドは、足元に傅く女性に命令した。

 死相を浮かべ、首筋が大きく抉れた女性は、渇いた唇を動かして呪文を唱える。

「夜は始まったばかりだ。今宵は眠れぬぞ、人間どもよ」

 血の色をした瞳を爛と輝かせ、ヴラドは無数の蝙蝠に変わった。

 人狼たちは散開する。

 彼らも理解していたのだ。

 この日、今までにない大きな戦いが始まるのだということを。

 


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