「その傷じゃあ、しばらく弓を引くこともできないじゃないの。何してんのよ、あんたは」
娘の下から帰ってきた葛の葉が見たのは、一応の同盟関係になる《鋼》が負傷した姿であった。左腕の肘から先を失っており、特異の弓が使えないという状況に陥っていた。
「弓の引けないあんたなんて、うちでも倒せるわ」
「図に乗るなと言ったはずだぞ、狐」
「図に乗ってんのはそっちでしょうが。経典の確保に失敗した挙句、羅刹の君にこてんぱんなんて、あんたのゴシュジンサマになんて説明するつもりかしら」
《鋼》は忌々しそうに顔を歪めたが、それ以降黙り込んだ。
自分の失敗は、正しく理解しているのである。
羅刹の君。カンピオーネと現代では呼ぶ神殺し達。その中でも最も若い草薙護堂に守られた四国の経典を奪取しに行ったはいいが、激闘の末に撤退せざるを得ないほどの怪我を負ってしまったのである。情報は事前に仕入れていたし、敵はこちらの正体を知らない状況での戦いだった。少なくとも情報戦では《鋼》にこそ優位性はあったのである。
神としての能力が極端に制限されている今の《鋼》では、やはりカンピオーネと戦うのは不可能である。
葛の葉は内心でほくそ笑みつつ、その場を辞した。
彼との対立は当初からあったので、今更励ましたりはしない。
「まったく面倒なことをしてくれたわね」
とはいえ、万事問題なしとはとても言えない。正史編纂委員会がこちらの目的に気付いてしまった。秘密裏に動くという方針に変わりはない。しかしその意味合いが大きく変容した。
今までは、正体不明目的不明であったために、先手を取り続けることができた。そのために、目的物を軽々と奪取できたのであるが、こちらの目的と正体が半ば掴まれた以上、これからは、相手の目を掻い潜っての活動となる。敵はこちらに先手を討てる立場になった。どうしても、受身にならざるを得ない。
カンピオーネがいる時点で、大人しく撤退すればいいものを。脳みそが筋肉でできている馬鹿は、こういったところで使えない。
最後の経典は、東京に移送され、さらに厳重な封印処理が施された。カンピオーネがすぐに出動できるのは、こちらにとっては痛手となる。
「まあ、問題としては大したこともないか」
相手がキズナであれば、かなりの苦労が予想されるが、草薙護堂であれば出し抜く手はいくらでもある。呪術が使えない彼では、呪術的な防護処置もできなければ、呪術トラップも仕掛けられない。結局人間レベルの結界で守るのが関の山である。となれば、草薙護堂が何処かへ出向いている間に、掠め取ってしまえばいい。呪詛の爆弾である経典を持ち歩くような真似はしないだろう。女神アテナのゴルゴネイオンと存在するだけで他者を害する経典とでは呪物としての危険性が次元違いなのだ。
「草薙護堂がどこまで、あの経典を重視しているかね。いざとなれば、東京から出ざるを得ない状況を作ればいいわけだし、しばらくは下準備に時間を割かないとダメか」
脳裏で策を練りながら、葛の葉は薄暗い廊下を歩く。
誘導灯の淡い光が妖しく人影を投射する。
カンピオーネの動向の調査や経典の警備状況の確認に、一、二ヶ月は見積もっておくべきではないだろうか。力づくで奪ったとしても、儀式を妨害されては元も子もない。経典を奪い取ったら、そのまま行方をくらませるだけの余裕と作らないと後々まずい。それは神祖と不完全な従属神だけでは、なかなか達成できない難度である。
様子見に徹し、正史編纂委員会を注視していくことにしよう。葛の葉は今後の方針をそのように定めて、《鋼》に使い魔を送った。
□
雨がぱらつく日曜日の午後。キズナはとある施設のサンルームにいた。《アルメニア修道会》所管の植物園の一部である。一般に開放されている部分から少し外れると、呪術的な意味を持つ薬草を栽培する施設が顔を覗かせる。
傍目から見れば、普通に植物が植えられているサンルームでしかない。とはいえ、そこにあるのは毒草で、しかも南国の熱帯にあるような多彩な植物が所狭しと枝葉を伸ばす、中々にカオスな空間である。
キズナがいるのは、そんな広いサンルームの中心だった。
白い円形のテーブルに載せられた紅茶が薄らと湯気を立てている。
「せっかく気を利かせて風情のある場所を選んだというのに、相変わらず渋い顔をしているのね」
キズナは、呆れたようなため息をつき、紅茶を口に含んだ。ほろ苦さの中に仄かな香りが内包され、絶妙な味わいを醸し出す。
目の前に座る褐色の男は、キズナの徴発めいた発言には眉一つ動かさずに腕を組む。
「風情か。貴様が毒草に囲まれた環境を風情があるなどと思っているのだとしたら、情操教育からやり直したほうが懸命かもしれんな」
アレクサンドル・ガスコインは出された紅茶に口を付けるそぶりも見せず、ただキズナと向き合っている。この会合。珍しく、アレクサンドルが尋ねてきたことで実現したものである。
「減らず口を。女性の接待を渋い顔で受ける男なんて紳士の風上にも置けないわ。プリンセスもさぞお嘆きでしょうに」
「心にもないことを言うな。貴様のそれは空々しいにも程がある」
「口汚いのはほんとにどうかと思うよ?」
アレクサンドルの言い草にキズナは僅かに眉根を寄せる。
とはいえ、数少ない情報を共有できる相手だ。お互いに目的のためならば手段を選ばない魔人ではあるが、同時に目的のために手段を構築していく合理性を有している人物でもある。ここで、無駄な口論をするよりも、建設的な話し合いをするのがいいと、互いに理解していた。
「単刀直入に、何の用?」
「何、貴様の情報のおかげで例の《鋼》の正体がほぼ絞り込めたのでな。一つ、情報を提供してやろうかと思ってな」
「ソイツの名前なら、わたしもほぼ確定的ってのがあるけどね」
「ほう……まあ、いい。それはこちらも織り込み済みだ」
「?」
織り込み済みということは、最強の《鋼》についての情報提供ではないということであろうか。
「じゃあ、何の情報提供よ」
「グィネヴィアについてだ。貴様も奴に絡まれていただろう? 何より、あの《鋼》を蘇らせようとしているという点で、貴様の敵のはずだ」
「なるほど、それか」
神祖グィネヴィアは、古くから最強の《鋼》を追い求めてきた魔女王である。死ねば前世の記憶を失うという神祖ではあるが、その根本の想いは消えないのか、転生後も最強の《鋼》を蘇らせようと策謀をめぐらせている困った人物である。
カンピオーネを抹殺する最強の《鋼》は、キズナにとって災厄の塊である。当然ながら、これを蘇らせようとしているグィネヴィアは討伐対象である。
「アイツの動向はこっちでも探っているのだけど、隠れられると厄介でね」
「だろうな。神祖というのは、逃げ隠れに関しては神がかっている。こちらから追いかけたところで捕らえられるものではない」
「さすが、長年苦慮しているだけのことはあるわね」
アレクサンドルとグィネヴィアは出会った当初から敵対関係であり、そのまま四年の月日が過ぎている。グィネヴィアは本物の聖杯を保持しており、アレクサンドルは聖杯の探求者であるから、この二人は度々激突している。
アレクサンドルはグィネヴィアを苦しめているものの、決定的な一撃を与えるには至っておらず、アレクサンドル陣営には少数とはいえ死者まで出ている。抗争に死傷者は付き物だが、アレクサンドルは部下を大切にするカンピオーネでもある。自分の陣営から犠牲者が出ている時点で、グィネヴィアに対する敵愾心は極めて高い。
「それで、グィネヴィアの情報というのは?」
キズナが尋ねると、アレクサンドルは深呼吸してから答えた。
「どうやら、奴も貴様の故郷に目を付けたらしい」
「日本に?」
「ああ。斉天大聖とかいう猿の一件に、奴が関わっているのは確実だ。その辺りから、連中が血眼になって探している《鋼》が日本に眠っている可能性を考慮し始めたらしいな。今、グィネヴィアは日本を中心に活動しているようだ」
そう、とキズナは思案げな顔をする。
斉天大聖。またの名を孫悟空。日本においても極めて知名度の高い『西遊記』の主人公。『まつろわぬ神』としては、中国北方の遊牧民の伝承をベースに、様々な民話を習合させて誕生した《鋼》の神格であるが、実は数百年もの長きに渡って日光の結界に封印されていた。《鋼》の神格を利用して、日本にやってきた《蛇》の神格を打倒し、以て眠りに就いている最強の《鋼》を刺激しないようにするという破天荒な発想によるものである。
古今東西の呪術史をひっくり返しても、『まつろわぬ神』を捕らえて使役するなどという常識はずれな計画を実現してのは日本くらいのものであろう。もちろん、そこには御老公という人間を超越した者たちが背後にいるから実現した奇跡であり、再現性は皆無に等しい。
「ところで、アレク。あなたのポケットに入っているそれは?」
キズナの目の色が変化する。
アレクサンドルのポケットから、神気を感じ取ったのである。
「向こうのカンピオーネから、少々拝借しただけだ。グィネヴィアを仕留めるのに、都合よく利用できる物品だからな」
「へえ。ま、何となく何に使うのか分かるけどさ。あまり、あそこで騒ぎは起こさないでよ」
「放置すればさらに大きな騒ぎになるだろう。それに、俺の策ならば日本本土にダメージは与えん。どこかの誰かが邪魔をしなければの話だがな」
アレクサンドルは、遠い視線を東に向ける。
キズナではない誰かを指して、毒づいたのである。
「グィネヴィアとの戦いに決着を付ける腹積もりなのね」
「そろそろ奴との追いかけっこも飽きてきた頃だからな」
「そう。まあ、成功を祈っているわ。あなたがグィネヴィアを仕留めてくれるのなら、わたしにとっても都合がいいしね」
□
相変わらず神出鬼没な男だ、とキズナは目の前のティーカップを眺めて思う。
アレクサンドルは用件を済ませるとさっさと雷光に変身してこの場から消え去った。残されたのは、未使用のティーカップが一つだけ。口も付けないで帰るのは、失礼ではないかと思いつつ、キズナは自分のティーカップを空にして、立ち上がる。
片付けは組織の人間が行う。キズナが気にかけることではないので、サンルームの外に出る。
「グィネヴィアは、やっぱり日本で活動しているみたいね」
待っていた龍巳と合流して、アレクサンドルとの対話から得た情報を伝える。
「ランスロットと草薙護堂との戦い以降、日本国内に潜んでいるということか」
「みたいね。どこにいるのか分かれば、攻めやすい。彼女がこれまで生き永らえてこられたのは本拠地が分からなかったからなんだからね」
「行くのか、日本に?」
「もちろん。アレクの策も気になるしね」
馨からランスロットが日本で大暴れし、アテナが消滅したということは聞いていた。しかし、それと同時にアレクサンドルも行動しており、グィネヴィアの思惑を打ち砕くために、罠を張り巡らせている。
「アレクが持っているのは国産みの神具。何をするのか、予想は付くけど確実に成功するという保証はないし、わたしも直に見てみたい」
加えて、日本には今、別の勢力が蠢動している。グィネヴィアも危険だが、そちらもまずい。本来、日本を離れたキズナが気にすることではないのだが、実の母である葛の葉に日本に帰ってくるなとまで言われてしまったので、余計に気になってしまう。
そして何よりも、日本には草薙護堂がいる。
彼は、はっきり言って不確定要素である。アレクサンドルと志を同じくするはずはないし、自国の利益やこれから先の展開を利するという合理的発想は持たず、本質的に我を貫く典型的カンピオーネである。
正史編纂委員会との繋がりを保持しているために、護堂の情報がある程度入ってくる。その情報から判断すると、あの男はスロースターターなだけで、行動力自体はかなりのものだ。もちろん、長期的な計画に沿って行動するタイプではないし、他者を政治的に利用するような策謀もしない。よって、アレクサンドルの話に乗るということはまずなく、むしろ自分のテリトリーを侵害されたと憤慨し、アレクサンドルと敵対する可能性もある。というよりも、むしろそちらのほうが可能性としては高い。
アレクサンドルの計画が、自分にも利すると判断したキズナにとっては、彼の計画が頓挫するのは面白くない。
「グィネヴィアは確実に始末したい相手だしね」
「キズナが手を出す必要はないと思うが?」
「もちろん、様子見に徹するわよ。権能が手に入るわけでもないし、他人が敵を倒してくれるのなら、これほどおいしい話はないでしょ」
それでも、キズナが日本へ向かうのは、おいしい話が覆される可能性を否定できないからである。万が一にも、最強の《鋼》に到達されてしまうわけにはいかない。アレクサンドルに任せるにしても、グィネヴィアの行動のすべてを予想できるわけではないのだから、想定外は発生し得る。
かくして、キズナと龍巳は日本に向かう。
アレクサンドルの策がグィネヴィアとランスロットを始末してくれるのかどうかを確認するための旅であり、失敗した際に、自分が彼らに止めを刺すための旅でもあった。
卒論終わったー!