極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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二十九話

 アルメニア修道会というのが、この国で最も大きな呪術結社の名前だそうだ。

 概要は、正気を取り戻した少女から聞いた。

 日本の正史編纂委員会と異なり、アルメニア修道会は国家から距離を置いた独立組織だという。この運営形式は、国家の興亡が激しかった西洋を範としたものだ。日本のように、国家が滅びることなく統治機構の中に属して存続できた呪術組織は他に例がなく、アルメニア修道会も国家から切り離された存在だというのだ。

 その一方イタリアを代表する呪術組織の《赤銅黒十字》が財団として複数の企業を運営するスタイルに対し、アルメニア修道会は教会のアルメニア正教会が保有する呪術研究所としての側面が強い。国家ではなく、宗教に根ざした組織ということだ。

 キズナと戦った少女、アンナ・マシュトツは、今年で一三歳になる。

 黒い髪のおかっぱ頭と黒瞳の可愛らしい少女だが、呪術の腕は一級品だ。西洋騎士らしく、剣術にも打ち込んでおり、将来有望な呪術師だというのがキズナの見立てだ。

「あの歳で、結社の次期総帥の座が約束されているんだって」

「そんなにか!? まあ、確かに実力はすごかったけど」

 一三歳で次期総帥とは、驚くばかりだ。

 キズナの言葉に、龍巳は驚愕を隠せない。

 二人は、今、アルメニア修道会が管理する地下聖堂の一室にいた。地下に潜るというのが、いかにも魔女らしいのだが、修道会は魔女ではなく修道女と呼んでいるらしい。魔女という呼称は、宗教上の敵だからだそうだ。

「あ、このりんご美味しい」

 切り分けるでもなく、赤い林檎をそのまま齧る。テーブルの上のバスケットの中には、りんごの他にバナナやブドウなどのフルーツがいくつか入れてあった。

「季節外れだよな、これ」

「今の時代、季節とかあまり関わりないのかもね。美味しいか不味いかは別として、食べようと思えばどこかで栽培してるわけだし」

「信じられないよなぁ」

 平安時代では考えられなかったことだ。季節の移り変わりに従って、食べられるものも変わってくる。氷が自宅で作れる時代ともなれば、食品も多種多様、季節を問わず手に入る。それは、アルメニアでもそう大きな違いはなかった。

 しばらく、談笑していると扉がノックされた。

「姉さま、お食事の用意ができました」

 キズナのことを姉さまと呼ぶのは、アンナだ。キズナに大敗し、呪詛を封じてもらってからというもの、すっかり懐いてしまったのだ。

 扉が開き、アンナとそのメイドが

「あ、もうそんな時間?」

「すでに一九時を回っていますよ」

 アンナに言われて、キズナは腕時計を見る。本当だった。地下だからか、時間の変化がわかりにくい。

「わざわざありがとうね。アンナ」

「いえ、これくらいわけないです。まあ、作ってるのはわたしじゃないんですけど」

 メイドたちが、テーブルの上に手早く料理を並べていく。

「魚料理に野菜と果物を中心にとした料理です」

「美味しそう。異国の料理は食べ慣れないと身体に悪影響がでるものだけど、これならその心配もなさそう」

 油分を控えめにした、女性向けの食事だ。キズナにもちょうどいい。

 前回食事をしてから、かなりの時間が経っていたこともあって、早く栄養を寄越せと腹の虫が訴えかけてくるのだ。

 キズナは頬を綻ばせて、白身魚の料理を口に運んだ。

 

 

 

 ■

 

 

 

 一段落してから、情報収集の段階に入る。

 アルメニア修道会の壊滅に、神獣、あるいは『まつろわぬ神』が関わっているのは疑いようのないことだ。ただの神獣であれば、生け捕りにして使役する。狛犬と同じだ。『まつろわぬ神』ならば、状況次第では戦うことになるだろう。

 何はともあれ、エチミアジン大聖堂が消し飛んだ経緯を聞かねばならない。

 地下聖堂の内部薄暗いものの、一応電気は通っているので電灯の白い明かりが廊下を照らしている。

 キズナと龍巳は、もっとも親しくなったアンナから情報を得ようと、地下聖堂の散策に連れ出したついでにいろいろと尋ねることにしたのだ。

「姉さまのおかげで神の呪詛から解放されました。みんな、感謝してもしきれないと口々に言っています」

「ねえ、アンナ。神の呪詛というけれど、それはいったい、なんていう神様なの?」

 キズナは、アンナたちアルメニアの騎士に刻まれた呪詛を思う。禍々しくも神々しい呪詛。人の心を乱す、悪しき力。

「口にするのもおぞましい悪の化身です。わたしたちは、『まつろわぬ神』への隷属を拒否し、そして敗れました」

「戦ったってこと?」

 アンナは頷いた。

「なんてことを……」

 それは、あらゆる選択肢の中で、最も避けるべき行為のはずだ。そういった知識に疎い日本の呪術師でも、神に挑んだりはしないだろう。

 あるいは、すべてを承知で挑んだのだろうか。

「わたしたちにとって、『まつろわぬ神』とは異教の邪神と同義ですから、到底従えるものではありません。まして、あのような邪悪の権化に頭を垂れるのは我が神への冒涜です」

 彼女たちは呪術を操る戦士という側面を持っているものの、本業は修道士なのだ。呪術は異端の技ではなく、神の御技の模倣であり、異教のそれとは異なるという理解だし、『まつろわぬ神』という存在に対しても、批判的だ。異教の神なのだから、アンナたちの目には、悪魔と同じくらい邪悪な存在に映るだろう。

「正体、知っているのね?」

「はい。姉さまもご存知だと思いますし、外見から判断できるくらい有名です。光を纏った一二枚の羽を持つ天使。わたしたちにとって、忌むべき災厄の化身」

「まさか、――――ルシファー?」

「はい、そうです」

 キズナは思わず天井を仰いだ。

 世界で最も有名な悪魔王の名、前世ならともかく今のキズナが知らないわけがない。

 アブラハムの宗教に於いて、最大の悪魔はサタンと呼ばれるが、そのサタンの正体をルシファーであるとするのが一般的な解釈だ。一応、他にもアザゼルであったりサタナエルであったり様々な候補があるのだが、古くからルシファーをサタンと同一視する解釈が主流だというのは変わらない。

「それで、あなたたちは命を賭して挑んだのね」

「サタンに従うなど、ありえない話ですから」

 アンナだけではない。

 修道会の構成員は皆、彼らの主を信じる者たちが。その主に叛旗を翻し、地獄の王として現代に語り継がれる悪魔が『まつろわぬ神』として現世に現れたら、まず戦いを挑むだろう。勝敗は問題ではないのだ。逃げたり、屈服したりすること自体が、神の教えに反するのである。

「これも主が与えたもうた試練とはいえ、サタンに心を操られるという不覚を取り、修道会はほぼ壊滅。そんな中で姉さまが現れたのです」

 キラキラとした瞳で拳を握るアンナ。

「まあ、確かにわたしはカンピオーネだから、ルシファーとも戦えるだろうけど、いいの?」

「何がでしょうか?」

「そりゃわたしたちは神殺しなんて呼ばれてるじゃない。あなたたちとしてはそのあたりどうなの?」

 神を殺した者と仲良くしても教えに引っかからないのか。

 神を信奉する者として、どのような位置付けになっているのだろうか。

「わたしたちからすれば、カンピオーネの皆様は異教の悪魔共を人の身で討伐された勇士という理解です。悪竜を討伐し、平和をもたらした聖ゲオルギウスのような存在でしょうか」

 それはあまりに誇張しすぎている評価だろう。キズナも龍巳もそう思ったが、そもそも呪術を基本的に異端とみなすのが彼らの宗教だ。考え方はいろいろあるだろうが、異教の悪魔と戦う勇士という見方をすることで教えと乖離することなくカンピオーネとの関係を築こうという努力の証なのかもしれない。

「むしろ、混乱を呼び起こしていると思うけどね、俺は」

 龍巳は今までに出会った幾人かのカンピオーネを思い浮かべる。

 どのカンピオーネも癖が強い者ばかり。誰かに迷惑をかけなかった者はおそらく一人もいない。

「確かに、世のカンピオーネの皆様は一筋縄ではいかない方ばかり。侯爵のように、その、困った方もいらっしゃいますが、姉さまは人命を優先してくださいましたから。わたしたち一同、ご恩に報いるため、精一杯働かせていただきます」

「そう。けれど、無理は禁物だからね。解呪に成功したわけじゃなくて、あくまでも封印しているだけなのだから」

「はい」

 ルシファーの呪詛は、アンナの精神に根を張っている。今は、その活動を抑えることで影響力を打ち消しているが、完全に取り除けるわけではない。現状では、呪詛を取り除くには、元凶を討ち果たす他ない。

「あ、それと姉さまにお聞きしたいことがあるんです」

「聞きたいこと?」

「水原さまとはお付き合いされているんですか?」

「……え?」

 一瞬、キズナも龍巳も固まった。

 今まで、誰もそこまで踏み込んでこなかった問いだった。聞くまでもないと思ったのか、迂闊に踏み込んで地雷を踏み抜いてはいけないと思ったのか。おそらくは後者だろうが、どちらにしても男女二人で世界中を飛び回る生活を続けているキズナと龍巳の関係は、呪術業界では興味関心の的だ。そういった政治的なものとは別として、アンナは質問したのだろう。

 問われたキズナは、頬を赤くしつつも頷いた。

 明確にそういう仲になったという事実はない。しかし、願望に加えて乙女の意地があった。

 龍巳とそういう仲だと思われるのは悪い気がしないし、否定するのは不愉快な気分になる。だから、とにかく肯定する。

「そうですか。それは、よかったです」

 キズナの答えを聞いたアンナは、あろうことかそう言った。

 年頃の少女が、恋バナに興味を持つのは当たり前のことだが、アンナの反応はキズナが想像していたものとは異なっていた。

「……よかったってどういうこと?」

「はい、実は今晩お二人に泊まっていただくお部屋なんですけれども、サタンの攻撃で来賓用のお部屋が使えないこともありまして、今日、用意できたのがここだけで……」

 そう言いながら、アンナは目の前の扉を開け、電気をつけた。

 比較的大きな部屋だ。

 お洒落な木製のテーブルに木製のイスが二脚ある。無駄なもののない、シックな部屋だ。木の色が強く出た色調で、ファンタジーゲームの宿屋を思わせる。

「昔の旅のお方を宿泊させるためのお部屋なんですけど、一人部屋で、ベッドが一つしかないんです。でも、お二人がお付き合いされているのでしたら、問題ないですよね!」

「え、あ、いや、それは……」

「それでは、お邪魔虫はこれで失礼します。何かご用命でしたら、出入り口のところにある管理室に担当の者がおりますので何なりとお申し付けください!」

 言うだけ言って、アンナは立ち去ってしまった。

「お、おい。いいのか、あれ。あの娘、いい仕事したみたいな顔で行ったぞ」

「し、しかたないでしょう。こうなったものは。それに、他に部屋がないみたいなこと言ってたし」

 アンナが去って行った後、取り残されたキズナと龍巳は所在無く右往左往するしかない。

 かといって、先ほどまでいた応接間に戻るというのも間抜けな話だ。

 自分で肯定しておいて、実際にアンナにこういった状況を作られると怖気づいてしまう。キズナは心底自分の至らなさを自覚して、気分が沈む。とはいえ、ベッドは一つしかないという状況は変わらず、ソファもないので寝るにはベッドと床の二択しかない。だから、どうあっても一緒に寝るという展開になってしまう。どう言い訳を探しても避ける方法は見つからない。

「とにかく、ただで宿が取れたと思いましょう」

「うん、そうだな」

 龍巳も諦めたのか、それ以上部屋のことは口に出さなかった。

 

 

 この部屋は地下にある。だから、電気を消すと光一つない闇が出来上がる。人工の光がない世界であっても、星の光はあるのだから、こうして考えると本当の真っ暗というのは珍しいかもしれない。

 カンピオーネになってからというもの、どうやっても夜目が利いてしまう。漆黒の世界だろうが見透かすのが利点なのだが、こういう場面ではそれが裏目に出てしまう。

 ベッドの上にはキズナと龍巳の二人がいる。

 少し横に動けば、相手と触れ合えるくらいに近い距離。

 緊張して、喉が渇いてしまう。

 キズナは思わず、生唾を飲んだ。

 室内はいやに静かで、物音なんて少しもない。虫の声、風の音、自動車の走行音。そういった外部から入ってくる音は皆無で、その代わり隣に寝そべる龍巳の音ははっきりと聞こえてしまう。浅い呼吸、身じろぎするときのシーツが擦れる音。軋むベッドのスプリング。そういった情報が、気を張っているキズナに飛び込んでくる。目を瞑っても、瞼の裏に龍巳の姿が浮かび上がってしまう。かといって目を開けば本物が隣にいる。夜目が利くので、暗闇で見えないということもない。

 自分の呼吸音や、心臓の拍動が相手に聞かれていないかということも不安になる。

 心臓がバカになったみたいだ。

 こんな状態では、落ち着いて寝れやしない。

 気を紛らわせよう、そう思ってキズナは龍巳の背中を指でつついた。

「……どうした?」

「あ、起きてた。……いや、なんでもない。それだけ」

 何か、会話でもできればいいなと思ったのだが、いざとなってみると何を言っていいのか言葉が出てこない。いつもは気安く話せるくせに、話をしようと意気込むと途端に言葉が出ないのである。

「寝れないのか」

「む……」

 正直に言えば、眠れない。これまでは、気にならない程度の薄い壁が両者の間にはあった。それは、信頼とも呼べるし、気遣いとも呼べる相手といることが自然でそれ以上に踏み込めないというものだ。とりわけ、前世で男友だちとして接していた時間も長かったために、潜在意識の部分で遠慮するところがどうしても出てきてしまう。

 その壁が明確に壊れた今、改まって一緒に寝ることで、気苦労してしまうという問題が発生した。

「俺が気になるなら、出るけど?」

「それはダメ」

 ぐい、とキズナは龍巳の服を引っ張った。事ここに至って別々になるなどありえない。それは、なんといっても格好がつかない。

 キズナは下唇を噛み、少しだけ龍巳との距離を詰めた。

 スプリングがまた軋んだ。

 今、そうしなければと思ったわけではない。ただ、自然に離れようとする龍巳を引き止めようとした、その流れのままに、身体を預けただけだ。

 キズナは龍巳を背中から抱きしめた。そうするのが当たり前の行動だと思った。寝そべっているので、片手を回すことになるのだが、それで十分だった。身体は十分以上に密着した。体温も匂いもすべて分かるくらいだ。生唾を飲みながら、額をうなじの当たりに押し当てる。

 暑さとはまた別の理由で汗が噴き出してしまうのだが、その一方で自分の行動からくる緊張が寒気を呼び寄せる。

 けれど、しばらくすれば落ち着いてきて、緊張は包み込まれるような安らぎに変わっていた。

 龍巳は何も言わない。

 キズナの行動のすべてを受け入れるという意思表示だろうか。

 龍巳が拒否しないのなら、まだこのままでもいいか。そう思って、キズナは目を瞑る。

 さっきまで寝付けなかったのが嘘のようだ。心には小波一つなく、今のままなら、きっとすぐに眠れるだろうと、わけもなくそう思った。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 翌朝、キズナは九尾の権能で無数の鳥型の式神を作り出して街中に解き放った。

 権能を使うことで神殺しの存在を強調し、何処かに潜む『まつろわぬ神』を刺激しようというのだ。

 『まつろわぬ神』は、それが《蛇》であれ《鋼》であれ、またそういった属性とは無関係のものであれ神殺しを無視できない。彼らにとって、「神」という概念は絶対的で人間が逆らうことを許容できない。神というのは人間の崇拝を受けて成り立つものであり、そうでなければ神ではない。ヒエラルキーの頂点に君臨する神々にとっては、神に逆らう者を許容することはできないし、あまつさえ神殺しを成し遂げた者を無視しては存在意義を否定することに繋がりかねない。

 そして、それと同様に神殺し――――カンピオーネたちも、『まつろわぬ神』を無視できない。

 カンピオーネは一人ひとりが個性的で、平凡な者は一人としていない。だが、そんな彼らも、同族で括ればすべて、『まつろわぬ神』と戦う宿命を負っている。好むと好まざるとに拘わらず、彼らは戦わなければならないのである。

 それにしても今年は厄年だ。たった一ヶ月少々の間に、何度同格の敵と戦ったか。

 これまでにないハイペースだ。

 やはり、カンピオーネとして本格的に動き出したからだろうか。一箇所に止まらず世界各国を移動しているのだから、必然的に出会いも多くなるのだろうが、こうも頻繁に神々と戦う羽目になるとは。

 神様に逢うために世界を巡っているわけではないのだが。

 キズナは、アンナたちと離れて堂々と田畑の中を歩く。動きやすいように、黒いジャージに身を包んだキズナは、傍から見ればただの学生に見える。

 不幸中の幸いだ。

 破壊されつくしたエチミアジン大聖堂はエチミアジンの中央であり端、扇で言うところの要のような位置だ。そして、エチミアジンは田園風景に囲まれた都市でもある。つまり、エチミアジン大聖堂は正面に市街地、背後に田畑を背負っており、また敷地が広いおかげで、その破壊が市民生活に与える影響も少なかったのだ。

 もちろん、これから先、この悲劇が広まればただでは済まないだろうが。

 田園地帯の面積は、エチミアジンの数倍になる。その中に小規模な集落のようなものが点在しているが、それでも戦いに使用する土地に困ることはないだろう。

 事前に集めた情報が正しければ、敵の正体はまつろわぬルシファー。あるいはルキフェル。場合によってはサタン。それは本物を見てから判断すべきだが、一二枚の羽を持つ天使は世界に一柱だけだ。

 大天使たちでさえ許されなかった一二枚の羽を神に許された最強の天使。

 天上にいたときは、ミカエルすらも抑えて天使長の座に就いていたという。そのルシファーが神に逆らった理由は学説が分かれているのだが、有名なところでは己の美しさ、力強さを驕り、神を打倒しようとしたというものがある。その際、天使の三分の一がルシファーに従って反逆し、激しい戦いの末ミカエルに倒されて地に墜ちた。そして、ルシファーは地獄で悪魔を統べる王としてアブラハムの宗教を信仰する者たちの恐怖の対象であり続けた。

 天使の姿ならば最強の天使長、悪魔の姿なら最悪の悪魔王。

 『まつろわぬ神』としては、最も強大な部類に入ることだろう。

 何よりもかの神格は、太古の世界で信仰された大いなる蛇神である。その比類なき力は、神王クラスであろう。

 二、三〇分ほど歩いただろうか。エチミアジンから二キロほど離れたところで唐突に身体の奥底から力が湧きあがってきた。解き放った鳥の式神たちが群れを為して空を覆う。

 黒雲にも思える式神の群れが渦となって青空へ向かって飛翔していく。

「無礼な」

 地響きを思わせる声が空から降ってきたのは、そのときだ。

「天に手を伸ばす不届き者。神殺しの大罪人か」

 キズナは空を見上げる。漆黒の鳥が飛び交うその遥か上空に蟠る気を感じ取る。風が吹き、暗雲が立ち込める。眩い閃光が迸り、式神たちを焼き尽くした。

「雷神……ッ」

 目を細めながら空を見る。

 暗雲を斬り裂いて、ゆっくりと姿を現した人型の神。背中には六対一二枚の羽を背負っている。

 男か女か分からない中世的な顔立ちで、禍々しい悪魔というよりも神々しい天使のようにも見える。薄絹のトーガのような簡素な衣服を身に纏っているが、それすらも輝きに満ち満ちている。

「神殺し。人間の強欲は余の好むところだが、身の程を知るべきだな、小娘」

 空から声が降ってくる。

 次いで、光が奔る。

 反射的にキズナは光を虹矢で射抜いて打ち消した。

「天に手を伸ばしたのはそっちが先でしょう。暁の息子(ヘレル・ベン・サハル)

「ほう、すでに余の来歴を紐解いているか。だが、それも神代の話。今再び天に君臨し、人間共を支配する。正しき治世と統治を敷くのは、余であるべきだからな」

 空に瞬く光球が、数を増す。

 キズナにとって、アレは害意の塊だ。光と呼ぶにはあまりにも凶悪。

 なるほど、あの光がエチミアジン大聖堂を崩壊させたのか。片手間でこれほどの力を振るうとは、さすが光の神だ。

「邪魔な神殺しはこの場で死ね。我が雷と光にその身を焼かれて墜ちるがいい」

 宣言と共に光球が墜ちる。

 さながら隕石。大気を焼き、触れたものを消し飛ばす。敵は天上にあって降りてくることはない。光を墜とすだけで大抵の敵は始末できるのだから、ルシファーとしてはイスに腰掛けて観戦していればいいという感覚なのだろうか。

 だが、そう容易く墜ちないのが神殺しだ。

 常人ならば一撃で骨も残さず蒸発するはずの爆撃を受けても、傷一つない。

 避ける、かわす、撃ち落す。

 これまで積み上げてきた経験と勘は、相手がルシファーであっても存分に通用する。

 光球が田畑を抉り、雷の蛇が大地を裂く。轟音は一〇〇里の彼方にまで響き、暁の輝きにも似た光輝は太陽光すら凌駕する眩さで世界を照らす。

 神の暴威を裂いて、虹弓が天に駆け上る。

 一矢は一〇〇〇に分かれて炸裂し、降り注ぐ星を撃つ。

「惰弱」

 高天のルシファーは苛立ちに顔を歪めたようだった。

「愚昧……それに加えてあまりに傲岸」

 開かれるのは竜の大顎。身体は雷でできている。翼ある雷の竜だ。巨大な口を大きく開いて、キズナを呑み込もうとする。

「あなたほどじゃない、けどね」

 傲慢の象徴であるルシファーにそのような評価をされるのは、少々気に入らない。キズナは身体を荘子の権能を活用して一歩で数一〇メートルを移動し、雷撃を潜り抜ける。

 雷の蛇は大地を喰らうと反転して、キズナの背中を猛追する。

「うそ、動くのソレ!?」

 想定外のことにキズナは驚きながらも、後方に矢を放つ。蛇の両目を射抜き、口内にも矢を押し込み、そして内側から爆破する。

 しかし、ルシファーの攻撃は雷の蛇だけではない。

 このときすでに、キズナの周囲には光球が溢れていた。

「これで、逃げられん」

 ルシファーが拳を握る。

 その手の動きに合せて、光球の間隔が狭まった。キズナに向かって殺到する殺意の群れ。

 光と光がぶつかり合って灼熱と光を撒き散らす。直撃すれば蒸発は免れないそれを、キズナは空間転移で切り抜けた。

 咄嗟のことでバランスを崩し、転移先で勢いのあまり地面を転がった。

「う、わぁ、泥……ミスったぁ」

 突っ込んだ先の泥でジャージが汚れた。シャツにまで泥水が入り込んで気持ちが悪い。顔も汚れたし、もう最悪だ。

「雷の蛇は、エジプトのサタ由来の力かな」

 勘ではあるが、的を射ていると思う。

 エジプトの蛇神サタは、人間の足を持ち、毎日再生する蛇。そして、地に墜ちた雷神である。またサタのヘブライ読みがサタンなのだ。

「あまり高いところに行かれると、どうにも戦いにくいな」

 ルシファーは雲と同じくらいの高さにいる。

 上から下へ、光を降らせるルシファーに対処するには今の状態はよくない。自分が優位に立てる場所に陣取る必要がある。

「退くか」

 決めた。

 このまま、不利な状態で力を消耗するよりは、一旦退いて態勢を立て直した方がいい。

 敵の姿は視た。

 小手調べはここまででいいだろう。

 呪力を練り上げ、荘子の力を最大限に高めて長距離転移を行う。天のルシファーが哄笑し、光を降らせる中、キズナは聖句を唱えてその場から存在を消失させた。


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