極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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三十四話

 帝釈天の清涼殿襲撃事件は、公では菅原道真の怨霊が祟りを為したということになり、道真に関わりを持つ公家達を中心にして加持祈祷の需要が高まった。

 怨霊調伏に関しては、高名な僧や陰陽師が駆りだされることになるので、陰陽寮は今や人手不足も甚だしい状況に陥ってしまったという。

 需要が高まれば価値が高まる。

 卵が先か鶏が先かということにってしまうが、今回の事件で得をしたのはどう見ても陰陽寮であった。

 しかし、その一方で相手が怨霊となれば、その退治を命じられるのもまた陰陽寮である。結果、議論は紛糾した。

 それは、陰陽寮の陰陽師たちが、皆当代屈指の呪術師であり、相手がどれほど桁外れの怪物なのかということを熟知しているからである。

 『まつろわぬ神』に手出しして生きて帰れる保証はない。

 むしろ、死ぬ確率のほうがずっと高い。というよりも、生存率は万に一つもないと言えるほどである。

 そのような状況の中で議論は紛糾し、最終的に当代最高の陰陽師である賀茂忠行が帝釈天の下に向かうという使命を帯びることになったのであった。

「バカな!?」

 自宅を訪れた忠行に、晴明は食いつくように叫んだ。

 場所へ晴明の寝室である。博雅ですら、一度しか入ったことのない、その場所に、賀茂忠行は入室を許されている。それは、彼が晴明が真に心を許す数少ない人間の一人だからである。晴明にとっては、陰陽道の師であると同時に父親のような存在なのだ。

 頭巾を外した素顔を見せるのも、彼にだけだ。

 透き通るような白い肌と肩甲骨辺りまで伸びた黄金色の髪。普段は髪を結い上げ、顔も含めてすべてを白い頭巾の内側に隠しているのは、その容貌があまりにも浮世離れしているからであった。西洋人を知らないこの国の人間からみれば、晴明の姿は人のものとは思われないだろう。

「何故、先生なのです!?」

「わしだからこそ、行かねばならんのだ。晴明」

「しかし、相手はまつろわぬ帝釈天……神獣ならばまだしも、……いくら先生でも危険すぎます」

「わしの身を案じてくれるのは嬉しいが、それもすべて承知の上でのことだ」

 壮年の忠行は、晴明や博雅と同じ年頃の息子がいる。晴明の兄弟子とも言うべき存在で、彼もまた類希なる呪術の才の持ち主である。

「わしにも何があるか分からんからな。わしに何かあった後のことは我が息子と晴明、お前に任せようと思う」

「じょ、冗談は止してください、先生。それでは、まるで……」

 晴明はそこで言葉を詰まらせた。

 晴明は忠行がこの会話を始めたときから分かっていたのだ。彼は、今生の別れを済ませるために晴明に会いに来たのだと。

「納得できません。先生を失うことが、どれだけ陰陽寮の損失になるか、他の者は分かっていないのです」

「わしにそれほどの価値があるかの」

「何を仰います。衰退しつつあった陰陽寮を、ここまで発展させたのはすべて先生の手腕ゆえではありませんか」

「ハハハ、それも含めて、時勢よ。時の運というものだ。わしは、ただ己にできることを粛々と為していっただけだ」

 晴明の思いを汲み取りながらも、忠行は飄々とした様子で笑う。これから、命を捨てることになるかもしれないというのに、死に臨む者の諦観などなく、そこには常の春の日差しのように大らかな『父』の顔があった。

「晴明。何か困ったことがあれば博雅様を頼るとよいぞ」

「…………何故?」

 晴明は、露骨に嫌そうな顔をして首を傾げる。

「何、あれは中々骨のある男ではないか。身分が高いにも拘らず明け透けで嫌味がない。お前も、そう嫌ってはいないのだろう?」

 人を寄せ付けない晴明が日頃から博雅とつるんでいるのは忠行も知っている。一方的に博雅が通っているように見えるが、追い返すこともできるにも拘らず話をしたりと諸々に関わりを持っている点で、他の晴明の人間に対する態度とは異なる。

 この時代は、妻問婚ということもあり、女性の晴明の下に足げく博雅が通っているというのは、晴明の性別を知っている忠行からすれば気になるところであった。

「追い返すのが面倒になっただけです」

 晴明の返答に、忠行は肩を落としてため息をつく。博雅は、晴明を未だに男だと思っている。忠行も知っていることであるが、心を許したのであれば、秘密を明かしてもいいのではないかとも思っているのだ。

「頑なな娘よな。娘の未来に幸あれと願う親心が分からぬとは。まあ、それもまたよし」

 苦笑して、忠行は立ち上がる。

「ではな晴明。また、会おう」

「ど、どうしても行かれるのですか」

 晴明も慌てて立ち上がる。

「無論だ」

「そんな。陰陽寮の役人なぞ、先生に無理を押し付けてその跡を狙っているだけの小物ではありませんか。そのような者たちに、先生が義理立てするものなど何もありません」

 そう言って、引き止めようとする晴明の額を忠行は軽く小突いた。

「わしが行くのは、陰陽寮のためではないぞ。あくまでも己のために行くのだ。今ここでわしが行かねば、他の誰かが行くだろう。わしは、それを一生後悔することになる。だから、行くのだ」

 晴明は悔しそうに唇を戦慄かせる。どうしようもなかったからだ。忠行の覚悟を翻させるだけの言葉を、晴明は持ち合わせていなかった。

 『まつろわぬ神』が無視できないとなれば、誰かが神の下に出向き、伺いを立てる必要がある。清涼殿に雷を落とした理由を問わねばならない。そして、今後京に害を為すのか知らなければ、この世は混沌に包まれたままである。明けることのない夜の世界に落ちてそれっきりになってしまうのだ。そうなれば、人の世に光が差すことはしばらくない。

「晴明。お前はそう長くない。いつまでも短い人生を儚んでいては、後悔も多くなろう。心の赴くままに、生きてみるのも一興だぞ」

 そう言って、忠行は晴明の頭を大きな手の平で撫でた。

 忠行は皺の増え始めた顔をくしゃくしゃにして笑い、晴明の屋敷を辞したのだった。

 晴明は何も言わず、その背中を見送った。

 晴明は静寂を好む。普段から、人と顔を合わせることのない屋敷の中で独りを楽しんでいる。だが、忠行が出て行った後に残された静寂は、胸を指すような苦痛に溢れていた。

「心の赴くままに生きる……?」

 晴明は、忠行が残した言葉を反芻する。

 忠行の言うとおり、晴明の寿命は人よりも短い。それは母が残した祝福であり、呪いであった。神祖の血に込められた強大な力が、彼女の身体を蝕んでいるのだ。

 人と顔を合わせれば、容姿ゆえに恐れられ、顔を隠せば奇怪さが目だつ。血に由来する強い呪力を人の嫉妬を呼び、疎まれる。晴明の周囲は常に彼女を排斥してきた。言動には出さずとも、態度に出るのだ。他者の悪意の中で生きてきた彼女が生を儚むのは当然と言えた。

 そんな彼女が、心の赴くままに生きるなど――――――――不可能ではないか。

 だが、いいだろう。そこまで言うのなら、やってやろうではないか。

「先生を力ずくで連れ戻してやる……!」

 力強く、床を踏んで晴明は屋敷の外に出た。

 その瞬間、瞼の裏に光が弾けたような気がした。

 呪術であった。誰のものかなど、問うまでもなかった。晴明は急速な眠気に誘われて、膝から崩れ落ちた。

「う……あ……」

 忠行が晴明の頭を撫でたときに仕込んだ呪術は、晴明の意識を闇に沈めていく。

 晴明の性格を知り尽くしていた忠行は、晴明が追いかけようとするのを見抜いていたのだ。不意打ちを受けた晴明は咄嗟に術を弾こうとする。が、この呪術は、当代最高の大陰陽師が仕込んだものである。精神的に動揺し、不意を突かれた今、いくら晴明がこの分野に突出した才能を持っていても到底解呪できるものではなかった。

「う……せん、せ、ぃ……」

 呻き、倒れ、そして晴明は耐え切れずに瞼を閉じた。 

 

 

 

 □

 

 

 

 晴明の師である賀茂忠行は、帝にも認められた凄腕の陰陽師であり、実力のみならず政治的にも優れた感覚の持ち主であった。忠行が、陰陽師の世界に与えた影響の大きさは計り知れない。

 少し前まで、陰陽寮は衰退の兆しが現れていた。

 その理由は、今回生前同様、あらぬ罪を着せられた菅原道真に起因している。

 菅原道真が執り行った政策は多々あるがその中でも最も大きな政策を挙げろと言われれば、誰もが真っ先に遣唐使の廃止を挙げるであろう。

 今から三十年以上前の寛平六年のことである。

 では、何故遣唐使が廃止されると、陰陽寮が悪影響を被るのか。

 それは、陰陽寮で教科書として使われている書物を見れば分かる。

 『新撰陰陽書』『黄帝金匱経』『五行大義』『周易』『難儀』などが挙げられるが、これらの思想書あるいは指南書の根拠となるのは、唐から輸入された陰陽五行説をはじめとする思想体系である。遣唐使の目的は、貿易という面もあるが、国家としてはそれ以上に唐の先進的な技術や思想を学び、日本を豊かにすることであった。

 その遣唐使が廃止されたのは、もはや遣唐使を派遣することで得られる利益よりも唐の衰退や航海の危険性などからくる不利益のほうが大きくなったからであるが、これによって先進的な思想が入ってこなくなったというのが陰陽寮にとって大打撃だったのだ。

 もちろん、遣唐使が廃止された理由には、朝鮮などから日本に貿易商が来てくれるので、わざわざ海を越える必要性がなくなったからでもあるが、そこから得られるのは思想書などではなく、唐物の商品などであったし、後世から見ても、平安時代中期から後期に国風文化が花開いたことから大陸の思想が与えた影響は極微小なものに止まったと言える。

 進歩の止まった陰陽寮は、既存の技術を伝承することしかできなくなり、その対象ももともと陰陽寮に籍を置いていた官人たちの子孫に限定され、結果として人材不足が深刻化してしまった。

 忠行が陰陽師としてありえないほどの出世と活躍ができたのは、彼の才能もあるがこうした陰陽寮の衰退を上手く利用したという面もあるのだ。

 そうでなければ、本来兼任が禁じられている天文道、暦道、陰陽道の三分野を掌握することなどできるはずがない。

 忠行はもともと暦道を得意としているが、他の職掌にまで手を伸ばせたのは、彼以外にそれをできる者がいなかったからであった。

 ともあれ、それほどに力のある忠行であったから、今回のまつろわぬ帝釈天を相手にするのに彼以上の適任者がいないのもまた事実であった。

 彼は決して晴明が言うような悪意によって送り出されたわけではなく、彼自身がこれまでの経歴の中で示してきた類希なる結果とそれに付随する責任から、自らの意思で『まつろわぬ神』の下に向かうのだ。

「さてさて、どうなることか」

 まつろわぬ帝釈天が陣取ったのは、京から北西に位置する帝釈天堂付近だ。やはり、自らを祀る社のほうが居心地がいいということなのだろうか。

 平安遷都の少し前に、和気清麻呂によって開創された名刹である。

 叶うことならば、早々に幽界にお引取り願いたいものである。

 忠行の任は、まつろわぬ神の意向を伺うことである。戦いなどするつもりもない。だが、晴明のように、呪術師の中には、まつろわぬ神に出会うことそのものが死に直結すると考える者が大部分であり、彼のように泰然としてその任に赴く者はそうは出てこない。

 死ぬかもしれない、というのは、覚悟してのことである。

 そのために、残せるものは残してきた。自分を越える才を持つ、二人の弟子を残せたことで忠行は現世への未練は何もないのである。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 日が没し、眠る準備を整えたとき、外から大きな悲鳴が聞こえてきた。

 博雅は、慌てて庭先に出て、空を見る。

 西の空が燃えていた。

「何事だ……!?」

 驚嘆して、口をポカンと開けてしまう。

 そして、これほどの怪異を引き起こせる存在に心当たりがあったために冷や汗をかいた。

 まさか、まつろわぬ帝釈天が再び動き出したのではないかと。

「博雅様!!」

 博雅の屋敷に出入りする者が駆けつけてきた。

「いったい、何が起こっている?」

「それは分かりかねますが、聞くところによれば愛宕山の向こうから山火事が起こったと。火の手が広がるやもしれませぬので……」

「分かった。お前は、母上様を助けてくれ」

「博雅様は?」

「俺は大丈夫だ。これは怪異ゆえに知り合いの陰陽師を訪ねることにする」

「ひ、博雅様!?」

 博雅は、小者の制止を振り切って外に出た。

 厩から馬を引き出し、鞍に跨って鞭を入れる。博雅の愛馬は、一鳴きして地を蹴った。

「退け退け、火急の時ゆえ失礼する! 道を開けよ!」

 山火事は西の空を橙色に染めている。清涼殿への落雷騒ぎが落ち着かぬうちにこのような怪異が発生したことで、京の道々に人が飛び出てきていた。ある者は仏に祈り、ある者は西の空を指差して喚いている。また、ある者は、家財を纏めて逃げる算段を立てている。

 このままでは本当にここは京としての体裁を保てなくなってしまう。

 ただでさえ、酷い旱が民草を苦しめているのだ。そのようなときに京がこれでは、世の中に漂う漠然とした不安が騒ぎという形で具現してしまいかねない。

 馬を走らせているところで、見知った頭巾を見つけた。

「晴明!」

 安倍晴明であった。珍しく外に出て、人込みの中を歩いていた。

「ひ、博雅!」

 そして、晴明も博雅の名を呼んだ。

 

 

 晴明を拾った博雅は、一旦人目を避けて小さな寺の境内に飛び込んだ。

「珍しいな、晴明が外に出ているのは。やはり、あの火は帝釈天様によるものだったか」

 馬を下りて、燈篭に背を預けている晴明に博雅は話しかけた。が、晴明は俯くばかりで言葉を発しない。

「どうした? 何かあったのか?」

 晴明は相変わらず表情がつかめない。だが、その小さな身体から漂う空気はあまりに重く張り詰めていた。

「先生が、帝釈天様の下に向かわれたのだ……」

 小さな声で、晴明は呟いた。

「先生、……まさか、賀茂忠行殿が?」

 問い返すと、晴明は項垂れるように頷いた。

 そして、博雅は再び西の空を見る。

 炎と煙で、夜空が見えない。火の勢いは、かなりのものらしく、それなりに距離があるであろう京にまで光が届いている。

「あそこに、向かわれたのか?」

「そうだ……」

「なんと……」

 確かに、賀茂忠行は当代最高の陰陽師で、博雅の祖父である帝も気に入っている。まつろわぬ神に対処するには、彼くらいの人物でなければならないのだろうが、しかし、当代最高の陰陽師であってもただ一人ではどうにもなるまい。

「止めたんだ。おれは止めたんだ。……止めたのに、行くというから、連れ戻そうとした。けど、ダメだった」

 晴明はもう泣き出しそうな声色だった。ぎゅっと水干の裾を握っている。

「晴明、お前……」

「博雅、頼みがある」

 晴明は、顔を上げて博雅を見た。蒼穹のような瞳が真っ直ぐに博雅を見つめている。

 博雅には、晴明の言わんとすることが手に取るように分かってしまった。だから、苦笑して、彼の言葉を先取りした。

「あそこに、連れて行けばいいんだな?」

「え……?」

 博雅の言葉に、晴明は声を失った。

「違うのか?」

「ち、違わないけど……どうして」

「晴明が忠行殿を助けたいと思っているのは分かったからな」

「ま、まて、博雅、本当にいいのか? 死ぬかも知れんのだぞ?」

 晴明は燈篭に預けていた体重を前に倒し、博雅に詰め寄るようにして尋ねた。

「死ぬのは嫌だが、晴明には何度も助けられているからな。まあ、その恩を返さないのはいかんだろう。なにより、人嫌いの晴明がやっと人を頼ったのだ。友として、助けてやらんと男が廃るだろう」

「だが、本当に死ぬかもしれんぞ?」

「お前は俺が朱雀門の鬼に挑むと言ったとき、何故助けてくれた?」

 博雅は問いには答えず、逆に問いを投げかけてきた。その問いに、晴明は答えを見出せず言葉に詰まる。

 ただ、博雅が死んでは寝覚めが悪いと思っただけだ。だが、そもそもそれがおかしい。常の晴明であれば、誰が死のうと関係なく冷めた視線を向けただけであっただろう。今回のように、父、あるいは先生と慕う人物ほどでなければ別だが、博雅は晴明に何かしらの恩恵を与えたわけではない。

 だから、博雅の問いに答えられるわけがなかった。

「お前はお前が思っているほど、人間嫌いというわけでもなかったんじゃないか? まあ、それはいいとして、友を助けるのに理由はいらんのだ。違うか?」

 と、博雅は笑顔を浮かべて言う。珍しく饒舌なのは、晴明に頼られたことが嬉しいからだろうか。

 なんとなく、晴明は博雅の意見は否定してはいけないような気がして、けれど認めるのも癪なのでそっぽを向いて、

「知らん」

 とだけ答えた。

 いつかと同じように、晴明は博雅の駆る馬に乗る。博雅の背中から腕を回してしがみ付き、なれない乗馬で腰が痛みながらも必死に振り落とされないように博雅を掴む。

「博雅」

「ん?」

「すまなかった」

 突然、晴明が謝ってきたので、博雅はどうしたことだろうと問い返した。

「将軍塚でのことだ。内裏に雷が落ちたとき、まつろわぬ帝釈天がいる京に向かおうとするお前をバカだと言った」

「ああ、確かにそうだな。そんなこともあった」 

 バカな行動をしているのは承知の上であったし、晴明のそれは罵りというよりは博雅を行かせまいという親切心からのものだったと思っている。そのため、博雅はその一件を深く考えることもなく、そもそも、その後に発覚した被害の大きさによって記憶が上書きされていた。

「バカはおれだった。大事な人が神の下にいるということをきちんと理解していなかった。博雅まで巻き込んで、……わたしは、本当に大バカ者だった」

 後半は、人のざわめきとくぐもった声で聞き取れなかった。

「皆そんなものだろうよ。大切な人が危ないとなれば、いても立ってもいられない。駆けつけたいと思うし力になりたいと思う。できるかどうかじゃないんだろうさ」

 博雅は手綱を握り締めて、馬を走らせる。空が黒い雲に覆われ、風が出てきた。これは、一雨来そうだ。あるいは、まつろわぬ帝釈天が雨雲を呼んだのかもしれない。雨が降れば、山火事も鎮火するかもしれない。淡い期待が博雅の胸に芽吹いた。

 

 

 

 相手はまつろわぬ帝釈天。人間が勝負を挑むには、あまりに強大な敵である。ゆえに、晴明と博雅はともにまつろわぬ帝釈天を倒そう等とは思っていない。ただ、忠行の安全を確保できればいいと考えていた。

 だが、万が一ということもある。

 時間はないが、準備だけはできる範囲でしていかねばならない。

 晴明は陰陽寮が管轄するという正体不明の社を訪れていた。京のはずれに位置する社は、驚くべきことに晴明に引っ張られて足を踏み入れるまで存在にも気付かなかった。

 結界というもので仕切られた空間なのだという。

 その社にある倉庫に晴明は入っていった。

 晴明を待つ博雅の衣装も変わっていた。

 博雅は戦に赴く気概を込めて武官束帯を着用している。最近普及してきた毛抜形太刀を平緒で腰に結びつけ、弓箭を担ぐ。頭には巻纓冠を被った。武官の冠には、左右に(おいかけ)という馬の毛を束ねて扇のように広げた飾りがついていて、これを見れば武官と文官の見分けがつく。

 まだ、若い博雅が武官装束を着ても、服に着られているというようではあるが、立場が人を育てるということもある。そのうち、しっくりくるようになるだろう。

 晴明はすぐに社から出てきた。

 その手には、彼の身体の大きさほどの大きな大刀が握られていた。

「なんだ、それ。よくわからんが、とてつもない力を感じるぞ」

 呪術師でもない博雅が、それと感じるほどに強い気を晴明が持っている大刀は有していた。

 見ているだけで冷や汗が噴き出し、膝が震えるような気がするほどであった。

「天叢雲剣」

「え?」

 博雅は耳を疑った。

「あーと、聞き違いか天叢雲剣と言ったか?」

「そう言ったぞ。これは、お前が思っている剣と同じものだ。スサノオがヤマタノオロチより取り出し、アマテラスに献上された後、ヤマトタケルの手によって竜殺しを為した神剣の中の神剣だ」

「お、おおお、お前何をやってんだ!? なんという畏れ多いことを!?」

 天叢雲剣は日本国の象徴であり、天皇即位に必要な三種の神器の一つである。当然、博雅や晴明がこのようなところで触れていいものではないし、ばれれば首が飛んでも仕方がない。

「ああ、それとは違う。これは、まつろわぬスサノオが残した神具だ。三種の神器とは別物だよ」

「そ、そうなのか……」

 それでも、まつろわぬスサノオというだけで桁外れな気もする。そんなものがかつてこの国にいたということなのだ。よく今まで無事に歴史を繋いできたなと思う。

 それに思い返せば、三種の神器としての天叢雲剣は京にはなかった。

「神具だからな。力があまりにも強力なもので、こうして封印されていたのだ」

 その封印を、晴明は解いて持ち出した。もちろん、無断である。

「博雅。改めて聞くが、本当にいいんだな?」

「覚悟の上だ」

「分かった。死んでも後悔はするなよ」

 博雅も晴明も顔を引き締めた。これから向かう先は死地となろう。生きて帰ってこれれば上首尾だ。死を覚悟し、生きるために最善を尽くす。二人にできることは、もはやそれだけであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 目的地は、帝釈天堂。

 嵐山や愛宕山を越えた先、丹波国船井郡吉富庄舟枝村にある。和気清麻呂が帝釈天像を感得し、紫雲山小倉寺と称したのが始まりだという。

 嵐山の脇を抜け、盆地に入る。愛宕山山系に連なる山々を右手に見て進んでいくと、風に乗って熱が流れてくる。ここまでくれば、火の手までがしっかりと目視できる。

 風はどんどん強くなり、空からは雷雨が降り注ぐ。そのような状況の中で、炎に炙られた雨が蒸発して煙と混ざって空に昇っていく。凄まじい光景だった。

「晴明! 忠行殿は!?」

 晴明は呪術を使って忠行を探している。式神を飛ばし、呪力を探る。

「わ、分からない。この辺り一帯に神気が充満していて、おれの感覚が狂わされるんだ!」

 風があまりに強く、叫ばねば声が通らない。

 雨のおかげで山火事は広がりにくくなっているが、依然として空高くまで炎が伸び上がっている。

「まずいぞ、このままだと川まで溢れる」

 博雅たちの右手には、桂川が流れている。目的地となる帝釈天堂を有する愛宕山山系の山々は川の向こうになるので、どこかで川を渡らねばならない。

 しかし、風雨がこうも強いと、川が大いに荒れる、橋もすっかり流されていて、とても渡れる状態ではなかった。

「案ずるな、博雅」

 晴明は呪符を二枚取り出して投じる。

「出でよ青竜、天后!」 

 晴明の呪符がそれぞれ呪力を炸裂させて変身する。一枚は青い鱗の竜の姿に、もう一枚は、羽衣を纏った唐風の女神に変わった。

 晴明が誇る十二柱の式神、十二天将のうちの二柱である。

「青竜は風を抑えろ。天后は川の流れを弱めるのだ!」

 晴明の式神は五行に合せて作られている。青竜は木気に相当し、風や雷を司る。そして、天后は水気に相当し、航海の安全や後宮婦女を司っている。

「進め、博雅!」

「応」

 風と川の流れを弱めた後、土気を操って簡易的な橋を建造し、二人を乗せた馬はなんとか対岸へ渡った。

 川を渡った後も、苦難は続く。

 盆地には田畑と荒れ野が広がっている。激しい風雨に地面が緩み、馬が足を取られてしまう。目的地まで、まだ二里(八キロメートルほど)はあるというのに、進む速度は徐々に遅くなっていく。

「クソ、こんなところで」

 博雅は毒づき、懸命に馬に鞭打って進ませようとする。

 だが、ダメだった。馬のほうも必死になって泥を掻き分け、頑張っているのだが、体力がそれを許さなかった。

 それでも、このようなところに馬を放置するわけにもいかず、博雅はなんとか辿り着いた地蔵の横に生えている木に馬を繋ぎ、鞍から下りた。足元は幸いしっかりとした場所だった。松が生えていることもあるのだろう。

 馬の疲労はかなりのものになる。

 これはしばらくの間動くに動けない。

 博雅と晴明は松の下で馬の回復を待つことにした。

「この風雨では、松の下でも大して意味がないな」

 博雅の言うとおり、横殴りの風は雨粒を運び二人の身体を濡らす。加えて、針葉樹である松では雨避けにはならないのである。

「地蔵にでも手を合わせるか? 備えるものはないが」

 晴明が冗談めかしていうと、博雅が思い出したように袖を探った。

「一応、乾飯ならあるぞ」

「雨でふやけているじゃないか」

 乾飯。鎌倉時代以降は、『糒』と表記されるこの時代の代表的な保存食である。炊いた米を天日で乾燥させて作る。

 養老律令によれば、その保存期間はおよそ二〇年。そして、この二〇年が伊勢神宮の式年遷宮の期間を定める際の根拠になったとも言われる。

 しかし、それほど長大な保存期間を持つ干し飯も、正しく管理しなければまったく意味を成さない。博雅の取り出した乾飯は、残念なことに雨水を吸って、すっかりふやけていた。

「い、いいだろう。「皆人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。」とあるじゃないか。ふやけててもいいんだよ。情緒があって」

 後世、『伊勢物語』と呼ばれるようになる書物の一文を引用する博雅に、晴明は呆れたよなため息をつく。

「何をわけのわからんことを言ってるんだ。今の状況と比べてみろ。ふやけた乾飯しか合ってないじゃないか」

 それから晴明は珍しく吹き出した。

「だ、だいたいそれ、まさか自分を在原業平に準えてないだろうな」

「そ、そこまで言ってないだろ」

「だろうな。博雅と業平では人物像が違いすぎるからな。博雅には、貴公子という印象はないしな。「体貌閑麗、放縦にして拘らず」か。後半はまだしも、前半は博雅には合致せんからな」

「余計なお世話だ」

 晴明が言うのは、『日本三代実録』に記された在原業平の人物像である。

 『日本三代実録』は藤原時平や菅原道真らによって編纂され、三〇年ほど前に成立した、全五〇巻からなる歴史書だ。

 晴明が引用した部分を大雑把に言うと、在原業平は、外見はいいが勝手気ままな行動をする人物である、ということになる。

 ここに、さらに「略ぼ才学無く、善く倭歌を作す」と続く。

 基礎学力はないけれども、和歌には非常に秀でていたということである。

 在原業平は、『伊勢物語』の主人公と目され、作中では、恬子内親王や藤原高子を元にしたとされる人物との禁断の交流が描かれる。

 また、業平は古くから美男の代名詞のように語られてきた人物である。色男が数多の女性と恋を語らう物語は、宮中の女性を中心に古くから人気のある様式である。後に著される『源氏物語』は、その筆頭に挙げられるであろうし、『伊勢物語』が『源氏物語』や『大和物語』に大きな影響を与えた作品であることは間違いない。

 そして晴明が知る限り、博雅に女の影はない。

「まあ、博雅を語るのであれば、とりあえず善く管弦を奏す、とでも言っておけばいいだろうよ。他に取り得もないだろうしな」

「ずいぶんと饒舌じゃないか、晴明。え?」

「なんだ、怒ったのか?」

「子ども相手に怒るかよ」

「失敬な。誰が子どもだ、誰が!」

 そうは言っても、晴明が三つほど年下なのは知っているし、それに頭二つ分も身長差があれば、大人と子どもの体格差となる。成長期真っ只中の博雅に比べて、晴明は未だその段階に入っていないのだから、博雅が晴明を子どもと言ったのは強ち間違いではない。

 風雨が強くなり、雷鳴が轟いた。大気に満ちる神気がますます強くなっているような気がする。

「博雅、ちょっと手を出せ」

「なんだ?」

「いいから早くしろ」

 せっつかれて、博雅は右手を差し出した。晴明は博雅の手をとって、呟く。

「何をした?」

「できる限りの守護の術をかけた。これから神が出てくるかもしれないというのだから、守りは必要だろう。気休め程度にしかならないがな」

「そうか。わざわざ済まないな」

「おれの我侭につき合せているからな。それと、いざとなった剣を楯にしろ。呪をかけておいた。風や雷相手には、多少は効果あるはずだ」

「どういうことだ?」

「五行では雷も風も基本的に木気に属する。剣の金気は木気に対して相剋の関係にあるから、神が相手では微々たるものでもないよりはましだろう」

 通常の呪術師を相手にした戦いでは、相手がどのような術を出すのか読み、自分の手を考える。五行相剋、あるいは五行相生を活用することが勝利の前提条件となる。しかし、今回の相手は『まつろわぬ神』である。いくら五行思想で相性がよいものを準備しようとも、人間の浅知恵など軽く吹き散らせる相手である。

 相性の悪いほうが強すぎて、相剋の関係を破綻させることを、「相侮」という。

 『まつろわぬ神』の攻撃はほぼ晴明の守りを貫くことができるであろう。

「相手はまつろわぬ帝釈天だからな。魔物殺しはお手の物。おれたちなど、蟻を踏み潰す程度の感覚であろうな」

「実際に降臨された御仏のご尊顔を拝謁することになるかもしれぬとは、それはそれで心躍るものがあるな」

 とはいえ、その仏が怒り狂っているのであれば出会いたくなどない。早々に忠行の安全を確認して退散するに限る。

 できることなら、仏に化けた狢か狸の類であって欲しいとも思ったりもしているのだが、山火事まで引き起こしているので万に一つもその可能性はありはしない。

 空を雷が走り抜ける。

 幾筋もの紫電が夜空を真白に染めて、点滅する。山火事はいつの間にか鎮火していて、その代わりに落雷が様々なところに降り注いだ。

 近くの田に雷が落ちたとき、晴明が拍手を打って地面を踏みつけた。不可思議なくらいに音が響く。

「うわッ」

 晴明の眼前が白く染まり、次の瞬間には頭上の松の天辺が爆発、炎上した。

「な、何事だ!?」

「水を伝う雷を松に逸らした。気をつけろ。周囲には水気が満ちている。木気の雷にとってはこの上ない環境だ」

「どうしようもないわ!」

 満ちているも何も辺り一帯水だらけである。

 そもそも、土壌の水分があまりにも多いから、この場所に立ち往生することになったのである。

 だが、晴明は博雅に対してそれ以上、一言も発することなく空を見上げている。

 何事かと思って、空を見た博雅は唖然としてしまった。

 紫電を纏う唐様の鎧を身につけた男が空を舞っているではないか。

 その気配の強壮たるは言葉では表すことができない。

 まさしく、神だ。

 これほどの威容を、博雅は感じたことがない。帝の傍にいても、今ほど身体が固くなりはしない。この世の輝きをすべて詰め込んだかのような、光の化身。その姿を前にすれば、至高の宝玉すらも価値を失うであろう。

 これが『まつろわぬ神』。

 人間では決して手を出すことのできない、超常の存在。

 その神を前にして、晴明が一歩を踏み出した。雨と風に我が身を曝し、平伏して言った。

「そこにおわすは帝釈天様とお見受けいたします。某、安倍晴明と申す者にございます」

 雷雨にかき消されないように精一杯の大声で問うと、『まつろわぬ神』は閃電の速さで晴明の頭上にまで移動した。その動きを博雅は目で追うことができず、突然神が頭上に現れたように錯覚した。

「命定まりし人の子よ。私を呼ぶのはそなたであるか?」

「は……如何にも某にございます」

 晴明の声が緊張で震える。

「私はこれより、あそこに見える人の街に我が神威を現さねばならぬ。が、私の風に吹かれながら我が身を待ちたるそなたに、一度だけ私に物を問う機会を与えよう。何なりと問うてみよ」

「では、恐れながら……」

 と、晴明は前置きし、

「御身の前に我が師、賀茂忠行が参じたかと存じますが、この悪天候ゆえ消息が掴めません。我が師の行方をご存知であれば、お教えくださいませ」

「なるほど。確かに先ほど、私の下に一人の呪い師がやってきた。それがそなたの師であったか。ふむ、さて、どうであったか。何せ、気まぐれに我が神雷を以て遊戯に耽っていたところであったからな。我が力に打たれたかもしれぬし、火に巻かれたかもしれぬ。人の生き死になど、私が関知するところではないのでな」

「な……」

 晴明も博雅も絶句せざるを得なかった。

 まつろわぬ帝釈天の言に従えば、忠行はこの仏が雷で遊んでいたところに巻き込まれたというのだ。そして、それはあの山火事の真っ只中にいたということでもある。

「わ、我が師は……」

「そこまでにせよ、人の子よ。私に問うのは一度きりと言いつけたはず。それ以上は僭越が過ぎるぞ」

 圧倒的な神威が吹き荒れて二人の身体を縛り付けた。

「悲しきかな。この国の仏法は廃れつつある。今一度、法を敷き直さねばならぬ。手始めはあの街。人多き地を我が雷で染め上げれば、自ずと仏法を見つめなおすことになろうよ」

 雷鳴が轟く。その瞬間、帝釈天は姿を消していた。晴明の頭上に現れたときと同じく、目に見えない速度で移動したのだろう。おそらくは空の上。雲の中であろう。

 『まつろわぬ神』が去ったことで、晴明と博雅は自由を取り戻した。神を相手にして、これほど身体の自由が利かないは思わなかった。

「あ、あれが『まつろわぬ神』か。凄まじいなんてものじゃないな」

「あ、ああ。正直甘く見ていた。だが、神が去ったのは僥倖だ。先生、を探さねば」

「晴明……」

 晴明は忠行の生存を信じているのだ。いや、信じたがっていると言い換えようか。まつろわぬ帝釈天が去ったことで、忠行がいるであろう場所に近付きやすくなった。

「ま、待て晴明」

「なんだ博雅」

 博雅が晴明の袖を掴んだ。晴明はそれを鬱陶しがって苛立ったように問い返す。

「様子がおかしい」

「何?」

 博雅は川の上流を見ている。晴明もそちらに目を向ける。夜の闇を見通すのは呪術を用いる者であれば、基本として習得している技能である。博雅以上に晴明は気付くのが早かった。

「く……」

 晴明は呪符を取り出した。複数枚を鷲掴みにしている。それを投じたとき、川の上流から堰が切れたように漆黒の濁流が押し寄せてきた。土砂降りが、桂川の上流を溢れさせたのであろう。怒涛のように流れる川に、晴明と博雅は為す術なく押し流されていった。


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