極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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三十話

 光の絨毯爆撃は距離を取って戦いを見守っていたエチミアジンの呪術師たちの下でも容易に観測できた。

 絶大な光量と熱量は凄まじい。一〇キロ離れていたとしても、その光を目視することができたはずだ。

 彼らはすでに一度、その破壊力をその身で味わっている。だからこそ、目の前で世界の終わりを告げるかのように降り注ぐ光を見て、とても平静を維持することはできなかった。

 おまけに、頼みのカンピオーネが光に呑まれて消えてしまった。

 カンピオーネでなければ、『まつろわぬ神』には敵わない。それが常識だ。アルメニア修道会は、それを理解した上でルシファーに挑んでいるが、完全敗北した直後に望みを絶たれ、再び立ち上がれるかと言うと、それは不可能に近かった。

 彼らに残されているのは、死、あるいは隷属。逃亡して、他国に潜伏するという手もあるが、何れを選んだとしても悪魔に屈した事実は変わらない。

 ルシファーは、キズナが自分の攻撃を受けて消失したからかその場から姿を消した。

 絶望の色が濃厚になっていく中、唐突に消滅したはずのキズナが宙空に現れた。

「ね、姉さま!?」

 アンナは目を丸くした。

「ご、ご無事ですか?」

「ええ、何とかね」

 何とか、と言いながらキズナは五体満足だ。綺麗な髪や白い頬が泥で汚れているものの、怪我らしい怪我はない。

 駆け寄ったアンナに、キズナは微笑んだ。

「転移、わたしの権能よ」

「転移……」

「そう。ただ長距離を跳ぶとどうしても消耗してしまうのよね。すぐに再戦できないこともないけれど、やるんだったら、もっといい状態のほうがいいわね」

 キズナはそう言いながら、アンナの頭を軽く撫でる。

 ルシファーの攻撃は非常に強力だった。光と雷を操る力は、最強の墜天使の名に相応しいものだった。

 厄介なのは、ルシファーが常に空高くにいるということだ。キズナもルシファーも互いに遠距離攻撃を中心にした戦い方だ。だが、常に上に攻撃をしなければならないキズナと違い、上空にいるルシファーは細かく狙いを定める必要もない。ただ、下方に光を落とせばいいのだ。上に物を飛ばすより、下に物を落とすほうが楽というのは、権能を扱う身になっても変わらない。

 キズナも空を飛ぶことはできるが、初めから頭を押さえられていたのでは不利なところから戦いを始めねばならない。

「もっと、高いところを足場にしたいわね。どこかに、高所はないかしら?」

 故に、アンナに尋ねる。

「ええと……」

 アンナは困ったような顔をする。高い足場など、この辺りにはない。ルシファーが居座る高度は、それこそ飛行機でないと到達できない。キズナの問いは、端から不可能なものだった。

 それでも、なんとか期待に応えようと知恵を絞った結果、アンナは遠くを指差すことで答えとした。

 アンナが指し示したのは、雲を貫く大いなる威容。アララト山であった。

「アララト山か……なるほど、決戦の舞台にはちょうどいいかもしれない」

 そもそも、人工の建造物ではまつろわぬ神の攻撃には耐えられない。キズナが如何に高所を取ろうとしたところで、限界がある。

 だが、さすがに五〇〇〇メートル級の成層火山であれば権能の爆撃に曝されてもびくともしないだろう。大地に属する神であれば、火山を爆発させるなどということもしかねないが、幸いなことにルシファーは大地の神ではない。間接的にゼウスとも関わりのある、雷神であり光神である。ルシファーは地獄の王なので、当然冥府神でもあるが、大地の属性は持たないのだ。

「いいわね。うん、ノアの箱舟伝説の地だしね」

 そうと決まれば移動だ。

 ルシファーが追ってくるか分からないが、とにかくアララト山を目指さねばならない。

「アンナ、車の用意はできるかしら?」

「はい。すぐに!」

「あ、運転手はいらないわ。龍巳とわたしが乗れれば十分だから」

「え……あ、はい。分かりました」

 これまでに多くの神々と戦ってきた二人だから、こんなときでも一緒に戦場に向かうのだろう。

 カンピオーネの戦いに、自分たちが関わっても足を引っ張るだけで何の役にも立たない。わがままを言えば連れて行ってもらいたかったが、ただでさえ、キズナにとっては無関係の争いなのだ。一日前に出会ったばかりなのに、なんの見返りも要求することなくルシファーと戦ってくれるというこのカンピオーネに対して、負担になるようなことはできない。

「あの、姉さま」

「ん?」

「敵は、ルシファーです。その、大丈夫、でしょうか?」

 キズナが勝てるかどうかも重要だが、キズナが死んでしまわないか。それが不安で、つい尋ねてしまった。

 アンナが心配していると察して、キズナは苦笑する。本当に、どうしてここまで慕ってくれるようになったのか。

「大丈夫よ。ルシファーって言ったって、『まつろわぬ神』は『まつろわぬ神』。悪魔王だろうがなんだろうが、同じよ。ネームバリューに騙されちゃダメ」

「『まつろわぬ神』という時点で、わたしたちからすればどうにもならない存在ですが……」

 キズナの言葉を聞く限り、ルシファーであっても、他の神々と同様勝てない相手ではないというような意味だろうが、アンナにとって、それは非常識極まりない回答だった。

 出会うことが死に直結するのだから、神々の強弱は論ずるに値しない。

「とにかく、絶対に勝てないってことはありえないのよ。相手がルシファーでもね」

 絶対の自信を覗かせてキズナは言った。

 根拠なんてものはない。言ってみれば、それこそ彼女の信仰だ。カンピオーネが共有する価値観でもある。相手が神々であろうとも、万分の一で勝てる見込みがあるのなら、それを引いてしまえばいい。

 そして、それを現実のものとした以上、どれほど強力な『まつろわぬ神』と出合ったところで臆するはずがない。

「あの、姉さま。アララト山に行かれるのでしたら、航空機の用意もできますが?」

「本当に?」

「はい。ここから五キロほどのところに国際空港がありますから、航空機の用意はすぐにできます」

 ズヴァルトノッツ国際空港のことだ。エレバン市内よりも、エチミアジン市内の方が、この空港に近いのである。

 五キロ程度の距離なら、あっという間だ。それに、山を登るよりは飛んだほうが楽でもある。

 少しばかり悩んでから、キズナは車による移動ではなく、ヘリコプターによる移動を選んだのだった。

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 キズナがヘリコプターの利用を決めたのは、単純に速いからだ。

 全力でタイヤを回す車の二から三倍の速度で移動できる上に、障害物も道も関係ないというのはありがたい。

 それに、あの巨峰を目指すのだ。やはり、道に左右されないヘリコプターは楽でいい。

 甲高いエンジン音と共に、キズナと龍巳を乗せたヘリコプターが空を行く。グレムリンの権能で強化された機体は、人類の常識を超えた速度を実現する。

 エチミアジンを出た機体は、そのまま南下。富士山を遥かに上回る巨峰を目指して飛ぶ。

 機内には、キズナと龍巳の二人しかいない。

 おまけに、操縦桿を誰も握っていないのだ。キズナが念じたとおりに機体は動く。そのため、操縦士は必要ない。

 戦いは、キズナが最も得意とする日没後に行うことにした。夜の帳が降りてから、行動を開始したのだ。

「このスピードなら、二〇分とかからないかもね」

 キズナが窓から眼下を見下ろして言った。

 エチミアジンからアララト山までは、一〇〇キロもないと思われる。アララト山があるのは、アルメニアではなくトルコであり、国境からも三〇キロほどあるが、常軌を逸した速度で飛ぶヘリコプターならば、あっという間に目的地に到着するだろう。

 グレムリンの権能を行使することによる消耗よりも、先の戦いで長距離転移を行ったことによる消耗のほうが遥かに大きい。

 もちろん、カンピオーネの性質として『まつろわぬ神』と対峙すればキズナの力は底上げされる。だが、だからといって疲労や呪力の消耗を無視して敵の前に躍り出るような無謀をしていいはずがない。

 消耗した呪力を回復する必要がある。

 キズナは龍巳の首に腕を回して、抱き寄せた。

 それから、首筋に犬歯を突き立てる。最も効率よく回復するのであれば、ドラキュラの権能を使うのがいい。

 今は夜間だ。この権能の力も存分に発揮できる。

 首筋から溢れる血を、キズナは貪るように啜った。一滴たりとも零すまいと、二つの傷口を口で塞ぐ。喉を鳴らすたびに、胸が熱くなり自分の血流も加速するような気がする。

 いつものことながら、血を吸うと頭が働かなくなる。魔性の力に心が蕩かされているようで、ただ味わいたいという欲求だけが意識を支配しようとする。

 このままではいつまで経っても終わらないので、仕方なくキズナは口を離した。名残惜しいが、今は情事に耽っている場合ではないのだ。最後に、傷口を舌先でなぞって気持ちを切り替えた。

「力、戻ったか?」

「うん、大分」

 上がった息を整えて、キズナは拳を握りこむ。身体の調子を見ているのだろうか。透き通るような蒼穹の瞳は、ドラキュラの権能の影響でルビーのように赤く染まっている。

 何気なく、龍巳はキズナの頭を撫でた。大した意味はないが、密着した状態だったということもあり、流れで手が出たのだろう。

 キズナは、心地よさそうに目を細める。

 

 

 そのとき、後方から大きな神力が発生したのを二人は感じた。

 この気配は間違いなく、ルシファーだ。

「神殺しの娘か。そのような人間共の手並み草で編まれた鉄の鳥を駆ってどこにいく?」

 声が響き渡る。

 同時に、雷鳴が轟いた。

「やっぱり、追って来たわね」

 キズナは内心で舌打ちしつつ、目を細めた。

 身体の内側からはすでに溢れんばかりに力が湧きあがっている。身体のほうは戦う準備が整っているのだ。だが、環境が整っていない。空では相手が有利だ。地に足を付けた上で、敵に近づける位置を確保せねばならない。

「貴様は、先ほど始末したと思っていたがさすがにしぶといか。今度こそ、余の前に屍を曝すがいい」

 ルシファーは問答をする気もないのか、神力を炸裂させた。身も竦むような力の奔流の後には、無数の異形が姿を現していた。

 鷲の上半身と獅子の下半身を持つ合成獣(キマイラ)

「まずは、余の手勢がその鉄の鳥の相手をしよう。踊れ、神殺し。その舞踏を死に行く己が魂への慰めとせよ!」

 現れたのはグリフォンの群れ。

 翼を羽ばたかせ、凶悪な爪で大気を切り裂きながら、ヘリコプターに向かって駆けて来る。

「そういえば、七つの大罪で『傲慢』に対応するのはルシファーとグリフォンだったわね!」

 グリフォンはもともと聖獣だ。

 キリストとも関係が深い善の陣営に属する獣である。だが、それと同時に悪魔としても描かれることもあり、今回ルシファーがグリフォンを召喚できたのも、ルシファーとグリフォンが共に七つの大罪に於いて『傲慢』の象徴とされるからであろう。

 おまけに、アルメニアはグリフォンが生息するとされるコーカサスの一部である。グリフォンにとっては、我が家の庭を駆け回っているのと同じだ。

 あの見るからに強靭そうな爪と嘴なら、このヘリコプターを切り裂くのは容易だろう。戦闘用の機体ではないので、ミサイルも積んでいない。まさか、ヘリコプターで体当たりというわけにもいかない。ならば、早々に足場を確保するべきだ。いざとなれば外に出て戦えばいい。キズナが今、外に出てあの群れを相手にする意味もない。

 キズナはヘリコプターを加速させる。

 この機体が出せる速度の物理的限界はとうに超えている。グレムリンの権能が、不可能を可能にしているのである。

 もはや、超音波にも思える甲高いエンジン音。

 内臓を置き去りにしそうな、加速が身体にかかる。

 グリフォンの群れは、着実に距離を詰めている。神獣のほうが速いのは仕方がないか。これが戦闘機であれば、話は別なのだが、それを言っても詮無いことだ。

「我は魔を統べる者なり。生ける者も死したる者も須らく我が軍門を守る剣となり、我が砦を守る楯となれ」

 敵がグリフォンを呼ぶのなら、こちらは鬼を呼び出そう。

 漆黒の影は翼ある鬼という異形を象る。

 召喚された鬼たちが、防波堤のようにグリフォンの行く手を遮る。

 黒と白の異形が、空中で激しくぶつかり合う。グリフォンの爪が鬼の胸を抉り、鬼の金棒がグリフォンの頭を打ち据える。

「ほう、貴様も配下を呼び出す権能を持っていたか。だが、その程度の使い魔では、余の兵を止めることはできんぞ」

 ルシファーの言葉ももっともだ。

 キズナの式神は、神獣以下の力しか持たない。グリフォンの群れに対して、キズナの式神は数が多いが、それでも辛うじて戦線を維持することしかできない。

 キズナもあの鬼たちにそれほど多くは期待していない。

 逃避行は長くは続かず、目的地であるアララト山に到着する。

 大アララト山と小アララト山があるのだが、キズナがいるのは大アララト山の中腹よりも上あたり。標高、四五〇〇メートル辺りだ。

 大アララト山の山肌をキズナと龍巳は踏みしめた。ヘリコプターは呪術で地面に固定する。

 足元はなだらかな傾斜で、岩と雪に支配された荒涼とした世界が広がっている。

 富士山よりも高いだけあって、風も強い。ともすれば身体を持っていかれそうになる。

 ここは、すでに雲の上。

 見上げる黒のキャンパスには、散りばめられた星と眩い月。

 肌を裂くような寒風が容赦なく吹き付けてくる中で、キズナは前を見る。

 鬼の群れを踏破したグリフォンが、次々と襲い掛かってくるのである。各々傷ついていたが、勢いが弱まる気配はない。

「撃ち落す」

 迫り繰るグリフォンに、キズナは虹の矢を放つ。

 分裂する矢が、グリフォンの首や胴を次々と射抜いていく。鮮血が空に吹き上がり、霧となって風に流れる。

 さすがに、ルシファーの権能から生まれただけに、ただの神獣よりも格上なのか、あっさりとは死なない。しかし、神獣であることに変わりはなく、キズナの矢を受けて無事な固体はいなかった。

 射殺されたグリフォンは、断末魔の叫びを上げて雲に向かって墜ちていく。

 討ち漏らしたグリフォンがキズナに突進する。鉤爪が振り下ろされる前に、グリフォンの首に日本刀が突き刺さる。龍巳とて、キズナの加護を受けた身。神獣程度であれば、なんとか相手にとって戦える。

「龍巳、無理はしないで!」

「分かってる!」

 言いながら、日本刀を横薙ぎに振るい、首を切り落とすと、グリフォンはよたよたとよろけて倒れた。

 雉のような高い鳴き声を上げ、グリフォンたちは、獲物と見定めたキズナと龍巳に踊りかかる。その大半は、虹の矢によって射殺される羽目になり、辛うじて生き残っても後に控える龍巳と二頭の狛犬によって跳ね返された。

 グリフォンが物言わぬ屍となったのを確認して、キズナは姿を現したルシファーに視線を向けた。

 輝く一二枚の羽が後光のように輝き、夜の闇は彼の周囲だけ消えてしまっている。

「我が獣をいとも容易く退けるか。天を恐れぬその有り様。なかなか不愉快だぞ、神殺し」

「同族嫌悪かしら。わたしたちも魔王なんて呼ばれているから、やってることはあなたと同じ感じなんでしょう」

 主神に逆らったルシファーと神を殺したカンピオーネ。

 共に、反逆者である。

「もちろん、負け犬のあなたと違って、わたしたちは勝者なんだけどね」

「口が過ぎるな小娘。何れ死ぬと決まっているのに、今死を選ぶとは愚者の落とし子らしいといえばらしいか」

 ジジ、と耳障りな音がする。

 ルシファーの周囲に、帯電する光球が出現したのだ。

「そうまでして死に急ぐのであれば、余が直々に裁きを下してやろう!」

 轟、と雷光が迸る。光球がキズナに向かって延びたのだ。光球の一つひとつが、光の柱となって大アララト山の山肌を削った。

 龍巳は狛犬に乗って辛くもこれを避ける。ルシファーの狙いが龍巳ではなかったことが幸いした。キズナは、荘子の権能を使い、空に逃れる。紅に染まる瞳。夜と同化した闇色の衣を纏ったキズナは、光を掻い潜ってルシファーと同じ高度にまで上昇する。

 前回の戦いでは、ルシファーとの距離はあまりに開きすぎていて、キズナは手も足も出なかったが、今回は足場が四〇〇〇メートル級だ。ルシファーとの距離も、非常に近くなっているので、距離を詰めるのは比較的簡単だ。

 キズナとルシファーは共に遠距離攻撃型の権能を使う。それぞれを比較すると、残念なことにルシファーのほうが威力と射程に優れているというのがキズナの冷静な分析である。

 その一方で、手数ならばキズナのほうにアドバンテージがある。一撃が重いルシファーは、高高度からの爆撃で手数を稼いでいたが、今の攻撃を見ても、発射までに溜めが必要なようだ。

 それなりの距離にまで近付いたら、まずは連射だ。

「帝釈天の破魔の矢は、悪鬼羅刹を打ち砕く金剛の一撃。悪魔王と雖も射抜いて墜とす」

 帝釈天は武神の中の武神。その歴史は古く、前身となるインドラは紀元前一四世紀にはすでにヒッタイトで信仰を集めていたという。

 虹の矢が無数に分裂してルシファーを四方八方から襲う。対するルシファーは、強大な光線でこれを焼き払う。六条の熱線が、矢を溶かし、霧散させる。

「矢で足りないなら、杭もくれてやる」

 鞭打つような音が鳴り、キズナの漆黒の衣が広がった。たゆたう衣は黒い炎のように揺らめき、その内側から刃を覗かせた。

 夜空に杭が出現する。キズナの矢と合わさって、もはや弾幕とも思える虹と杭の攻撃がルシファーに降り注いだ。

 雷光が煌き、膨張した空気と灼熱の光輝が弾幕を迎撃する。

 『ルシファー』という言葉は、もともとラテン語で『光をもたらす者』を意味し、決して悪魔を指す固有名詞ではなかった。初期の聖書に用いられたルシファーという語は、『明けの明星』をラテン語訳したものに過ぎなかったのである。

 それが墜天使を指すようになったのは、旧約聖書の『イザヤの書』に「輝く者が天より墜ちた」という表現があったことによる。これは、バビロニア王を指す比喩だったとされるが、この「輝く者」がラテン語訳で『ルシファー』の語で翻訳されたのである。聖書最大の悪魔が、単なる解釈の違いで固有名を得るというのは不思議な話だ。

 まつろわぬルシファーが、光を支配するのもおそらくは自らの名『光をもたらす者』に由来する力だ。

 光の柱を掻い潜り、キズナは狙撃を行う。ジリジリと熱が肌を焼くが、荘子の権能でなんとか受け流し、手数を増やしてルシファーを押す。ルシファーは苛立たしげに手の平をキズナに向け、光線を放つ。

 遠距離攻撃の応酬に、雲が散り、気流が乱れた。大アララト山の頂上の万年雪は、熱線に焼かれて蒸発していく。

「『ルカによる福音書』一〇章一八節で、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た」なんて、救世主は言っているけれど、本当にあなたは雷撃を使うのね。やっぱり、雷神を取り込んで成立した神格らしいわ」

 元が雷と縁深い蛇神だからだろうか。

 ルシファーはサタンであり、このサタンはエデンの園でアダムを唆した蛇だとされる。しかし、それだけではなくルシファーの原型ともなるいくつかの異教の神は、雷神であり蛇神でもあった。

 たとえば、ゼウスとも繋がるバビロニアの嵐神ズー、フェニックスの原型でもあるエジプトの明けの明星の神ベンヌ。その男根は、蛇神であった。エジプトの雷神サタは、地に墜ちた雷神であった。

 また、ルシファーを語る上で欠かすことができない神格が、カナン神話のシャヘルとアッタルだ。この二柱の神は共に、明けの明星を神格化したものであり、どちらも最高神に反逆して地に墜ちた神でもある。この神の神話がルシファーという神格の形勢に最も寄与したという説もある。

 ルシファーという神格を読み解く上で必要はキーワードは、『蛇』『雷神』『明けの明星』『地に墜ちた神』といったところであろうか。

 『地に墜ちた神』は前述のエジプトの雷神サタとバビロニアのズー、カナン神話のシャヘルとアッタルのほかにも、古代インドのナフシャがいる。インドラの不在を狙い神々の王位を手に入れたナフシャは、傲慢の末に追放され、蛇神となる。

 こうした神話が、聖書に影響を与えたことは否定できない。

 『ナフシャ』の名は、後にヘブライ語で『蛇』を意味する言葉に変わる。この当時、未だ唯一神の信仰は生まれておらず、大いなる蛇が信仰されていた。その名残は、旧約聖書でモーセが青銅の蛇(ネフシュタン)を作ったことからも窺える。ネフシュタンは『火の蛇』であり、火は雷を意味している。やがて、この『火の蛇』を意味するヘブライ語が、織天使(セラフィム)――――ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルといった至高の天使たちを象徴する語へと変わっていくのである。

 現代でも蛇をサーペントと呼ぶ。この語とセラフィム、あるいはセラフは、元を同じくするのである。

 よって、ルシファーを初めとする最高位の天使も、元を辿れば蛇神に行き着くのである。

 ルシファーが蛇神であり雷神であるのはこうした事情によるものだ。

 ルシファーの原型の一つでもあるナフシャは、結局地に墜ちたが、帝釈天の原型であるインドラは神王に返り咲いている。インドラは反逆者が挑戦するべき神であり、反逆者は総じて敗北するのだから、権能の相性は比較的良好なはずだ。

 飛び回りながら、矢と杭を無数に飛ばす。彼我の距離は常に一定でルシファーの光線を避けながら反撃できる位置を維持する。

「ガンダムみたいなビームぶっぱなしてんじゃないわよ、もうッ」

 目を焼く白い光の柱を、キズナはかわす。敵を捉えそこなった光の柱は、地上に墜ちてその灼熱を思う存分に解き放つ。この時点で、大アララト山の頂上付近は黒い岩石がほぼ露出した状態になっている。戦いが始まる前までそこにあった雪と氷が、蒸発してしまったのである。

 ルシファーの光線は、攻撃範囲が広い。その上、同時に何本も放てるので、非常に厄介で、散弾のような形で光球を放てる。一撃一撃が非常に重い。荘子の権能でも、迂闊に直撃を貰えば防ぎきれないだろう。

 

 

「ちょこまかと、ネズミのようだな」

 ルシファーの攻撃は、未だにキズナの身体を捉えてはいない。

 キズナの攻撃もルシファーに届いていないのだが、数はキズナのほうが多く、徐々にルシファーの光球の生成速度が追いつかなくなっているという現実がある。

 遺憾なことだが、このままでは手数に圧されて被弾する可能性がある。その上、こうも連続で攻撃を続けていながら敵の生存を許すというのは、ルシファーのプライドが許さない。

 遠距離戦は互角。

 ならば、近距離戦に活路を見出したほうが得策か。

 ルシファーはやおら手の平を虚空に翳す。それは、キズナに見せ付けるかのように緩慢で、それでいて隙のない動きだった。閃電が弾け、ルシファーの手の中に三叉の鉾を形作る。

 その直後のルシファーは、まさしく雷光。

 雷の蛇そのままに、自らの肉体を雷電へと変換したルシファーは、大気を斬り裂く雷速で以てキズナの背後を取った。

「ッ……!?」

 突き出される鉾を、キズナは身を捻ってかわした。

 夜の衣の裾が焼ける。雷撃の鉾だ。

「よくかわした。ならば、これでどうだ?」

 ルシファーの羽が輝き、手の平に光が収束する。

 至近距離から、熱線を放つ。直撃すれば、如何な神殺しと雖も重症は免れない。必殺を期して放たれた熱線はしかし、またしてもキズナを捉えるには至らない。目前にいた金色の少女の姿はあまりにも唐突に消失し、対象を見失った光の柱は、まったく無関係の大地に着弾して山肌を融解させる。

 そのありえない光景に、ルシファーは――――何一つ驚くことなく状況を分析する。

 なるほど、空間を跳躍する権能は非常に厄介だが、移動に比べて事象を捻じ曲げる要素が大きいため神速以上の負担になるのは目に見えている。前回の戦いで、ルシファーの回避不能の攻撃から生還し、そうと悟られないままに撤退したのはこの能力によるものだろうし、即座に再戦とならなかったのも、おそらくは消耗を考えてのことだろう。

 ならば、今回も撤退したか。

 否。それは考えられない。敵が布陣したこの大アララト山は、彼女にとって戦いやすい環境だったはず。少なくとも、平地で戦うよりはルシファーに近く、互角の戦いを演じるだけの地理的要因がある。それを、易々と手放すとは考えずらい。

 そうであれば、戦闘は続行する。転移は移動経路が読めない。そのアドバンテージを活かすならば、彼女はどこに現れるか。

 ルシファーは極めて冷静に、空気を蹴る。真横に退いたルシファーの羽を、虹の矢が背後から掠めていく。

「もう、なんで中らないのよ」

「そのような見え透いた策が通じるか。神殺し」

 ルシファーは、振り向き様に、右腕を横一文字に一閃する。

 六条の光が、夜を引き裂く。灼熱に大気が絶叫し、轟き渡る轟音となって吹き渡る。これだけで、敵を仕留めるには足りないだろう。

 ルシファーは畳み掛けるように、雷光となって翔けた。

 

 

 

 ■

 

 

 

 キズナはカンピオーネである前に、神祖の娘である最高位の媛巫女である。現世に生まれ変わったときも、肉体は、キズナの本来のスペックを再現するために、生前と同様の状態に組み変わっている。よって、肉体に依存する神祖の力も、生まれ変わる前と同様にキズナの中に流れている。

 媛巫女や魔女といった、霊視能力を持つ者は、総じて危険察知能力が桁外れに高い。この世ならざる空間にアンテナを張っているため、そこから情報を受信できるからだ。殊に、キズナは世界最高の霊視術師。彼女がヤバイと思ったら、ほぼ確実に危難が訪れる。

 何か来ると分かれば対処もしやすい。

 六条の光は確かに強大無比で、カンピオーネの頑丈さや呪力への耐性だけでは耐えられない。だからこそ、余計な欲は出さずに軌跡を読み、回避に専念することを心がける。

 白熱した光が通り過ぎた直後、視界を掠めたのは紫電の瞬きだった。

 魂の奥底から警鐘が鳴り響く。

 キズナは虹弓を消して、右手に不動明王の神剣、倶利伽羅竜王之太刀を生成する。魔物殺しの神剣を咄嗟に構えると、雷光の煌きをそのままに繰り出された三叉の鉾が、目前に現れた。がっちりと、太刀と鉾が組み合って、キズナは一命を取り留める。何もしなかったら、頭をくり貫かれていただろう。刃が目の前に迫るという状況で、キズナは歯を食いしばって耐えた。ドラキュラの権能で身体能力が上昇しているおかげで組み合える。が、『まつろわぬ神』を相手に接近戦は、キズナの望むところではない。

 炎を凝縮した大太刀と、雷撃を押し固めた三叉の鉾がぶつかり合う。

 研ぎ澄まされた直感と、強化された腕力でキズナは太刀を振るい、炎を浴びせかける。ルシファーもまた、雷撃を放ちつつ、鉾を突き出してくる。高速で飛び回り、ときに蹴りまで入れて、互いを削りあう。遠距離での撃ち合いは終わりを告げ、武器を打ち鳴らす近接戦に突入した。

「貴様も武具を持っていたか。その燃える蛇の剣で、余を斬ろうというか。度し難いな!」

「度し難いのはあなたのほうよ。そもそも、その鉾、女の子に向けるもんじゃないでしょ!」

 不快感を露にキズナは表情を歪ませる。

 ルシファーの三叉の鉾は、ただの鉾ではない。それが象徴するのはルシファーが地に墜ちたという事実であり、地に墜ちるというのは、大地との結合の意図を意味している。

 即ち、最高神に反逆した神は、最高神の妻――――大地母神を娶りその地位を簒奪しようとし、大地の象徴たる深淵に、雷光となって墜ちた。事実、インドのナフシャはインドラの妻を簒奪しようとして神々の不況を買った。古代の世界、特にアジアでの王権は、女神によって与えられるものであり、王たちは女神と関わりを持つことで王権を維持した。雷は蛇の象徴であり、同時に男根を象徴するものでもある。大地母神と交わることを象徴するのが、この三叉の鉾であり、それを向けられてキズナが嫌がるのは至極当然のことである。

 紫電が弾け、火花が散る。

 紅蓮が舞い、ルシファーを襲えば、雷光の煌きがキズナを叩く。

 斬り合いの最中でも、隙あらば強大な一撃を入れる。直撃は共に皆無ながら、戦いが激化するに従って、徐々に傷が増えていく。ルシファーは蛇神らしい回復力で傷を癒し、キズナは荘子の権能で攻撃そのものを受け流す。

 戦いは、千日手に陥り、消耗戦の様相を呈してきたのだった。

 


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