極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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三十五話

 博雅はなんとか岸に這い上がって、荒い呼吸を整えた。濁流に飲み込まれた後、普通ならば死んでいたであろうが、晴明が何かしらの呪術を使ってくれたおかげで、今でもこうして息をすることができている。

 隣では晴明は仰向けになってゼェゼェと息も絶え絶えになっている。

「晴明」

「なんだ?」

 博雅はそんな晴明を心配して、

「その頭巾、外したほうがいいんじゃないか?」

 と尋ねた。

 晴明の頭巾は泥水を吸って茶色になっていた。それが、顔に張り付いているので息苦しさに拍車をかけているのだ。

「嫌だ」

 と晴明は拒否する。

「嫌だじゃなくてな。そんなのを顔につけてたら、苦しいだろ。それに汚いし」

 水害は病をもたらす。代表的なのは、ツツガムシ病である。ツツガは病気などを意味する言葉であり、ツツガムシは一種の妖怪である。この妖怪に刺されると、高熱を発して死に至る。この病は、特に東国の川の近くで被害が多発しているという。

 ツツガムシ病以外にも、水害は疫病の源となる。汚濁した水を頭から被るのは、病気にしてくれと言っているようなものであった。

「大丈夫だ。問題ない。おれの手に掛かれば、このくらいすぐに綺麗にできるし呼吸も楽にできる」

 しかし、晴明は断固として頭巾を取ることを拒否し、なにやら呪文を唱えて茶色く染まった頭巾を穢れなき白に戻してしまった。

「なんだ、それ。ズルくないか?」

「ズルじゃないズルじゃない」

 晴明はそう言うと、博雅にも同様の術をかけてその衣服を綺麗にした。

 空からは依然として大量の雨が降ってくるので、服が水を吸うのは仕方がないとしても、泥は気持ちが悪いので、晴明の浄化の術は非常にありがたい。

「それで、これからどうする。晴明」

「どうもこうも、帝釈天をどうにかせねばならんのだろうし、先生も探さねばならん。やることは決まっている」

「決まってはいるがどうやってだ」

「分からんが、やるしかない」

 そう言って、立ち上がった晴明は、たちまち苦悶の声を上げて崩れた。

「ど、どうした?」

「足をやった、ようだ」

「足!?」

 晴明の足を見れば、右足の脛が赤くはれ上がっている。

 どうみても、折れている。押し流されている間に、岩にでもぶつかったのかもしれない。

「く、こんな時に……」

「晴明、得意の呪術でどうにかならんのか?」

「どうにかなるが、時間がかかる。治るのに一刻はかかってしまうな」

「はあ?」

 博雅は驚くよりも前に呆れた。

 折れた骨が一刻、つまりはおよそ三〇分で治ってしまうというのである。常識では全治三から四ヶ月というところだし、場合によっては命にも関わる。その重傷を、それだけで治してしまうのであれば、時間はほとんど取らないと言ったほうがいい。

「じゃあ、治るまででも固定したほうがいいか」

 博雅は、手頃な木の枝を取ってきて、添え木とした。呪術というのは非常に便利なもので、木を加工して添え木にすることも、添え木を固定する包帯を作ることも自在なのであった。博雅は、武官であり仲間が怪我をした場面に遭遇したこともあったので、患部を固定する方法は心得ていた。

「よし、じゃあ行くか」

「ま、て。なにを、うきゅうッ」

 晴明を背負った博雅は、そのまま山道を歩き始めた。

「博雅、何をする。おれはそんなことまで頼んでないぞ」

「何を言う。お前、この山から一人で帰れるのかよ?」

「むぅ」

 晴明の体力のなさは晴明本人がよく知っている。山道を歩くなど、晴明にとっては自殺行為も甚だしい。

「というか博雅。帰り道、分かっているのか?」

「一応な。これは桂川なのだから、京に向かって流れているはずだ。とするとここは愛宕山の南麓を流れる渓谷だろう」

 保津峡の名で知られるこの場所は、先ほどまで博雅と晴明がいた盆地から山間部を通って京へと流れる桂川によって生まれた渓谷である。

 江戸時代に入るまでは、整備が行き届かず舟を通すこともできない川であり、輸送では人馬を使って山を越えるか、博雅と晴明がそうであったように、山を迂回していくのが常であった。

「どれくらいかかる?」

「さあ、どうだろう。話によると、三里(約一二キロメートル)はあるというからなぁ」

「三……ッ」

 晴明は絶句した。三里などという途方もない距離を足で移動するなど考えたこともない。

 途中で力尽き、死んでしまう。晴明は本気でそう思った。

「そうだ、博雅。いいことを思いついたぞ」

「どんなことだ?」

「おれが呪術で簡単な舟を作るから、それで川を下るのはどうだ? 今は水量も多いし、悪くないと思うぞ」

「お前の舟は思い切り岩に激突してひっくり返らんのか? この先、かなり蛇行しているぞ」

「ぬ、ぐ」

 如何に晴明が優秀な呪術師であっても、この急流を下す舟を用意することは叶わないだろう。濁流は岩を覆い隠し、そして蛇行しているので舟は岸壁に激突して砕けてしまう。

 晴明が帰還するためには、大人しく博雅に背負われているしかないのである。

 晴明は諦めて博雅の背中で小さくなる。その上で、自分は呪符を飛ばして行方知れずの師を探す。

「帝釈天が京に向かったというが、彼は空からおどろおどろしく雷鳴を鳴らしているだけのようだ。今しばらくは、京が害されることもないだろうが」

「ところで、晴明。帝釈天はあの時、仏法が廃れていると言っていたが、それほどには思えない。実際のところどうなんだ?」

 まつろわぬ帝釈天の目的は京の人々に仏法を見つめ直させることだという。しかし、民草のみならず貴族の中でも仏教の教えは強い影響力を維持している。陰陽道が宗教的側面を失い、技術的なものに変わっていく中で、仏教は依然として日本を代表する宗教であり続けている。

「そんなこと、おれが知るか。『まつろわぬ神』はおれたちとは感性が違うからな。それに、神話から抜け出すときに狂ってしまうらしい。つまり、おれたちの信仰する神仏とは異なる性格を持つわけだ。善神が人々を苦しめたりな」

「なんという傍迷惑な。完全に言い掛かりではないか」

「神罰なんて、大抵がそんなものだよ」

 だからこそ、人間ではどうすることもできないのだ。言い掛かりとは基本的に格上から格下への一方的なものである。神々に人間が逆らえないのだから、人間は、神罰があったときには大人しく服するしかない。

「そもそも、帝釈天とはどのような仏だ? 俺は、その当たりからよく分からん。雷を司る軍神としか、知らんな」

「お前のような者がいるから、まつろわぬ帝釈天が怒っているのではないか?」

「そんなことを言っていたら、この国は立ち行かんわ」

 そもそも、仏法を正式に学べるのは、出家した僧だけである。仏に手を合わせると救われるというような基本的な決まりごとは知っていても、その仏の来歴などを知る者は少ない。

 調べようと思って調べられるものでもないのだ。経典一つにとんでもない値段が付けられる時代である。

「まあ、いい。暇つぶしに、帝釈天について教えてやろう」

 晴明は、博雅の背中で帝釈天について講義を始めた。博雅も興味がないでもないので、これに耳を傾けることにした。

「帝釈天というのは、そもそも源流を辿れば天竺のいんどらという神に行き着く。知っていたか?」

「そもそも源流を辿るという意味が分からん」

「そこからか。あー、そうだな。おれたちが知る仏教というのは、何もないところから現れたものではない」

「それはそうだ」

 仏教の誕生は古代インドに於いて釈迦が提唱したことに始まる。興味深いのは、仏教は他の宗教を下地にしたものではなく、どちらかといえば哲学から派生したようなものだという点であろう。初期の仏教には、従来の盲目的な信仰から抜け出そうという先進的な思想があった。

「日本の仏教は初期の仏教がさらに時代と地域の移り変わりで変化したもので、大乗仏教という括りの中にある。これは唐国から入ってきたものだ」

「それくらいは知ってるぞ」

「そして、この国独自に発展しつつある。従来の神と仏が混ざり合ってきているのだ。八幡菩薩のようにな」

 神仏習合の概念である。後に体系化されることとなるが、すでに八世紀には神と仏が混ざり始め神宮寺が建立されている。

「帝釈天は、天竺の雷神であるいんどらを漢訳したものだ。おれたちからすれば、建御雷神のような在来の神を仏教に取り入れ、それを漢字で表記して生まれたという感じだな」

 インドラの歴史は古く、インドだけでなく小アジア全域で崇拝された天空神であった。西に進めばウルスラグナのような屈強な軍神へと変わり、東に進めば帝釈天として信仰を集める。インドラは神々の王であったので、インドラを漢訳する際には、意訳で『帝』の字が当てられたのであろう。『釈』はそのまま音訳であり、『天』は『デーヴァ』の意訳だ。『デーヴァ』はサンスクリット語で『神』を意味し、最高神であるディヤウスを語源とし、ギリシャのゼウス、ローマのユピテル、北欧のテュール、ラテン語で神を指すデウスといった言葉に変わる。インドの神話が東西の宗教に大きな影響を与えていることが分かる。

「帝釈天は、元となったいんどら同様武勇に秀でた仏で、代表的な護法善神だ。毘沙門天や持国天といった四天王を配下にし、仏法を守る仏でもある」

「まあ、武勇に秀でているとか、言っても仕方ないよなぁ、あれじゃあ」

「坂上田村麻呂様や藤原利仁殿でも厳しいだろうな。というか、不可能だな」

 坂上田村麻呂は一〇〇年ほど前に活躍した伝説的英雄である。征夷大将軍として蝦夷の討伐に指揮し、薬子の変では嵯峨天皇を支援し、東へ下ろうとする平城上皇の進路を遮ることで、混乱の終息に大きな役割を果たした。

 藤原利仁は今を生きる武人である。藤原氏の出ではあるが武士として数多の敵を討ち果たして名を上げている。十年程前には鎮守府将軍に任命されていた。当代を代表する武士である。

 そういった数多の武勇を示す武人であっても、まつろわぬ帝釈天と比べれば蟻に等しい。坂上田村麻呂が『まつろわぬ神』になって降臨すれば話は別だが、それはそれで別の問題を生み出すことになる。

 切り札になるものも特になく、晴明が背負っている神剣も役に立つかどうか分からない。これ以上ないというところまで追い込まれているわけだ。

「このまま見て見ぬふりもできなくもないが」

「冗談ではないぞ、博雅。お前が行かずともおれは行くからな」

「分かってる。言ってみただけだ。俺だって、京の混乱を見て見ぬふりはできないからな」

 どちらにしても京にはいかなければならない。京には、忠行の息子の忠憲もいる。親子の縁に繋がっている彼ならば晴明以上にしっかりと父親を探し出してくれるかもしれないし、まつろわぬ帝釈天が京を脅かしているのだから帰京する必要はあった。

「博雅、お前、葉二はなくしてないだろうな?」

 葉二は、博雅が朱雀門の鬼から受け継いだ笛のことだ。

「ああ、当然だ」

「それならばよい。お前が神に襲われたとき、最後に頼るのはその笛の音だ」

「どういうことだ?」

「それはただの笛ではない。神具に匹敵する霊宝だ。使いこなせば、奏でる者の心に合せて呪を紡ぐ。ほんの一瞬ならば、神すらも陥れることができるだろう」

「それほどのものだったのか」

 確かに霊妙な笛で、他の笛とは一線を画す代物だとは思っていた。ゆえに、人前で吹く機会はほとんどなかったのであるが、晴明の言によれば、呪術を知らぬ者でも音に合せて思うがままに呪術を使うことができるらしい。それも、『まつろわぬ神』に届くほどの術を練り上げることも可能だという。

「狙うなら、口だな。音を耳と口に届けるように吹けば、運がよければ隙を作ることもできるだろう」

「耳と口だな。分かった」

 耳は分かるが、何故口なのか。それは分からなかったが、晴明がそうしろというのであれば、そうするのがよいのだろう。

「ところで、晴明」

「なんだ?」

「お前、なんで俺を頼ろうとしたんだ?」

 博雅の問いに晴明はしばらく答えなかった。轟々と流れる川の音と吹きつける風雨の音だけが周囲に響く中でポツリと呟いた。

「先生が言ったのだ。困ったことがあれば、博雅を頼れと」

「忠行殿が?」

「そうだ。おれの将来に幸あれとな。どういうことか分からなかったが、博雅を頼ることが幸に繋がるのであれば、悪いようにはならないと思った」

「なるほど。それは心強いな」

 晴明の師である忠行がそういったのであれば、晴明は博雅とともにいることで何かしら良縁に恵まれるのであろう。そして、それは『まつろわぬ神』を相手にする上で非常に気持ちを助ける言葉であった。

 

 

 

 □

 

 

 

 悪天候の夜道を懸命に歩き続けた結果、博雅と晴明が京の近くにまで戻ってきたのは、卯の刻(午前五時頃)を過ぎた頃であった。。後もう少し歩けば京に入る。嵐山の麓で貴族の別荘地でもある。ここから京までは平野部なので、京を目視することができるのである。

 博雅は足腰が立たなくなるほどに、疲労困憊している。晴明が如何に軽くとも、ずっと背負って山道を歩けば体力も尽きるというものだ。馬や牛車のありがたみがよく分かる。

「神は……」

「未だ天上、雲の上か」

 桂川が完全に反乱するのも秒読みといたところで、濁流は激しく下流に向かって突き進んでいる。

「本気になってないな」

「そうなのか?」

 天候を操るという時点で、常軌を逸しているというのに、これで本気ではないなど。

「それが神か」

 もう、それで納得するしかない。

 止めねばなるまい。誰かが挑まねばならないのである。

「博雅、おれはこれから帝釈天と対話をしてみようと思う」

「ああ」

「もしもうまく帝釈天がここにやってきたら、その間に忠憲殿が先生を探しに出てくれるはずだ」

「そうか。ならば、すぐにでもしよう。言っておくが、俺だけ隠れるなどということは言うなよ。ここまで来たら、最後まで付き合おう」

 上手くすれば、帝釈天を京から引き離すこともできる。何よりも晴明が命を賭して事を起こそうというのに、博雅が逃げるような真似はしたくなかった。

「博雅……すまないな」

 晴明は深呼吸してから、 

「恐れながら申し上げます!」

 晴明が式を飛ばして空に居座る神に声を届けた。返答は雷鳴であり、信じがたいほどの轟音が京中に響き渡った。

「私の神威を目の当たりにして尚、私に直言するか。幼き人間の呪い師」

 唐様の威風堂々たる武人が目の前に現れた。美しい顔立ちではあるが、その威容は美しさではなく武威への畏怖からくるものであろう。向かい合うだけで魂が擦り切れそうだ。

「無礼を承知で申し上げます。何卒、剣を収め、お鎮まりくださいませ。帝釈天たる御身は人々の先を守るものであって、奪うものではないはずです」

 晴明の言葉に帝釈天は困ったような顔をする。

「そう言うな、呪い師よ。この身はすでにまつろわぬ身。まつろわぬ帝釈天だ。かつての私ならば、そなたの言う通りに人を守護したかもしれぬが、もはやそれも叶わぬよ。まあ、討ち果たすべき悪竜がいればまた別かもしれぬがな」

 にやりと帝釈天は笑ってみせる。

 インドラから受け継ぐ《鋼》の性質は、武神ならではのものである。闘争を求め荒ぶる神格と化した帝釈天は、驚くほど自覚的に道を踏み外している。

「あの京には御身が宿敵とする悪鬼の類はおりませぬ。何卒……」

「もうよかろう。以前話したであろう。私に直言した罪は、諫言ゆえということで不問としよう。耳に痛い諫言も、王者たればこそ許さねばな」

 帝釈天は、鉾とも見紛う金剛杵を肩に担いで雲を踏む。足元にはいつの間にか黒い雲が湧いていた。

「お待ちください! 帝釈天様!」

「そこまでだ、人の子よ。何を言おうとも、私は己の役割を果たすのみよ。これより、あの街を水で洗い清めねばならぬ。そなたたちはここにいるがいい。あるいは、生きながらえることができるかもしれぬ」

 そう言って、背を向ける帝釈天に晴明は呪符を投じた。無論、その程度のものは帝釈天に触れる前に消し炭になる。が、帝釈天を振り向かせることには成功した。

「どういうつもりだね?」

「御身が京に向かうというのであれば、阻止せねばなりますまい。一命を賭してでも」

「ほう……神を敵に回すということか。まったくうつけ者め」

「うつけで結構。逃げて死ぬか、立ち向かって死ぬかの二択です。というか、もうお前は神じゃないよ」

 晴明は最終的に投げやりな口調で帝釈天に向き直った。後ろにいる博雅は心臓が止まりそうになってしまった。晴明が今までにないくらいに腹を立てているのは分かるが、それでもまつろわぬ帝釈天を前にして堂々と言い切ってしまうのはさすがにマズイ。

「ハハハハハハハハハッ。何を言うかと思えば、人の子が神を否定するか!」

 帝釈天は気分を害することもなく、愉快そうに笑う。これまで見せてきたアルカイックスマイルとは異なる、俗物的な笑みである。

「ならば、望みを叶えてやろうぞ」

 帝釈天が右手を晴明に向ける。とっさに、晴明は呪符を投じる。一気に一〇枚を消費して楯を作る。瞬間光が交差した。

「うあああああああああッ」

 爆音とともに晴明の身体が宙を舞った。

「晴明!!」

 博雅が身体を張って晴明を受け止める。二人で地面を転がり、全身の至るところに裂傷を作った。

「ふむ、耐えたか。やるな、呪い師」

「ッ……」

 晴明の防壁は一撃で砕かれた。衝撃だけで身体が吹き飛ばされるほどであった。それなのに、まつろわぬ帝釈天は余裕だ。本気になってなどいない。晴明の呪術を打ち破ることなど、この神にとっては造作もないことなのであろう。

 晴明は跳ね起きると、大量の呪符をばら撒いた。

「騰虵、朱雀、六合、勾陳、青竜、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空。十二天将、疾くここに集え! 急急如律令!」

 轟、という疾風を巻き起こし、晴明の桜色の呪力が大気に像を描き出す。

 ある者は炎の蛇。またある者は白き虎。またある者は、唐国の文官風のいでたちといったように、十二柱の式神は、皆それぞれ個性的な姿をしていた。

 晴明が誇る最強の式神、十二天将である。

 だが、その十二柱の式神であっても、帝釈天からすれば塵芥も同じである。脅威など覚えない。

「ほほう、見事なものだ。その齢で、よくそこまで鍛えた」

 帝釈天は晴明の式神を眺めて面白そうだといわんばかりに頷く。

「天空!」

 晴明が叫ぶと、天空と呼ばれた式神が姿を消す。それと同時に周囲には黄色い煙が立ち込めた。黄砂である。天空は黄砂や霧を司る凶将である。天空が呼んだ黄砂が帝釈天を押し包む。そこに、最大火力の騰虵が突っ込む。その背後からさらに白虎や青竜が続く。

「ハハハハハ、人の手による紛い物の神なれど、大したものではないか!」

 帝釈天は晴明の式神の攻撃を尽く跳ね返した。強烈な蹴りと拳、そして金剛杵によって式神を打ち倒したのである。

「どれ、神である私が人間相手に本気になるわけにもいかぬ。少々遊戯に徹しようか」

 青竜の首を握りつぶしてから、帝釈天は鷹揚に言った。だが、彼の遊戯は最終的に晴明を殺すところまでいく死の遊戯。ただ獲物を一息で殺さず、甚振るだけの単純で悪質な遊戯である。

 帝釈天は晴明の前に進み出ると、手刀で殴りつけようとする。そこに割ってはいるのは十二天将の中でも平和と調和を司る六合だ。目に見えない結界で帝釈天の手を弾く。間髪入れず、玄武がその強靭な身体を駆使して帝釈天に体当たりをする。

「ぬ……」

 いくらか後ずさった後、帝釈天は蹴鞠でもするかのように玄武の甲羅を蹴り飛ばした。

「突き刺し、打ち砕け! 土生金!」

 『まつろわぬ神』に呪術は効かない。ならばと晴明は地面を媒体として無数のトゲを生み出し帝釈天を足元から攻撃させた。

 しかし、それもこの世ならぬ肉体には影響しないのか触れた傍から砕け、捻じ曲がる。

「手ぬるい」

 バチ、と紫電が弾ける。晴明を守る十二天将が雷撃に去らされて焼き払われる。晴明の最強の式神ですら、片手間で始末できる『まつろわぬ神』の力。まだまだこんなものではない。晴明も博雅も、彼が本気を出せば瞬きする間もなく蒸発させることができる。それをしないのは、蟻を相手に本気になるなど恥もいいところだと考えているからである。

 閃電が晴明は弾き飛ばす。

「私を虚仮にした罪に仏罰を与えるのも仏の役目。恨むなよ、呪い師。本道には立ち返れぬが、仏として為すべきことはなさねばな」

 うつ伏せに倒れた晴明は意識こそあるものの満足に動けないという状況である。

「させぬぞ!」

 晴明に止めを刺そうとした帝釈天に博雅が斬りかかった。腰に佩いた剣を抜き、恐怖心もかなぐり捨てて上段から力任せに振り下ろしたのである。

 この時代、まだ日本刀は生まれていない。博雅が持つのは日本刀の原型ともなった毛抜形太刀である。蝦夷の湾刀の技術を時の政権が吸収して発展した反りの入った剣は、従来の剣に比べて斬れ味は鋭くなっている。

 が、その博雅の剣を、帝釈天は素手で受け止めた。

「そなたも、私に武器を向けたとなれば同罪。罰を与えねばならぬな」

 博雅の腹を帝釈天は蹴りつけた。

 その一撃で、博雅は大きく飛ばされて、泥飛沫を上げて地面に落ちた。

「ひ、博雅ッ!」

 帝釈天は、晴明の投じる呪符を睨みつけて燃やす。

「その背の剣は抜かんのか。見たところ、おぞましいほどの力を有する神剣ではないか。それならば、私を傷付けることもできるだろうに」

 晴明を甚振るように、帝釈天は弱い雷でその小さな身体を打った。晴明は身体に雷避けの呪をかけていたが、それでも防ぎきれずに衣服が裂けて焦げ付いた。

 確かに、天叢雲剣ならば帝釈天に傷を付けられるだろう。ただし、これは神具の中の神具。『まつろわぬ神』がこの世に残した本物であり、その所有権は未だにその神にある。つまり、晴明は使いこなせない。下手をすれば、天叢雲剣の神気に身体を潰されて死ぬ。

「いいよ、やってやろうじゃないか!」

 だが、結局使わなくても死ぬ。面倒なことはもう考えたくないし、思い切って解放してしまおう。晴明は、ふら付く身体を押して立ち上がり、天叢雲剣を背中の鞘から引き抜いた。

 鞘が急速に朽ち果てて土に帰り、そして土から刃が現れる。

 眩い白銀の直刀である。古き時代の大和の剣だ。

 解放された瞬間、嵐のように呪力が吹き荒れた。天叢雲剣から嵐の権能が溢れているのだ。柄を握っている晴明の手はあっという間に火傷を負った。

「う、ぐぅ……」

 晴明は筋力を強化して剣を支え、全身を侵食する神気は歯を食いしばって耐える。

「う、あああああああああああッ」

 晴明は思い切り、剣を振り回す。剣術などに縁のない晴明ではただ棒を振舞わしているのと代わらない。帝釈天に触れることもできずに軽がるといなされてしまう。

 刃を当てれば傷を付けられるかもしれないが、結局当てられなければ意味がない。

「剣を持っているのでどれほどかと思えば、まったくの素人か。もうよい」

 何かが爆発し、晴明は仰向けにひっくり返った。

 いくらか飛ばされたらしいが、理解はできていない。身体中が痺れてしまってどうにもならない。指一本動かせず、手の平から染み込んで来る嵐の神気が神経を侵してしまっている。どちらにしても助かりようがなかった。

「く……そ、が」

 息も絶え絶え、痛みはないが死に瀕していることは察していた。もとより長くない命だ。呪力を乱用すれば、寿命を縮めるのは分かりきっていた。

「博、雅、まで、死なせるか」

 自分が死ぬのは一向に構わないが、我侭に付き合ってくれた博雅まで一緒に死ぬ羽目になれば、死んでも死にきれない。

 ならば、帝釈天をどうにかしなければならない。

 晴明は、震える手を懸命に動かして天叢雲剣で手首を切った。血が溢れ出て白刃の刃を赤く染め上げる。

「なあ、天叢雲剣。……最源流の《鋼》が、いつまでも倉庫に眠っているんじゃ、つまらないだろ……」

 主であるスサノオがそうであるように、その武器である天叢雲剣もまた《鋼》の神性を持っている。そんじょそこらの神具とは格が違う。これそのものが神でもあるのだ。剣の神天叢雲剣に、晴明は己の血を捧げているのである。

「多少薄味かもしれんが、今はこれくらいしか用意できん。この《蛇》の血を引く者の血肉を供物とする代わりに、一度でいい、おれの剣となってくれ」

 血に濡れた白銀の刃は、応えず晴明の手の中にある。

 ふう、と晴明はため息をつき、空を眺めた。豪雨は未だに降り注ぎ、体温は下がっていく一方。おまけに手首まで切ったのだ。帝釈天に止めを刺されずとも、朝日を拝む前に死ぬだろう。

「情けない《鋼》だ……帝釈天相手にびびったか。人間が挑んでいるというのにな……」

 心底使えぬと思った晴明は、天叢雲剣を手放そうとした。この重い剣を持っていても仕方がないからだ。なんとか博雅が倒れているところまで辿り着き、彼だけでもこの場から逃がさねばと思ったのだ。

「うん……?」

 だが、困ったことに天叢雲剣が手から離れなかった。

 手の平が熱を帯びている。だが、それは今までの焼け付くような痛みではなかった。天叢雲剣の刀身の形が変わっていた。白銀の直刀から漆黒の湾刀へ。焼き付いたような禍々しい刃であった。

 やっとやる気になったようだが、今更遅いだろう。そう内心で毒づきながら、晴明は心に浮かんだ呪を紡ぐ。

「八雲立つ、出雲八重垣妻ごみに、八重垣作るその八重垣を」

 スサノオが作ったという最古の和歌を唱えると、晴明の目の色が玻璃色に変わった。世界が一度に広がったような錯覚すらも覚えた。この世の呪力の流れを一手に掌握したかのように、すべてが視える。

 体内を巡る神気すらも、手に取るように理解できた。それは、きっと人が手にしてはいけない世界なのだろう。

 帝釈天が歩み寄ってくる。身体からは紫電を放ち、その身体を濡らす雨は尽くが蒸発していく。彼が歩を進めるたびに、地上から白い靄が立ち上る。

 そして、その背後。離れたところで、身じろぎする博雅。彼も重篤な怪我をしているものの、動いている。

「仏罰の時間だ、呪い師。遊戯としてはなかなかだった。その才をここで摘むのは惜しいが、これもまた神と人の定めよ」

 帝釈天は右手を振り上げた。その手の中には紫電の光球がある。超高熱の雷撃の塊である。今までのお遊びにような雷とはわけが違う。

「は、はは、は。帝釈天、人と神の道は、交わらんなぁ」

 晴明は弱弱しく笑った。頭巾も焦げて、顔が半分露になっていた。

「仲良くするわけにもいかぬしな」

「無論だな。神仏は人に崇められるべきで、対等になどなるわけがない。人間は常に我らを見上げる存在よ。それは、そなたも同じ」

「かもしれんな」

 晴明は力尽きたように再び空を見上げて仰臥した。

 それから大きく息を吸って、深呼吸をする。

「だがな、おれはそれが気に食わん」 

 そう言い放った。透き通った人のものとは思えぬ瞳を帝釈天に向けた晴明は、負けるものかと言葉を返したのだ。

 愚かな、と帝釈天は呆れ返った。何をどうしても、人間では神仏に屈する未来しか残されていないというのに。

「その驕りこそ、そなたの寿命を縮めた要因だ」

 帝釈天が雷撃を放とうとしたまさにその瞬間、どこからともなく霊妙な調べが聞こえてきた。

 豪雨雷鳴にもかき消されぬ、妙なる響き―――――笛の音であった。それが、笛の音だと悟ったとき、帝釈天の口や耳から博雅の呪詛が内部に侵入を果たしていた。視界がぐらついた。魂が抜き取られるかのような錯覚。だが、それは一瞬にも満たない刹那の時だ。人がいくら技を磨いたところで、神仏には届かない。それが、例え神域の技であったとしても。

「そう、だが。その神域の技が神の手によるものならどうだ……?」

 晴明が帝釈天に尋ねたとき、すでに帝釈天の胸に黒刀が突き立っていた。

「こふ……」

 帝釈天が血を吐いた。

 バカな、と信じられないという面持ちで、呆然と胸の剣を見つめる。

「あはははは、はぁ……人間を、甘く見たな、帝釈天」

 晴明は博雅が帝釈天の隙を作るその瞬間を待っていた。一度だけ、作ることのできる隙。晴明が諦めず、天叢雲剣と語らったように、博雅もまた、晴明からの助言を逃亡ではなく晴明を助けるために使おうとしたのである。

 バカな男だ、と晴明は素直に感心した。

 だが、そのおかげで一世一代の賭けに勝った。

「まさか、この力……」

「そいつには、神の力を模倣する能力があるんだそうだ。……目にも止まらぬ神の足……刃が持てば脅威だろう……」

 晴明は勝利を確信した笑みを浮かべた。天叢雲剣が複製した帝釈天の権能を利用する。それは、如何な晴明と雖も自殺行為であった。

 天叢雲剣の協力を取り付けても尚、晴明は荒れ狂った神力に身体が壊されてしまっていた。

 おまけに天叢雲剣からは強力な雷撃が溢れ出ていた。帝釈天が晴明に放った遊戯の雷を蓄積していたのである。

「自分の力に焼かれて死ね……」

 帝釈天はよろめき、血を吐いた。胸から生える剣から紫電が迸り、帝釈天を内側から焼いていく。

「は、ははは……よもや、このような、形で。悪神でもない人間にしてやられるとは……!」

 それでも帝釈天は至福の笑みを浮かべていた。

「小気味よいな。人間の娘よ……そなたの未来に闘争の祝福をくれてやろう。……敢えて言おうぞ、幸あれとな!」

 そして、特大の雷が落ちた。

 何もかもを消し去るかのような強大な雷が、辺り一帯を焼き払ったのである。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

「うぐ、……」

 博雅が目を覚ましたとき、空の暗雲はすっかり消えてなくなっていた。

 暁の光が、東の空から差し込んでくるのが見える。

「い、きてるのか?」

 博雅は呟いた。信じられなかった。何が起こったのかは分からないが、晴明が勝ったのだ。

「博雅! 生きてたか!」

 晴明の声が聞こえて、博雅をそちらに視線を向けた。

 そこには晴明がいた。衣服はボロボロに焦げ付いているが、しっかりと二本の足で立っている。背中には、回収した天叢雲剣を背負っていた。

「晴明、お前……」

 博雅が驚いたのは、晴明の素顔が露になっていたことであった。

 金色の髪に青い瞳。抜けるような白い肌。整いすぎた顔。どれも、この世の者とは思えぬ容貌だった。

「仕方ないだろう。頭巾が焼かれてしまったのだから」

「え、ああ。そうか……」

「その、やっぱり何か変か?」

 晴明は、俯きがちになって尋ねてくる。変などということはないので、博雅は首を振った。むしろ問題なのは、顔立ちが美しすぎるということだろう。

「見慣れぬ髪だが、綺麗でいいんじゃないか」

「そ、そうか?」

 晴明はそう言って、照れたように自分の髪を弄った。

 今が子どもだからまだいいが、これから先大人になったらどうなるか。むしろ男に生まれたのがもったいないというほどの美形である。

「立てるか?」

「ああ、大丈夫みたいだ」

 晴明が手を差し伸べてくれたので、博雅は晴明の手を取って立ち上がろうとした。すると、前かがみになっていた晴明の水干の胴部分がついに損傷に耐え切れなくなって崩れ落ちた。

「え……」

 ガサリ、と派手に壊れた水干の下から現れたのは、華奢な上半身である。晴明が前かがみになっていたために、性別の区別がつく第一の要素が強調されてしまっていた。歳相応ではあるが、小ぶりながらも男にはない膨らみかたをする胸が博雅の前に曝け出された。

 呆然と固まる二人。

「せ、晴明。……お、前、まさかおん……」

「~~~~~~~~~~~~~~~~ッ」

 真っ赤になった晴明は唇を引き結んで拳を握り締めた。

「まッ」

「死ねや博雅!!」

 晴明は、異様に硬くなった拳で博雅を殴り倒した。

 

 

 

 晴明が顔を隠していたのは、日本人離れした容姿を隠し、男として陰陽師をするためであった。本来は類希なる巫女の力で奉職するべきだったが、その才を見抜いた忠行が引き取り、陰陽師として育てたのである。

 この時代、位の高い女性は姿を見られないようにするのが基本であり、顔を隠すというのは陰陽師としての未来と同時に女性としての在り方を守ることでもあった。

 忠行は、忠憲らの捜索によって無事発見された。発見当時は呪力が枯渇してひどく憔悴していたものの、命に別状はないとのことであった。

 帝釈天の降臨と、清涼殿への落雷はその真相を闇に葬られながらも形だけは残り、後世では清涼殿落雷事件として、菅原道真の怨霊によるものとして知られるようになる。

 そして、この事件で心身に不調を感じた帝は、三ヵ月後にまだ八歳の寛明親王に譲位し、その七日後に崩御した。諡号は醍醐とされ、後の世からは醍醐天皇と呼ばれて、その善政を惜しまれた。

 

 

 神殺しとなった安倍晴明は、以後頑丈になった身体を喜び、進んで外に出るようになった。顔を隠すのは今まで通りであったが、性格は幾分か丸くなったようだった。

 陰陽師としても大成し、陰陽寮を統括しつつ数多の『まつろわぬ神』や神獣と鎬を削り、一世紀近くも日本の呪術界に君臨し続けた。

 賀茂氏とともに陰陽寮を掌握した晴明は、生涯子を作らなかったが、どこからか連れてきた三人の子どもを養子として育てた。そのうち、吉平の系譜は大いに栄え、室町時代、足利義満に重用された天才陰陽師安倍有世以後、家名である土御門を名乗るようになる。

 そして、三人のうちの一人は、神祖と関わりをもち、裏の世界に潜って月沢を名乗って現代に至る。

 偉大な陰陽師の最期は大陸から渡ってきた剣神と三日三晩戦った後に討ち果たされるという激烈なものであったという。

 

 

 晴明亡き後、彼女が組織し彼女の手足となって働いた呪術師の集団は、貴族に取り込まれた。その中でも突出した力と家柄を有した四つの家は、天皇の四方を固める裏の重職を勤めるようになり、陰陽寮を影ながら操る呪術世界の重鎮となった。

 晴明が遺した天叢雲剣は、晴明の死後、裏の呪術組織が管理し、《蛇》の血を引く巫女の中で武勇に秀でた者が代表してこの太刀を手にとるようになったという。

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