極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

22 / 67
二十一話

 アイーシャ夫人。

 キズナにとって彼女は『天敵』である。

 能天気で何を考えているのか分からず、非合理的に物事を進める性格。天真爛漫で明るく、誰とでも仲良くなる。なんでもそういう権能を持っているらしい。カンピオーネであるキズナには効果がないが、人間には絶大である。その様子を、キズナはこの目で目の当たりにしている。

「……憂鬱だ」

 あの光景を思い出すだけでも怖気が走る。

 必要以上のカリスマ。権能によるものが大きいのだろうが、権能とは本人の性質によって変容するものである。つまり、あれはアイーシャの才能とも言える。

 人間嫌いも甚だしく、龍巳(ひろまさ)以外に心を許した相手がいなかったキズナにとって、人の輪を簡単に作ってしまえるアイーシャは人間以外の怪物のように思えた。

 引き篭もりがリア充を毛嫌いするのと同じである。

 その頃の苦手意識が、未だに抜けない。

 何よりも、あの権能は嫌いだ。

 キズナには不安があり、それが現実化する確信がある。

 アイーシャは、あらゆる時代を自由自在に行き来するカンピオーネであるが故に、今キズナたちの前に現れてもおかしくはない。千年の時を超える再会であるが、感動などできるはずがない。

 どうする……もしも出会ってしまったら。

 出会い頭に虹弓を放つか。頭と心臓に一発ずつ。ダメだ。意味がない。それは千年前に実践している。

 キズナは街を歩きながら苛立たしげに親指の爪を噛んだ。

「何を仕出かすか分からない。ああ、もう! どうすればいいのよ!」

 キズナは、ガリガリと頭を掻く。

 アイーシャがイギリス近郊に現れることはほぼ間違いない。そういう確信がある。式盤でも似たような結果が出ている。そういう『星』が現れているのだ。

「とにかく、龍巳。あなたは、わたしの目の届かないところにはいかないこと、いいね!」

 そう言って振り返る。

 だが、そこには誰もいなかった。

「はえ?」

 いつの間にか、キズナと龍巳ははぐれてしまっていたのである。

 ロンドンの大通りに一人取り残されてしまった。

 キズナは首を捻り、目を擦り、そして現実であると理解して、顔を青くした。

「く……」

 探索の呪術を使おうと、キズナは呪符を抜き放つ。それと同時に、唐突にビル風が吹き抜けた。

「きゃっ」

 その風が、キズナの手から呪符を奪い取っていった。

「うえ、くぉの」

 キズナが予備の呪符を取り出そうとして、さらに強力な風が吹く。運悪く(・・・)呪符を入れているケースの留め金が緩んでいて、ケースがホットパンツから外れた。キズナの足元には排水溝の蓋。蓋の網目をすり抜けて、キズナの呪符ケースは排水溝に吸い込まれていった。

「うあああああああッ! わたしの呪符があああああああああ!」

 そして、紛失した際に自動で燃えて灰になる術式によってキズナの呪符はすべて纏めて灰になった。

 崩れ落ちるようにその場に膝をつき、排水溝の中を覗き込む。そんなことをしても失われた呪符は戻ってこないというのに。

 追い討ちをかけるように、ハンドル操作を誤ったバスがキズナに突っ込んだ。

 

 

 

 □

 

 

 

 

 はて、何故こんなことになっているのだろう。

 水原龍巳(みなもとたつみ)は内心で首を捻りつつも細かいことを考えるのを破棄した。

 そこは、通りに面したオープンカフェ。いつの間にかキズナがいなくなっていたのだが、そんなことはどうでもよくなっていた。困ったことに、思考が纏まらないのである。

「一時はどうなることかと思いました。まさか、お財布をなくしてしまうなんて」

 円形の白いテーブルを挟んで正面に座っているのは、褐色の肌の少女。ほんわかとした空気を纏う彼女こそ、アイーシャ夫人その人である。その身に宿す呪力は凄まじく、且つ、無意識(・・・)に放出している。

 それは彼女の権能『女王の呪縛(チャーム・アンド・カース)』による無自覚無意識の魅了呪術である。

 一流の呪術師であっても、これに抗うことはできない。気がつけば彼女に忠誠を近い、彼女のために生きることに喜びを感じるようになる。恐るべき洗脳能力である。この力のために、アイーシャはあらゆる時代で安全に旅をすることができるのである。

「それにしても、千年前に出合った方と二十一世紀で再び出会えるとは思いませんでした」

「そうですね。俺も、そう思います」

 夢見心地のまま、龍巳は頷いた。

 財布を落として困っていたアイーシャは無意識のうちに自分を助け得る者を探し、無意識のうちに近くを通りかかった龍巳を呪縛していたのである。

 それは、千年前に築き上げた信頼関係によるものであろう。尤も、そこに行き着くのに紆余曲折があったのは言うまでもない。

「ですが、何故、ロンドンにいらしたので?」

「あなたたちにお会いしたかったからですよ。晴明さんも博雅さんも、亡くなられたものと思っていましたから」

「そうなんですか」

 アイーシャが紅茶に口を付けるのを、龍巳は微笑ましそうに眺めている。手の掛かる妹の世話をする兄のようだ。

「ふふふ。この紅茶、とても美味しいですよ。さすが、ロンドン。紅茶の本場ですね」

「そうですか。それは、よかったです。よろしければ、こちらのスコーンもどうでしょう」

「あら、いいですね。頂きます」

 あはは、うふふ……

 ほわほわとした暖かい空気が流れていた。

 

 アイーシャが手に持っていたスコーンを虹が貫いた。

 

「はや!?」

 奇妙な声を上げてイスから転げ落ちるアイーシャ。その直前までアイーシャの頭があったところを二本の虹矢が通り抜けていく。

 『神なる虹の弓(シュート・アン・アイリス)』。

 キズナの第一の権能だ。

 龍巳は矢が放たれた方を見た。

「ふ……ふふふふふふふ……やっと、ミツケタ……ふ、ふふ」

 弓手に虹弓を握り締めたずぶ濡れのキズナが妖しく笑っているのである。笑っているのに、目がまったく笑っていない。狂気を孕んだ笑みだ。龍巳は、背筋が凍るような思いがした。

「龍巳は盗られる、呪符はなくなるし、バスに突っ込まれるし、水道管が爆発するし、鳥にフンをかけられるし……よくもやってくれたわねえ……アイーシャァ!」

「ひえ、晴、明さん? すみません。でも、わたし心当たりが……」

 そこまで言いかけてアイーシャは口篭る。

 心当たりはあった。彼女の権能『幸いなる聖者への恩寵(グランド・ラック)』は中国の善なる民衆の守護神から簒奪した幸運と不運を操る権能だ。これが、アイーシャにとっての幸運。つまり、『財布をなくして困っているところに昔からの知り合いである龍巳を通りかから』せ、『もともとアイーシャに敵意を持っているキズナを遠ざけさせ』た。

 そして、キズナがアイーシャの元に来ようとするのを、あらゆる不運で以て防ごうとしたのである。

「あわわわわ、す、すみません晴明さん!」

「死ねえ!」

 問答無用で放たれた虹矢が一直線にアイーシャの心臓に向かう。身体能力がそれほど高くないアイーシャにはどうあってもこれを避けることができない。

 だが、この攻撃ではアイーシャの命を奪うことができなかった。

 虹の矢は、アイーシャの身体をすり抜けて、その後ろにあった信号待ちのトラックの荷台を射抜き、爆発させた。

 業火が上がり、一帯は騒然となる。悲鳴と怒号が飛び交い、人々が逃げ惑った。

 その状況を無視して、キズナは舌打ちする。

「せ、晴明さん。さすがに、危ないですよ」

「そうね、危ないね」

 そして、キズナは弓に矢を番える。まるで、人を死なせたくなければお前が死ねとでも言うように。

「ま、待てキズナ。そこまでにするんだ」

 暴走したキズナを止めうるのは龍巳だけ。それを分かっているから龍巳はキズナの前に立つ。

「落ち着け。アイーシャさんを攻撃しても意味がないだろう」

「龍巳はどっちの味方なのよ!」

「みゃ、脈絡ないぞ、おい」

 キズナは駄駄を捏ねるように地団太を踏み、龍巳に食って掛かった。もともとのアイーシャに対する苦手意識。そして、トラウマ。そういったものが積み重なり、現代に於いてもそれが現実のものとなったことで箍が外れた。そういうことだろう。

「とにかく、落ち着け。権能を解除するんだ」

 龍巳がキズナを押さえようとする。筋力では男である龍巳が上だ。キズナが狐に変身しない限りはなんとかなる。

「はーなーしーてーッ!」

 龍巳は、喚くキズナを取り押さえ、なんとか落ち着けようとする。

 そうしてやり取りを続けているうちに、キズナはしゅんとして静かになった。

「そう……そうなんだ……」

 ぶつぶつと何かを呟く。そして、キズナの身体が闇に覆われた。

「な、なんだ、こりゃ」

 龍巳は驚いてキズナから手を放す。

 闇は瞬く間に広がって、キズナの身体を覆い尽くし、そしてフード付きのロングコートになった。雨合羽のようにも見える。

 フードを被ったキズナの表情は陰になっていて読めない。

 だが、なんとなく嫌な予感がする。これは、呪術ではなく権能の類。初めて見るのだから、間違いなくヴラド三世から簒奪した力だ。

「ま、待て待て、何をするつもりだ」

 龍巳は生唾を飲んで後ずさる。

「大丈夫……今、助けてあげるから……悪いのは龍巳じゃない。悪いのは、あなたを誑かすアイーシャだから」

 キズナは漆黒の袖の下で印を結ぶ。

 呪力の鎖が龍巳に絡みつき、身動きを奪った。

「う……か、金縛り!? ちょ、ちょっと待て!」

 焦る龍巳はキズナに静止を呼びかける。しかし、キズナの耳に入らないのか、彼女は答えることなく目の前まで進み出る。

「渡さない渡さない渡さない」

 キズナがぶつぶつと呟きながら、龍巳の肩に手を乗せる。視線が交差する。闇の奥に見える、熾火のような真っ赤な瞳。吸血鬼の魔眼。

 そして、キズナは吸い寄せられるように龍巳の首に牙を突き立てた。

 

 

 

 

 キズナの足元には龍巳が倒れている。

 キズナに血を吸われると同時にその呪力を注ぎ込まれた結果、アイーシャの魅了の呪力と競合してしまったのである。もともと、キズナの眷属である龍巳は一般人に比べてアイーシャの魅了への耐性がある。そこにキズナがさらに別の権能で上書きしようとしたのだから、後十分もすればアイーシャの呪力は駆逐されるだろう。

 そして、この場で意識ある者は、闇に身を包んだキズナと顔を赤くして一部始終を見守ったアイーシャだけである。

 トラックの爆発をはじめとする虹色の連続爆発によって騒然としていた周囲は、いつの間にか人通りがなくなっていた。おそらく賢人議会が動いたのだろう。人払いの結界が張られていた。

「じょ、情熱的なんですねぇ」

 アイーシャが戸惑いながらそう言った。

「ふふ、そうでしょ」

 キズナはアイーシャと向き合って、笑う。口元には、龍巳の血がまだついていた。それをぺろりと舐め取り、赤い瞳でアイーシャを睨む。

「だからね、そうやって軽々しく人の間に入られるのは――――――――」

 キズナの姿が消えた。

 アイーシャは驚愕に目を見開き、

「――――――――困るのよ」

 背後に現れたキズナの攻撃――――どのようなものかは分からないまでも、それを避けるために地面を転がった。

 アスファルトが抉られ、地面が掘り起こされた。

 打ち込まれたのは、短い槍のような形状の杭だった。

 ズア、と奇妙な音がして、キズナのコートの裾が広がった。大きく闇の領域を広げ、蝶の羽のように展開される。その闇の表面が血色に泡立ち、砲弾のように杭が放たれる。

「ひゃあああああ!」

 アイーシャは転がってまた避けた。運よく(・・・)杭が当たらない場所に転がれたのである。

「ちょこまかと」

 苛立ったような声でキズナは唸った。

 二人の戦闘は十字路で行われている。交通量の多いこの道はしかし、戦闘開始からわずか五分で掘削作業場のような有様になってしまった。

「こ、このままではいけません。晴明さん。このくらいにしましょう。たくさんの人に迷惑をかけてしまいます」

「他人のことなんぞ知るかァ!」

「そんなことを仰ってはいけません! わたくしたちは人との関わりの中で暮らしているのですよ?」

「その繋がりを事あるごとにぶつ切りするお前に言われたくないわ!」

 そう。キズナにとって他者との繋がりとは龍巳との繋がりである。現代は多少交友関係が広がったといっても、その前提が覆ることはない。だが、アイーシャは無自覚なままに龍巳を魅了する。前回も今回も、キズナが見ていないところで龍巳は洗脳されていたのである。それは、キズナにとって己の領分が侵害されたに等しい。

「無自覚に権能を垂れ流すあんたの方がよっぽど危険だわ!」

「そ、それは……」

 痛いところを突かれたアイーシャが口篭る。

「で、ですが、たくさんの人の命を危険に晒していいことにはなりません。話し合いで解決しましょう!」

「その手には乗らない。前回そうやって不意打ち喰らわせてくれたもんねぇ!」

「だ、だからあれはそんなつもりじゃなかったんですってば~!」

 キズナのマシンガンのような杭打ちは、尽く効果を発揮しない。あるものは避けられ、あるものはすり抜けられる。千日手に陥っている。

 そして、アイーシャも人気がないことでその気になってしまった。

 アイーシャもカンピオーネである。勝機を見出せばそこに付け入らずにはいられない。たとえ、それが出来心であったとしてもだ。

「あ、た、大変。晴明さん、避けてください!」

「?」

 キズナは、アイーシャの権能の性質を本人の意思に反して発動することがあると知っていた。そして、かつて繰り広げた戦いで、彼女の権能の中のいくつかをその身で味わっている。

 特に強力なのは極寒の世界を作り出す冬の権能。

「く……ッ!」

 とてつもない寒気を感じたキズナは、慌てて空に逃れた。

 人が居ないから使える、とアイーシャが閃いた瞬間に発動した『生か死か(ライフ・オア・ダイ)』が大通りに大断層を生み出したのである。

 崩れ落ちるアスファルト。闇の中に呑みこまれていく街路樹や信号機、看板などなど。そして、その亀裂から吹き出してくるおそるべき寒気。向こう数年は冬の世界を作り出すとされる強力な権能である。

「く、そ……!」

 キズナは舌打ちをして呪力を高める。

 この権能は知っている。冥界へ通じる闇の亀裂。開いた後は、敵をペルセポネーが支配する極寒の地底に引きずり込もうとする厄介な力なのである。

 キズナは重力とは異なる力に囚われ、闇に引きずり込まれそうになる。 

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」

 不動明王の真言を唱えると、瞬く間に発生した熱波が寒気を焼き払う。

 大地を融解させ、灼熱の炎が深淵なる闇を駆逐する。三千世界に広がり、煩悩を焼く炎である。冥界の冷気に抵抗できないはずがない。

「あ、新しい権能ですね」

「おかげさまでね」

 紅蓮の中に佇むキズナはヴラド三世の権能を解除して、本来の衣服に戻っていた。

「どうあっても、お話を聞いてはもらえないのですね」

「なんか、わたしが悪いみたいに言わないでもらえる。初めに手を出してきたのはそっちだからね」

 ため息をつくアイーシャにキズナは憮然として答える。

 龍巳を盗られた挙句に、様々な不運を叩き込まれたのである。ソレを考えれば、仕掛けてきたのは間違いなくアイーシャなのだ。

「とにかく、争いは憎しみの連鎖を生むだけです! それが分かっていただけないのであれば、誠心誠意お相手するしかありません!」

 アイーシャはそう言って自己完結し、言霊を叫ぶ。

「目覚めよ、鋼の魂! 剣の無情を世に示せ!」

 現れたのは奇妙な形体の鉄の塊。鋭い爪を持つ、鎧とも見える巨大な人形である。

「ノウマク・サラバタタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキギャキ・サラバ・ビキナン・ウンタラタ・カンマン」

 対するキズナは、火界呪で応戦する。

 蛇のようにのた打ち回る炎の渦が、キズナの周囲を覆い、天に昇らんばかりの火柱となる。

 そして、二つの権能は激突した。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。