極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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三話

 恐ろしい人間を鬼のようと形容する習慣は、ずいぶんと昔から存在するようだ。

 例えば、戦国時代の武将の鬼島津こと島津義弘や、鬼若子こと長宗我部元親などは、尋常ではないくらいに強く、敵から恐れられたことからそう呼ばれることになった。

 戦場での、比類なき力が、敵を無慈悲に圧倒する力が、想像上の魔物の中でも、特に強大で恐ろしいイメージを持つ鬼に比肩するとして、鬼~と形容されたのだ。

 では、鬼すらも飼いならす女を、いったいなんと呼べばよいのだろうか。

 龍巳は、そんなことを考えながら、ぼうっと『彼女』を眺めていた。

 月沢キズナ。

 最新にして最古のカンピオーネだ。

 玄関を施錠し、窓を閉め切ってクーラーを全力運転させている夏休みの午後。

 いつの間にかやって来ていたキズナは、いつものように我が物顔で龍巳の部屋で寛いでいた。

 ソファーにうつ伏せに寝転がって、漫画を読みふけっている。

 夏らしいミニスカートを履いていて、足をパタパタとせわしなく動かしているために、隠されるべき部分が見えそうになっている。

「見えるぞ」

 注意しようか迷っていたが、結局は注意することにした。

 一瞬、何を言われたのか分からないという顔をして振り向いた後、すぐに察したのか、

「へんたい」

 そう言って、キズナは足を止めた。

 そして、漫画に視線を戻した。

「これから、かおるんのところに行かなきゃいけないんだよね」

「かおるん?」

 キズナの言うかおるんが、その文脈から人名であることはすぐに想像がついた。それから、記憶の糸を辿り、該当する人物を探す。

「……ああ、沙耶宮家の」

「ん。学校の後輩なのよねー。頼みがあるから、今日来てくれって」

「頼み、ねえ……おい、ならなぜここにいる」

 水原家があるのは、新潟。沙耶宮家があるのは、東京だ。その距離、およそ三〇〇キロメートル。普通に考えれば、ちょっと外出、程度の感覚で移動できる距離ではない。

 だが、キズナは違った。

「午前中は暇なのよ」

 これである。

 キズナの権能を以ってすれば、文字通りあっという間に移動できる。日本国内はおろか、世界各国どこにだって、気分次第で簡単に移動してしまえるのだ。

 いまだ、距離の概念に囚われている龍巳からすれば、キズナの感覚は理解の範疇外になる。

「知ってはいるけど、理解はできんな、その力」

「こればっかりはねえ。幽体分離とか会得してみれば、多少は理解できるかもしれないよ。後で試してみる?」

「魂を抜くってことか? 遠慮しておく。この若い身空で、昇天しかねないからな」

「そんな初歩的な失敗はしないんだけどなー。こう、すぅって感じで抜けるはず」

 うつ伏せの体勢のまま、右手の人差し指だけを虚空へ向けてくるくると回している。

 あれが、魂の抜ける感じとやらを表しているのだろうか。

 どうにも、キズナが意味深な行動をすると、その一つ一つが呪術的意味合いを持っているのではないかと勘繰ってしまう。キズナの呪術を目の当たりにしてきたからこそ、そういう警戒をしてしまうところは否めない。

 希代の陰陽師の生まれ変わり。

 呪術が最盛期を迎えていた平安時代の闇を生き抜いた、生粋の呪術師。

 それが、月沢キズナの本性だ。だから、現代の呪術師以上の実力を初めから持っている。その素性を隠しはしても、呪術師としての実力までは隠していない。きっと、キズナがその気になれば、龍巳の魂を抜く程度のことは容易にしてしまうだろう。考えるだけでも恐ろしい。

「ま、わたしからすれば、龍巳の魂に手を加えるくらいは片手間でできるから、わざわざ抜く必要もないんだけどね」

「さらっと怖いこと言わないでくれないか……」 

 時折忘れそうになるが、龍巳は前世からキズナに隷属しているのだ。つまり、魂がすでにキズナに握られているということになる。キズナの言うとおり、龍巳の魂に限って、キズナは前準備もなく容易に手を出すことができるのだ。

「でも、そのおかげでこうして生きていられるわけだし、その辺は感謝してほしいところ」

「まあ、そうだな」

 自分が、千年以上も前の人間だという自覚はある。

 本来は、骸となって、地の底に眠っているべきだということもだ。その、正しいあり方も、キズナの力で覆された。

 キズナの式神となった龍巳は、真っ当に死ぬことができず、こうして彼女とともに現代に蘇ることになったのだ。

 まさか、こんなことになろうとは思っていなかっただけに、当初は混乱もしたが、キズナの理不尽さを身をもって知っているだけに、そんなこともあるかとあっさりと割り切ってしまっていた。

 キズナが、寝返りを打って仰向けになった。

 漫画本を天井に向かって掲げて読んでいる。腕が疲れそうな体勢だ。

「目、悪くなるぞ」

「カンピオーネに視力の悪化などという現象は存在しない」

 注意してみたら、正論なのか暴論なのか分からない返され方をしてしまった。

 

 

 

 ■

 

 

 

 この日、関東一帯は真夏日を記録していた。

 雲ひとつ無い晴れ渡った空。燦燦と降り注ぐ太陽。そして、その熱を貯蓄し、逃がさないコンクリートジャングルとアスファルトが、気温上昇に一役買っていた。

 道を行く人々は汗を流し、気だるそうにしながらも、夏休みの真っ只中を謳歌しているように見える。

 暑いからこそ、楽しめるものもある。

 気分というのは大切だ。

 キズナは、新宿にあるとある喫茶店にいた。アイスコーヒーとレアチーズケーキがテーブルを彩っている。外は暑いが、店内は肌寒い。かなり気合を入れて冷房を利かせているようだ。

「というか、ちょっと寒くない?」

 ギャル風に語尾を上げてみた。目の前には、美少年――――に見える少女が腰をかけている。

「同感ですね。昨今、節電が叫ばれる中で、ここまで気前よく冷房を入れるというのもね」

 女子は身体を冷やしてはいけない生物なのだ。

 そう言いながらも、キズナはアイスコーヒーに突き立つストローを咥えた。

 苦味よりも、甘味が勝る液体を、一吸いして、

「それで、かおるん。相談事というのは何かな?」

 キズナは、目の前の少女に尋ねた。

 尋ねられた少女――――沙耶宮馨は、眉根を寄せて、

「その呼び方、止めてほしいんですけど、先輩」

「いいじゃん、別に。それに、誰かに聞かれて困ることも無いっしょ」

「まあ、それはそうですが」 

 馨は、少女というには風変わりな服装をしている。

 馨が着ているのは、男子用の学生服だ。性別は、間違いなく女なのだが、男物の服を着ていると、中性的な美少年に見えてしまう。しかも、馨の趣味はその外見を生かして、多くの女性とお付き合いすることなのだ。

 今、傍目から見れば、美少年と美少女のカップルに見えることだろう。

「はあ、まったくあなたって人は。もう少し、ほんの少しでいいので媛巫女としての自覚を持ってもらえるとありがたいのですか……」

「知らないよ、そんなの」

 きっぱりと、キズナは答えた。

「最低限の仕事はしてるじゃん」

「本当に最低限ですよね」

「時間外労働はしません。つまんないし」

「つまんない、ですか」

 職業人としては、最低の回答だった。

 もともと、媛巫女の職務に対して怠慢が目立つのがキズナの数少ない悪評の一つだ。馨などは、後々、組織を背負って立つ上での火種になると警戒しているくらいである。

「なんで、かおるんまで真面目ぶるかな」

「次期沙耶宮家当主としても、見過ごせないんですよ。あなたは、この国でも最高位の媛巫女なんですから」

「組織のボスとしてね」

「後輩としてもです。頭の固い老人たちは、あなたをとっ捕まえて精神修養からやり直させると息巻いている方もいますからね」

「歴史と伝統っていってもねえ。たった、一〇〇年ぽっちの歴史で何が伝統だっての。と、わたしは思うけど」

 正史編纂委員会が発足したのは、明治になってからだ。組織としての歴史は、比較的浅い。ただし、そこに所属する呪術師たちの血統は、千年の重みがある。組織よりも血族の重みを重視する社会はこうした歴史を背景にしているのだ。

「一応。僕はその組織の長になる予定なんですけどね」

「同情はするよ。あのお爺ちゃんたちを相手にしなくちゃいけないんだからね」

 伝統ある血族というのは、それだけプライドも高くなるのが一般的な傾向だ。キズナや馨が鬱陶しがっているのは、そうした伝統を押し付けてくる老人たちと、若者の間に価値観の違いが影響している。

「古いものを大切にしようというのは、間違いではないですよ」

「当然。温故知新を全否定するつもりはないよ」

 ただ、それを都合よく解釈して偉そうにする老人たちが気に入らないというだけ。老人たちの呪術師としての力は、キズナに敵わない。そして、経験も。老人たちは、キズナが何者なのか知らないだけだ。きっと、キズナの正体を知ってしまえば、夜も満足に眠れない日々を送ることになるだろう。

 カンピオーネというのは、それほどの存在であり、千年前の呪術師として、キズナの『本当の名』はあまりにも有名だ。

 今のキズナは、ただの若造ではない。それなりの人生を経験している。だから、外見や立場で相手を見誤る者たちのことを、ただ歳を重ねただけの老害としか認識できないのだ。

「先輩、面倒なんですから、あまり怒らせないようにしてくださいよ。この前も、お見合いを一方的に断ったじゃないですか。結構、頭にきてますよ」

「は? 頭にきてんのは、こっちも同じだっての」

 キズナは、気分を害したというような表情で、首を傾けた。

 数日前、キズナの与り知らないところで勝手に進んでいた見合い話。相手は、月沢家と同格くらいの呪術師の家系の次男坊で、両親ともに正史編纂委員会の中で、重役を務めるエリート一族。見合い相手も、能力、容貌ともに最高クラスのキズナに見合うだけのものだったはずだ。五歳ほどの年齢差を除いて、高物件と言っても過言ではない。

 それを、キズナは一方的に蹴った。

「見合いそのものを拒否したら反感をかうのは当たり前ですよ。相手にも面子があるんですから」

「人の知らないところでこそこそ外堀を埋めるようなことをしていた連中のことなんて、信用ならないでしょ――――で、相談事ってのは、まさか、お爺ちゃんたちの顔を立てろってことじゃないよね」

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 真面目ぶった後輩の頼みというのは、とどのつまりはお祓いの類だった。確かに、巫女の仕事ではある。

 場所は、新宿区松濤の一画。高級住宅街として名の知られている地区だけに、閑静な住宅街ながらも、どことなく富裕な印象を受けるのは、先入観からだろうか。しかしながら、この場に一軒家を構える時点で、相当な資産家であると想像される。

 先導する馨に従って、キズナは歩道を歩いている。

 車は通らず、アブラゼミの声だけが、夏の空に響いている。

「あった。ここです」

「ここ?」

 馨が見上げるのは、どっしりとした赤レンガの一軒家だった。家というよりも、小さな洋館と言ったほうがピンと来るかもしれない。その西洋風の建物は、三階建てで、各部屋には出窓が付いている。

「ふうん、なかなかお洒落な家」

 キズナは、そんな感想を漏らした。

 馨は、インターホンを押して、二言三言話している。それから、一〇秒ほどして、ドアが開いた。

 中から出てきたのは、キズナたちと同じ学校の制服を着た少女だった。

「やあ、美鈴さん。久しぶりだね。と言っても、あれから一週間くらいしか経っていないけどね」

 片手を上げて、さわやかに挨拶した馨に、美鈴と呼ばれた少女は恥ずかしげに頬を赤らめた。

 その様子に、キズナはうわあ……と内心で引きながら、会話に耳を傾ける。馨の悪い癖。自らもまた女子でありながら、その中性的な容貌を活かして女子と恋を語らうのだ。きっと、この女子生徒も、馨の毒牙にかかったのだろう。

「馨先輩。驚きました。本当に来てくれたんですね」

「当然だろう。僕と君の仲じゃないか。まさか、疑っていたのかい?」

「あ、いえ。そんなことはないです。ただ、何分突飛な話ですので……」

「その突飛な話を聞きに来たんだよ。今から、大丈夫かな?」

「はい。どうぞ、お上がりください」

 

 

 

 馨の後ろに隠れるように、キズナは薄暗い廊下を歩く。

 昼間とはいっても、電気をつけていなければ暗がりはいくらでもできる。

 洗面所に通りかかったところで、視線を感じたキズナは、洗面所の中を見た。浴室と一体となった洗面所は、一般家庭よりも広い。洗面台の隣に洗濯機が置いてある。その奥、普段見えないところに、霞とも靄とも思えないモノを視た。

 ねっとりとした、悪意を感じる。

 数秒ほどの邂逅。

 夢か幻のように、その靄は空気に溶けて消えていった。

「先輩」

「かおるん。今の、見たね?」

「一瞬ですが」

 美鈴に聞こえないように、こっそりと話をする。

「あの娘に憑いているわけじゃなさそうだけどね」 

「すると、家か土地、もしくは……」

「何か、曰くつきの家具とかね。ま、話を聞くのが早いかな」

 

 

 さすがにお金持ちの家とあって、応接間が存在した。馨とキズナが通されたのはその応接間だ。キズナは、大きなソファーに腰掛けて、テーブルの反対側に座る美鈴を見る。

 あどけない表情。黒い髪を二つにまとめたお下げ髪で、まとめた髪は前に流している。半年前まで中学生だったのだから、幼さが残っているのはむしろ自然なことだろう。ちらりちらりとこちらの様子を窺っているのが、気になる。初対面だから警戒されているのだろうか。

「わたし、月沢キズナ。三年生よ。はじめましてだよね」

 あちらから話を進めるタイプではないと見て、こちらからアプローチをかけていくことにしたキズナは、会話の起点として、自己紹介をした。

「あ、はい。えと、井島美鈴です。その、一年です」

「一年かー。いいな、一年は。思ったより早く三年経っちゃうから、一年の内に楽しめるもんを楽しんでおいたほうがいいよ」

「あなたは、今でも十分に楽しんでいるではないですか」

 馨が口を挟んだ。

「三年と一年では、気持ち的にいろいろ違うでしょ。こう、将来のこととか、頭を過ぎるわけだしね。まあ、わたしは進学しないから、将来も何もないんだけど」

「え、月沢先輩、進学しないんですか?」

 美鈴が驚いたといわんばかりに、目を見開いた。

「うん。卒業後は、世界を回ることにしてる」

「また、そんな勝手なことを……。老人方の頭に血が昇りますよ」

「水でもかけて冷やしとけばいいよ。そんな感じで、進学という道はないの」

「そう、なんですか」

 どう返答したものかと悩んだ末に、美鈴は納得した風を装った。

 彼女たちが通う学校は、名の知れた進学校。上流階級の子女が通う名門校なのだ。進学しないという考え方自体が、異端視される世界であり、美鈴もまた、進学しないという選択肢を考えたこともなかった。

 大学に行くのは、最低限の常識であり、進学しないのは、あるべき道筋から外れた不実な行いとも思っているから当然である。

 何はともあれ、進学を前提とした世界にあって、進学を初めから放棄し、それを事も無げに語るキズナを、美鈴は、不思議な生物を見るかのような目で見ていた。

「それで、この家では何が起きているの?」

 単刀直入に、キズナは尋ねた。

「はい、そうですね。その、信じていただける自信がないのですけど」

 言いよどむ美鈴を相手に、馨が手をたたきながら笑顔を見せる。

「大丈夫大丈夫。こう見えて、先輩は視える人だからね」

「え?」

「そう、視える人なんだ。正真正銘本物の巫女さんで、本物の霊媒師なのさ」

「そ、そうなんですか」

 若干、胡散臭そうにしている美鈴だが、彼女自身が、日常生活を超常現象に脅かされている張本人だ。頭から否定することもできない立場にいる。そして、もしも、もしも仮に馨の言うとおり、キズナに超常現象をどうにかするだけの力があるのだとすれば、助けて欲しい。人に話をしても、笑われてしまうだけの内容だと分かっていながらも、馨に相談したのは、文字通り藁にもすがる思いを抱いているからだ。

 キズナが本物だというのなら、それはまさに地獄に仏というものだ。

「それで、具体的な話が聞きたいの。物が勝手に動いたり、声が聞こえたり、人影が見えたりってことはない?」

「あります。全部」

「ふうん。なるほどね。それを見るのは、あなただけ?」

「いいえ、家族みんな。父も母もです」

 美鈴は、居心地悪そうにして、膝の上で組んでいた手を強く握った。

 顔色が悪い。思い出すだけでも、恐ろしいのだろう。

「何があったのか、詳しいことを教えてもらえる?」

 

 

 

 ■

 

 

 

 井島美鈴の父は、有名なIT関連会社の重役を勤める優秀な人物だそうだ。性格も温厚で、真面目な仕事人間で、誰かに恨みを買うよなことはしない。父の収入だけでも十分に家族を養えるのだが、美鈴の母は専業主婦が性格的に合わないらしく、美鈴が小学校に上がったころから保育士として働いている。

 一家が、この家に越してきたのは、この年の春。美鈴が高校に進学すると同時に、新居を購入した。

 つまり、この土地にもともと縁があったわけではない。

「異変が起こったのは、ゴールデンウィークの初め辺りです。最初は、気のせいかとも思ったのですが……」

 リビングに飾ってあった花瓶が倒れていたことが事の始まり。壁にかけてある絵が破かれていたり、ベッドがひっくり返っていたりといった物損被害が度々生じ、警察に調べてもらうも、侵入者の形跡は無かった。

 正体が分からないまま、被害は大きくなっていく。当初の物損被害から、不快な視線、耳障りなうめき声、原因不明の高熱といった肉体的、精神的な被害へと移っていく。そういった怪異が次々に起きて、美鈴の両親もグロッキーだ。

「なるほど」

 キズナも馨も、神妙な顔で頷いた。

 大まかな流れは分かった。この家にいる何者かが、家人に悪意を持って接している事も分かる。その理由までは定かではないが、何者かがこの家に巣食っているのは確定している。

「それで、先輩の意見はどうですか?」

「どうということもないよ。典型的な呪の類。動物霊を用いた……蠱毒に近いものだと思う」

 天井を見上げ、キズナは言った。馨がム、と眉根を寄せる。美鈴の背筋を、ゾクゾクとした悪寒が駆け抜けた。二人に釣られて、上を見る。

 瞬間、息が止まるかと思った。

「ひぐ……ッ」

 天井に映った影が、動いていた。

「な、なんですか、あれ。そもそも、あんなところに影ができるはずがないのに!」

「落ち着いて、美鈴さん。身を低くして」

「ふん。わたしたちに反応して迎撃に出たってわけ。上等じゃない」

 恐慌状態に陥りそうな美鈴とそれを落ち着かせようとする馨。影を見据えて、つまらなそうに吐き捨てるキズナ。三者三様の反応を示す中、状況は動き出す。

 ずるり、と影が起き上がった。

 もはや、それは影ではない。平面的な身体から、三次元的な質感を伴って、具現化した怨念の塊だ。不定形の身体の表面は、絶えず流動し、汚水が渦を巻いているようにも見える。三対六本の足は、長さがそれぞれ異なりながらも、虫を思わせる形状だ。盛り上がった頭部には、人間の目を思わせる大きな一つ目。血走った目は、あくまでも美鈴を見据えている。

「ヒィ……!」

 美鈴は、悲鳴をあげることもできずに表情を引きつらせている。

「異変の原因は、他者にある。狙いはあなたたちだけど、自然発生した怪異ではないわね。きっと、呪の心得のあるヤツが呪ってるのよ」

「来ます!」

 馨が、硬直する美鈴に駆け寄り、庇うように抱きかかえた。

 そして、魔物が落ちてくる。

 ぬっとりとした闇の塊。肉体を構成するのは、無数の生物が抱く怨念。核となるのは、やはり人間の念か。

 あれは、生物を呪うためだけに存在する霊的存在だ。触れればただではすまない。

 馨が迎撃のための呪を唱える。それよりも一瞬先んじて、キズナの呪力が魔物の頭を強かに打った。

「わたしを無視してんじゃないっての」

 魔物を睨むキズナの瞳は、玻璃色に輝いている。

 ソファーの後ろに落ちた魔物が起き上がり、その血走った目でキズナを睨みつける。

「視線そのものにも毒を仕込んでいるの。手の込んだ真似をする。でも、残念。わたしには、効かないわよ」

 ソファーに腰掛けたままのキズナは、余裕の表情で、魔物の呪詛をあざ笑う。

「かおるん。その娘を連れて、部屋の外に。コイツはわたしが片付ける」

「わかりました。美鈴さん。こっちに」

「は、はい」

 ほとんど、抱きかかえられる形で、馨に連れ出される美鈴。その美鈴を追って、魔物が身体の向きを変えようとした瞬間、

「マ」

 毒を喰らい、厄災や苦痛を取り除く孔雀明王の種字が炸裂した。

 パアン。

 風船が割れるような音。

 弾丸のような呪力の塊が、魔物の頭を再び打つ。

「呪詛は返す(・・)のが、手っ取り早いのだけど……返すべきなのは、こいつじゃないか」

 足を組み、悠然と構えるキズナには、危険を前にしているという焦りは一切ない。捨て猫を拾うかどうか迷っているとでもいうような気の抜けた態度だ。

 相手は蠱毒。

 遥か昔から存在する、呪詛の代表格だ。

 動物、とくに虫を使ったもので、大量の虫を一つの容器に入れて、殺し合わせるというものだ。最後に生き残った固体には、それまでに死んでいった虫たちの怨念がこびりつき、呪詛の核となるというわけである。今回はそこに、恨みを残して死んだ人間の目玉を組み込み、操りやすくしている。怨念の塊よりも、人間的な式としたほうが、術者の意思を伝えやすいのだろう。

 蠱毒は、古代中国から行われてきた呪詛だ。歴史が長いということは、つまり、それだけ強力な呪詛であるということだ。並みの呪術師では、満足に扱うこともできないだろう。

 もっとも、歴史が長く、有名な呪詛ほど、対抗策が練られるのは当然のことだ。ウィルスソフトに対してワクチンソフトが作られ、その守りを突破するために新たなウィルスソフトが開発される。それと同じ流れだ。この蠱毒も、古代の蠱毒の製法を踏襲しつつ、現代風にアレンジが加わっている。長きにわたる呪術の歴史の中で、繰り返されたいたちごっこは、常に呪術を進化させてきた。

 それを操っているということは、専門的な知識を有する、そこそこの実力者ということなのだろうが。

「まだまだね」

 キズナが唇を震わせる。小声で呟く、厄除けの呪。

 部屋を覆い尽くすほどの、圧倒的な正の呪力が、負の想念を押し返す。

 文字通りの浄化。

 穢れた汚水が、清められていくように、蠱毒を構成する怨念が、強制的に散らされていく。怨念の元を断ち、満足のまま昇天させるのではない。相手を圧倒する強大な力で、凝り固まった怨念を粉みじんに砕き、消滅させるのだ。

 それは、油分が、自然の中で徐々に分解されていくのと、洗剤によって清められるものとの違いによく似ていた。

 キズナの放つ呪力はあまりに強く、蠱毒は抵抗する間も与えられなかった。

 黒い肉体は、内側から膨れあがり、水風船が割れるかのように、破裂した。飛び散った怨念の欠片も、すぐに大気に溶けていく。怨念を縛る術式そのものが瓦解した今、呪詛の形を保っていられないのだ。

「拍子抜け」

 一言、がっかりした口調で、そう言った。

 

 

 

 □

 

 

 

 部屋の外に出たキズナは、無事蠱毒を祓ったことを報告した。

 美鈴は、顔を青くして廊下にしゃがみこんでいたが、報告を聞いて緊張の糸が切れたのか、泣き出してしまった。

「呪詛そのものは、祓った。けれど、まだ、これで終わったわけではないの」

「ま、まだ何かあるんですか……?」

 キズナを見上げる美鈴の目には、恐怖と不安の色が浮かんでいる。

「そうね、今のヤツの大本を叩く必要もあるし……ま、それはかおるんが何とかしてくれるでしょうけど」

 そうよね、と確認するキズナ。馨は、頷いて。

「蠱毒は、今でも禁術の一つ。それをこのような形で使用したからには、それ相応の罰を与える必要があります。それは、僕らの仕事ということになるでしょう」

 これが呪詛である以上、それを行使した術者が存在することになる。蠱毒は、自然発生するタイプの怪異ではないのだ。

 そして、正史編纂委員会は、日本の呪術界を統括する国家機関だ。呪術の不当な使用に対しての警察権と司法権を持っている。

 次期トップの馨は、この組織をある程度恣意的に動かせるという権力者なのだ。

「とすると、動かぬ証拠を取っておいたほうがいいわけだ」

 キズナは不敵な笑みを漏らす。

「先輩?」

「こういう呪術は、もう廃れたものだと思っていたんだけど、まだ使う人もいるんだなと思ってさ」

「?」

 馨と美鈴を置いて、キズナは、歩き出した。廊下を突っ切り、玄関へ向かう。その後ろを、二人が慌てて追った。

 玄関で、靴を履き、外へ出る。

 アンティークの黒い門扉まで、五メートルほどあり、そこに行くまで白い正方形の石の板が敷き詰められていて、道を作っている。キズナは、その中の一つに歩み寄ると、しゃがみこんだ。

「かおるん、ここだよ。ここ」

 キズナは、馨を呼んだ。呼ばれた馨は、キズナの下に歩み寄り、地面を覗き込んだ。

「これは……」

 なぜ、気がつかなかったのか。白い石の下から、瘴気がもれ出ているではないか。自然界には存在しない、呪力の波動を感じる。

「さっきまでは、隠匿の術がかかっていたみたいだけど、わたしが蠱毒を壊したことでそれが解けたのよ」

「つまり、ここに埋まっているのが、呪詛の本体ということですか」

「間違いなくね」

 そう言って、キズナはおもむろに板を捲りあげた。露になる地肌。ミミズが這った跡があり、蟻がせわしなく動き回っているが、中心部分はくり貫かれていて、そこに黒い壷が収められていた。蓋は経文が書かれた和紙で厳重に封がなされている。

 キズナは、そっとその壷を取り上げた。

 手の平に乗るくらいの小さな茶壷だ。

「そこそこ、古いですね。江戸以前、安土桃山辺りの作ですかね」

「いいもの見ているとそこまで分かるんだ。さすが、沙耶宮家の次期当主」

 馨の見立て通りなら、この壷はかなりの年代物になる。呪術にはもってこいだ。

 禍々しい気配を放つ壷。

 禁術の蠱毒を用いさらに、その本体である壷を敷地内に埋める。ここまで、手が込んだことをするというのは、明らかに、この家に恨みを持つ者が関わっているということだ。

「そんなものが、玄関先に埋められていたなんて……」

 戦慄するのは、この呪詛に晒され続けていた美鈴。美鈴は、キズナや馨とは違い、呪術のいろはも知らない一般人だ。むしろ、この禍々しい気配を感じながら、感想を漏らすことができるだけ、稀有な例と言える。

「美鈴ちゃんは、見ないほうがいいかもね」

 キズナは、壷が美鈴に見えないように隠しながら、美鈴に背を向けた。

「さっさと祓ってしまおう」

「ここで?」

「うん」

 キズナは、ごそごそとポケットを探る。取り出したのは、くしゃくしゃになったレシートだった。

「いちいち札を使うのも、もったいないし。これでいいか」

 唖然とする馨を尻目に、キズナは二言三言、呪文を唱え、レシートを壷に貼り付けた。変化は一瞬だった。レシートが真っ黒に染まった。レシートは、熱を加えると黒く変色するものだが、壷がそこまで発熱するはずがない。

 レシートを黒く染め上げたのは、壷に籠もる怨念の塊。先ほどキズナは討ち果たした蠱毒の本体に宿る呪力だったのだ。

 それが、レシートに移動させられたことで、壷は完全に呪力を失い、ただの茶壷となった。

「これで、よし」

 それから、キズナは、レシートを剥がし、息を吹きかけた。

 レシートは、吐息に煽られた後、生物のようにうごめき、形を変える。角が折りたたまれ、それからさらに流線型のフォルムを獲得する。そして、誰もが知る、紙飛行機となった。怨念がこもる、おどろおどろしい黒い紙飛行機だ。

「本当に恨んでいる者のところに行け」

 それは、命令であり、言霊でもあった。

 蠱毒は生物の怨念を利用した呪術。

 この術の最大の特徴は、最も恨まれるのは、術を使った張本人だということだ。

 だからこそ、しかるべき方法を知っていれば、蠱毒を返すことは容易だ。

 もはや、蠱毒ではなく、単なる怨念の塊に過ぎない紙飛行機は、自分が最も憎み、呪っている相手の下へ向かっていく。キズナたちが、相手の術者を捜索するまでもなく、相手自身の術が、その居場所を特定させてくれるのだ。

「あれの向かう先が、この術の使用者の居場所」

「わかりました。すぐに手配します」

 有能な後輩は、即座に動いた。携帯電話で誰かに電話をかけている。そういえば、馨には有能な右腕がいたと記憶している。もしかしたら、その人物に出動を要請したのかもしれない。

「とりあえず、わたしの仕事は終わりでいいよね」

 キズナは、茶壷を馨に投げ渡した。

「ええ。ありがとうございます。しかし、まさか蠱毒とは……」

 茶壷を受け取った馨も、その扱いには困っているのか一瞬、迷惑そうな顔をした。しかし、この一件は馨の個人的な依頼という側面もあり、その後片付けをするのも、馨の責任だ。

「あの、どうなったんですか?」

 おそるおそる、尋ねてきた美鈴に、キズナは、親指を立てて、言った。

「あなたの家……というか、家庭環境にかけられた呪いはわたしが祓っておいたから、もう大丈夫。呪った相手も、そのうち捕まるはずだから、安心してオッケー」

「ほ、本当に、もういいんですか? 本当にもう、何も起きない?」

「起きない。この家にも、あなたにも何も憑いてないからね。怪奇現象なんて、起きようがない」

 美鈴は、しばらく呆然として、それからその場に脱力して崩れ落ちた。

 怪奇現象なんて信じないとは言えない経験をした。これまでの苦しみから解放されたのだ。安堵の気持ちで、何も考えられなくなっていた。

「ありがとうございます。本当に……」

 美鈴は、それしか口にすることができなかった。

 

  

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