極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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二十八話

 光が墜ちる。

 夜明け前の星の天蓋から。

 太陽に比すべき、灼熱が地上に降り注ぎ闇を払う。

「ハハハハハハハッ。そうだ! 逃げ回るがいい、惰弱な神殺しよ! 人間共よ! 我が光輝に焼かれて墜ちよ! 天に手を伸ばす愚か者は、骨も残さず消えうせるがいいッ!」

 夜天に燦然と輝く光。

 目を焼き、肌を裂く光輪。

 数えるのも億劫になる星の数ほどの輝きが、岩肌を消し飛ばし、融解させていく。

「面を上げることも許さぬ。貴様らは、大地を這いずり回るネズミよ。ネズミの分際で、我を見上げるなど言語道断。ただ我が輝きに魅せられて、醜悪なる運命を呪って失せよ」

 響き渡る轟音爆音。それは、抉り取られる大地が上げる悲痛な叫び。

 墜ちる星を誰が止めることができようか。一つ落とせば、二つ降る。あの輝く羽が羽ばたくたびに、世界に無慈悲な裁きが下る。堕落を良しとし正義を笑う。指先一つであらゆるものを破壊することができるのだから、抵抗されるなど考えてもいない。彼にとって人間は容易く堕落するクズの集まりである。

 神の言葉を聞かせる必要も、救いを与える慈悲もない。

 逆らうから殺す。

 単純な行動原理を、思い立ってすぐに実行する。それだけのことである。

 殺意も害意も内包せず、それが当たり前だとばかりに哄笑して光を墜とす。

 その口は、謳うように言葉を紡ぐ。

 その弱さを憐れもう。心も身体も脆弱に過ぎる、人間の貧弱さよ。ただ神に縋って生きればよい。神の言葉を省みる必要はなく、思考する無駄を省け。

 オーケストラを指揮する指揮者のように、その指は音楽を奏でるが如く光を繰る。

 人間は尽く頭を垂れてただ祈れ。

 神に仇為す愚か者は、問答無用で灰になれ。

 

 

 

 ■

 

 

 

 キズナは、昔から研究者肌の人間だった。興味を抱いたものに飛びついては、納得がいくまで調べ上げる。同じ課題に寝食を忘れて何日も取り組むのもザラだった。そして、今も、エリカ・ブランデッリを介して手に入れた『ダヴィデによる勲の書』を片時も離さず持ち歩き、暇さえあれば文字を目で追った。とても古い時代の書物のはずなのに、羊皮紙がやや日に焼けている程度で傷みは少ない。呪術で保護されてきたということもあるのだろうが、この書物自体が強力な呪力を帯びていることも理由の一つだろう。まるで生物だ。自分の知識を与えるべき人間を選別する魔導書は時たま見かけるが、これはそれに近い魔導書であろう。もっとも、見た者に呪詛をかけるような悪辣な性質を持っているわけではない。単純に知識が複雑怪奇すぎて、並の呪術師では何が書いてあるのかすらも読み解けないというものである。

 それをキズナは三日で頭に入れた。

 試しに聖絶の言霊を使ってみると、確かに身体の奥底から力が湧き上がってくるのを感じる。桜色の光が身体を包み、神を斬り裂く呪詛を纏う。

「なるほど。確かに、これは使い勝手が悪そうね」

 人間が扱う術の中では最高峰の難易度というのも頷ける。一流の騎士が使えば『まつろわぬ神』を傷付け、神獣の相手ができるという触れ込みではあるが、そもそも一流の騎士以外に発動させることができる者はいないだろう。そして、この術を発動させることのできる者の中で更に上位の一握りの達人が、安定して術を維持できるのである。

 キズナは呪力を断って、呪術を解除する。

 ふぅ、と一息ついて、時計を見ると夜の十時を回っていた。

 部屋の中には、桜色の呪力の残滓が花弁のように舞い散っている。その様子を見て、ふと日本のことを思い出す。

 いつの間にか、三月が終わって四月に入っている。東京は、そろそろ桜の季節だ。キズナが第一の生を謳歌していた時代は、ちょうど梅から桜へ日本人の好みが移り変わっていった時期に当たり、キズナもまた桜の花を楽しんでいた。そして、平成の世になって表に出てみれば、信じがたいほどに桜の花だらけ。桜並木が東京のそこかしこにあり、唖然とした思い出がある。

 窓の外では、暗闇の中で緑とくすんだ肌色の世界が後ろへ流れていく。

 イタリアで遊びまわった後、列車に乗って旅をしている。もはや懐かしいルーマニアを通り、グルジアを経由してアルメニアに入ろうというのだ。今、キズナと龍巳がいるのも、グルジアの首都トビリシからアルメニアの首都エレバンに向かう夜行列車なのだ。

 コーカサスの大地を見るのは、これが始めてだ。なんとなく、ヨーロッパのイメージがあるのだが、トルコよりも東に位置しているので、どちらかといえばアジアに入るのだろうか。東ヨーロッパと西アジアの境という地理的要因から古代から大国間の争いに巻き込まれてきた経緯のある地域だ。

「聖なる特権か。大した力だな」

 キズナが車内で術を使うのを止めるでもなく、反対側の座席で眺めていた龍巳がポツリと感想を漏らした。

 鍵をかけることのできる二人用の個室なので、外から見られる心配もない。

「そうね。人間が使う術としてはこれほど強力なのはそうないんじゃないかな。騎士の呪術自体が体系化されてるから、安定してるってのもあるかも」

 陰陽道にしても、学問として体系化された呪術は呪術自体が安定する。発動させる者の実力次第で威力は大きく変わるものの、同じ術なのにまったく異なる効果になるなどのアクシデントもない。数式と同じようなものだ。式と答えは一致するのである。術が失敗するのは、どこかで計算ミスをしているということだ。

「まあ、これが神様との戦いでどこまで通用するか分からないし。使えても簡易的な防具程度にしかならないかなぁ」

 西洋呪術最大の術式を不完全とはいえ会得した感想がこれである。

 多くの騎士が術式に触れることすらできないまま生涯を終える秘術も、キズナにとっては書斎を飾る絵画、あるいは本棚に詰め込まれた書籍のような扱いでしかない。とりあえず手元に置いておき、使えるのであれば使おうかくらいの感覚だ。

 権能を振るうカンピオーネなのだから呪術はお守りくらいにしかならないのか。

「その本、どうするんだ?」

「管理者がわたしになったんだから、わたしが管理するしかないよ。こんな貴重書、そうそう手放さないって」

 そう言って、キズナは魔導書は手元から消した。手品のように消えた魔導書は、キズナがどこかに所持する保管庫に転送されたのだ。魔術師ならば誰もが使う基礎呪術の一つである。この呪術のおかげで呪術師たちは荷物を少なくして長旅をすることができる。

「あと、どれくらいでエレバンに着くかな」

 窓の外を眺めたキズナが尋ねた。列車の旅の醍醐味は、流れる景色にある。特に、日本とは異なる気候風土の土地は飛行機ではなく列車で旅する方が楽しめると思っている。しかし、外が夜闇に包まれていては何も面白くない。昼間なら放牧される羊を見ることができたかもしれないのに。

「気が早いな。まだ二時間も経ってないのに。その分じゃ、朝まで持たないぞ」

「朝まで。そうだよね。着くのは明日の朝かぁ……」

 出入国の検査に数時間かかることもある。列車は夜通し走り続け、翌日の朝にようやくエレバンの駅に到着する。だからこその夜行列車なのだ。

「分かってたけどね……」

 正直に言えば、心から退屈だと思っているわけではない。長くイスに座っていると、腰や尻が痛くなってくるがそれを除けば文句はない。ただ、目の前にいる男との会話の糸口に言ってみただけだった。

 龍巳は生来の真面目さを発揮して魔導書に目を通している。彼はそれほど呪術が巧みというわけではない。ただ百年近い研鑽のおかげで人並み以上の力を持っているだけで、そこに辿り着くために、積み上げた努力は並大抵のものではない。

 彼が呪術と関わるようになったのは、時の帝からの命によるものであるが、深みに嵌ったのは確実にキズナの所為だろう。巻き込み、巻き込まれ、どうにかこうにか今に至る。

 ガタゴトと列車が揺れる。

 リズミカルに流れる車輪の音が、柱時計のように時間を刻む。

 キズナは窓の外を眺めるふりをして、窓に映る龍巳を見た。サルバトーレと戦って死にかけて、それまであった薄くて触れない壁が崩れたような気がするのだ。何が変わったのか分からないけれど、何かが変わったような曖昧模糊とした実感が、胸の中に蟠っている。

 高校時代の友人は、大学の新生活が始まって一週間でヤッたらしい。そんなことを自慢げに報告されても困るのだが、大学生にもなるとそういう付き合い方になるのだろう。というか、気になる異性と二人きりで海外旅行をしているのに、未だに未遂にすら至らない現状を考えれば、リア充爆発しろとしか言えない。

 前回のキスは、人口呼吸の延長線のようなものだった。恋人同士の甘いものではなくて、もっと切迫したものがあった。キズナ自身、突然のことに驚いてよく覚えていない。それでも、蕩けるような心地よさだけは脳裏に残っている。

 キズナは冷たい窓に額を押し付ける。固い龍巳のそれとはまったく異なる窓の感触を、心から残念に思って、朝が来るのを待った。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 アルメニア共和国首都エレバン。

 1991年にソ連から独立したときに首都となったが、歴史的にも重要な都市である。なんといっても、世界最古の都市の一つに数えられ、創世記の『エデンの園』があったとされる伝説を持つ地でもある。

 太陽が顔を出した頃に駅に到着した。

 まる一晩、列車の中で過ごしたので身体の節々が凝り固まっている。キズナは背伸びをして、固まった関節や筋を伸ばした。

 空は抜けるような快晴で、文句なしの旅行日和だ。

「はわぁ……ちょっと、眠いけど」

 夜行列車の寝心地はいいとはいえなかった。それも、旅の醍醐味かもしれないが。

 龍巳は、仲良くなった外国人の集団に囲まれて談笑中だ。車内で、ビザやらなんやらの手続きで、外国人旅行者たちは言葉が通じず困っていたところで龍巳が助け舟を出したのだ。英語圏ではないので、英語話者でも厳しいところがある。このあたりをうろつくなら、アルメニア語かロシア語が話せた方がいいだろう。

 やっと解放された龍巳と合流して、市内を歩いた。

 エレバンは、百万人都市で、アルメニア国内のGDPの大半はこのエレバンが占めているという。それだけに活気があり、道行く人々の顔も心なしか華やかに見える。呪術の天才であるキズナは言語で悩むということもないので、外国を旅する不安は皆無に近く、あっちへふらふらこっちへふらふらと興味を持ったところに吸い寄せられるように歩き回っている。

 まだ朝なので、店もろくに開いていない。ただ、街並は石造りで、しかも西洋風の建築物だ主流だ。それでも、イタリアやイギリスとはまた異なった風情を感じるのはお国柄というものだろうか。どこの国にも、なんとなくそういった空気は流れているものだ。

「最初、どこ行く?」

 キズナが尋ねると、龍巳は周囲を見回した。

「腹減ったから、朝飯にでもしようと思ったけど、まだ開いてないか」

「その辺のファストフードもあるけど?」

「せっかくアルメニアまで来てハンバーガーはないだろ。どうせなら、ちゃんとしたところで食べよう」

 確かに、普遍的ファストフードよりもその土地ならではの食べ物が食べたい。市場での買い食いでもいいから、『らしさ』が欲しいところだ。

「なら、時間つぶしでもしよう。この先に有名な公園があるみたいだぞ」

 適当に流れているキズナと違って、龍巳はガイドブックに目を通している。そのおかげで恙無く今までの旅行ができていたといってもいいだろう。キズナだけだったら、きっとトラブル続きだったはずだ。入国手続きやら、なんやらで。最後には、カンピオーネだからで押し通れるという意識もあるので、ますます問題が大きくなる。サルバトーレにしてもキズナにしても、ストッパーの存在は大きいのだ。

「それ、どんなとこ?」

「写真を見る限りだと、東京にはないタイプの公園だな。記念碑みたいだ」

「記念碑……?」

 行き交う車の中に、マルシュルートカを見つけて旧ソ連の名残を感じながら公園に向かった。

 到着した公園は、それそのものが大きなモニュメントになっているような場所だった。小さな噴水がある広場があり、その奥に階段状の丘がある。遠目から見ると、メキシコのピラミッドのようだ。斜面を利用して作られたもののようで、一番上の段にいる人は豆粒のように小さい。頂上には、立方体の塔が建っているように見える。

 カスケードというらしい。

 太った熊のような犬の像がなんとも可愛らしく思えて思わず噴き出す。

「これ、登るん?」

 キズナは進むべき道を見上げて呟いた。

「まあ、そうなるな」

 本当は、中にエスカレーターがあるのだが、朝早すぎて動いていない。

「えー、ちょっと長すぎない?」

「高台だからなぁ」

 龍巳は手を腰に当てて、あははと笑う。身体を鍛えている男ならばいいだろう。だが、キズナにとっては笑い事ではない。そもそも、体力がないのだ。運動嫌いだし、この長い階段を登っていくのは骨が折れる。呪術で身体能力を高めても、めんどくさいという気持ちが先行してしまうのは生来の運動嫌いが故か。

「まあ、そう嫌がらず登ってみよう」

 珍しく強引に、龍巳がキズナの手を取って階段を昇り始める。

「あ、ああぅん」

 驚きながら頷いたせいで、妙な声が漏れた。うぐ、と顔を固める。頬が熱くなるのを感じた。朝方で、まだ周りに人がいないのが幸運だった。

 手の平に龍巳の体温を感じながら歩を進めるのが、妙に気恥ずかしい。若干、俯きながら階段を登っていく。握り返してしまおうか、などとも考えながら、実行に移さず引っ張られるがままになっている自分。知り合ったばかりの頃の、危ないところに平然と首を突っ込み、ズンズンと進んでいったあの後姿を思い出す。今は、どちらかと言えばキズナが振り回すほうだが、身動きのできなかったかつては、彼が振り回す側だった時期もあった。それが、懐かしいと感じられるくらいには、自分と彼の関係は変化したのだろう。

 階段を登り切るころには、すっかり息が上がっていた。戦闘状態にないと、どうにも身体が重くて仕方がない。そんなことを言っていると、すぐにおばあさんになるぞ、などという失礼なことを隣の男は言ってくるが、カンピオーネはそうそう歳を取ることはないのだ。特に女性なら、老化はほぼ止まる。カンピオーネでなくとも、一流の呪術師程度でも若返ることくらい容易なのだ。八百比丘尼だって、実態は呪力が異様に強かっただけの女性というのが真相なのだ。

 そんな言い訳を考えながらも、その反面体力の無さが原因でサルバトーレに追い詰められた経緯もあって、大きな声で反論もできないでいた。

 呪力が使えない状態になってしまえば、カンピオーネと雖も頑丈なだけの人間でしかなく、筋力は男性と女性とでは当然異なる。女性のキズナは呪力を封じられた時点で、圧倒的に不利な立場に置かれる。

 やっぱり、逃げ足だけは鍛えておいた方が無難かもしれない。

「うわお、これはすごい」

 そんな、当たり障りのない感想しか出てこなかった。

 それは、つまらなかったとかそういうことではなく、自分の表現力の限界を超えていたからだ。

 高みから、エレバンの街並が一望できる。

 小高い丘の頂上から覗くようなもので、一気に開けた視界から入ってくる情報量に圧倒される。斜面を吹き上がる風が髪を攫う中、キズナはため息にも似た感嘆の声を上げる。

「来て正解だったな。人も少ないし」

「うん。あ、あの塔、展望台のモニュメントだったみたい。行ってみようよ」

 キズナは後ろを振り向き、塔を指差した。

 キズナたちの背後には、展望台が続いている。その奥に、記念碑と共に真っ直ぐ空に向かって延びる塔が建っていた。人が登るものではなく、モニュメントとしての塔だ。

 キズナと龍巳は、展望台からの景色を楽しみ、人々が本格的に活動する時間までをそこでゆったりと過ごした。

 

 エレバンは海抜の高い位置にある都市だが、平均気温は非常に高い。四月に三十度に到達することもあるという。幸い、この日はそこまで暑くはないのだが、それでも二十度は軽く超えていて、強い日差しがじりじりと身体を嬲る。

 エレバン市内には、朝に訪れた公園以外にも観光地はあり、郊外のエレブニ遺跡であったり、オスマントルコがアルメニア人に対して行った虐殺を今に伝える虐殺博物館などはその代表格であろうか。

 ノアの箱舟で有名なアララト山は、快晴なのでどこからでも拝むことができた。日本で言うところの富士山のような扱いか。大小二つあるアララト山は、小さいほうでも富士山よりも大きい。見ていて圧巻だ。

 滞在日数が限られているわけでもないので、焦ることはない。エレバンを拠点に、じっくりと腰をすえてアルメニアを攻略してもいいのだ。そう思うと、一つひとつの観光地を細部まで楽しむ余裕ができる。キズナたちは、学校にも組織にも属していないので、悠々自適な快適海外旅行ライフを満喫することができるのである。

「怖い物見たさってのはあったけれど、まあ、こんなものね」

 口元をナプキンで拭いながら、キズナは言った。カレーのような色のスープと固めのパンが先ほどまでテーブルの上に置かれていた。

 景色以外にも異国を楽しむ方法はある。それが、食事だ。イギリスは世界一まずいという都市伝説があるし、フランスは世界的に有名なフランス料理の本場、というように食事にもお国柄が出る。名前からは想像もできない料理に、敢えて挑戦するというのも、ロシアンルーレットのようで面白い。

 遅めの朝食を摂るために入ったのは、小さなカフェだった。見たことも聞いたこともない名前の料理を注文したのだが、ゲテモノではない普通の料理が出てきたので、安心半分残念半分といったところだった。

「口に合わなかったか?」

 龍巳に聞かれて、キズナは首を横に振った。

「美味しかったよ。すごく」

 香辛料が効き過ぎているところはあったけれど、それも何口か食べていると味わいに変わった。悪くはなかった。量も多くなかったので、小食のキズナでも食べきれる程度だった。

「午後からどうするかだな」

 市内にあるいくつかの観光地を巡った後だ。これから、郊外に遠出してみても悪いことにはならないだろう。ホテルから歩いていける範囲の場所に、わざわざ初日から行く必要もないように思う。

 いつでも行けるなら、後回しでいいだろう。勝手気ままに、思いつきで行動するのが、キズナたちの観光の仕方だ。

「どうせ行くなら、世界遺産に行ってみるのも悪くないんじゃない?」

 キズナは机の上に置いてあるガイドブックをちらりと覗き込んで言った。

「エチミアジンか?」

「うん。世界最古の教会があるんでしょう?」

 キズナが言っているのは、エチミアジン大聖堂のことだ。

 アルメニアは、ローマに先駆けて世界で最初にキリスト教を国教とした国だ。そして、エチミアジン大聖堂は、世界で最初に建造された教会なのだ。

「ここから、西に二十キロくらいか。大した距離でもないし、すぐに着くか」

 世界遺産だから行くというのも、安直な気もするが、キズナにとってはどこに行っても楽しいのだから箔があるほうに行っておきたい。それに観光地に来て、世界遺産に行かないというのも可笑しな話だ。

 龍巳が承認したことで、エチミアジン大聖堂を目指すことになった。

 支払いを済ませて、店の外に出る。やはり熱い。水分補給は意識的にしていかないと倒れてしまうかもしれない。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 エレバンを出て、車で西に向かう。エレバン郊外の街、エチミアジンまで、およそ一時間だ。二十キロほどしか離れていないのだから、日本人の感覚では、まだ市内という人もいるかもしれない。

 外観はエレバンと大して変わらない。

 首都から離れたからか、どこか落ち着いた静けさがあるようにも思うが、エレバンと比べて大きな違いがあるわけではなかった。

「人は、結構少ないんだ」

 エチミアジンの人口は、エレバンの二十分の一程度と少ない。東京都心とその周囲くらいの感覚か。

「これでも、アルメニア第四の都市だそうだ」

「へえ、じゃあ結構大きいほうか」

「アルマヴィル地方ってとこに分類されるみたいだけど、この地方では最大都市だと。国際空港もあるみたいだしな」

 アルマヴィル地方はトルコと国境を接する国境でもある。また、アララト平野に位置していることもあって、アルメニア国内では最も肥沃な土地でもある。

 二千年以上前に誕生した都市であり、四世紀ごろまでは首都として栄えた。

 世界最古の教会にしてアルメニア正教会の総本山であるエチミアジン大聖堂があるのもそうした事情によるものだ。アルメニアがキリスト教を国教としたのは、四世紀初頭であり、その当時はエチミアジンは首都だったのだ。

 世界遺産登録名は、『エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡』。

 エチミアジン大聖堂だけでなく、その周辺に散らばる古き教会や遺跡をまとめて一つの世界遺産として登録しているのである。

「田んぼばっかだったけどねぇ」

 キズナは、ここに来るまでの道程を思い出して言う。

 エチミアジンは、田畑に囲まれた都市である。エレバンを出てからすぐに、のどかな緑色の世界が二人を待っていた。

「そんなもんじゃないか。ここは、肥沃な土地だ。むしろ農業しない手はないってことだろ」

 目的地のエチミアジン大聖堂は、街の南端にある。端と言っても、街自体が大きくないので、中心地からでもすぐに行ける。やや離れているのは、東側にあるズワルトノツ考古遺跡などだろう。

「ま、大した距離じゃないだろ」

 キズナたちがいるところから、エチミアジン大聖堂はすぐだった。一日の中で最も気温が高い時間帯ではあるが、どうせならと歩いていくことにした。

 

 

 

 ■

 

 

 

 地図に従って到着した場所は更地だった。

 正確には、瓦礫の山と焼け野原である。

「なん……だと……?」

 キズナは呆然と目を見開いた。

「いや、ないでしょ。なにがどうなってんの? 建物自体は三百年くらいの歴史でも、積み上げてきたものは千七百年でしょう。それが、何で跡形もなくなってんの?」

「俺に聞かれてもな……」

 龍巳は困ったように頭を掻いて、周囲を眺める。瓦礫に焼け焦げた地面。折れた木は黒ずんでいて高温に曝されたのか、一部は炭化しているようだ。

「神か神獣ね。強力な呪力が解き放たれたんだわ」

 キズナは爪を噛んで顔を歪めた。

「暴れるなら、わたしが来た後にすればいいものを」

「そういう問題でもないだろ」

 世界最古の教会が、ここまで無残な形になってしまったのだから、普通は大騒動になる。五百万人の信者を有する宗派の総本山でもあるのだ。世界を巻き込んだ大騒動になりかねない。だが、表面上は穏やかだ。道行く人も、教会の無残な状態を気に留めない。

「意識を反らす結界が敷いてあるわけか。敷地一帯に入れないようになっているのね」

「なら、やっぱり呪術師にコンタクトを取るのが正解か」

「こっちから探す必要はないわ。向こうから出てきてもらえばいいんだし」

 そう言って、キズナは堂々と結界を通り抜けて大聖堂の敷地内に侵入していく。

 その背を龍巳は追う。

「ほら、結界を抜けた途端、使い魔共の視線が四方八方から……と」

 キズナの瞳の色が変わる。宝石のような玻璃色の瞳。

「太陽……いや、稲妻……《蛇》の類か」

 呟きは、霊視が降りたことを示すものだ。

「何か視えたのか?」

「断片だけね。結構、強大な神格みたい。姿を隠していなければ、追いかけることもできるだろうけど」

 そこで、キズナは言葉を切る。

 睨むように、周りを見回す。

 十人ばかりの人影が現れたからだ。

「この辺の呪術師さんかな?」

 キズナの問いに答えたのは、小さな少女だった。小学校高学年から、中学校低学年くらいの年頃だろうか。

「ここは我等アルメニア修道会が管轄する地。用がないのなら立ち去っていただきたい」

「へえ……」

 この物言い。

 おそらく、キズナがカンピオーネだと理解していない。キズナが自分の気配を抑えているからだろう。ヨーロッパで騒ぎすぎたので、呪力を意識的に制限しているのだ。荘子の権能もあり、たとえ霊視力を持つものでも、キズナをカンピオーネだと見破ることはできない。

 面白い、とキズナは思う。

「用事ならあるわ。観光っていう大事な用事。せっかくお金を払ってきたというのに、この有様じゃ文句の一つでも言いたくなるものでしょう?」

「この有様だからお帰りくださいと言っているのです。それとも、まさかあなた方がアレを呼び出したわけじゃないでしょうね?」

「アレ? やっぱり、神獣か神かが降臨したのね」

「答える義理はありません」

 スッと、少女の双眸が細くなる。

「そうやって、敵意を振り撒くのはよくないわ。こっちだって用心してしまうもの」

「キズナ?」

 龍巳が異変を感じてキズナに声をかける。挑発しているように思えるのだ。なぜ、わざわざ彼女を挑発するのか。

「龍巳は周りを気にしていて」

「余所見をしている場合か。あなた方は囲まれているんだぞ?」

「あなたたちごときにわたしがどうにかなるとでも?」

 問いに問いを返す。やはり、挑発している。キズナの挑発に曝された少女は、怒りからか頬を紅くして唇を引き結ぶ。

「ならば、そのごときを試してみるか!」

 少女は剣を呼び出した。典型的な十字型のロングソードだ。修道会というだけあって、宗教的なシンボルはしっかりとしている。

 刀身は一メートルはあろうかという大型の剣で、とても十代前半の少女が振り回すようなものではない。だが、彼女は膂力を強化しているのかそれとも重量を減少させているのか片手で軽々と持ち上げている。

「このような状況下で、他国の呪術師が現れるのは怪しい。とにかく、知っていることは吐いてもらいます」

「何も知らないっての。支離滅裂なこと言うね」

 キズナは愉快そうにほくそ笑む。

「甘く見ないで、いただきたい!」

 堪忍袋の緒が切れたのか、少女は剣を鋭くキズナに突き出した。

 するりとした足運びは見事と言う他ない。しっかりとした基礎に基づく歩法である。

हुं(ウン)

 軍荼利明王の種字が、紅い曼荼羅となって剣の前に立ち塞がる。

「ぐ……」

 呪力を纏った刺突があっさりと受け止められた反動で、少女が呻く。

「ブッディストか」

「宗教だけで見るのは狭いわよ。グローバル社会なんだから、いろいろあるでしょう? 例えば、ほら、ゴルゴダの言霊なんてどう? エリ、エリ、レマ、サバクタニ」

「なッ!?」

 キズナの言霊がこの世ならぬ冷気を呼び込む。背筋に寒気を感じた少女は信じられないとばかりに表情を固くして飛び退いた。

「何故……!?」

「グローバル社会だから、かな」

「世迷言、を!」

 少女としては、仏教系の呪術の他に、西洋騎士系呪術中でも高位の呪術を平行して操るなどという暴挙を平然と行うキズナが信じられない。それはもはや、信仰に対する冒涜ではないか。

「主よ。悪しき敵を討ち果たすため、我は汝にただ祈らん」

 少女の剣が槍に変わる。

 粘土細工かガラス細工のように、刀身が柄となり、穂先が新たに形成された。

「この穂先にはロンギヌスの呪詛が込められています。並の呪術師ならばよくて即死。悪くて苦痛に喘ぐでしょう。覚悟はよろしいですか?」

「面白いわ。うん、西洋の呪術師と戦うのは実は初めてなの。手加減してあげるから、もっといろいろ見せて」

 キズナは笑みを絶やさず、迎え入れるかのように両手を広げて見せた。その青い瞳がすべてを見透かしているような気がして少女は気圧される。

 先ほどまでの剣と異なり、この槍は非常に軽い。柄の中が空洞になっているかのような軽さだ。その代わり、穂先には死の呪詛が込められている。僅かでも傷をつければ、それだけで勝利が確定する魔槍だ。

 それを、巧みな技で繰り出す。一息に複数の線をなぞる。それは、まるで肉食獣の爪のように空間を抉り取る。

 武芸に疎いキズナでも、それが才能と努力に裏打ちされた武技だと理解できる。それでも、神々やサルバトーレといった神域の使い手には遠く及ばない。

 肩口で切り揃えた黒髪を靡かせて、少女は槍を打ち込んだ。放つ槍は空を切り、敵を捉えることはできない。次第に焦燥が胸を焼き始める。

「く……聖ゲオルギウスよ。悪竜を討ち果たせし聖なる力を貸し与えたまえ」

 身体は軽く、力は強く。敵を打ち倒し、悪を滅する槍の妙技で呪詛を撃ち込む。刹那、何かが舞った。

 紙切れだ。人の形をしている。それが顔に向かってくるものだから、咄嗟に槍で刺し貫いた。

 貫かれた紙切れが呪詛に中って急速に黒く変色する。それと同時に、穂先に込められたロンギヌスの呪詛が消失する。

「な……ッ」

「ちょっとした魔除け。金生水、急急如律令」

 呪文を簡略化して、呟くと槍の穂先から水が染み出し、黒い人型に吸い上げられる。

 穂先から生まれる水を吸うごとに人型は巨大化していく。一個の生物のように。

「木生火、急急如律令」

 膨らんだ黒い人型は、紙なので木気に属する。金気から水気を生み、水気を木気の紙に吸い上げさせて木気を肥やし、肥えた木気を一息に火気に変換する。

 膨らんだ人型が赤熱し、破裂する。

 風船が破裂したような乾いた音を響かせて、少女は弾き飛ばされた。

「くああああああッ」

 少女は地面を転がっていく。いや、敢えて転がることで勢いを殺しているのか。ある程度まで行くと、少女は地面を片手で叩き、その勢いを利用して跳ね起きた。

 彼我の距離は二十メートルほどに開いた。槍使いよりも呪詛使いの方が有利な距離だ。

「興が乗ったわ。久しぶりに、式神でお相手してあげる。来なさい騰虵」

 かつて、キズナがまだカンピオーネとなる前、彼女が持ちうる限りの知識と技術をつぎ込んで作成した、史上最高最強の十二体の式神。それそのものが伝説に彩られた十二天将の一体だ。

 現れ出でるのは炎の蛇。それが、とぐろを巻いて、鎌首を擡げる。

「喰らえ」

 蛇が獲物を狙い、喰らいかかる仕草そのままに、少女に向かって巨大な炎が襲い掛かる。

 ほぼ反射的に、少女の口が呪文を紡いだ。

「ローマの秩序を維持するため、元老院は全軍指揮権の剥奪を勧告する。元老院最終勧告(セナトウス・コンスルトウム・ウルティムム)、発令!」

 槍が溶け、十本の鎖となり魔法陣を描く。

 五芒星を中心に、強固な防壁を築いたのだ。そこに、騰虵が喰らいつく。あまりの熱量と衝撃、最強防護に守られているはずの少女の足が地から離れそうになる。

「ぐ……なんという、威力ッ」

 歯を食いしばり、踏ん張って耐える。呪力を注ぎ込み、城壁のような堅牢さを維持する。

 僅か数秒の激突が、数十分もの長さに思えた。

 それは少女にとって、驚くべきことだった。

 元老院最終勧告(セナトウス・コンスルトウム・ウルティムム)は、考え得る限り最強の防御呪術。一流の呪術師が用いれば、神の一撃にすら耐えるという。それを、破りはしないものの、結界ごと押してしまうとは。

「ふふふ、あの子の一撃を防ぎきるなんて、驚いた。けど、亀みたいに篭ってしまったら、何もできないわよね」

 おまけに、キズナは余裕がある。圧倒的なまでの実力差がそこにはあった。越えようのない、断崖絶壁が横たわっている。

「うーん、それを正面から破るのはちょっと芸がないわよねぇ……まあ、今の一撃でギリギリなら、それを十二倍にしてしまえば防ぎようがないはずだけれど」

 値踏みするように、キズナは結界を眺める。

 元老院最終勧告(セナトウス・コンスルトウム・ウルティムム)はその防御力の反面、閉じ篭ってしまうと術者は何もできない篭城魔術なのだ。正面から破るのであれば、ソレ相応の威力の攻撃を叩き込まねばならない。そして、当然、キズナにはその手段がある。十二天将の一斉召喚。一流の呪術師であろうとも正面から蒸発させる、人間が扱う呪術の中でも最大の威力を誇るキズナだけの秘術。

「そこまでする必要はないわ。どんなに固い城塞も、内側からの攻撃には脆いものよ」

 キズナは一言だけ何か呪文を呟いた。

 それに呼応したのは、なんと少女の服の袖。

「何!?」

 驚愕に目を剥くも遅い。袖の中に仕込まれていた呪符が起動して、無数の蔓草を発生させる。

 キズナが人型の紙を炸裂させたあの瞬間に、爆風に紛れ込ませていたのである。逃れようのない城の中で、少女は蔓草に巻かれて気を失った。

 

 

 

 ■

 

 

 

 キズナが少女との戦いを楽しんでいる間、龍巳は傍観していたわけではなかった。

 少女の仲間と思しい呪術師九人を相手に、一人で立ち回っていたのである。殺さないように加減するのが、非常に苦労した。龍巳は武芸の天才ではないものの、鍛錬する時間は常人の倍以上あったし、潜り抜けてきた修羅場は想像を絶するものがある。その上で、キズナの眷属として加護が与えられているのだから、ただの呪術師では正面から戦える相手ではないのだ。

 最後の一人の頭を、刀の柄頭で叩いて気絶させると、龍巳はキズナの戦闘に視線を戻した。

 ちょうど、騰虵が少女に襲い掛かったところだった。

 カンピオーネになってからというもの、中々出番に恵まれなかった式神だが、それ以前にはかなりの頻度で目にしていた。もはや、懐かしい。

 勝負あってから、キズナに話しかけた。

「久しぶりに見たな、十二天将」

「そうね。わたしも久しぶりに呼んだもの。あれでも、神様には通じないからね」

 『まつろわぬ神』を相手にするようになってから、式神の召喚はしなくなった。九尾の権能を得てからは、そちらの方がメインになってしまったということもあり、十二天将が日の目を見る機会は減ってしまった。十二天将の後継者がいないのも、そのためである。

「それで、どうしてこんな無駄な戦闘したんだ?」

「どうしてって?」

「明らかに挑発しておいて首を傾げるなよ。戦う意味はあったのか?」

 龍巳は、険のある表情で問うた。

「まあ、ここまで派手にする必要はなかったかもしれないけど、面白かったしいいんじゃない?」

 そんなことを、キズナは悪びれずに言う。

 それに、と付け加える。

「ほら、この娘の首筋、見て」

「ん?」

 と、龍巳は倒れている少女の首に視線を向ける。

「刺青か? なんか、呪力を感じるな」

「ええ、《蛇》の刻印に見えるわね」

 確かに、よく見るとそれは蛇のように見える。とぐろを巻いた蛇の呪印だろうか。

「まさか、呪詛の類か?」

「そうだと思う。この印が刻まれた人の精神を汚染するようなものね。我欲の暴走というか、自尊心の誇大化を引き起こすってとこかな」

「それで、この人たちは問答無用の実力行使に出たのか」

 不自然な会話と、あまりに一方的な攻撃に唖然としてしまったものだが、誰かに操られていたのなら納得できる。

「消せるか?」

「うーん、ちょっと厳しいかな。これが呪術ならなんとでもなっただろうけど、権能で刻まれているとなると、対抗するには権能しかないし。吸血すれば話は別かもしれないけど、やだし」

 我が身を犠牲にして他人を助けるという思考は、キズナにはない。

 キズナが唇をつける他人は、龍巳以外にはないのだ。赤の他人の血液など飲みたくない。

「まあ、封印程度ならなんとかなるでしょ。一時凌ぎにはなる」

 そう言って、キズナは少女の呪印に指を当ててぶつぶつと呪文を唱え始めた。

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