極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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三十三話

 嵐は驚くほどあっさりと通り過ぎた。

 そんなものははじめからなかったとでもいうようにだ。空は、再び太陽が照りつける青空に変わり、どす黒い暗雲は、彼方に去った。

「酷いものだ……」

 博雅は半焼した清涼殿を呆然と眺めて呟いた。

 周囲には多くの人が行き交っている。皆顔には一様に不安と恐怖を貼り付け、清涼殿の片付けをしているのだ。負傷者も多く、その手当ても必要で、落雷という脅威に対応するために陰陽寮の陰陽師たちが呼び出されている。

 豪華絢爛、この世の輝きを凝縮したかのような内裏は、今や恐慌に包まれ、炭化した柱が無残に転がる様は、末法の世を思わせた。

「末法まで、まだ一〇〇年はあるだろうに……」

 仏の教えが廃れるという末法の世は、計算上はあと一〇〇年ほどでやってくるという。それに先んじて仏の中でも武神と名高い帝釈天が内裏を襲撃するなど、笑い話にもならない。

「確かに、笑い話にもならんな、博雅」

 晴明が、博雅の隣に歩み寄った。

「先生とともにこの内裏を視て回ったが、悪意ある呪力は特にに感じられなかった。神は、荒ぶるだけ荒ぶった後で満足して去ったのかもしれんな」

「満足などと……」

 この惨状を見て、満足したから去ったで納得できるはずもない。

 帝は、常寧殿に避難したものの、酷く憔悴しているし、他の者たちも恐怖に顔を歪めている。

「博雅。何人死んだ?」

「六人だ。大納言民部卿藤原清貫殿が胸を焼かれて亡くなられたのを皮切りに、美努忠包殿、紀蔭連殿、安曇宗仁殿、それから警備に当たっていた近衛二人が焼かれて死んだと聞く」

「後ろのほうは、清涼殿にはいなかったはずだが」

「落雷は、紫宸殿にも跳んだらしい」

「なるほど」

 晴明の顔は相変わらず頭巾に隠れて見えない。人嫌いの彼が、どのような感情をこの一件に抱いているのか、博雅には定かではない。

 晴明の肩に、一羽の鳩が止まった。それから、晴明は、博雅を見上げた。

「博雅」

「なんだ」

「死者に一人追加だ。右中弁内蔵頭の平希世が死んだらしい。今、先生から連絡が入った」

「何ッ!? 平希世殿までかッ!?」

 平希世は、仁明天皇の曾孫に当たり、平姓を与えられて臣籍降下した。

 この事件では、落雷で顔を焼かれて重傷を負い、内裏の外に運び出されていたのだが、助からなかったようだ。

 博雅は衝撃を受けながらも、帝が無事だったことだけは僥倖であったと喜んだ。そうしなければ、あまりにも虚しく、憤ってしまうからだ。

 博雅には力がない。政治に関わっておらず、このような事態にあって何もできることがない。

「源博雅様」

 博雅は名を呼ばれたのほうを見た。

 そこにいたのは、一人の官人であった。

「帝がお呼びでございます。至急、常寧殿にお向かいください」

「分かりました。すぐに向かいます」

 博雅は晴明にまた、と言って、帝の座す常寧殿に向かった。

 博雅はそこで、傷ついた帝や公卿らのために、管弦を演奏することを求められた。

 そこで、博雅は常に持ち歩いている名器「葉二」を以て、静々と笛を吹いた。葉二は、博雅が朱雀門の鬼から得た神具であった。雅楽を得意とする鬼に、競り勝てたのは、奇跡に他ならないが、それを乗り越えた博雅は神具すらも認める笛の名手となったのだ。当人はまだまだ、発展途上であると謙遜してはいるが、その実力は師たる大石峰吉がもはや教えることは何もないと宣言してしまうほどになっているのだ。

 博雅は求められるままに笛を奏で、帝や公卿らを慰めた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

「最悪だ。いや、最悪などという言葉では語りきれんな」

 その夜、博雅は宿直の当番を任された。緊急事態のため、平時よりも増員されたのであるが、博雅は帝の孫ということもあって、帝を安心させるためという名目でいつの間にか名簿に名が載っていた。

 そして、晴明もまた宿直の当番をやらされた。まだ幼い彼ではあるが、その力量は師匠である賀茂忠行も認めるところで、宿直に回されることになってしまったのだ。基本的に人が嫌いな彼からすれば堪った物ではないのだが、これも命令なので仕方なく付き合っている。

「ああ、まったくだ。『まつろわぬ神』にこの国の中枢を狙われるなど、笑い話にもならない。これでは、おれも家に帰れんではないか……」

 博雅の言葉に晴明が頷いた。考え得る限り最悪の事態であり、博雅が言うとおり最悪などという言葉では語れないほど、事態は逼迫している。

「この落雷で、多くの命が奪われてしまった。神は何処かへお隠れになったが、帝はいつまた雷が襲ってくるかと戦々恐々としておられる」

「『まつろわぬ神』は気まぐれだ。今回はこの程度で済んだが、次は京そのものを灰燼に帰すということも否定できんからな……」

 世の中のことなどそれほど気にしない晴明も自分の生活基盤が壊されるのは困る。引きこもりにとって、今の京の政治制度は願ったり叶ったりなのだ。一応は貴族である晴明は働かなくても収入があるのである。

「『まつろわぬ神』の居所は、陰陽寮が一命を賭して探り当てる。その後のことは分からんが」

「探り当てたところで、どうにかできるもんなのか、あれ」

「できないだろうな。何度も言ったが、神を相手に人間にできることなど基本的に祈るだけだ」

 それでは探したところで意味がないではないか、と博雅は言いそうになったが、それを口にしてはいけない気がした。

 現実に、そうやって命懸けで戦っている人間がいるのである。博雅が否定していいことではなかった。

「それとな博雅、今回の事件の主犯だが、帝釈天ではないということになった」

「帝釈天ではない? お前が帝釈天だと言ったんじゃないか」

 博雅が内裏に戻ると決めたとき、引きとめる晴明は、その神の名を叫んでいたではないか。

「そうなのだが、違うということになったのだ」

「意味が分からん」

 何かの言葉遊びだろうかとも思ったが、まったく要領を得ない晴明の言葉は博雅を混乱させるだけであった。そもそも呪術や神のことなど博雅が理解できる領分ではなく、早々に考えるのを止めて尋ねた。

 すると、晴明はため息をつきながら、

「あのな、帝釈天は善なる仏だ。悪鬼羅刹を討ち果たす雷の神で、盛んに信仰を集めている」

「ああ、それくらい知っている」

「ならば、その善なる仏に襲われた内裏の立場はどうなる」

「あ……!」

 そう、善の敵は須らく悪である。

 ならば、帝釈天に襲撃され、死した貴族たちは帝釈天の怒りを買った悪ということになってしまうではないか。いや、それだけでなく、内裏が燃えたということが、帝や朝廷という組織そのものへの否定にも繋がってしまう一大事だ。

「いらぬ混乱を招くべきではないというのが、陰陽寮の決定だ」

「そうか。確かにその通りだな」

 襲い掛かった神の正体を秘匿しなければ、混乱した宮中がさらに混乱するという事態になる。仏への信仰は、今真っ盛りという時代である。もしも仏に見限られたなどということになれば、それは地獄に落ちることが確定したも同然ということになる。

「では、どのように説明するんだ?」

「此度の怪異は、大宰府に左遷された菅原道真公の怨霊が引き起こしたものであるというのが、正式な決定となった。公には悪いが、それが、都合のよい解釈だったのだ」

「菅原道真公か……」

 菅原道真は、博雅や晴明が生まれるよりも前の人だが、二人ともその名を耳にしたことはある。先帝である宇多天皇に重用されてその見識を遺憾なく発揮した名臣であり、史上最高峰の学者である。彼の活躍もあって、宇多天皇の治世は、寛平の治と呼ばれ後世に伝えられることになるのだ。

 後に延喜天暦の治と呼ばれる今上天皇(後の醍醐天皇)と村上天皇の治世も、この寛平の治の延長線上にあるもので、その治世は、平安時代の「善政」の手本となったと言えるだろう。

 しかし、菅原道真は現天皇と折り合いが悪く、最終的に藤原時平の讒言によって大宰府に左遷され、そこで生涯を終えるのであった。

「藤原時平様もお前の祖父であったか?」

「ああ、よく覚えてたな」

 博雅は頷いた。

 博雅の母は藤原時平の娘であった。そして、父は今の帝の第一皇子である。すると、菅原道真を左遷した中心人物の双方が博雅の祖父ということになる。

「それでは、俺も祟られるではないか」

「所詮は名を借りただけだ。別に、お前が祟られるということはない」

「分かっているが納得もいかぬ」

 もっとも、時平が祖父と言われても、博雅はピンと来ない。

 なにせ、時平は博雅が生まれるよりも前に若死にしたからだ。顔も知らない祖父に親近感を抱けるはずもない。

 菅原道真の怨霊説は、陰陽寮が今創作したものではなく、時平が若死にしたときから出てきたものである。

 すでに怨霊の下地があったものを、陰陽寮が利用しようと言うのだ。

「死んだ藤原清貫も、道真公の監視を時平様に命じられていた過去があるしな。道真公の怨霊の仕業とすれば、無理矢理にも辻褄が合わせられるのだよ」

「なるほどな。確かに、そうだ」

 博雅は陰陽寮の措置に納得した。

 だが、同時にそれは帝を騙すことでもあった。それが、恐ろしくて堪らなかった。たとえ、それが国のため、帝のためとはいえ、虚言を陰陽師たちが流すというのは、あまりにも危険な行いではないか。

「そうだ」

 と晴明は認める。

「ゆえに、おれたちは悪であろうよ」

「悪か」

「おう。悪だ。だが、同時に善でもある。善のために悪を為したのだ」

 一通り話した後、晴明は疲れたのか、その場にしゃがみこんだ。

「どうした。また、俺が背負ってやろうか」

「冗談言うな。このくらいわけない」

 思えば、ただでさえ体力がないのに、内裏を視て回ったり、夜の警備に当てられたりと身体を彼からすれば酷使している。

 表情が見えないので、体調を窺う術もないのだが、相当の疲労があるはずなのだ。

「まあ、いい。お前はそこで休んでいろ」

「む、どういうつもりだ博雅」

「悪いものが近付いてくれば遠くからでも分かるのだろう? ならば、そこにいても問題あるまいよ。見回りは俺がしてくる」

「ぬ、お前、おれの体力のなさを論うつもりか?」

 どういうわけか、晴明は博雅の好意を素直に受け取らない。

 この子ども、いったいどこまで卑屈なんだと博雅は呆れた。

「まだまだおれには余裕があるからな。今のはちょっと砂利が靴の沓に入っただけだ」

 徐に立ち上がった晴明は、足を引き摺りながらも歩き出した。靴の沓に入ったという砂利を取り出す仕草は、どこにもなかったが、指摘したらまた怒り出すような気がしたので博雅は黙っていた。

「晴明。お前、相当負けず嫌いだよな」

「そんなことはない」

 当然のように晴明は否定する。

 気分を害したのか、意固地になった晴明は博雅の言葉に対して基本的に否定的になる。それがまた面白いのだが、からかいが過ぎると呪符が飛んでくるため、節度を持たねばならない。

 苦笑する博雅は頭二つ分は背の低い相方を追いかけて、歩き出すのだった。


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