極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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五十七話

 正史編纂委員会は上から下への大騒ぎとなっていた。

 『まつろわぬ神』の出現の気配があるというだけでも、その場は騒然となるのだが、今回は今までのものとは騒ぎの質が異なっていた。

 封印されている大魔王あるいは大怨霊、大天狗などとも呼称される『まつろわぬ神』は、千年も昔から恐れられてきたのである。

 現れるであろう神格の性質、そして歴史が、多くの呪術師に危機感を抱かせている。

 

 

 甘粕冬馬の車に乗って、護堂たち一行は高速道路を進んでいる。

 『まつろわぬ神』が封印されているのは京都市内で、東京から車で行くのはあまりにも時間がかかる。しかし、しかたがないのだ。新幹線は電線を切断されて不通となっている。何者か――――十中八九護堂の足止めを狙った神祖たちによる犯行であろう。

 冬馬の車は、時速一五〇キロ以上の速度で走っている。

 周囲を走る車はなく、サーキットのような状況になっている。

「高速道路の通行禁止措置なんて、かなり無茶したわね。甘粕さん」

 エリカが後ろから冬馬に声をかける。その声には若干の喜悦が混じっている。高速道路を完全に制圧したのが心地よいとでも思っているのだろうと護堂は思った。

「ええ、もうまったくです。一般の方々にどう説明を求めようかと、上は頭を悩ませているみたいですよ。まあ、私には関わりありませんがね」

「対応するのは馨さんなのでしょうから、それは任せて問題ないはずね。世の中はかなり混乱するはずでしょうけど」

「事態が事態ですからね。あの神様が蘇られた日には、おそらく高速道路の通行禁止なんて笑って流せるくらいの大騒動になりますよ」

「そこまでなんですか!?」

 護堂がそこで驚いて尋ねた。

「ええ、そりゃそうです。何せ実績がありますからね。あのお方は、一度この国をひっくり返しかけましたから」

「その話、少し聞き齧っただけだけだからいまいち実感が湧かないんだが、どのような騒ぎだったんだ?」

 リリアナが後ろから身を乗り出して尋ねた。

 蘇る神格の名は、すでに知っている。その背景も、学んだ。とはいえ、『まつろわぬ神』としてどのような災害を引き起こしたのかという点は、秘匿されてなかなか知る機会がなかった。正史編纂委員会の中でも最重要の情報とされ、皆、口が重かったのである。

「南北朝って御存知ですか?」

「ああ、それくらいは」

「あの乱の原因が、あのお方なんですよ」

「は?」

 リリアナは間抜けな声を出す。

 エリカは眉根を寄せ、祐理は目を見開く。

「この国の皇統を二分した大乱だったはずだが、なぜ?」

「皇統を二分したところにポイントがありますけどね。まあ、あのお方の神格も詳しくは分かっていないというか、現代に至るまでに脚色も多くて困るところですが。はっきりしているのは、この国を恨んでいるという点です」

「怨霊だから、そうなるだろう。そのように語り継がれた神格だからな」

「そうです。そして、古代から近世に至るまで、この国とは半ば天皇を意味するほど、皇族の血は重かったのです。後の戦国時代に、京が焼かれてしまったため、当時の詳しい状況は分からなくなってしまいましたが、王や天皇、皇帝といった支配者に対して作用する権能だったのではないかとされています」

「支配者に対して、作用するか。確かに、それなら国家を転覆させるというのも分かる」

 リリアナは深刻な表情で浮かしていた腰を落ち着かせた。

 支配者に権能が作用するというのは、国、あるいは地域にとって好ましくない事態となるのは言うまでもない。

「とにかく、その正体をはっきりさせないことには『剣』も作れないわね」

「ああ、名は分かっても、来歴を確定させるには至らないか。難しい相手だな」

 護堂の切り札である『戦士』の化身を使用するには、対象となる神格を深く知る必要がある。そして、『戦士』の化身が生み出す『剣』は対象となる神格しか斬れない。そのため、複数の神格が習合した神々には対処される可能性もある。

 アテナがメドゥサの神力で『戦士』の化身を凌いだように、複数の神が習合した神格を斬るのは難しい。

 封印されている神格の名は分かっても、『まつろわぬ神』としての本質が『怨霊神』なのか『大天狗』なのか、それとも別の何かなのかで大きく違う。そしてその本質もかつての戦乱で情報が失われてしまったために、はっきりと特定できておらず、ただ名前のみを頼りにしても、『教授』の術が無駄になる可能性が否定できない。

「まあ、今回は祐理の活躍に期待するしかないわけね」

「は、はい。頑張ります」

 外国人であるエリカやリリアナは、日本の物語に対応できない。魔女であるリリアナは啓示を授かる可能性も零ではないが、エリカにはその可能性からしてない。彼女は今回、護堂や祐理の護衛に努めるべきと自分の立ち位置を定めている。

 祐理ならば、相手の神格の本質を見抜くことができる。

 今まで、彼女の霊視に救われたことは数知れず、草薙護堂の戦略を支える重要なパートナーである。

「まだ、あのお方が復活されたわけではないのですから……」

「甘粕さん、今日はやけに弱気ね」

「しかたありませんって。この国の呪術師にあのお方を恐れていない人間はいませんよ。他の『まつろわぬ神』なら人間に積極的に危害を加えることはないかもしれませんが、怨霊は人を害するからこその怨霊です」

「そうみたいね。わたしたちで言うところのデーモン……何か違うわね。祟り、神罰というには神聖さが足りないような気もするし、呪いというのも少し違うような気もするわね」

「まあ西洋では悪魔のような人間はいても人間が悪魔になることはないですからね。基本的に悪人を信仰対象にはしませんし、捉え方の違いでしょうか」

 超自然的な悪意は基本的に悪魔の仕業とされる西洋では、それは討伐対象になっても信仰対象にはならない。悪魔を鎮めるために、悪魔のための教会を建てて祈りを捧げるなど、ありえない。サタニストのレッテルを貼られてしまう。もちろん、それはあくまでも基本だが、日本の超常現象に対する考え方は西洋のそれとはまったく異なっている。

「その大怨霊が、今京都に眠っているというのは、俄には信じられないのだが」

 リリアナが改めて言った。 

 『まつろわぬ神』は通り過ぎるのを待つか、カンピオーネに討伐してもらうかのどちらかしか対処法がない。しかし、日本は斉天大聖を封印した挙句に《鋼》の軍神として《蛇》の女神を討伐するのに利用するなど信じられないことをしている。その背後に御老公なる組織があるのはエリカが掴んだトクダネだが、大怨霊もそんな日本の驚きの技術が用いられているのであろうか。

「詳しくは秘密、というか分からないんですよね。繰り返しますけど、応仁の乱以降の戦乱は京都を焼き払ってしまいましたからね。安倍有世がどんな神技を使ったのか、今となっては想像することしかできません」

 大怨霊を封印したのは、安倍晴明十四代目の子孫とされる有世である。大陰陽師と称すに相応しい事跡を持ち、時の権力者であった足利義満から篤く保護された。そんな人物であるが、大怨霊を封印したいきさつや方法などは亡失して伝わっていない。およそ半世紀に渡る南北朝を終わらせるのに、その原因となった大怨霊の封印は必要不可欠であったはずで、かなり大規模に計画が練られたのは間違いないのだが、断片すらも窺い知ることができないのが現代の状況である。

 そのため、大怨霊が封印されているという確固たる事実以外は分からず、また大怨霊の逸話は有名なために有効的な対策をすることができないままに恐怖のみが膨れ上がっている。

 目の前に具体化した恐怖があるのに対処できず、ただ眺めることしかできないのが日本の呪術師の現状であった。

「どこかで一回休憩して、それからノンストップで京都に乗り込みたいのですがどうですか?」

 冬馬の問いかけに護堂は頷いて答える。

 相手がヤバイ敵だというのは分かった。まだ復活していないというのなら、復活を止め、災厄を未然に防ぐのが最善である。

 それができるのは、やはりカンピオーネである自分だけである。

 護堂はそう思い、気を引き締めるのであった。

 

 

 

 □

 

 

 

 草薙護堂に先んじて、キズナと龍巳は京都市内に辿り着いていた。

 飛行能力を有するキズナは、公共交通機関、あるいは自家用車による移動を強いられる心配はない。彼女の移動を阻止するのであれば、実力行使によるしかなく、それも『まつろわぬ神』に匹敵する戦闘能力を持つものを送り付けなければならないという非現実的な対処法となる。よって、護堂のときのようにキズナの侵入を妨害しようという動きはこれまでに皆無であった。

 そうして悠々と空を飛んで京都市内にやってきたキズナは、あるホテルの一室に荷物を置いた。

 そこは、かつて自分が暮らしていた邸宅の跡地に立つホテルであった。

 土御門大路と町口小路――――現代の新町通が交差する位置であり、東側には京都御所がある。

 ホテルから御所を見下ろすというのは、またそれまでにない感覚がするものである。時の帝などなんとも思っていなかった彼女も、さすがに御所を見下ろしたことはなかった。なるほど、上からみるとこのようになっていたのかと、馬鹿みたいに感慨に耽った。

 封印の地は京都市内の白峰神宮の地下深く。儀式を行うには、本殿の直下を掘り進め、封印の要石を外さなければならないとされる。そのための防衛術式は何千層にも亘り、人間では到底到達することができない。キズナですら、それなりの時間をかけることとなる。相手が神祖であろうとも、それは同じはずであり、力任せに破壊するとなれば、爆発的な呪力の高まりですぐに感知できる。

 現在分かっている封印はそれだけで、さらにその先にも日の目を見ていない謎の封印術が幾重にも絡まっていると推測され、迂闊に手を出せば封印を破ってしまうかもしれないとの事情から詳しい調査もされないまま今に至る。

 その封印、興味がないわけではないが、やはり思い出の地が壊れるのは忍びない。自分の自宅跡と目と鼻の先にある白峰神宮から『まつろわぬ神』が現れたとなれば、当たり前のようにこのホテルや周辺一帯は消し飛びかねない。よその国ならしかたないで済ませることもあるが、ここだけは別である。

「怨霊神と戦うのは、これで二度目になるか」

 ベッドに腰掛けた龍巳がふと、そんなことを言った。

「そうだね。まあ、まだ戦うって決まったわけじゃないけど」

 キズナは淡く笑んで、鏡面台の椅子に腰掛ける。

 龍巳が言うのは、千年前の戦いのことである。

 帝釈天を打ち倒し、神殺しとなったキズナ――――晴明は数多の敵と激突してこれを退けていた。例えば、死者の軍勢を率いる泰山府君や夢と現を入れ替え、仮初の桃源郷を生み出した荘子、はたまた欲望渦巻く酒池肉林の地獄を具現した九尾の狐、雷と剣を駆使するタケミカヅチ、異国の戦車と神速が武器の韋駄天、そして播磨を中心に活動した法道上人など、どれも強敵ばかりで楽な戦いなど何一つなかったが、そうした『まつろわぬ神』の中に、怨霊神として顕現した敵もいた。

 御霊としての名は祟道天皇――――怨霊としては早良親王という名のほうが通りがいいか。

 京を大混乱に陥れた早良親王の祟りは、巡り巡って平安京を恐怖のどん底に叩き落した。この怨霊神と戦ったキズナは、怨霊神の厄介さを身を以て理解している。

 怨霊神は自然災害の化身であるが、特定の災害に縛られない。また呪詛や逸話などを権能に昇華することもあり、攻撃手段が多種多様で読めないのである。人間や国家を恨んでいるという性質上、一般人を積極的に害するなどの悪行も行うので、通り過ぎるのを祈って待つというのは悪手である。

「復活阻止が第一義だが、具体的にはどうする?」

「それが問題よね。あれが封印されているのは、確実に白峰神宮なんだけど、いつ、どうやって解くか、こっちには見えていない。草薙君は妨害を受けてるって言うから、京都には近づけたくないんだろうけど、果たして敵がどう出るか」

「後手に回らざるを得ない。でも、それだと」

「敵に先手を取られるってことは、復活の危険を高めるってことだからね。できれば、先に相手を捕捉したいところだけど、手掛かりもないんじゃどうにもならない」

 一応、京都中に式神と感知の結界を敷き詰めたが、結果はオケラであった。まだ、動き始めていないだけなのだろうが、それにしてもキズナが敵の目的地と目と鼻の先にまで来ているのになんのアクションもないのが不可解で仕方がない。

「葛の葉は分かる。けれど、噂に聞く《鋼》までがこうも静かだと、逆に不自然な気もするんだ」

 ここに来る前から胸の内に燻っていた違和感は未だに拭いきれず、警鐘とまではいかないまでも、言い知れぬ不安が心中には常に漂っていた。

 例えばジグソーパズルが完成しているにも拘らず、絵柄がばらばらである、というなそんな不自然さ。

 危険はすぐそこにある。しかし、その本質を見誤っているような、言葉にできない確信の念は刻一刻と強くなり、足音を立ててキズナの下に迫っている。

 追い求めるものは蜃気楼のように届かず、しかして違和感は影のように付きまとう。

「草薙君も夜には到着するはずだから、それまで監視を続けるしかないか?」

「そうね。カンピオーネが二人いるところで、どうやって儀式を行うのかってとこも気になるけど」

「諦めるかもしれないだろう。少なくとも、お前の母君は、猪突猛進というタイプではなかったはずだ」

「どうかな。グィネヴィアの例もあるからなんとも。アイツにそこまでの信念があるかどうかも怪しいもん」

 葛の葉がなぜ国家転覆の大魔縁を復活させようとしているのか。八つ当たりすることしかできないと言った彼女の顔には隠しきれない悲痛の叫びがあった。それでいて、すべてを諦めているような無念の表情でもあった。助けを求めているのではなく、ただ苛立ちと不快感に泣き叫ぶ子どものようであった。

 それはきっと信念ではない。

 しかし、それ以上に性質の悪いものだと思える。

 彼女の心は初めから折れているのである。だから、危険を理由に諦める必要もない。どうにでもなれと捨て鉢になった神祖の暴走は、それだけで脅威である。

 ――――転生した先に龍巳がいなかったらどうするのか。

 葛の葉の言葉がやけに頭にこびりついて離れない。

 ちらり、と龍巳を見ると、神具でもある横笛の葉二を取り出して眼鏡拭きで手入れをしている。神具なので、傷が付くこともない。千年前から変わらずに残っている笛であるが、龍巳は丁寧に扱っている。壊れるかどうかは問題ではない。プロとして、仕事道具を慈しむのは当たり前なのだという。

 昔から変わらない音楽への姿勢をキズナは微笑ましく思う。

 生まれ変わる前から、こうした龍巳の姿をキズナは追ってきたのである。それは、街並が変わり、見た目にもかつてを偲ばせるものを失ってしまった京の中にあって、郷愁の念を胸にもたらす仕草でもあった。

 

 そう、――――かつて、と、変わらない、どこか――――で、

 

「ぐ……」

 キズナを、唐突に眩暈が襲った。

 駆け巡る他所の記憶がキズナの脳内に襲い掛かる。視界は次々と移り変わる。桜が舞い、トンボが飛び、薄が風に靡いて雪が舞う。コンクリートなどという無粋な現代建築が生まれる以前の懐かしい京の景色が濁ったレンズを通してみているかのような不鮮明な映像で激しく入れ替わる。騒乱があり、太平があり、街並は燃えて、新たに生まれる。

 視界はまた切り替わる。

 京ではない別の場所。一軒の神社である。その神社には覚えがある。

 信太森葛葉稲荷神社。

 キズナとも深く関わる古い神社は、時代の流れに沿うように、人の手が加えられながらも、それでも神社としての立ち居振る舞いに変わるところはなく、コマ送りの景色の中で、堂々とその在り方と示し続けた。

「ッ」

 視界が戻る。気持ちの悪い浮遊感を喪失し、現実に戻ってきた。

 ほんの数秒のことであったが、葛の葉の居場所を探るには十分な成果であった。

「何か、視えたのか?」

 キズナの異変を察した龍巳が尋ねてくる。

 キズナはゆっくりと頷いた。

 自分の中で情報を整理して、納得のいく結論を導き、そして行動を決める。

「龍巳は、ここで神宮を監視して」

「ん?」

「わたし、ちょっと会いに行ってくる」

「…………」

 突然のキズナの言葉を龍巳はどう受け止めたのか。

 数秒、龍巳はキズナと視線を交わし、それからため息と共に頷いた。

「何かあったら、すぐに連絡を入れよう」

「ありがと」

 キズナはにこりと笑って椅子から立ち上がった。

 白峰神宮の周囲に動きはない。キズナが離れれば、動き出すかもしれないが、そのときはすぐに龍巳がキズナを呼び戻せばよい。

 護堂も夜には到着するだろう。

 こちらの戦力は着々と整いつつあるのであった。

 こうしてキズナは京都を後にする。飛行能力を駆使して、瞬く間に空を駆ける。距離としては、そう遠くない。大阪府の和泉市葛の葉町の市街地にある信太森葛葉稲荷神社に、かつての母がいると確信できていた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

「日本に来るなって言ったでしょ」

 鳥居の柱に触れて、物思いに耽っていた葛の葉は、キズナを振り返るなりそう言った。

 西の山並みに日が沈み、東の方から群青の帳が押し寄せてくる。昼と夜が入れ替わり、太陽がその役割を終えて赤い月光が、靄にも似た雲を明るく照らす。

 今宵は満月。

 異様に大きな月が、低い空で怪しく光る。

「わたしにはここに来る理由があった。そして、あなたに言われたからといって止める理由はない。そうでしょ」

「親不孝者め。母親の言うことは素直に聞いておくものでしょ。晴明」

「母親、ね――――」

 晴明には葛の葉の記憶はない。母親と聞いても、眉を顰めるばかりである。

「晴明。今からでも遅くはないわ。うちの忠告をきちんと聞いてちょうだい。あなたにつらい思いをさせたくないの」

「つらいも何も。だったら、はじめからアイツを蘇らせるなんてことをしなければいい。何を考えているのか分からないけど、それは見過ごせない。怨霊を放置するのは、先生の教えを受けた者としても捨て置くわけには行かない」

「そう。まったく、そんなところばかり父親に似なくてもいいでしょうに。それに、――――忠行殿、こればかりはほんと恨むわよ……」

 葛の葉は苦笑いを浮かべて、しかしそれでいて嬉しそうな顔をした。

「陰陽師か。安倍晴明の活躍、できればもっと近くで見ていたかったんだけどね」

「今からでも遅くないかもよ。葛の葉狐がお相手してくれるのならね」

 いつの間にか、キズナの手には呪符が握られていた。左右に四枚ずつで、計八枚。見て分かるほどに呪力が充填され、発動の時を今か今かと待っている。

「なるほどね。それも、面白いかもしれない」

 葛の葉は、腕を組んでキズナと向かい合う。

 キズナは安倍晴明。日本最高最強の陰陽師である。未だ嘗て、彼女ほど才能ある者は現れておらず、現代に至る日本呪術および日本呪術界の『官』の基礎を築き上げた偉人である。対する葛の葉は、古くは九尾に連なる『まつろわぬ神』が零落した神祖である。重ねた年月は二千年を越え、日本の呪術にも深く精通している。呪術師としての腕前ならば、まだ葛の葉が勝っている。しかし、カンピオーネであるキズナには単純な呪術攻撃は意味を成さない。結果として葛の葉の手札は限られることとなり、総合的に葛の葉は不利な状況に持ち込まれた。

「権能を使わなくとも、うちくらいはどうにかできるということかな。まったく、甘く見られたものだけど」

 もしかしたら、権能を使っては殺してしまうというキズナの良心なのかもしれない。

 キズナは甘い。身内に対しては特にそうだ。事ここに至って、葛の葉が敵だと割り切れていないのであろうか。我が侭なところがあって、人を振り回し、それでいて情に篤く、偽悪的で傷つきやすい。素直じゃないにもほどがある。

 葛の葉はまた笑う。

 キズナは、いぶかしんで葛の葉を観察する。

「晴明。あなたがここにいるのは、あれを蘇らせないため?」

「そう。あなたが儀式の中心人物なら、あなたをどうにかすれば未遂で済む」

「ふうん」

 葛の葉は、敵意に曝されても気のない返事をするだけである。

 金色の髪を梳き、髪先を見る様は、枝毛を探して一喜一憂する女子高生のようである。

「確かに、あの封印はかなり強固でうちとかあなたみたいな超天才じゃないと解呪は難しいわね。うん、その発想は正しい。現にうちが復活の儀式の中核な訳だしね」

「じゃあ、認めるわけね」

「今更否定しても意味ないし。それに、――――時間稼ぎは十分できたしね」

「え……」

 キズナは目を見開いて、葛の葉を見た。

「うちが中核だと見抜いたことは大いに結構。けれど、詰めが甘い。うちらがこの計画に何年費やしてきたと思ってるの? 封印の地がはっきりしてるんだから、そこがマークされるのは分かりきってるじゃない」

 葛の葉は淡く笑んだ。

 そして、大地が揺れた。

「く……!?」

 木々が揺れて枝が落ちる。どこかの家で窓ガラスが割れたらしい。悲鳴とともにガラスの砕ける音がした。瓦が落ちて乾いた音を立てて砕け散り、ブロック塀が倒れて割れる。

 そして、夜闇に沈んだ空を、おぞましい怨念の波が駆けていく。

「こ、れは……!?」

 キズナにはそれが何かはっきりと分かってしまった。

 強大な地脈の流れだ。京都に流れ込む膨大な自然の霊力が闇色に汚染されて暗雲を呼び込んでいる。

「うちがあの場にいる必要なんてなかった。封印をこじ開けるための力技を、どうにかして発動できればそれでいい。うちの仕事は、ただそのための術式を編み上げ、起動すること」

「バカな! あんな力が京に流れ込んだら、魔縁に関わりなく災厄が!?」

「そう、これで王手。京はもともと風水的に最も都合のいい土地を選んで造営したらしいわね。おかげで手が出しにくい天然の呪術要塞だったのだけど、それもひっくり返せば天然の地獄に早変わり。ふふふ、あそこは今、あらゆる不運が連鎖する魔都になったわ」

「くそ……!」

 キズナは踵を返して、空を飛ぼうとする。そのキズナを葛の葉が呼び止める。

「晴明。あなたはもう関わらないで!」

「何度も、同じことを」

「何度でも言うわ。あなたはうちと保名の娘。うちにとってはあの人を想う縁なんだからね。大事な娘を苦労させたくないわけ。だから、関わるな」

 語気を強めて、葛の葉は警告する。

 葛の葉の言葉には、隠しきれない真摯な思いがあった。キズナにもそれは読み取れる。本気になってキズナを心配しているのである。

「だったら、初めからやらなきゃいい。悪いけど、その意見は却下よ!」

 ダン、と力強くキズナは空に飛び出した。

「晴明!」

 葛の葉が後ろで呼んだ。けれど振り向かない。キズナはそのまま数百メートルも上昇し、そして怨念の流れる先を見る。

 京の都の上空に渦を巻く黒い雲。膨大な呪力の竜巻が京を襲っていた。

 この力、覚えがある。

「これ、五部大乗経の怨念……! あれを地脈に叩き込んだってことか!」

 京都を守る大結界は広大な五芒星の上に成り立っている。その力を支えるのは天然の地脈で、各基点となる霊地から呪力を流すことで歴史上類を見ない大結界を形成した。京都はほかにも複数の霊的要衝があるが、それらはこの大結界が突破されたあとの城壁として想定されたものである。今回の騒動では、それらごとひっくり返された(・・・・・・・・)のは間違いない。

 カンピオーネと対峙して、勝てる要素はほとんどない。ランスロットという強大な『まつろわぬ神』を従えていたグィネヴィアでさえも、一矢報いることもできずに消滅したのだ。葛の葉の手札はそれ以下でしかなく、キズナと護堂を相手にできるとは思えない。

 そのような状況で、葛の葉がやったのは極めて簡単な方法だった。

 王手をかけられた盤面を、そっくりそのままひっくり返した。

 キズナたちの視線は京都市内に向いていた。当然だ、葛の葉たちの目的となる怨霊神が封印されているのがそこなのだから。さらに護堂を足止めし、あたかも京都に近づけたくないという姿勢を取り続けた。そうして、キズナも護堂もまんまと京都に意識を取られてしまい、最後の仕上げを施す時間を葛の葉に与えてしまったわけだ。

 葛の葉が京都に行く必要はない。

 封印を解除する必要もない。

 極めて強引な方法ではあるが、封印の術式ごと粉々に砕いてしまえば、後は怨霊神のほうから勝手に出てくる。

 黒い怨念は、都合五分ほど激しく空を行き交い、徐々に力を失って消える。五部大乗経の怨念がどれほど強力なものでも、霊脈そのものを常に汚染し続けることはできない。限界を迎えたのであろう。しかし、それも十分であった。

 京に流れ込んだ黒い怨念を遙かに凌駕する漆黒の間欠泉が、火山の噴火のように吹き上がったのである。

 それはあたかも開戦を告げる狼煙のように、二人のカンピオーネの目にありありと焼き付けられた。

 

 

 


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