極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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四十九話

「夕されば野辺の秋風身にしみて、鶉鳴くなり深草の里……」

 

 例年よりも少し早い、鈴虫の声に耳を傾け、葛の葉は呟いた。

 かつては都であった街を見下ろす古い寺の屋根に座って、風を感じる。

 こうしていると、千年前に立ち返るようだ。目に映る世界は、夜ながら明るく、かつての面影はほとんど残っていない。文化財として保護された街並も、当時を知る彼女からすれば時代の流れに取り残されたわびしさしか感じられず、その思いは自分にまで跳ね返ってくる。

 葛の葉の衣服も、現代風に改めているのだから、傍目から見て、千年前にこの地を訪れていたなど、誰が思うだろうか。

 細いジーンズと長袖の白いワイシャツという季節はずれなラフな装いで、葛の葉は物思いに耽っている。

「馬鹿ね。まったく……」

 自嘲気味に笑う。

 どれだけ鳴いても、自分を見つけるべき者は現れない。

 まったく、未練がましいことだ。

「残る経典は二巻き。呪詛を分散させるためとはいえ、ずいぶんと面倒をしてくれたものだわ」

 葛の葉は髪を掻き分けて耳にかけ、立ち上がった。

 西の空に太陽が沈み、東の空から藍色の闇が押し寄せてくる。

「……おしごとの時間だ。もう少し、付き合ってもらうわよ。正史編纂委員会諸君」

 とん、と葛の葉は屋根から飛び降りた。

 それと同時に、呪術迷彩が解ける。

 魔女が扱う隠れ身の術も、高度な結界の中では形無しである。ビリビリと身体にラグを走らせながら、葛の葉は砂利の上に音もなく降り立った。

「な、なんだお前は!?」

 ここに来て、警備の呪術師が葛の葉に気付いた。廃寺を思わせるみすぼらしい寺に、十人以上の呪術師を配している時点で、何かあると思わなければならない。

 相対する呪術師は、まずは三人。その奥、本殿の中に七人。本命の宝物庫に二人。後は非戦闘要員であろう。

「ふふ……」

 西日を背にして、葛の葉は微笑む。

「黄昏時に誰何するなんて、とっても気が利いているわね。まさしく、あなた方からすれば、うちは招かれざる客ということなのだから」

 葛の葉、手を広げ呪術師たちと向かいあう。彼らからは、葛の葉の顔は逆光になっていてよく見えないだろう。「誰そ彼れ時」とはよく言ったものだ。

「でも、あえて、ここは雰囲気を大事にして、大禍時と言おうかな」 

 ズォ、と葛の葉の影が伸びる。

 明らかな呪術の行使に、正史編纂委員会の呪術師はそれぞれ呪術で対抗する。正体不明の敵に襲われて、動転したのは一瞬だ。

 相手が続発する宝物殿の襲撃犯であることは明確である。その所業を考えれば、加減する必要はないだろう。

 

 

 そして、動くものがいなくなった寺の中を葛の葉は我が物顔で歩く。

 人間では、どれだけ頑張ったところで神祖には及ばない。積み重ねた年月も、存在の格も何もかもが異なっているからである。

 葛の葉はあっさりと結界を解除して、宝物殿の中に侵入を果たす。

 自分はあの乱暴者とは違う。徹底的に破壊して、内部の宝物を奪い去り、その上で経典を漁るような頭の悪い捜し方はしない。探査の呪術を使えば、隠し場所など一発で分かる。

 それは、呪符でびっしりと覆われた桐の箱に収められていた。

 隠し切れぬ怨念と神気が、この箱の中に封印されているのであろうが、かなり頑強に封じられているために明確にそれと判ずるのは難しい。

 葛の葉は箱に手を触れる。

「ッ……」

 白魚のような細い指先が、見えない壁に弾かれる。

 結界である。

 それも、神祖の干渉を弾くほどの代物だ。

「へえ、あの娘ってば……」

 にやり、と葛の葉は笑う。なかなか厄介な呪術で防備を固めているようだ。結界が敷かれたのは、二年ほど前か。それだけの時間が経過すれば、どこかに穴が開いているはずである。これほどに高度な術式で、地脈などに癒着していないものならば定期的に修復しなければならないはずだが、それができるのは一人だけ。しかもその者はここ半年海外に出ている。

 もっとも、彼女もまさかこれが狙われるとは思っていなかっただろう。

 葛の葉は丁寧な所作で結界の表面をなぞる。それだけで、桐の箱はあっさりと無防備になってしまった。

「さてさて、ご開帳」

 箱を開ける。強烈な怨念が噴き出してきた。真っ当な人間ならば、それだけで狂気に飲まれて発狂してしまうほどの呪詛。それを、神祖は軽く受け流す。『まつろわぬ神』の呪詛ならばいざ知らず、ただの遺物では神祖には届かない。

 箱の中身は白い布に守られていた。

 葛の葉は、その布を取り払い、中身を確認する。

「間違いない。これで、四巻きめ。後一巻きで、すべて揃うわけだ」

 葛の葉はそれを箱に戻して、小脇に抱えて宝物殿を出る。

「そこまでです」

 そこで、足を止める。

 縁側を歩いているところで、声をかけられたのだ。木陰から、少年とも少女とも思える中性的な人物が現れた。

 それに続いて、赤と黒の衣服を身に纏った黄金の髪の少女と青と黒に衣服を身に纏う銀髪の少女が、葛の葉を挟む。左側は壁で前後に騎士。そして、右側には、性別不明の人影と、それに加えてやる気の見えない青年が一人、影から参戦する。

「動かず、ゆっくりとこちらを振り返ってください」

 呪符だけでなく銃まで持ち出している。

 呪術よりも早く銃撃できれば、そちらのほうがいい。凄腕の呪術師ほど呪術に頼りやすく、銃を軽んじるものだ。

「あらら、驚いた。やるじゃないの、陰陽師。異国(とつくに)の剣士も見事な隠形」

 そうして葛の葉は顔を相手に向けた。

「ッ……あなたは」

「へえ、うちのこと、知ってたりするのかしら?」

 一瞬だけ見開いた目を、すぐに葛の葉に集中する。この反応を見るに、相手はキズナと顔見知りなのだろう。自分でも驚くくらいに、キズナは葛の葉とよく似た顔立ちをしている。

「いえ、人違いです」

「存外、そうでもないかもよ」

 葛の葉はくすくすと笑いながら、周囲を見回した。

「あなた方のことも知っているわ。八人目の羅刹の君にお仕えしている愛人どもね」

「あ、愛人とは失礼な。わたしは、騎士としてお仕えしているだけだ!」

 銀髪の少女は顔を紅くして葛の葉に食って掛かり、金髪の少女は葛の葉の余裕を警戒して口を開かない。

 なるほど、この中で一番面倒なのは、どうやら金髪の少女のようだ。

「なぜ、ここだと分かったのかしらね」

「今までに襲撃された宝物殿の中に納められた呪物を精査した結果、次に狙われるのはここかあるいはもう一箇所と当たりをつけていましたので」

「なるほど。それはすばらしい慧眼ね。うちのほうにも、あなたみたいな頭脳派が欲しいものね」

「大人しく拘束されてくれれば、身の安全は保証します。神祖の媛」

 丁寧な口調で降伏を迫る呪術師どもに、葛の葉は呆れ笑いを浮かべ、失笑した。

「愚かね」

 葛の葉が呪力を練り上げて指を動かした。葛の葉の口が言葉を紡ぐのに先んじて、金髪の少女が踏み込む。

「クオレ・ディ・レオーネ! 断ち切れ!」

 獅子の剣が唸りをあげる。さらに遅れまいと銀髪の少女が薙刀のような魔剣を突き出す。

「な……!」

「く……!」

 両者の剣を、葛の葉は影を操って受け止めた。三次元の世界に浮かび上がった影が、確かな実体を持って剣を跳ね返したのだ。

「この呪詛は、強烈よ。頑張って耐えてみなさいな」

 銃撃や呪符を微動だにせずに防ぎながら、葛の葉は箱を開く。

 途端に溢れ出す強烈な呪詛が、荒れ狂う津波となって寺ごと一帯を吹き飛ばした。

 

 

 葛の葉が去った後で、瓦礫を押し退けてエリカが這いずり出てきた。

「助かったわリリィ」

「ふん、ああいう呪いの類は魔女の得意分野だからな。とはいえ、あれは桁外れだったが」

 リリアナは持ち前の直感と魔女術で、葛の葉の呪詛が発動する前に防御呪術を展開したのである。それもエリカや馨、冬馬らを一緒に守護する高度な術であった。

「本当に、参りましたね。あれを奪われたとなると、これから、かなりマズイ事態になります。本格的に王の参戦を要請することになるかもしれませんね」

「あの経典か。沙耶宮馨。あれは、確かに封印されるに相応しい強烈な呪詛の塊だったが、それほどのものなのか? 草薙護堂に要請しなければならないほどのものだと?」

「ええ、間違いなく」

 馨は頷いた。

 護堂がこの場にいなかったのは、もう一箇所、四国の地に向かっていたからであった。そちらには、清秋院恵那と万里谷祐理が同行していた。

「甘粕さん。草薙さんに連絡をお願いできますか?」

「承知しました」

 冬馬は忍らしい静かで速い動きで姿を消す。

「詳しくは、また王を交えて話しますが、あれはとある『まつろわぬ神』が生前に残した呪物なのですよ。あのお方がかつて降臨された際の触媒であり、同時に先達が封印した際の鍵として機能したものなのです」

「『まつろわぬ神』を封印? そんなことが?」

 リリアナが驚いて目を見開く。

 『まつろわぬ神』は単独で自然災害に等しい災厄の化身となる。それを封じるというのは俄には信じ難い。台風を人力で捕まえるようなものであろう。

「今の僕らからすれば机上の空論ですが、当時の呪術師はどういうわけか実現してしまったのですよ」

「ということは、その『まつろわぬ神』を復活させようとしていたわけね、あの神祖は」

「おそらくは」

 馨は神妙な顔で頷いた。

 『まつろわぬ神』の出現となれば、カンピオーネに出張ってもらうしかない。

 日本に定住している護堂にそのお鉢が回ってくる可能性は非常に高い。

「それに、あの神祖が単独犯ではないということもはっきりしました」

「聞いていたのと手口が違うわね。警備の人は殺されていないし、わたしたちが出て行かなければ破壊もされなかったでしょう」

「ええ。となれば、今までの乱暴な物取りをしていたのは、別の誰かということです」

 その場を重い沈黙が支配した。

 強大な呪物を奪われるというだけでも、問題はあまりにも大きいのに、それに加えて強大な『まつろわぬ神』を呼び出されてしまえば、極めて甚大な被害が発生することが予想される。

 それがいつになるのか、まだ分からないが、近い将来、『まつろわぬ神』とカンピオーネが日本のどこかで激突するのが確定してしまったのである。

 

 

 

 □

 

 

 

 エチミアジン大聖堂の修復作業は、国を挙げて推し進められている。

 歴史遺産としての価値は計り知れないものがあり、失われてしまったのは心苦しいものがあるが、それでも宗教的な価値は未だ高く、ルシファーの大事件があって、その価値はむしろ高騰していた。

「しかし、石で建物を建てるってのは、正直に言って奇妙奇天烈な発想としか思えないわ。曲がらないし釘も打てないのによくやるわよね」

 キズナは、群集に混じって修復途中の大聖堂を眺めていた。外見は当時のままで再現するというが、残念ながら鉄筋コンクリート製にするとのことである。さすがに、石造りでは何年かかるか分からない。現実的な判断であろう。

「姉さまの暮らしていた日本では、木製が基本でしたね」

「そう。だから、やっぱり珍しいことは珍しいのよ。まあ、ビルとかはコンクリだけど」

 アンナが背伸びをするように工事の進捗具合を見定めている。

 彼女はこの国の呪術結社《アルメニア修道会》の長となるべき人間だ。まだ子どもながら、先のことをよく考えている。大聖堂が復活すれば、そこが彼女たちの活動拠点となるのである。

「そうなったら地下生活ともおさらばかしら?」

「たぶん、そうなるかと。でも、シェルターとしては残りますけど」

「この規模の建物を呪術で保護するとなると、相当大変ね」

「頑張ります」

 フンス、と黒髪の少女は鼻息を荒げる。

 そのとき、アンナのスマートフォンが震えた。組織の幹部からの呼び出しであった。

「姉さま。わたし、お仕事が入ったので」

「ええ、頑張って」

「はい。行って参ります」

 ペコリと頭を下げてアンナは観光客を掻き分けて走り去っていった。

 元気のよい少女ではあるが、魔女としての才覚もある。後々は大成するであろう。大騎士クラスは確実。もしかしたら、その先の聖騎士にまで到達しうる器ではないだろうか。

「む……」

 キズナはふと、奇妙な悪寒に襲われた。

 自分のパーソナルスペースに土足で踏み込まれたような不快感である。所謂虫の知らせというもので、こういったときは大抵よくないことが起こる。

 キズナは早足で修道会の管理するホテルに向かう。最近になって、キズナと龍巳が利用しているホテルで、二人は三十階建てのホテルの最上階を貸切にしている。五分ほどでホテルに着き、エレベータに乗り込む。最上階はまるまるワンフロアとなっていて、エレベータはキズナたちの部屋に直通している。

 キズナはエレベータのドアが開くと、まろび出て、廊下の先にあるリビングルームに向かった。

 ドアを乱暴に開き、叫ぶ。

「龍巳、なんかやな感じがするんだけど!」

 龍巳はテーブルに腰掛けていた。問題だったのはその隣に金髪の少女が腰掛けており、妙になれなれしく龍巳に話しかけていることであった。

「ねえねえ、龍巳君。だから、うちの娘のどこがいいんだって話でね」

 キズナはその姿を視認すると同時に、両足を呪術で強化し、床を蹴り、跳んだ。

「どりゃああああああああああああああああああ!!」

 両足そろえたドロップキックは、天井近くにまで飛び上がった勢いが加算され、隕石もかくやという勢いで侵入者の胸に突き立った。

「ぶるあああああああああああああああああああ!!」

 椅子ごと、それは跳ね飛んだ。空中で三回転して、頭から床に落ち、さらに転がって壁に激突した。

「お、おい。……キズナ、いきなり何してるんだ!?」

 立ち上がった龍巳が、飛び込んできたキズナに詰問した。

「害虫駆除」

「い、や。お前の母君だというじゃないか。そんな風にして……」

「まったくだわ。あと龍巳君せめて駆け寄って安否確認くらいして欲しかったんですがそれは」

 すっくと立ち上がった葛の葉が、肩をぐるぐると回している。

「あ、いや。申し訳ありません」

「うむ、素直でよろしい」

 合格、と葛の葉、つま先立ちになって龍巳の頭を撫でた。

「ええい、何を馴れ馴れしく触ってるんだ、おのれは!」

 キズナが二人の間に割って入り、葛の葉を押し退けた。

「龍巳、なんでこの狐がここにいる!?」

 キズナは葛の葉を指差して、龍巳に食って掛かった。しかし、龍巳もまた葛の葉に一方的に絡まれていただけで、詳しい用件まではまだ聞いていない。突然現れたキズナの母親を名乗る神祖に困惑することしかできなかったからである。

「まあ、はるばる娘に会いに来た母親をそう無碍にすることもないじゃないの。ねえ、龍巳君」

「はあ……」

 椅子に腰掛けた葛の葉が、龍巳のほうに身を乗り出す。

 キズナはその葛の葉を警戒心も露にして睨みつけつつ、龍巳の隣に座った。龍巳を挟んでキズナと葛の葉が対峙する。

「わたしに会いに来たのに、なんで龍巳に絡んでるんだ?」

「そりゃ、うちの義理の息子になるかもしれないんだから、ご挨拶は必要でしょーが」

「義理の息子って」

 キズナの頬に朱が差した。確かに、正式に籍を入れればそのような関係になるだろう。もちろん、それは月沢の家での両親も同じであるが、あちらはすでに鬼籍に入っている。となれば、龍巳を息子と呼ぶのは葛の葉しかいない。

「龍巳君、ごめんなさいね。うちの娘がいろいろと迷惑かけて」

「いえ、まあ、楽しくやってますので」

 龍巳はそう言って笑う。

 迷惑をかけられているというのは、強ち間違いでもないのだが、それも含めて楽しんでいる自分がいる。キズナがいなければ、このように現代に生きることはなかっただろうし、文句を言うことなど何一つない。

 そんな龍巳の様子を見て、頷いた葛の葉は、なにやら思案した後で尋ねた。

「ちなみに龍巳君。あなた、親子丼をどう思う?」

「は? 親子丼ですか?」

「そう、親子丼。今夜のお夜食にでも……」

「口を閉じろよ、この歩くセクハラ神祖!」

 キズナが椅子を跳ね飛ばさん勢いで立ち上がって、葛の葉にラリアットをかました。

 だが、そのラリアットは、葛の葉には通じなかった。素早く頭を伏せた葛の葉の頭上を、キズナの腕は通り抜けていく。

「く……」

「あらあら、顔を紅くしちゃって、嫌だわこの娘ったら何を想像したんですかねぇ」

「だ、黙れッ」

 キズナは拳を握り締めて葛の葉の顔面を目掛けて殴りつける。それを葛の葉、結界を張って弾いた。

「龍巳君。親子丼だったら、メインは肉と卵のどっちだと思う?」

 ひょいひょいとキズナの攻撃を避けながら、葛の葉は尋ねた。キズナは完全に玩ばれている。素の身体能力は、葛の葉のほうが上なのだ。

「まあ、それだったら肉のほうですよね」 

 歯応えなども加味して肉と答える龍巳に、葛の葉は勝利の笑みを浮かべる。

「だって、聞いた晴明。メインは(おや)のほうだって!」

「その気色悪い笑いを息の根ごと止めてやる!」

「ふふん、歯応えもなければ味気もない卵如きに掴まるうちじゃないよー」

 軽くキズナの突撃をいなす葛の葉についにキズナは転移まで駆使してその身体を抱きかかえた。

「うお、転移って、そんな高等呪術を!?」

「侮ったな葛の葉ァ!」

 背後からがっしりとホールドしたキズナは、呪力で四肢を強化して、一気に葛の葉を持ち上げた。そして、そのまま背中を逸らすようにして、ジャーマンスープレックスを叩き込んだ。

 衝撃的な音が室内に響き渡る。フローリングの床に、葛の葉は頭から叩き落されたのだ。悲鳴を上げることもなく、葛の葉は脱力し、キズナはブリッジに近い姿勢で静止する。

「侮ったのは、そっちだ、晴明!」

 しかし、葛の葉は負けていなかった。

 神祖がこの程度の衝撃でどうにかなるはずがない。そうは見えずとも、その身体はこの世の法則の埒外にあり、よほどのことがなければ傷一つ付かないのだから。高位の呪術や権能ならばまだしも、ただのプロレス技など擦り傷にもならない。

 葛の葉は股を開き、キズナの頭を挟み込んで締め上げたのである。

「あだだだだだッ」

「ハハハ、派手なだけの投げ技など花拳繍腿! サブミッションこそ王者の技よ!」

 あからさまに呪力で筋力を増強している葛の葉が、自らの身体を万力としてキズナを締め上げる。キズナは葛の葉の拘束から逃れようともがき、足をバタつかせた。

「ふふん、神祖の中でも特に寝技に精通したこの葛の葉を相手にした不運を呪いなさいな。神祖界のミサワとは、それ即ちうちのことだ」

 しばらくして、キズナの腕がぱたりと床に落ちて、勝敗は決したのであった。

 一連の勝負を龍巳が止めなかったのは、それが単なる親子の戯れだったからだ。その証拠にキズナは身体能力を強化するくらいで、本気になって戦うことはなかったし相手の葛の葉もプロレス技をかけるだけだった。二人が本気になれば、まず間違いなくキズナが勝つし、そのときにはビルが跡形もなく消し飛んでいる。

 それから、およそ二時間ほどの時間が過ぎただろうか。

 日は没し、地上には夜の帳が降りている。

 龍巳に一言言ってから、葛の葉とキズナは外に出た。

 葛の葉が、キズナと二人で話したがったからである。

 この日は星がよく見える夜だった。風には異国ながら秋の気配が混じり、人気のなくなったエチミアジン大聖堂の工事現場は、そこだけ人の世から切り出されたかのような異世界感を醸し出していた。

「この前の忠告なら、もういいわよ?」

 キズナは眉根を寄せて言った。

 最強の《鋼》が蘇ったら、迷わずに逃げろ。幽界ならば、地上の理は通じない。カンピオーネでも隠棲すれば、戦いの運命からは逃れられる。そのような類の忠告は、当然キズナが受け容れるものではなかった。

「まあ、それもそうなんだけど。あなた、今年一杯はアルメニアにいなさい」

「はあ?」

「だから、日本に帰ってくるなっての」

 ピシ、と指を突きつけて、葛の葉は言った。

「どういうこと? 日本にアイツが眠っているのは知っているけど、それとは別?」

「別」

「ふうん……」

 キズナは葛の葉を値踏みするような視線で眺めた。

「それは、この前盗み出した経典に関わることね?」

 そして、一気に本題を切り出した。

 尋ねられた葛の葉は驚いたような表情をして、キズナを見る。

「なるほど、あのイケメンは、やっぱりあんたの知り合いか」

「あれ、ああ見えて女の子だから」

「マジで!? ぶっちゃけアリなんだけど、うち目覚めそうッ!?」

「お前の頭は年中ピンク色か!」

 どこまで真面目なのか分からない葛の葉にキズナは怒鳴った。

「ま、それも込みってことで。うち等の目的、あんたならもう分かってるんでしょ?」

 キズナは頷いた。

 盗まれた経典の封印は、彼女がかつて委託された行ったものだ。その来歴も、すべて頭に入っている。封印が解かれれば、日本は少なからず混乱するだろう。もしくは、さらに最悪の事態に発展するかもしれない。

「あんたは、日本を亡ぼすつもり?」

 険しい瞳で葛の葉を見る。

 比喩ではない。文字通り、あの神が蘇れば、そのような事態になる可能性は十分にある。

 前回は鎌倉時代の末期だった。

 あの神格が降臨したとき、ただでさえ混乱しつつあった政治は崩壊した。しかし、幕府が亡びるのみならず、朝廷が二つに割れるとは誰が想像できただろうか。

 乱の下地はあったが、あの大天狗の権能が当時の人々の意識を後押ししたことも大きかった。

「あの大天狗を封印したのは、安倍有世。晴明が育てたしーちゃんの子孫が、うまいことやったみたいだけど、それもここまでね」

「何が目的?」

 キズナが端的に聞く。嘘偽りは許さないと、強い口調で迫る。葛の葉は、特に警戒する様子もなく、淡々と答えるだけだった。

「別に何も」

「何もって」

「強いて言うなら、あの大天狗が復活することがうちの望み。あれなら、きっとすべてを無に帰してくれる」

 その顔には、それまでの能天気な表情など何もなかった。深い錆にも似た憂いの表情であった。

「晴明。あんたは、やり直したいと思ったことはある?」

「はあ?」

 キズナは首をかしげた。

 やり直したいと思ったことと問われても、ピンと来なかったからだ。それは、キズナの性格もあるのだろう。カンピオーネは常に未来志向で生きている。過去に囚われることは、ほとんどないのだ。

「晴明とうちの最大の違いがそこかー。まあ、神祖なんて生き物は、過去に縋るしかない弱者だよ。グィネヴィア然りしーちゃん然りね。でも、大切な人がいる晴明にだって分かるはずなんだけどね」

「だから、何よ」

「もしも、転生した先に龍巳君がいなかったら、晴明はどうする?」

「え……?」

 キズナは答えられなかった。

 想像もしたことがなかったからだ。龍巳が傍にいるのは当たり前のことで、権能で縛っているのだから転生先にも一緒に生まれてくる。どこにいるかも、繋がっているのだから分かる。だから、その繋がりが絶たれたときのことなど、分かりっこなかった。

「だから、今の晴明には分からない。この行き場のない憤りと苛立ちは。無意味と分かっていても、どこかに八つ当たりするしかないうちの気持ちは、幸運に恵まれたあなたには理解できないでしょ」

 そう言って、葛の葉は泣き出しそうな笑みを浮かべて地を蹴った。

「あなたとうちはよく似てる。直接会って、よく分かったわ。だから、絶対に日本に来ちゃダメよ晴明。あれと相対したら、あなたはきっとうちと同じになってしまうからね」

 そう言い残して、葛の葉は宙に溶けるように消えていった。

 キズナは、何も言い返すことができず、追いかけることもできなかった。もとより、逃げに徹した神祖を追うのは、『まつろわぬ神』であっても難しい。

 葛の葉が日本で起こそうとしていることは分かった。その目的が本人の言葉を信じるならば八つ当たりであることも。だが、なぜそのようなことをするのか、いまいち掴めない晴明は、頭を悩ませながら龍巳の下に帰っていくのであった。




次は一月の終わりになりそうです。

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