極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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五十九話

 ――――――――黒い太陽だ。

 

 葛の葉はそれを見て、率直にそう思った。

 日本史上最強最悪の大魔縁。怨霊神崇徳院の復活は、間違いなく地上に混乱をもたらすだろう。

 自らに死を強い、幸福な日常を破壊したこの世界に対する復讐は成し遂げられたのである。

 霊力に秀でた葛の葉の目には、今の京都の様子が正しく視えている。

 魑魅魍魎の類が集結しつつある。東西南北、とりわけ鬼門の方角から目に見えぬ弱小霊が雪崩を打って押し寄せている。京都の守護結界はしばらく機能しないだろう。鬼門の押さえである比叡山も地脈がこうも歪んでしまえば、立ち直るのに幾許かの時を要するに違いない。積年の恨み――――行き場のない憤りは、こうして果たされた。

 だというのに、何故だろう。

 胸は張り裂けそうに痛いのだ。

 一筋の涙が頬を濡らす。

 葛の葉は泣き笑い、時勢の移ろいをただ眺めていた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 天翔けるペガサスに跨り、キズナはジグザグな軌跡を描く。神速の世界は時間の流れが緩やかだ。時間が早く流れているだけで、速度が速いわけではない。そのため空気抵抗も遠心力も、通常の乗馬と大差ない。外部の動きはすべてが緩慢になり、時が止まっているかのような錯覚すらも覚える。

 しかし――――、

「あ、ぶなッ!」

 キズナは頭を低くして呟く。カクカクとしたコマ送り映像のように見える矢が、的確にキズナを襲っている。神速を射抜く神技の主は、源為朝。鎮西八郎為朝である。平安時代を代表する武将であり、その強さのために数多の伝説を生み出した怪物の中の怪物。伝承では、三尺五寸の太刀と五人張りの強弓で戦ったというが、従属神として本来の戦闘能力を取り戻した彼は本当に恐るべき武勇の持ち主である。

 弓を射るごとに、砲撃音のような音が響いているのである。

「弓神相手に流鏑馬か。笑えないっての!」

 キズナは帝釈天の虹弓を抱えて神速での流鏑馬に挑む。急降下しつつ、為朝の矢を躱し、引き絞った弦を解放する。

 一本の矢は、瞬時に分裂して散弾となって降り注ぐ。

 対して為朝は冷静に矢を番え、そしてその剛力で以て強烈な一撃を射放った。

 キズナの矢が散弾ならば、為朝の矢は砲弾だ。

 虹色の流星群を、ただの一矢が蹴散らして呪力を炸裂させる。

 京都の空に虹と赤の花が咲く。

「なんて奴。若造の分際でッ」

 キズナはペガサスを操り、高度な空中戦を演じる。空から地上への爆撃は、圧倒的にキズナを優位にする。しかし、それでも決定打には程遠い。やはり、至近から強力な物理攻撃を仕掛けるに越したことはない。とはいえ、近付けば当然のように為朝の矢が飛んでくる。正確無比かつ強力極まりない為朝の矢を潜り抜けて、物理攻撃を仕掛けるとなると骨が折れる。

 キズナの霊眼が神々の来歴を解き明かす。

 厄介なのはやはり怨霊神――――崇徳院だ。

 本人の怨霊としての力もさることながら、想像以上に雑多な神仏の力を取り込んでいる。いや、単純に同一化しているわけではなく、伝承などからの繋がりを利用して、神力を借り受けているというのが正しいか。いずれにしても、かなり引き出しの多い『まつろわぬ神』である。

 そして、崇徳院が呼び出したヤマタノオロチ。

 日本神話において登場する、英雄神スサノオによって討伐された日本最強の蛇神である。本来のヤマタノオロチに比べて力は劣るものの、崇徳院と共に攻勢に出ていて、護堂は劣勢に立たされている。

 従属神や同盟神はそう簡単に呼べるものではない。

 しかし、それをいとも容易く実現しているところを見るに、恐らくはそれが崇徳院の権能の一つということであろう。この国の頂点に君臨し、魑魅魍魎を統べる大魔縁へと墜ちた皇は「支配」し「使役」するということに特別な力を発揮するらしい。

「ちょこまかと鼠みてえに駆けずり回りやがって」

 為朝の苛立ちが、見て取れる。

 本来冷静さを失っては矢は当たらないものだが、戦場を駆け抜けた武者はやはり別ということであろうか。感情の昂ぶりとは裏腹に、恐るべき精度でキズナを狙撃している。

 無論、反撃はする。

 矢合戦という言葉の通り、キズナと為朝の戦いは矢の撃ち合いに終始した。

 

 

 

 □

 

 

 

 崇徳院とヤマタノオロチの二柱の神に攻撃され、さすがの護堂も状況の厳しさを痛感していた。

 今使用している化身は『駱駝』。

 重傷を負ったときに発動できるようなり、圧倒的な格闘センスとキック力及び高い耐久性を獲得する。強化された脚力を利用して一息に十メートル近く跳んで雷撃を躱し、牙を剥いたヤマタノオロチの顎を蹴り上げる。鱗が剥がれて血が吹き出す。骨を砕いた感触があったが、また再起不能にできたわけではない。残る頭は七つで、今の蹴りでそのうちの一つに手痛い傷を負わせた。その程度の戦果だ。おまけに、《蛇》の神格は回復力が高い。

「飛んで跳ねるだけでは芸がないぞ。もっと余を楽しませよ」

 風と雷が護堂に襲い掛かる。

 呪力を高め、『駱駝』の耐久力を上げてこれを凌ぐ。

「怨霊神は自然災害の化身って言ってたけど。これはなんでもありすぎるだろ!」

 毒づきながら護堂は走った。

 雷撃、風刃、雹に火炎。あらゆる猛威を潜り抜けて先行していたヤマタノオロチの懐に入り込もうとする。ヤマタノオロチの見上げんばかりの巨体が陰となって崇徳院の攻撃が僅かでも緩めば儲け物である。

 ヤマタノオロチは懐に入られたことで息吹を叩き付けることもできなくなった。その代わりに、巨体で圧殺しようと身じろぎする。潰されれば死ぬ。護堂は両足に呪力を込めて、地面を蹴った。

「だりゃああああああああああああああああ!」

 そして、全力でヤマタノオロチを蹴り上げる。

 爆発的な蹴りがヤマタノオロチの固い鱗を粉々に砕き、巨体を宙に浮かせる。衝撃はそのままヤマタノオロチの全身を駆け抜け、悲鳴を上げて身を捩った。

 護堂はちらりと崇徳院の様子を見る。

 相手も護堂の一挙手一投足を見ているのだろうが、ヤマタノオロチごとこちらを攻撃しようとはしていない。ならば、一気にけりをつける。

「鋭く近寄り難き者よ! 契約を破りし罪科に鉄槌を下せ!」

 護堂の足元から黒々とした毛皮が現れ出でる。

 『猪』の化身は、巨大な猪の神獣を召喚するのが主な能力である。発動するのに巨大な建造物を破壊させようとする必要があるが、他の化身に比べて発動条件が緩いためについつい多用してしまう傾向がある。そのため、猪の犠牲になった歴史的遺産は数知れないが、今回は歴史遺産を破壊する必要はない。すぐ目の前に、信じられないくらいにでかい的があるのだから。

「行けッ。思いっきり、ぶっとばせ!」

 護堂の掛け声に応じたのか、ヤマタノオロチの直下から飛び出た大猪が蛇神を牙と頭突きで跳ね上げる。掛け値なしの不意打ちに、ヤマタノオロチは雄叫びを上げる。

 特撮じみた怪獣大戦争の始まりだ。

 牙と突進、そして強靭な肉体による大暴れでヤマタノオロチを圧倒する猪は、久方ぶりに満足のいく破壊ができると喜び勇んでいるようにも見える。

 その光景を見て、崇徳院はなおも面白がって笑みを浮かべている。どこまで余裕でいるつもりか。

「あんたの仲間が圧されてるってのに、そんなんでいいのかよ?」

「いや、なに。数奇なものだと思ってな。天叢雲の持ち主は、なかなか猪と縁があるようだ。もっとも、ヤマトタケルは天叢雲……草薙剣を預けたままであったが」

 呟く崇徳院の言葉を護堂は大して理解できなかった。

 天叢雲剣の来歴は、とりあえず知っている。しかし、ヤマトタケルの死に際など、勉強していないのだから知るはずがない。

 『まつろわぬ神』だから、他の神について詳しいのか。それもあるかもしれないが、どちらかといえば人間だった時からの常識で理解しているのであろう。この『まつろわぬ神』は実在の天皇をモデルに降臨した神だ。そして、その人物は非常に教養人であったらしい。『古事記』くらい当たり前のように目を通していただろう。

「そなたの大猪。我が国最強の蛇神を相手に大した活躍ではないか。誉めて遣わすぞ」

「あんたに誉められたところで、嬉しくないね!」

 護堂は猛然と崇徳院を目掛けて駆け出した。

 『猪』の化身を使っている最中は、護堂自身にも強力な突進力が備わるのである。相手は武士ではない。接近戦に持ち込めば、勝機はあると踏んだ。

「不動火界呪」

 崇徳院が唇が動くと、護堂の前に炎の壁が立ちはだかった。

「な、に」

 肉の焼ける臭いがする。危険を感じて後ろに転がるように飛び退くと、目の前に炎の波が迫っている。呪力を高めて炎に抵抗する。

「余は確かに怨霊神ではあるが、金比羅大権現を祀る、讃岐の象頭山松尾寺金光院に合祀されていてな。その縁で余は金比羅大権現の力の一端を借り受けることができる。手並み草程度ではあるが、なかなか便利な力よ」

 自分の力に絶対の自信があるからか、崇徳院は手品の種を得意げに話してくれる。

 複数の神の側面を持つ神格は世の中に多く存在する。民族移動や物語の流布で他の地域の話が取り入れられたりすることがあり、新しい側面を得たり、新たな神名を得て独立した神格が誕生したりする。『まつろわぬ神』は、降臨した時代におけるその神の神話の集合体であるから、別の神格と習合したりすれば当然その神格としての側面を持つこととなる。

 崇徳院は金比羅大権現と習合したわけではないが、生前の金比羅大権現を詣でた逸話や、それを縁として合祀されたことから、自分の力としてではなく金比羅大権現の力としてその権能の一部を使うことができるのである。

「そうかよ。でも、今あんた、不動火界呪って言ったよな。それ、確か不動明王の奴じゃなかったか」

「如何にも」

 崇徳院は頷いて、護堂の問いに答えた。

「金比羅大権現は、神仏習合にて生まれた神格だが、それはつまり数多の神仏を習合して独立したということだ。余が信仰した金比羅大権現は、特に不動明王を本地仏としていてな。その縁よ」

 炎を弾丸を護堂目掛けて飛ばす崇徳院の攻撃を護堂は間一髪で避ける。出力自体は大したことがない。脅威ではあるが、耐えられないものではない。

 崇徳院もそのことを理解したのか、自らの掌中に宿る紅蓮を眺めて眉を顰める。

「やはり怨霊である余では御仏の権能を十全に振るうのは難しいか。これも一つの発見というもの、不快には思うまいよ」

 次に崇徳院は不動明王の権能から別の神の力に切り替えたらしい。

 炎が消えて、見事な刀が現れた。

「金山彦神よ。しばし、そのお力借り受けるぞ」

 崇徳院の呪力に引かれて一〇挺の刀が護堂に降り注ぐ。技も何もない無造作の投擲を護堂は転がって避けた。刀が地面に突き立ち、衝撃で小さなクレーターが生じる。

「ぐ、うあッ!?」

 衝撃と飛び散った小石が護堂の身体を叩く。

 近付けないのが痛い。さらに技が多彩で攻め込む隙を見出せない。

「やはり、祟る神でもある我が国の神は、御仏よりは勝手がいい。ふむ、……よいぞ。かつてはこの力を振るう相手がいなくてな。実に退屈であったが、此度はそなたのような骨のある敵がいる。まだまだ倒れてくれるなよ、神殺し。色々と試してみたいものがあるのだぞ」

 黒い風に束帯をはためかせ、護堂を見下ろす崇徳院は、さすがの威容である。

 正直に言って、相性がよくない。手詰まり感が漂っている。負けるとは思わないが、かなり厄介な強敵であるのは認めざるを得ない。

 猪は優勢だが、主である護堂は劣勢のままである。できれば、ヤマタノオロチをさっさと倒して崇徳院に突撃してもらいたいところだ。

 キズナに援護を頼むというのも除外しなければならない。

 上空に咲く呪力の花火は未だに戦いが加熱していることを示している。

 それでも、護堂の戦意は衰えない。

 むしろ、強敵を相手にして心が浮き立ち、身体が熱くなるような気持ちすらする。

「よい戦意だ。余もまた力を尽くしてそなたを打倒しよう」

「ただでさえ強い奴が力を尽くすなんて言わなくていいんだけどな」

「そう言うな。余はそなたとの戦いでは主として神仏の協力を仰いできたが、未だ余本来の力を使っていないのだからな」

 ぞわり、とした悪寒が、護堂の身体を駆け抜けた。

 何か分からないが、崇徳院の力を振るわせてはならない。護堂は突き動かされるように、崇徳院に向けて駆け出した。

「皇を取って民となし、民を皇となさん」

 そして、崇徳院は、世にもおぞましい呪言を口にする。

 真っ黒な、コールタールような何かが崇徳院の影から溢れ出す。大気がのっぺりとして水中にいるかのように重くなるのを護堂は感じた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 カンピオーネと『まつろわぬ神』との戦いは、決して楽観できるものではなく、キズナが加勢しても、五分五分に持ち込むのがやっとという状況であるのは戦いの素人である祐理でも理解できた。

 護堂はカンピオーネになってまだ一年と経たない新参者ではあるが、それでもこれまで戦ったすべての敵に辛くも勝利してきた実績がある。それだけの実力と運を併せ持っていること、そしてその人柄を理屈抜きで祐理は信じていた。

 そのため、護堂が敗れて死を得るようなことにはならないとどこかで考えていた。 

 しかし、それもここまで敵の戦力が極端となると、話は別になる。

 数的不利な状況で、あの二人はどうやって戦うのか。

 カンピオーネは『まつろわぬ神』の数が多いと戦う力が一気に湧いてくると護堂は言っていた。だが、それは護堂の権能の性質が変わるものではないのだ。一撃の重さが変わる。それはよいことだが、何事にも限度があり、崇徳院の強大さは、護堂の限界に迫るものがあるようにも思えるのだ。

 少なくとも、『剣』が用意できず、そして最大火力の『太陽』や相棒の天叢雲剣までも失ってしまった護堂が優勢に回れるはずもない。

「大猪とヤマタノオロチか。日本沈没が現実になりそうだ」

「もう、水原さん。そのような不謹慎なことを仰らないでください」

 龍巳の冗談とも取れない言葉を嗜める祐理ではあるが、彼女の声にも力がない。

 祐理と龍巳は、すでにホテルにはいない。

 崇徳院の降臨を確認し、そのヤバさ(・・・)を察した時点で非戦闘員である祐理を戦場近くに置いておくわけにはいかないと龍巳は判断した。

 ホテルを出て、南の二条城にまで拠点を移す。

 二条城は、今回の問題に対処するために正史編纂委員会が設けた対策本部が設置されている場所でもある。祐理の同業者も幾人か配備され、今も監視カメラや式神を用いて戦況を窺っている。

 そうした中で、崇徳院の呪いの言葉の危険性に気付いたのは、やはり最高位の媛巫女である祐理が最初であった。

「呪いの影? なんて、こんな……!」

 祐理が絶句して呆然とする。

 龍巳にはそれの具体的な効力を察することはできないが、それでもなんだかよく分からないけれどもとても危険な呪詛であるということは理解できた。

 直接目にしていないのに、背中に氷塊が滑り落ちたかのような悪寒がする。式神の目を通していながら、身体の芯から冷たくなるような恐怖の塊である。怨霊神としての面目躍如といったところであろうか。崇徳院が呪う総てに対して、その呪詛は襲い掛かった。

「くそ、式が」

 龍巳は冷や汗を流しながら、とりあえずテントの外に飛び出た。

 龍巳が使役していた式神が、魍魎に喰われたのである。おかげで戦場の様子が分からなくなった。モニターだけは何とか生きているようだが、定点観測では状況は掴みづらい。

 呪術師たちも右往左往して落ち着きがない。

 二条城の敷地内にいる呪術師は合計で二十二名。数が少ないのは、カンピオーネの戦いに人間が介入できるものではないためであり、彼らの仕事は主として避難誘導である。呪術を使ってでも強引に避難させるのが彼らに与えられた任務で、できることならば今すぐにでも戦場から離れたいと思っていることであろう。

 空を行く魑魅魍魎は、どうやら二条城に張られた結界を破れないらしい。霊的存在である呪詛の塊には、効果的な守護結界だったのが功を奏したか。

 いや、仮にも崇徳院の呪詛である。まさか、この程度では済むまい。

「怨霊神の怨霊神たる由縁というところか。さすがは日本最強最悪の魔神だな」

 二条城の門を平然と潜り抜けて入ってきたのは、一般人であった。ただし、身体に黒い靄がかかっている。一目で、空を埋め尽くす呪詛と同類であることが見て取れた。その場にいた呪術師たちに、一斉に電流のように危機感が共有される。

 テントから飛び出てきた祐理が、龍巳に忠告する。

「龍巳さん。あの呪詛は、あのお方の天下滅亡の呪詛を具現したものです。人々の心を荒ませる毒。「皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪が示すとおり、とりわけ君臣の絆を断ち切るのに秀でた呪いです!」

「君臣の絆を断つ? なるほど、南北朝の動乱やらを引き起こした元凶とすれば、そういうのになるか」

 天皇家と武家の対立構造は鎌倉時代からあったものだが、南北朝時代はさらに天皇家を二分する乱であった。それも人心に大いなる乱れがあったからである。人の心を惑わし、世の中に大乱を生じさせ、皇統を分裂に追い込む。なるほど、天下滅亡の呪詛とはよく言ったものだ。

「とすると彼らは、俺たちで避難させた市民か」

「わたしたちが避難命令を出す側で彼らは受け取り、避難させられる側。そう考えれば、反意がこちらに向けられてもおかしくはないと思いますけれども……」

 命じる側に対して反乱を起こす。それが、この呪詛の特性。国家というものは少なからず上意下達によって成り立っている。指導者がいて、法があり、その意に従って共同体は維持される。崇徳院の呪詛は、そういった上意下達を完全に取り払ってしまう。法律を破り、上の命に従わず、既存の道徳を破壊するのを正当化する。

「効果範囲がどれくらいかわからないけど、かなりヤバイな」

 殴りかかってくる市民ともみ合いになった呪術師が、市民の身体にかかっていた靄に取り込まれたのを見て龍巳は危機感を募らせる。 

「万里谷さん。君はとにかく安全圏まで脱出して」

「え? しかし!」

「草薙君にとって君は切り札になるとエリカさんから聞いている。呪詛が広がりきる前に、君はここを脱出するべきだ」

 現場はすでに混乱しつつある。これ以上時間をかければ、反乱を起こした市民に完全に取り囲まれてしまうだろう。霊的にはどうにかなるが、物理的に進路を阻まれれば詰んでしまう。

「ということで甘粕さん、お願いできますか」

「やるしかないでしょうね。確かに、この状況をなんとかできるのは草薙さんの化身が適任ですし」

 どこから湧いて出たのか冬馬が龍巳の傍に出現した。

 混乱した呪術師が市民に呪術を行使するまでになった。これが、京都市中、あるいはさらに広範囲に広がれば、日本沈没が冗談では済まなくなるのは目に見えている。

「しかし、逃げるにしても空には怨霊の群れ。囲まれれば一発です」

「忍者なんだからその辺りは色々と技があるんじゃないですか? 奇門遁甲とかで逃げてくださいよ」

「忍者じゃなくて忍ですよ。それに奇門遁甲も言うほど便利な技じゃないんですがね。少なくとも、あの怨霊を切り抜けるのは厳しいですよ?」

「ですから、そっちは俺が何とかします」

 そう言って龍巳は笛を取り出した。

 祐理と冬馬が息を呑んだ。この神具を目にするのは、初めてだったからだろう。

「霊的存在に笛の音は効果大です。今はこいつを信じてくださいとしか言えませんが」

「いえ、十分ですよ。肉体がなければ、ここの結界すらも通れないようですからね。では時間もありませんし、行きましょうか、万理谷さん」

「あ、えと。はい。水原さん、どうかご武運を」

 冬馬は納得して祐理を連れ立って去る。祐理は申し訳なさそうにしながらも、一礼して行った。

 その後姿を見送って、大混乱に陥った二条城内を見下ろすように龍巳は屋根に飛び乗った。僅かにでも俯瞰する視点があったほうが、呪術を広げやすい。高いところからばら撒いた紙ふぶきが下に落ちるに連れて散らばる範囲を広げるようなイメージで、龍巳は笛の音に呪術を乗せるからだ。

 龍巳は神具にして相棒とも言うべき葉二を口に当て、心を空にして笛を奏でた。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 崇徳院からあふれ出した暗黒の影は、顔のない人型の何かとしか言いようのないものであった。

 それが数え切れないほど続々と出てくるのである。護堂を押し潰さんばかりに押し寄せる黒の群れに、護堂は再度の撤退を余儀なくされる。

“なんかよく分からないけど、これはヤバイ”

 天狗にも似た羽を生やした一部の影は、空に舞い上がっていく。狙いは護堂ではなく、空で戦うキズナのようである。

 さらに、ヤマタノオロチを叩きのめしていた大猪の身体に纏わりついて、よじ登り、溶けて網のように広がった。

 猪は振り落とそうと身体を震わせるがねっとりとした黒い粘液は、トリモチのようになって外れない。

「護堂! 引きなさい! これは、目に見えるほどになった呪いの塊よ!」

 エリカが背後で叫ぶ。猪が吼え、衝撃波が四方に走る。

 猪の様子がおかしい。黒い泥が肉の中にまで入り込んでいる。呪詛によって身体を侵食されているのは分かるが、猪のそれは苦痛とはことなる叫びに思えた。

 エリカとリリアナが護堂に襲い掛かる呪詛の人型を切りつけ、退路を確保する。

「草薙護堂!」

「ああ。――――最後だ、衝撃波を!」

 呪いの波を猪の衝撃波で吹き飛ばす。そのために、護堂は念を送った。しかし、反応がない。それどころか、猪は反転して護堂に突っ込んできたのである。

「なッ」

 大雑把な突進は護堂を逸れてその背後の家々の残骸や残った家を蹴散らした。

「ど、どうしたんだ!?」

 猪が言うことを聞かないのは今に始まったことではないが、ここまで命令と異なる動きをすることはなかった。目を凝らせば、猪の身体に黒い靄がかかっている。崇徳院の呪詛なのか。

 唖然としていると、護堂のすぐ傍にキズナが落ちてきた。

「う、ぎゃッ」

 小さな悲鳴を上げるキズナは、猫のように身体を縮めて立ち上がった。

「大丈夫か!?」

「大丈夫じゃない、来るよ!」

 風が駆け抜けた。崇徳院の怨霊兵が一瞬にして蒸発した。護堂たちはキズナの忠告のおかげで事前に退避できていた。アスファルトが蒸発して、異臭が酷い。

「なんだ、今の」

「わたしのペガサス。アイツ、奪いやがった」

「なぁ!?」

 今の攻撃は神速で天翔けるペガサスによるものだったらしい。猪の暴走とペガサスの反逆。崇徳院の呪詛は、相手の神獣を奪う力だというのか。しかし、奪われたというには護堂は未だに猪との繋がりを感じている。これはどういうことだろうか。

 キズナは印を結び、不動明王の炎を発生させて呪詛の侵攻を阻む。破邪の炎は怨霊の群れを近づけず焼き払う。しかし、空から迫るペガサスの神速にも対応するため余裕はほとんどない。為朝の攻撃も纏めて焼くためには、力を集中する必要がある。結果、キズナの炎が防げるのは、前方から来る敵だけだ。

 護堂たちまで、守るだけの範囲に炎を広げることはできないでいた。

「草薙護堂、避けて!」

 リリアナの切迫した叫びに護堂の危機感が急上昇した。

 護堂の視界の隅で、火花が散った。

「リリィ、あなた何を!」

 護堂を攻撃したのはリリアナだった。

 サーベルが護堂の首を刎ねる寸前、エリカが割って入り、これを防いだのだ。

「リリアナ!?」

 リリアナの白い肌に、黒い葉脈のような痣が浮かんでいる。サーベルを持つ右手から伸びた葉脈は、今や首にまで伸び、見る見るうちに侵食範囲を広げている。

「違う、違う違う違う違う、わ、たしはぁあああああああああああああ!!」

 リリアナが切り込み、エリカが受ける。

「リリィ、いい加減にしなさい!」

「うるさいッ」

 エリカの叱咤をリリアナは一蹴する。護堂が呼びかけても、次第にその視線に憎悪が宿っていくのが見える。

「リリアナ! 目を醒ませ!」

「あああああああああああああああ、わた、しの、前から消えろ……草薙護堂!」

 エリカには目もくれず、護堂に斬りかかる。異様な妄執にも似た執着心を感じる。護堂を打倒しなければならないという強迫観念に突き動かされているようではないか。

「護堂、離脱を急ぎなさい。『鳳』の化身なら、包囲網を破れるでしょ」

「だけど、リリアナが……!」

「権能で支配されてはどうにもならないわ。祐理と合流して『剣』を砥ぎなさい。それなら、リリィを解放できるわ」

「エリカ」

「いいから、早く。もう、わたしも限界なんだから」

 エリカが身体を反転させて、護堂の首に刃を走らせる。

 それを視認した瞬間、護堂の中で化身が入れ替わる。エリカの動きが緩慢になり、斬撃を躱すことに成功した。

「エリカ!」

「ごめん、護堂。どうも、感染性があるみたいね、これ」

 エリカが力なく笑った。

 見れば、クオレ・ディ・レオーネから黒い葉脈が這い上がっていて、エリカの腕に絡みついている。

 民俗学には感染呪術という言葉がある。

 呪いが接触によって広がるという思想を体現した言葉であり、今回はリリアナの呪いが剣を通してエリカにまで飛び火したのである。

 呪力の強いエリカやリリアナですら為す術なく呑まれていく。

「エリカ! リリアナ!」

 護堂の叫びは、憎悪に取り込まれた二人には届かないどころか、その悪意を加速させるだけである。

「逃がすかよ、神殺し!」

 護堂の動きを見透かしたように、為朝が迂回してきた。弓を構えて、護堂を狙っている。

「草薙君。構わず、走りなさい!」

 キズナの声が聞こえた。護堂は、歯噛みしながら、エリカの残した言葉を信じて離脱を決意した。

 為朝の矢はキズナが射落とした。爆発の中を護堂は神速で駆け抜ける。エリカとリリアナを助けることができなかったのが何よりも心苦しい。しかし、彼女たちを救うためにも、なんとしてでも『剣』を生み出す必要がある。できるだけ早急に。今、この時、祐理が襲われていない保証はない。彼女まで呪詛に呑まれれば、状況は最悪に近いものになってしまう。

 

 

 

 護堂を見送った後のキズナは、状況を脳裏で整理する。

 正直に言って絶体絶命である。

 仕切り直しをしなければならない。神獣を奪い取る権能ということではなく、また別の方向性の力である。エリカやリリアナが意思を持ちながら護堂の叛旗を翻したところを見ると、洗脳、あるいは思考の方向性を変えてしまう呪詛であろう。

「娘。そなたがしんがりを務めると?」

「まさか。わたしもさっさと逃げさせてもらうわよ」

 今のところ勝機がない。

 崇徳院のほか、源為朝にヤマタノオロチまでいる状況だ。ペガサスは強引に召喚を解除し、猪は護堂の化身が変わったことで実体を失った。それでも三柱の神がここにいるのは非常にまずい。魑魅魍魎の中に、ちらほらと民間人も混じっている。

 全力で攻撃すれば、巻き込むのは確実だ。要するに、護堂の『剣』の力を頼るのが今一番効果的な戦術だと思われる。

 どのように撤退するか、あるいはどこに撤退するか。それが問題で、龍巳に念話を繋いで後方の状況を探ろうとした。

 しかし、応答がない。

 何度念話を飛ばしても、まったく反応がないのだ。

 呪力のパスは繋がっているので、死亡したはずはないのだが、一体何があったのか。嫌な予感に身体が震える。

 『まつろわぬ神』と対峙しながら、龍巳を探すために探査呪術を使用する。

「え……」

 思わず、呆然とする。

 龍巳の反応はあった。どこにいるのかすぐに分かった。思っていたよりも、ずっと近くにいたのだ。

 龍巳は、魑魅魍魎の群れの中にいる。

 何故? どうして? 湧き上がる疑問符に意味はない。カンピオーネとしての勘とキズナの中の冷静な部分が真実を理解してしまっていたからだ。

 冷や汗が噴き出した。信じ難いが、覆せない事実であった。黒い魍魎の中にちらほらと見える人間。その一員として龍巳が組み込まれていた。

 崇徳院の呪いが、キズナや護堂だけでなくその背後の民間人にまで及んでいたことを如実に物語っている。

「龍、巳……」

 キズナの視線がある一人に注がれているのを見て取った崇徳院が口角を吊り上げた。

「ほう、そなたの臣下か。くく、余の魑魅魍魎を相手に善戦したぞ。人間にしては相当な使い手ではないか」

「オマエッ!!」

 不動明王の炎を収束して、キズナは倶利伽羅竜王之太刀を顕現する。逆上したままに、崇徳院に向かって斬りかかろうとする。

「させん」

 それに先んじて、為朝が矢を放った。

 青い閃光と化した矢がキズナに迫るが、キズナは荘子の権能を楯にして矢を無視した。

 倶利伽羅竜王之太刀の柄を握り締めて、キズナは転移の呪を紡ぐために唇を動かした。

 次の瞬間、キズナの視界が大きくひっくり返った。視界が流れ、派手な音がする。身体を地面に叩きつけられた音であった。

 吹き飛ばされたと気付くのに、数秒の時が必要だった。

「あ、が……?」

 キズナは、うつ伏せになって倒れていた。

 太刀が手を離れてどこかに飛んでいった。もう一度、立ち上がって全力の一撃を叩き込まなければならない。あの怨霊神を殺して龍巳を取り返さなければならない。

「ごふ、あ」

 ごぼり、と口から血が溢れた。

 起き上がろうと力を入れると、腹部に激しい痛みが奔り、涙が零れた。

 どうやら、腹に穴が開いているらしい。しかし、なぜだ。荘子の権能で、受け流せるはずだったのに。

「馬鹿が」

 と、為朝が蔑むように言葉を発した。

「この俺の矢を、その程度の守りで防げると思ったか」

 源為朝。

 平安時代でも最強と名高い武将であり、竜殺しの逸話を持つ《鋼》の軍神。

 正確無比な弓の腕もそうだが、とりわけ有名なのは矢の威力であろう。保元の乱では放った矢が敵兵を二人貫通したとされ、伊豆大島に流された後の最後の戦いでは一矢で討伐軍の船を沈めたとされる。

 『まつろわぬ神』として顕現した為朝の権能は、『貫通』。

 あらゆる守りを無効化する、必殺の一矢である。

「あぐ、あ……」

 意識が遠退いていく。

 今墜ちたら、本当に死ぬ。せめて意識を保たなければ、一瞬でいい。荘子の権能で、すべてをなかったことにしなければ、龍巳を取り戻せない。

 そのとき、キズナは初めて夢と現の入れ替えができないことに気付いた。

“そんな……!”

 愕然として、視界が黒く染まる。

 キズナの身体がこの世に縫いとめられているかのようである。おそらくは矢の影響だ。防御不可のほかに、このような付属効果があったとは。

 ちくしょう、とだけ最後の思い、キズナは深い闇の中に沈んで行った。

 

 

 

 □

 

 

 

 京都の街は火の手に包まれている。多くの民が逃げ惑い、あるいは魑魅魍魎に憑かれて臣民と化している。中には呪術師まで混じっているが、そんなことは崇徳院には関わりのない話である。

 世界に怨嗟が満ちている。

 京の都が燃え上がっている。

 これこそ、崇徳院が見たかった光景だ。

「戦に勝利するというのは、実に心地よいものだ」

 撤退した神殺しの少年と、地に落ちた神殺しの少女。どちらも、興味深い素材であった。敵手とするには十二分な力の持ち主である。

「為朝」

「は」

「そやつの首と取り、先陣に掲げよ。逃れた神殺しを討伐するぞ」

 崇徳院は冷厳な視線で血の海に沈むキズナを見据える。

 打ち倒した首を取るのは近世に至るまで一般的な習俗であった。武士だけでなく、公家の世界にもあったもので、確実に敵を倒した証とするものであった。例えば、武士という概念が生まれるよりも以前の壬申の乱では、大友皇子は首を括って自害した後、その首は身体から切り取られて京に運ばれたとされる。

 また、織田信長が本能寺の変で自害した後、明智光秀が信長の首を見つけることができなかったことで、秀吉は信長の生存を装って兵を集めることができたというのは有名な話である。

 崇徳院がキズナの首を刎ねろというのも、その死を確実にするのと同時に彼女の仲間に対する示威行為となるからであった。

 冷酷非情な命令に、為朝はただ一言、

「御意」

 とだけ答えた。

 為朝は、小刀を抜き放って歩き出した。

 神殺しは脅威で、傷ついて倒れても手負いの獅子となって襲い掛かってくることはある。しかし、今のキズナは完全に意識を喪失しており、脅威にはなりえない。

 為朝は、キズナの隣に膝をつき、髪を掴んで首に刃を当てた。

「ぬ」

 地面が粟立ち、為朝の刀を弾き飛ばす何かが飛び出てきたのはまさにその瞬間であった。

 為朝は数歩、後ろに下がる。

 目の前の神殺しが何かしたのかと、一瞬思って警戒したが、そのような気配はない。

「くだらん」

 地面から飛び出てきた何かは、空中で狐の姿を取って為朝に襲い掛かる。その狐を、為朝は拳を固めて振るうだけで粉々に砕いてしまった。

「キサマ、……駄狐。一体何のつもりだッ」

 轟然と吼える為朝は、神殺しとの間に割って入った葛の葉に、敵意をむき出しにする。

 常人ならば、それだけで意識を喪失しかねない覇気が葛の葉を襲う。

 しかし、葛の葉は表情を一切変えなかった。

 為朝の怒りを受けて、葛の葉は知らん振りをしたまま小瓶を取り出した。キズナを仰向けにして、腹部の傷に小瓶の中身をかけた。霊薬の類なのか、キズナの傷がじわじわと治っていく。

 それを見て、為朝が目を怒らせた。

「駄狐。陛下の邪魔立てするか!」

「そうね。まあ、考えようによってはそうなるのかもしれないけれど」

 徴発するような葛の葉の態度に為朝ははらわたが煮えくり返る思いであった。この場で引き摺り倒し、心臓を抉り、首を刎ねてしまおう。脳裏に残酷な処刑ショーを思い浮かべる程度には、為朝はこの葛の葉に苛立ちを感じていたのである。

 為朝が葛の葉に手を出す前に、崇徳院が制止していなければ、実際にそのようになったであろう。

「陛下……」

「為朝。下がれ」

「は」

 為朝は不承不承という面持ちで、口を噤んで鉾を収めた。

 主の言葉は絶対。

 為朝の主義主張は主君の言葉を左右してはならず、主君の言葉一つで変えなければならないこともある。崇徳院は、為朝が葛の葉から距離を置いたのを見て笑むと共に、葛の葉に問いかけた。

「その方、神祖だな。名乗るがよい」

「葛の葉狐と申します。陛下のご尊顔を拝謁する栄誉に浴しましたこと、誠に身に余る光栄に存じます」

 葛の葉は身を低くして、崇徳院に敬意を表す。

 この国の文化は身に染みて理解している。平安期、天皇大権が最も力を発揮した時代を、この国で過ごした。さらには愛しい夫が宮仕えしていたのだ。神祖であっても人間の礼儀を心得るというのは、珍しいことかもしれないが、すべては平穏な日常のために必要であった。そして、彼女が目の前に立つ大魔縁は、元が高貴な人物であると同時に彼女自身が復活を祈念した相手でもある。姿勢を低くするのも吝かではなかった。

「ほう、葛の葉狐か。そなたが余の復活に力を尽くした神祖というわけか」

「呪術以外にとりえのない身でございます。晴らせぬ無念を晴らすため、国家転覆の権能を有する陛下の光輝に縋るより他にありませんでした」

「晴らせぬ無念を晴らすため、国を滅ぼさんとするか。その妄念は余の好むところだぞ。その源泉が慕情であれ、失意であれな。喜ぶがいい。余はそなたの望みの通りに振る舞うであろう」

 崇徳院はともすれば心を奪いかねない美しい声音で語る。皇の気風というべきか。あまたの怨霊を統べる怨霊神は、荒れ狂う魔神というには不釣合いな柔和な雰囲気で周囲を包み込んでいるように思えた。

「して、そなたは何故に余の前に進み出た? 理由があるのならば申してみよ」

「は、では恐れながら」

 と、前置きして葛の葉は口を開いた。

「ただいま不躾にも陛下の御前に参上仕りましたのは、陛下にお願いしたき儀があってのことでございます」

「余に願いか。……よかろう。そなたは為朝と共に余の封印の解呪に骨を折った。その労に報い、褒美を取らせるのも余の務め。思いのままに申すがいい」

 葛の葉は、内心での緊張を露にすることなく、努めて冷静さを装った。

 これから口にすることは、一歩間違えば葛の葉の命を露と散らせるものとなる。怨霊神の視線と弓神の念を一身に受けて、神祖というだけの彼女はすでに限界を迎えつつある。

 それでも、葛の葉は精一杯強がって、続きを口にする。

「わたくしの願い。それは、この者の助命にございます」

 搾り出した言葉に、場の空気が変わったのを知覚する。

「ふざけるな、駄狐がッ。そのようなことを認めるはずがねえだろうッ」

 ダン、と地面を踏み鳴らし為朝が葛の葉に掴みかからんばかりに怒鳴りつけた。

 当然と言えば当然の反応である。

 キズナは神殺しで、彼はその仇敵である《鋼》の軍神。しかも、人間だったころから忠義に篤く、乱暴狼藉を重ねる跳ね返りでもあった。崇徳院に危害を加えた神殺しを許すはずがない。

 しかし、葛の葉はそんな為朝には一切視線を向けなかった。

 彼女の交渉相手は、あくまでも崇徳院である。崇徳院さえ是と言えば、為朝は黙るしかない。

 葛の葉の願いを受けて、崇徳院は不可思議に思ったのかその理由を尋ねた。

「何故に神殺しの助命を請う?」

「この者は、わたくしが腹を痛めて産んだ娘にございます。御身の復活は我が悲願なれども娘の死を望むわけではありませぬ。何卒、ご寛恕いただきますよう、お願い申し上げます」

「ふむ……」

 崇徳院は、それだけ言って黙り込んだ。

 葛の葉の目的がこの国への反逆であれば、怨霊神を蘇らせた時点で達成されたと言ってよい。なぜならば、崇徳院は、そうあるために存在するようなものだからだ。葛の葉が何もしなくても、自然と彼女の思いを遂げるであろう。しかし、そこに娘の事情は介在していない。キズナが神殺しであり崇徳院と敵対したのは、葛の葉にとっては想定外のことであり、娘が神殺しであることと怨霊神は本来関わりがないことであった。運命の糸が複雑に絡み合い、このような形となったが、キズナが死ぬ様を葛の葉は見ていられない。

 葛の葉の願いを聞いた崇徳院は、黙考して、それから口を開いた。

「よかろう。逃亡を許すぞ、葛の葉とやら。その娘と共にどこへなりとも去るがいい」

「陛下!?」

 為朝は驚いて崇徳院を見上げた。驚愕の念は葛の葉も同じであった。顔にこそ出さないものの、神殺しを見逃してくれなどという嘆願が『まつろわぬ神』に届く確率は極めて低い。神々の性質以前に、神殺しは全『まつろわぬ神』共通の怨敵でもあるからである。

「陛下、何故! この者は陛下に弓を引いた謀反人にございます! 葛の葉狐が母ならば、縁座にて責を問うべきと存じます! 傷を癒せば、即座に陛下の敵となることは間違いございません!」

「仕方あるまい。褒美を取らすという余自らの言葉を翻すわけにもいかぬ。それに、敵となればそのときに討てばよいではないか。そなたもいるのだろう」

「ぬ……!」

 為朝は崇徳院の返しに言葉を詰まらせて、それから頭を下げた。

「お望みとあらば、神殺しの一人や二人、討ち取ることなど造作もありませぬが」

「ならばよかろう。敵がおらねば面白みにもかけるというもの。それ、葛の葉。早急に手当てせねば、その娘、長く持たぬぞ」

「ありがたき幸せ」

 崇徳院の気が変わらないうちに、キズナを連れて安全圏に逃れようと葛の葉はキズナの手を取った。

 キズナの顔には血の気がない。霊薬で傷を癒しているとはいえ、予断を許さぬ状況にあるのは間違いない。キズナには治癒の権能もなければ復活の権能もない。死ねば転生するのであろうが、それが何年後になるか。さらに、今龍巳は敵の手中にいる。まったく、先が読めない中で迂闊に命を落とさせるわけにはいかない。

「ただしだ、葛の葉よ」

「はい」

「その娘に伝えよ。次に余の前に立つのであれば、首を落とすこととなるとな。そのときはそなたも縁座に服すこととなる。覚悟しておくのだな」

 ぞわり、と総身が粟立った。

 生唾を飲み、吹き出る冷や汗を必死に堪えて、葛の葉はキズナを拾い上げてその場を去った。

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