極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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二十五話

 ロンドンに現れた『まつろわぬ神』と二人のカンピオーネとの戦いの爪痕は、今後十年に渡って残り続けるだろうと試算された。

 それでも、キズナが気にかけてくれたからかアイーシャ夫人の強大な権能が発動したのはロンドン川の底であり、最悪の事態だけは避けられたと言える。もっとも、アイーシャの権能で破壊されたロンドン橋は完全に崩落しており、地盤に大断層ができてしまったので修復もままならない。加えて、亀裂からは恐るべき冥府の吐息が今でも吐き出されており、川の水は真冬の時のように冷たくなっている。

「今のロンドン川の水に五分も浸かっていたら、低体温症で死んでしまうでしょうね」

 アリスは窓から外の景色を見た。

 ロンドン最大の魔術結社でもある賢人議会は、魔術の研鑽よりも情報収集と管理に主眼を置いた組織である。

 カンピオーネの研究からスタートしておよそ二世紀。今では世界中の魔術結社にパイプを持つ一大勢力にまで昇り詰めた。

 ロンドンを拠点とし、英国全土に根を張る賢人議会は、当然のように魔術的事象への対応も行う。

 カンピオーネへの対策を練るために設立されたのだから、今回の後始末は

 戦いから二日ほどして、やっとロンドン街は混乱から立ち直る目処を立てた。

 賢人議会が根回しをして、一連の事件を地盤沈下ということで片付けた。人々が一斉にロンドン橋から離れていった件に関しては急な停電と地震、そして大地の亀裂から発生したガスによる集団パニックということにして、病院関係者に賢人議会のスタッフを派遣して記憶操作や感情の沈静化などのケアに当たっている。

「さて、それでは姫様。いくつかお尋ねしたいことがありますが、よろしいですか?」

「何かしら、ミス・エリクソン」

「もちろん、『金色の魔女』に関してです」

 むぅ、とアリスは眉根を寄せた。

 月沢キズナ。アリスの恩人でもあり友人でもあるカンピオーネ。当初は噂程度でしかなった彼女の情報が、ここ半月の間に急激に増えた。ルーマニアでの事件がその要因だが、そこからじわじわと広まっていた二つ名が、ついにこのロンドンでも使われるようになったようだ。

「姫様が妙に彼女に入れ込んでいるのは察しています。あの会談で何をお話になったのかは存じませんし、それ以上があるかもしれないとも思っておりますが、賢人議会として可能な限り彼女の情報を収集しなければなりません」

「知っていることを話せと? まあ、ミス・エリクソン。まさか、わたしがあなたに隠し事をしていると思っているんですか?」

「隠し事などいくらでもしてこられたでしょう」

「否定はしないわ」

 アリスの奔放な性格に、エリクソンも辟易している。彼女はお転婆な上に必要以上に有能なのだ。魔術師としても魔女としても、そして政治家としても図抜けている。六年前の事件で身体を壊さなければ、今でも賢人議会の頂点で辣腕を振るっていただろうに。

 一方のアリスは特に今の状態を不満に思っているわけではない。強いて言えば身体が弱く、外出もままならないということだが、それもキズナから教わった訓練によって徐々に力を付け始めている。健常者ほどにはならないだろうが、それでも寝たきりの生活からは解放されるかもしれないという希望を抱けるまでになったので、現状に文句があるわけではない。

「それに、わたしが彼女について知っていることもそう多くはないの。残念だけど、ほとんどは闇の中なのよね」

 出自ははっきりとしている。極東の島国日本で生まれ育ったことは明確であり、日本の呪術組織である正史編纂委員会に所属する媛巫女なる身分で活動していたという確認は取れている。また、その足取りもリサーチ済みだ。学歴から交友関係まで分かっている。

 だからこそ、腑に落ちない。

 彼女が持つ多彩な権能の数々。彼女の存在が発覚したまつろわぬ不動明王の事件以前にすでに複数の『まつろわぬ神』を討伐している。おそらくは十柱以上。それほどの数の戦いをこなすには、十年以上の歳月が必要なはずだ。だが、彼女にはそれがない。いつ、どうやってカンピオーネになったのかすらも明らかになっていない。

「カンピオーネとしての彼女について、わたしは何も知らないわ。たぶん、あなたと同じ程度の情報しか持っていない。でも、まあ、それ以外であげるとすれば……」

 アリスは悪戯娘のような笑みを浮かべる。

「まず、間違いなくヘタレの部類になるんでしょうね」

 

 

 

 ■

 

 

 

 韋駄天を下した翌日。アイーシャは再び時空の旅に出た。千年前と同じく、突如として開いた穴に吸い込まれていったのだ。相変わらず、彼女の権能は制御できないままのようだ。とりあえず、天敵が去ったことで胸を撫で下ろしたキズナたちは、ロンドンを離れて一路イタリアへ飛んだ。

 聖ラファエロなる人物が聖なる特権の秘儀を記した書物を所蔵しているという情報を得ていたからである。

 問題なのは、この聖ラファエロがどこに暮らしているのかということである。

 聖ラファエロは、騎士階級では最高位の『聖騎士』に叙任されている女性で、その剣術は超一流。戦闘能力は神獣にも匹敵するとされ、イタリアの若き騎士たちの憧れの的なのだが、その所在が掴めていない。

 数年前に隠居したとされているが、グレムリンの権能でも完璧に居場所を調べ上げることができなかった。一年前に一週間ほどイタリアからスペインに出ていることが出国記録から明らかとなったが、その後イタリアに戻ってからの足取りが分からない。困ったことに、彼女はかなり原始的な暮らしをしているようだ。

 

 聖ラファエロの足取りを追って、イタリアへ。

 特に急ぐ旅でもなく、気侭な旅行を楽しむことにした。

 

 それにイタリアには、『剣の王』サルバトーレ・ドニがいる。

 突っかかられると面倒なので、彼に出会わないようにしたいというのが、キズナの行動指針である。

 ということで、まずサルバトーレの様子を使い魔を放って調べると、どうにもきな臭いことになっているようだ。

「草薙護堂とかいう第八のカンピオーネにご執心みたい」

 というのが、簡単な調査の結果判明したことだった。

 イタリアに着いた足で予約していたホテルに向かったキズナと龍巳は、ミラノの街に鳥の姿をさせた式神を放ち、情報を集めた。

 その日、丸一日を情報収集に当てたキズナは、サルバトーレが大規模に動いていることもあって、彼の動きをほぼ正確に掴んでいた。

 サルバトーレ・ドニは、呪術結社《赤銅黒十字》に命じて草薙護堂を挑発するとともに、護堂と関わりを持っていたエリカ・ブランデッリを軟禁状態に置いたという。

 草薙護堂を再びイタリアに呼び寄せるためということのようだ。

「ただ、戦いたいからか。なるほど、噂に聞く破天荒振りは真実だったのか」

「エリカ・ブランデッリ。草薙護堂の愛人だって……」

「愛人って。そいつ、いくつだよ」

「今年で十六? 高校一年生だね。どっちも」

「おいおい……」

 キズナはグレムリンの権能で賢人議会に上がった報告書や、《赤銅黒十字》の内部文書を盗み見る。同年代が相手とはいえ、愛人を囲うとは、草薙護堂というカンピオーネは、よほどの色好みと見える。確かに、エリカの写真を見ると、すばらしい美少女だが、これとお付き合いという過程をすっ飛ばして愛人を名乗らせる当たり、これはかなりの好事家だ。

「信じがたい人も世の中にはいるものね」

 現代の常識では、という但し書きがつくが。

 何がどうなっているのかは分からない。

 しかし、エリカ・ブランデッリと草薙護堂との間には愛を育む時間などなかったはずだ。護堂がカンピオーネになった時、エリカが側にいたのは事実だ。ならばその時につり橋効果か何かがあったのだろう。

 ちらり、とキズナは龍巳を見た。今、彼は、キズナの指示に従って観光ガイドに目を通している。明日以降、見て回る観光地を絞り込むためである。聖ラファエロはその後でいいかと思ったのだ。なにせ、厄介なサルバトーレの目が護堂に向いている。キズナの入国も秘密裏に行ったし、しばらくは誤魔化せるはずだからだ。

 それにしても愛人か。

 再び、龍巳を見る。

 旅を始めて半月。今の今まで、そういう雰囲気(・・・・・・・)になったことは一度もない。

 さて、今の自分たちはいったいどのような関係性になっているのだろう。

 恋人でも愛人でもない。友人、戦友、親友、幼馴染、この段階だ。信頼はしている。いつも一緒にいたいと思う。アイーシャが現れた時、心の底から恐怖したのは彼が自分の下を離れていくことだった。また一人になってしまうのが恐ろしい。たった一人で暮らしていたあのころに戻るのが嫌で、彼を振り回している。

 依存している。水原龍巳という存在に。彼の側は居心地がよくて、このままずっと依存していたいと思える。だが、それは恋愛感情なのか? いや、そもそも恋愛感情とはなんだ? 相手を恋い慕う気持ちということでいいのか。それとも、エッチがしたいとかいう性的欲求か。はたまた尽くしたいという思慕か。

 翻って向こうはどう思っているのだろうか。

 キズナは、龍巳と離れたくないから日本から連れ出した。一緒にいたいからここまで引っ張ってきた。どこまでも自分のわがままに付き合ってくれる龍巳は、実際のところ何を思っているのだろう。

 実を言うと、今までそういう話をしたことは一度もなかった。

 龍巳が顔を上げて、目があった。

「どうした?」

「あ、い、いや。なんでも……」

 気恥ずかしくなって目を逸らす。

 ギシ、と胸が軋んだ。

 もしも、このまま龍巳と何事もなかったら、どうなってしまうのか。いつか、心が離れていってしまったら。

 エリカ・ブランデッリは自らを愛人と公言したようだが、それはつまり他の女が介入する余地があるということだ。

 例えば、アイーシャのように、突然現れて、彼を連れて行くような不埒者が現れる可能性がゼロとは言い切れない。過去二回、アイーシャの魅了に龍巳は引っかかっている。この先、アイーシャ以外の女が龍巳に接触することもありえなくはない。

 それは、認め難い。

 

 嫉妬している。見ず知らずの、存在しない女に対して。

 千年前からずっと。

 だからこそ、あの時は踏み入らなかった。

 一夫多妻がまかり通っていた時代の『恋』は、現代で言えば浮気に当たる。男は多くの女の下に通い、女も多くの男を受け入れた。そういう『乱れ』た時代だった。

 その中にあって、晴明(キズナ)博雅(龍巳)を独占したいと考えてしまった。だから彼との関係は戦友で留めた。そうしなければ、関係を維持することができなかっただろう。一度、男と女の関係になってしまったら、きっと取り返しがつかないから。

 結びつくか、離れるかの二択しかないから。

 どちらに転んでも、彼女を支えた彼との関係は終わる。

 だから、死別する時も『共にいる』というそれだけの契約で死後を縛ったのである。

 自分は男として振る舞い、相手との関係は友人関係に終始する。そういう認識を持つようにした。

 けれど、今、彼と踏み込んだ関係になったのなら――――誰も邪魔をしないし、キスやその先にも行くことになる、だろう。

 

 

 

 キズナは徐に立ち上がると、ベッドルームに向かい、そのままベッドに潜り込み、頭まで掛け布団を被った。

「おい。どうしたんだ、いきなり」

 龍巳が唐突なキズナの行動に不審を抱いたのか、声をかけてくる。

「なんでもない。ちょっと、眠くなったから休む」

 それだけ言って、息を潜める。

 ベッドの中で頬の手を当てると、異様に熱を帯びていた。

 耳元に心臓があるように思えるほど、心音が高鳴っている。

「はあ……」

 馬鹿だ、自分は。こんな気持ちになるなど、唐突で今さら過ぎる。そもそも、自分は相手のことが好きだという認識を正しく持っていたはずではないか。今になって、恥らうなど阿呆の極みだ。

 だが、具体的に彼との関係を想像したことがあるわけではなかった。

 考えることを拒否していたとも言える。

 しかし、同じカンピオーネに、そういった相手がいるという情報が、否応なく自分の立場に置き換えた想像をキズナにさせることになった。

 言葉や理性による認識の先、もっと根本的な領域から相手を意識しているという事実に繋がったのは、おそらくこの時が初めてになるのだろう。

 今までのそれと大きく変わることはない。

 彼が自分のモノだという認識も変わらない。彼女に足りなかったのは、相手との関係をどのような方向に持っていくかという具体的な思考である。

 とりあえず側にいるから安心していたのが、ひどく薄い関係に思えてしまう。今まで、理性で覆っていた部分が、なし崩し的に意識せざるを得ない状況になってしまったと言えるだろう。

 

 千年前のように、男として相手と対等な友人関係を構築するという言い訳も通じない。現代では、本来の姿で生きているのだから当然だ。

 現状に満足していて、この先変わっていくことを忌諱していた。

 しかし、つい今しがた唐突に気付かされたのだ。今のままでは、自分が真に望んだ関係には届かない。何かしらの行動を取らなければ、おそらく今の関係のまま続いていく。それは、飛ばした紙飛行機が、加速できないのと同じように、変わるために新しい何かが必要になるのである。

 

 

 悶々としているうちに時間が経ち、潜っていた布団から顔を出して時計を見るとすでに翌日になっていた。時刻は日本で言うところの丑三つ時だ。さすがに窓の外に見える街並も、一部を除いて光を失っている。

 のそり、とキズナは起き上がって周囲を見回す。この部屋にはベッドが二つあるが、隣のベッドは未だ未使用のままである。そこにあるべき影はない。少し触覚を伸ばすと彼の気配は今でもリビングルームにあることが分かる。

 呪力の波長から考えて、どうやら眠っているようだ。

 キズナはベッドを抜け出して、ベッドルームの外に出る。右手にあるリビングルームの扉を開けて、室内に入る。

 リビングルームは暗かった。窓から差し込む青い月光と充電中のスマートフォンのランプが数少ない光だ。

 そんな中でも、キズナの目は室内の様子をありありと捉えることができる。

 カンピオーネのみならず、呪術師全般は透視魔術を身につけている。暗闇だからといって足元を気にする必要はない上に、この闇の中でも読書ができるくらいである。

 キズナは室内に入ってぐるりと視線を巡らせた。

 目的の人物は、すぐに見つかった。

 薄型テレビの前に置いてある黒いソファの上で肘掛を枕代わりにして横になっている。

 キズナはそんな龍巳にそっと忍び寄った。

 音を立てないよう注意して、ソファの正面に回りこみ、その場にしゃがんだ。そうすると、ちょうど龍巳の顔を真横から覗きこむような形になった。

 キズナに見つめられていることなどまったく気付かず、龍巳は憎憎しいほどにぐっすりと眠っている。 

 まったく、いいご身分だ。

 キズナは内心で毒づき、眉根を寄せて龍巳の頬を指でつついた。

 つつかれた龍巳は僅かに表情を変えたが、起きることはなかった。害意を感じなかったからだろうか。これが敵だったら、つつかれる前に跳ね起きていただろう。ここで、龍巳が起きなかったのは、信頼されているからだろうか。そうだったら、単純に嬉しい。

 視線を顔から首筋へ流すと二つの虫刺されのような痕がある。ヴラド三世の権能でつけた噛み痕である。

「……」

 キズナはしばらくそのまま龍巳の寝顔を眺めていた。そうして、何分経っただろうか。キズナは唾を飲み込んで、額を龍巳の肩に押し当てた。

 あまりにも無防備な龍巳の姿によからぬ妄想が脳裏を過ぎった。

 落ち着いていた心拍が再び上昇した。

 息が詰まりそうになりながら、キズナは意を決して龍巳に覆いかぶさった。ソファの背凭れと肘掛に手をついて、真上から顔を覗きこむ。

 激しい緊張感が頭と身体を痺れさせる。

「ん」

 そっと、興さないように顔を寄せる。

 少しずつ、近づく度に心臓が主張を強めていく。静かな吐息を感じるほど、相手の顔が近くにある。じっとりと手の平が汗ばみ、ソファをぎゅっと握る。

 次に、キズナの顔があったのは龍巳の首元だった。

 髪がソファに擦れる鈍い音が聞こえる。

「あああ~~~~~」

 キズナは濁った呻き声を上げた。

 情けなくて涙が出そうだった。目を瞑り、両手で龍巳の服を鷲掴みにしてそのまま首元に顔を埋めるのが、今のキズナの限界だった。

 頭の中がかき混ぜられた色絵の具のように混濁していて、どうにもならなかった。

 

 

 


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