カエルの声以外のあらゆる音が失われた静かな夜だ。
空には月。
相変わらず青白い顔を浮かべて地上を俯瞰している。
しっとりとした夜気に包まれる野山は、どこまでも続く異世界への入り口のようにも見えた。
漆黒の山道を、キズナと龍巳は翔け抜ける。
「月夜は出歩くに限るね。ほら、ミズバショウがまだ残ってる」
後方に過ぎ去っていく景色の中、それでもキズナは夜の野山を楽しんでいるようだ。
二人は、足元のぬかるみも、立ちふさがるブナの木々も気にせず、飛ぶように移動している。いや、飛ぶようにという表現は適切ではない。実際、そのうちの片方、キズナのほうは飛んでいる。時折、ブナの太い枝を蹴って勢いをつけるようにしているが、元来は日本からドイツまで行き来するだけの飛行能力を有している。
やがて聴こえてくるのは、水の音。
「川……関川か」
「この上流。苗名滝のほうにいる」
先行するキズナが高揚した声で叫ぶ。
キズナがばら撒いた式は、動植物に擬態して高原中を見張っている。フクロウやカラスから、ネズミや羽虫に至るまでが、キズナに従う式神かもしれないのだ。複数の式神を同時に制御する。天才的な陰陽術の才能を、長い時間をかけて研鑽したからこそできる芸当だ。
「と……」
キズナが着地した。
一瞬遅れて、龍巳が止まる。
そこから先は遊歩道になっている。
苗名滝は、観光地だ。遊歩道も整備されている。最寄のバス停から徒歩で行けるので、実は交通の便もいい。
キズナたちは、遊歩道の脇から、森を突っ切る形で侵入しようとしていた。足を止めたのは、そこに人の気配を感じたからだった。
「正史編纂委員会か」
キズナは、呟いて足元を見る。
目に見えない境界線が、そこにあるのを感じる。
「結界。ずいぶんと簡素な術式ねえ……」
目を細め、結界を構成する術式を視る。
「問題は?」
龍巳が聞く。
「ない」
キズナはそう答えて、一歩足を踏み出した。
ザ、と足元に積もった落ち葉が音を立てた。
それだけだった。
一般人の侵入を防ぐ人払いの結界は、警報を発することも、キズナに対して攻撃をしかけることもなく、その侵入をあっさりと許した。
結界を解除したのではなく、味方だと思わせることですり抜けたのだ。
もともと、呪術師を対象にした結界ではなかったこともある。しかし、それにしてもお粗末過ぎるとキズナは思う。これでは、神獣の相手は荷が重いだろう。
万年人手不足の正史編纂委員会の実状は、キズナ自身もよく理解している。優秀な呪術師は、呪術的に重要な土地に配置せざるを得ず、ここのような地方の呪的に重要視されていない土地の守りは必然的に薄くしなければならないことも。今回はそうした正史編纂委員会の弱所が浮き彫りになったようにも思える。
「進もっか」
「おう」
滝の轟音が、聴こえている。
風に紛れて飛沫が舞い、キズナたちの頬を濡らしている。
轟音に紛れて、
おおん――――
おおん おおん――――
それは、狼の遠吠えのようでもあり、獅子の唸り声のようでもあった。
神獣狛犬。
阿吽一対の神の使い。神域を守る、魔除けの守護神。沖縄のシーサーとルーツを同じくする、神の獣である。
その姿は荒々しくも神々しい。
月光を乱反射する飛沫の中にあって、彼ら二体の神獣は、光輝いて見える。
「抑えるのに、手一杯といった様子ね」
「仕方がないさ。相手は神獣だ。普通の呪術師は戦いを選ばない。死ぬからな」
神獣は、その名の通り神の獣を指す。
彼らは、既存の生態系の枠外にいる。不可視の力である呪力を糧とし、呪力によってこの世に形を成す、強大な獣たちだ。その力は、人間を遥かに圧倒し、同じく超常の力を振るう呪術師たちを紙屑のように吹き散らすことができるのだ。
今、目の前で繰り広げられる攻防は、文字通り一方的なものだ。
二体の神獣を相手に、三〇人以上の男女が決死の呪術戦を挑んでいる。
狛犬の体高は、ざっと五メートルほど。十分大きいが、それでも神獣としては小型なほうだ。だが、見上げるほどに巨大な肉食獣を相手に、人間が挑んで勝つことなどできるはずがない。しかも、相手は神獣。勝敗は目に見えて明らかだ。
おそらく、正史編纂委員会の呪術師たちも、それを承知のはずだ。危険を顧みないで戦いに臨んだのは、おそらく、狛犬たちが、市街地を目指そうとしたからなのだろう。
結界の封印も、神獣を相手にどこまでも持つか分からない。
だから、こうして戦わざるを得ないところに追い込まれてしまったということだろうか。
「命を賭して市井の民を守ろうとする心意気は、すばらしいものだけど、それは悪手よ」
キズナの目から見て、彼ら正史編纂委員会の術者の技量は悪くない。しかし、神獣を相手にするには力不足だ。三〇人程度の人員では、神獣を相手にすることは難しい。それ専門に組織されたチームが、何日もかけて討伐しなければならない相手だ。
悲鳴が上がり、怒号が飛ぶ。
炎や水、雷を、狛犬は尾の一振りで打ち消した。
呪力を纏う豪風が、吹き荒れ、川の水が舞い上がった。
「いいね、凄くイイ」
その様子を眺めているキズナは、口角を吊り上げて笑っている。
「あの狛犬。気に入ったのか?」
「うん。欠員補充のつもりでここに来たのだけど、思わぬ掘り出し物みたいね。あれくらい暴れてくれなければ、わたしの配下にふさわしくない」
狛犬が高らかに雄叫びを上げる。
それだけで、呪術師たちの張った結界が砕け散った。
呪術師たちの顔に焦燥が浮かんでいるのが見て取れる。
「そろそろ、介入するべきだ。これ以上は死人が出る」
龍巳がそう進言すると、キズナは頷いた。
「わかってる。死人が出るのは、後味悪いからね」
キズナは、戦いに目を向ける。
今までは結界と連携によってなんとか維持していた防衛ラインが崩壊しつつある。この状況ならば、こちらにまで気は回るまい。
「我は魔を統べる者なり。生ける者も死したる者も須らく我が軍門を守る剣となり、我が砦を守る楯となれ」
厳かに、慇懃に、キズナは聖句を口にする。
にじみ出る呪力は夜闇に溶け、大気はコールタールを思わせるねっとりとしたものに変わる。
夜闇が凝縮し、影は起き上がり、木々や岩が独りでに動き出す。
権能の発動とともに、キズナたちの周囲に、この世ならぬ魔物たちがにじみ出るようにして現れた。鬼がいて、狼がいて、狐がいて、骸骨がいる。岩石は重なり合い、人形となって動き出した。
「分断しなさい」
キズナに指示されるや否や、一〇〇の鬼たちは、堰を切ったかのように戦場に向かって駆け出していった。
百鬼夜行とはまさにこの事だ。
まるで水墨画から抜け出してきたかのような鬼たちの行軍。狛犬を相手にしていた呪術師たちは、何事かと動きを止め、それから我に帰って叫び声を上げた。
狛犬だけでも命がけなのに、このような魔物の群れまで相手にできるはずが無い。この場に、なぜこのような怪物たちが現れたのか分からなかったが、もはや自分たちの力の及ぶ範囲を超えていることを認めなければならなかった。
「撤退だ! すぐに退け! 急げ、遅れると死ぬぞ!」
この隊を率いている呪術師の一声で、呪術師たちは退却を始めた。
神獣を相手にすること自体が間違いであるのに、無数の魔物まで敵とすることはできない。
部下の命を預かる身だからこそ、努めて冷静に、退却の指示を出した。
その様子を、キズナはほくそ笑んで見守った。
彼らのことだ。きっと、撤退と言いつつも、距離をとって監視を続けるに違いない。そうなると、自分の事を知られてしまう恐れがある。
「適当に追い回して、混乱に拍車をかけてやりますか」
だから、キズナは鬼に命令を与えた。逃げる呪術師を、加減しながら追い回せと。
キズナが、狛犬を取り込むまでの少しの間、怖い思いをしてもらおうというのだ。
鬼たちは二手に分かれて、一方が呪術師たちを追い立て始めた。叫び声が上がり、閃光が弾けた。
一分とかからず、呪術師たちを追い払ったキズナは、ついに表に姿を現した。
滝壺近辺では、解き放たれた鬼と狛犬が死闘を演じている。
キズナのすぐ傍に、大鬼が吹き飛ばされてきた。岩塊にぶつかって動きを止める。見れば、右半身が大きく抉り取られていた。
「そうこなくっちゃね」
所詮は、一時しのぎの魔軍。権能で創りはしたものの、本来の使い道ではない。神獣を相手にするには、力不足だ。
「龍巳。右の子をお願いできる?」
「無理、とは言わせてくれないんだろうな」
「うん」
綺麗な笑顔で、キズナは即答した。
ということで、龍巳は狛犬の右側と対峙していた。
右手に刀。
かつて、武士だったころの名残。以前使っていた物に比べれば格が落ちるといわざるを得ないが、それでもそれなりの業物だった。
背後には黒い集団。まるでリングのように壁を形成している。そして、正面には、巨大な犬。もはや犬と呼んでいいのかどうか。形態としてはモトネタであろう獅子に酷似している。もっとも、人間が見上げてしまうほどの巨体を持つ獅子など、生物界に存在しないが。
「殺すとなると難しいけど、ま、動けなくするくらいなら俺でも何とかなるか」
滝の飛沫で濡れた前髪をかき上げて、刀を構えなおした。
「アイツに取り込まれるとなれば、お前は俺と兄弟ってことになる。これから一緒に働く事になるんだ。恨まないでくれよ」
龍巳は水を蹴って駆け出した。
水面を渡る程度、造作もない。もともと呪術師ではなかったものの、キズナとの長い付き合いの中で強制的に体得させられてしまった。
水天の種字を唱え、足裏で水を弾く。弾丸を思わせる速度で、龍巳は狛犬に肉薄する。
それを、むざむざと許すほど、神獣という存在は甘くない。
狛犬が鋭い爪を振り降ろす。龍巳は、それを間一髪かわして懐へ飛び込んだ。
目標を捕らえそこなった爪が水底を抉り、水柱が立ち上がった。シャワーのように水滴が降り注ぐ。
龍巳は、冷たい水を全身に浴びながら、呪力を練り上げる。
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」
龍巳は、毘沙門天の真言を口ずさむ。
瞬間、肉体が沸騰するかのように熱くなった。肉体の隅々にまで呪力が行き渡り、身体能力が急激に上昇する。
狛犬の横薙ぎの一閃を横に飛んでかわし、空中で身を捻る。
回転の勢いのままに、刃を振りぬいた。
鮮血が、滝の飛沫に混ざって舞った。
オオオオオオオオオオオオ!
狛犬の咆哮は苦悶に満ちている。
龍巳は、確かな手応えを感じながら着地した。
「さっさと終わらせてくれよ。このままだと、刀が錆びる」
そう言いながら、背後に視線をやった。
■
「どう。なかなか、やるでしょう、わたしの博雅は」
鬼に囲まれた少女は、語る。
目前には、牙をむき出しにして唸る狛犬の片割れが、今にも飛びかかりそうな姿勢で構えている。
「向こうは派手にやっている。こっちもにらみ合っているだけじゃ、面白くないわよ」
キズナは、青い瞳を前髪で隠し、ゆっくりと歩を進める。
狛犬は、動かない。威嚇の唸り声を上げるだけだ。
その様子に、キズナは気分を害されたとでも言うように眉を顰めた。
「まさか、怖気づいたわけではないでしょうね? もしもそうなら、取り込む価値もない。ここで、殺すわよ」
放出した殺気に、狛犬の本能が反応した。
敵の正体は不明。
外見は人間の女。それも、まだ少女と呼べるくらいの歳だ。自身が持つ鋭利な爪と強靭な顎にかかれば、一たまりもない脆弱な存在のはず。
だが、その小さな身体から溢れる呪力のなんと強大なことか。自身の身に秘めた呪力を総動員しても、足元にも及ばないだろう。
勝ち目は無い。逃げる他ないが、相手は見逃す気はないようだ。
生き残るために、狛犬が選んだのは、前進する事だった。
決死の覚悟で飛び掛る。全力の一撃を放ち、葬り去る。それ以外に、生き残る術などない。
勢いのままに爪を振りぬく。
瞬間、金色の輝きが視界を横切り、経験したことの無いような強烈な衝撃とともに、狛犬の巨体は宙を舞った。
崖に叩きつけられた狛犬は、崩れ落ちるように滝壺に落ちた。
身を起こした狛犬が見たのは、金色に輝く九つの尾。
「極限の状況下で尚、敵に挑むその意気や由。わたしの軍門に下ることを正式に認めてあげるわ」
そして、初めて気がついた。
この少女は、化物だ。魔物を従えるに値する、生粋の怪物なのだと。
金色の尾がうねる。
光が広がる。
「その身を供物とし、わたしの軍勢の一助となれ」
言霊とともに、呪力が弾けて狛犬を包み込む。
やがて、狛犬は光る粉となって霧散して、キズナの身体に取り込まれていった。