極東の媛魔王《完結》   作:山中 一

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六十話

 いつにも増して、明るい月が空に昇っていた。

 天元三年九月二十八日。

 直に月が替わる。

 月が替われば冬となる。耳を楽しませてくれていた鈴虫の声はもう聞こえない。庭では、風にそよぐ薄が寂しく穂を泳がせていだけである。

 晴明は白い頭巾で顔を隠し、普段通りの水干姿で音もなく縁側を歩いていた。

 忍び寄る冷気に足が冷える。

 ふと、足を止めて振り返る。

 青い月光に照らされた縁側に、かつて共に月見をした友の姿を幻視する。

 それから、静かに歩き始めた。

 ある部屋の前にやってきた晴明は、そのまま戸をすり抜けて中に入った。

 部屋は板敷きで、真ん中に屋敷の主人が眠る布団が敷いてあった。

「久しぶりだな。晴明」

 話しかけられて、少し驚いた。

 てっきり、深い眠りに就いているかと思っていたのだ。

「思ったよりも元気そうだな、博雅」

「どうだろうか。不思議と、今は頭の中がすっきりしているようだがなぁ」

 博雅の声はか細く、ゆっくりとしている。

 長年連れ添い、多くの戦いに同行してくれた相方だが、ここ数年は体調を崩し、伏せり気味になっていた。晴明は密かに、若い頃に無茶をさせすぎたと後悔しているのである。

 晴明は、博雅の枕元に胡坐をかいて座り、頭巾を取った。

 金色の髪が零れ、二十代の前半から半ば程度の女の顔が現れる。

「相変わらず、お前は変わらないな。それは、少し羨ましいぞ」

 歳若い少女の外見を維持する晴明に対して、博雅はすっかり老け込んだ。

 髪には白髪が混じり、腕の肉は落ち、身体を起こすことすらも気だるくなってしまった。最近では、大好きだった笛すらも、吹くのが辛い。

「呪力が至純の域に達した者は、老いを抑えることができるからな。特に女の場合は若返る者もいる。おれはそのような必要もなかったがな」

「ああ、そうだったか。お前ほどの呪力があれば、よかったのだがな」

「男はそれほど、若返ることはないようだが」

「それでも、多少は晴明の助けになれるだろう」

 晴明は、目を瞑って内心で呟く。

 馬鹿が、と。

 神殺しの戦いに、人間は介入してはならないものだ。どうあっても、助けになどならない。呪力がどれだけあろうとも、天才的な才能を有していても、神殺しや『まつろわぬ神』が相手では人間など蟻にも等しい戦力差が出てしまう。

 だから、呪力の多寡ではないのだ。

 晴明が頼みとしていたのは、決してそのような『力』ではない。

「十二分に助けられた」

 晴明は言う。

「おまえがいなければ、おれは帝釈天に殺されていただろう。十年と少しの生が、おまえのおかげで六十余年にまで伸びた」

「そうか。……助けになったか」

「ああ」

 それから晴明は、外のことを語った。

 陰陽寮の発展、玻璃の媛から養子に取った三人の子どもが長じ、それぞれが陰陽師として大成したこと。数日前にも『まつろわぬ神』と一戦を交えたことなど、語って聞かせたいことはいくらでもあった。

 気持ちが逸り、口調が荒くなりながら、晴明は持てる言葉を尽くして博雅に外での出来事を語って聞かせた。

「そうだ。師輔を覚えているか?」

「師輔。ああ、右大臣様か。また、懐かしい名だな」

 晴明が出した名は、ちょうど二十年前に死去した藤原師輔の名であった。

「二十年も、経つのか」

「天徳四年はいろいろとあったからな。おまえも、忘れられぬ年だったろう?」

「……忘れたまま、逝きたかったんだがな」

 博雅は力なく不快そうな顔をする。

 それもそうだろう。天徳四年といえば、世にも名高い天徳内裏歌合が盛大に催された年である。そこで、博雅は天皇の前で緊張して、歌題とは異なる歌を詠んでしまうという失態を犯している。

 あのとき、屋敷に戻ってきたばかりの博雅を見て、晴明は腹を抱えて笑ったものだ。もちろん、本人はずっと渋面のままだったが。

 右大臣であった藤原師輔が死んだのは、それから二ヵ月後のことであった。

「右大臣様がどうした?」

「先日、師輔の孫に会った。今年、叙任されたばかりだが、あれは別格だぞ。近く頭角を現すだろうな。すでに、足元を固めようと動いている」

「確か、名は道長といったか」

「ああ。おれが神殺しだと知っているのに、物怖じしないのは珍しい。彼の系譜も持ち直してきたし、おそらくは次代の権力を一手に引き受けることとなるだろう」

「晴明がそこまで言うのなら、間違いないだろうな。惜しいことだ。できるのなら、行く先を見てみたかったのだがな」

 博雅は力なく笑う。

 晴明は、唇を噛んで喉を詰まらせた。次第に、喉が渇いていくのを感じていた。心臓が自分のものではないのではないかと思えるくらいに音を立てている。

「……なあ、博雅。お前は、まだ心残りがあるか?」

 晴明は、薄らと笑ってみせた。

「心残りか。うぅむ、そうだなぁ」

 博雅は、ささめくように唇を動かして思案げに目を瞑った。そのまま深い眠りに就くかのような仕草に晴明は思わず身体を震わせた。 

 もしも、博雅が心残りはないと答えてしまえば、それで晴明にできることは何もなくなる。果たしてどうだろうか。

 雅楽の匠として名声を欲しいままにし、四人の男子は皆博雅の才覚を受け継いで笛に琵琶にと広く活躍した。天皇になることは終生叶わなかったが、彼はそんな権力や権威にはまったくと言っていいほど興味を抱いていなかったように思う。

 では、博雅はどのようなことを心残りとするのだろうか。

 死にたくないとか、未来を見たいとかそのような抽象的なものではなく具体的に成し遂げたい何かがあるのか。

 博雅は重くなった口を開き、答えた。

「あると言えば、あるが、なあ……」

「ある、のか?」

「ある」 

 博雅は、断言した。

「美味いものが食いたいし、笛も吹きたい。まあ、やりたいことは色々とあるなぁ」

「欲深なヤツめ」

 年寄りに分際で、若造のようなことを言う。しかし、それが本来の博雅なのかもしれない。年を重ねるに連れて消えていった幼さが、今表に出てきている。好奇心旺盛だったかつての姿は失われたのではなく、もしかしたら隠れていただけなのかもしれない。

「だが、博雅。お前さえ良ければだが、……その願い、叶えてやれるぞ」

 断られるかもしれないと恐れながら、今をおいて他に時はないと思い切って言うことにした。

 亡き師の跡を継ぎ、男として生きた人生だった。それは、晴明の意地が根底にあったが同時に次があるという安心感からくる余裕でもあった。しかし、その結果として博雅への思いを告げることなく今別れの時を迎えようとしている。

「お前が、これからもおれの傍にいることが条件になるが。……おれの権能で、お前に新しい人生を与えてやれる。悪い話じゃ、ないと思うが」

「おお、なるほど、な。確かに、それはいい。放っておくと、危なっかしいやつがいるからなぁ。それも心残りか」

「余計なお世話だ。言質は取ったぞ。今更後悔しても遅いからな」

 晴明は以前よりもずっと衰えた博雅の細い腕を取って、呪力を迸らせた。

 何年先になるか分からないが、「次」こそは、後悔なく生き抜こうと誓いながら、博雅の魂に触れる。

 そうして晴明は博雅と絆を結ぶ。

 死ですら別つことのできない、強い結びつきは輪廻の環を無視して二人を出会わせることだろう。 

 施術が終わり、晴明は博雅の顔を覗き込む。

「馬鹿な男め。二度と自由にはならないからな」

 博雅は答えない。

 力をなくした手を布団の中に戻して、晴明は家人に見つからないようにひっそりと屋敷を出た。

 よほどの強敵に出会わなければ、十年か、二十年は晴明は生きることだろう。その間、もう博雅と話をすることもできないと思うと、とても寂しい。それでも、権能で結びついた実感は確かにある。それを頼みにして、朝を向かえる日々を送るのであった。

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

「京都市は壊滅状態ですか。状況は、考え得る限り最悪ですねェ」

 冬馬は電話連絡を受けて天井を仰いだ。

 どこからか現れた式神に導かれて、安全を確保した冬馬は祐理と共に身を潜めていた。京都に入る際に乗ってきた車を使い、市内から距離を取った冬馬は、そのまま車を走らせて、奈良県は興福寺にまで到達していた。

 冬馬が興福寺を選んだのは、逃げ道を示してくれた式神からの伝言があったからであり、同時に興福寺は古代から続く護国の寺であったからでもあった。

 京都が墜ちた以上は、京を守る比叡山は頼れない。ならば、比叡山と並び強大な力を有した興福寺を頼るのが、最も効果的であると思えた。

 相手は怨霊。京都の空を飛び交っているのは、実体を持たない呪詛の塊である。そういった手合いには、寺社仏閣はなかなか頼れる防壁となってくれる。

 しかし、相手は『まつろわぬ神』である。

 いくら歴史ある寺社仏閣の結界であっても、『まつろわぬ神』が本気になればなんの問題もなく攻略されてしまう程度の城である。

 篭城戦は不可能であり、どうあっても、敵に攻められる前に攻勢に出る必要があった。

 人の気配を感じて振り返ると、祐理が歩いてくるところであった。

「祐理さん。草薙さんの容態は如何ですか?」

「はい。大きな怪我はされていないので、化身の副作用が抜ければ起き上がれるかと思います」

「そうですか。それは何よりです」

 護堂は神速を利用して、この興福寺まで逃れてきたようだ。神速は雷に匹敵する速度で移動する。単純に長距離を移動するのに使えば県をまたぐ程度造作もない。アレクサンドルが、世界を飛び回るのもこの移動速度があるからである。ただし、護堂の『鳳』の化身は、使用後に心臓が締め上げられるような激痛を感じて身体が麻痺するという副作用があり自由には使えない。逃げに徹するか短期決戦を覚悟したときでしか、発動させることができないのが不便なところである。

「今となっては、カンピオーネにお二人に縋るしかありませんからね。日本の未来のためにも」

「しかし、キズナさんは、……その、もう戦える状態ではないように思います……」

 深い憂いを浮かべた表情で、祐理は言った。

 口に出すのも憚られる。しかし、言わなければならなかった。

 ここに現れた神祖が重傷を負ったキズナを運び込んできた時、祐理はキズナの容態を見て、正直、助からないと思った。

 見た目には傷が塞がっているようには見えた。しかし、実際には臓器は目茶苦茶に破壊されており、背骨も繋がっていなかった。葛の葉と名乗る神祖が言うには、源為朝の矢によって、腹部が吹き飛ばされたとのことで、常人ならば即死している傷である。速射砲の直撃を受けた人間が、両断されるのと近い状態に陥ったのだ。むしろ、息があるのを喜ばねばならない。

 祐理の言葉は冬馬もよく理解できていた。

「背骨も半分はなくなっているとのことですからね。例え生き永らえても、下半身が動かないというのは常識的に考えればありえる話です。あの方には回復に使える権能もないようですし」

 しかし同時に、カンピオーネの生命力と回復力は、常識では測れない。

 一般的に、神経細胞は再生力が弱く、一度損傷すれば、元通りの機能を取り戻すことはほとんどない。もちろん、背骨の半分近くを吹き飛ばされ、腹に穴が開くような怪我をして助かった人間などいるわけがないのでデータがないが、キズナは歩くこともできない身体になっても首を捻ることはない。

 それでも、カンピオーネならばその重傷すらも、寝て起きれば回復しているのではないかと思えてしまうのである。

「あの甘粕さん」

 祐理がおずおずと冬馬に声をかける。

「なんです、改まって」

「あの、葛の葉様のことなのですが……一体、どういった方なのでしょうか」

「どう、と言われましてもね……」

 冬馬は頭を掻いてあらぬほうを見る。

 祐理の問いに答えるのは難しい。葛の葉狐と言えば、安倍晴明の母親として有名で、場所によっては女神として祀っている神社もある高名な妖狐だ。だが、祐理が尋ねているのは、そういった来歴ではない。なぜ、自分たちを助けたのか。そして、なぜ、キズナを髣髴させる顔立ちをしているのか。そういったことを聞きたいのだろうとは想像がついた。

 しかし、首を振らざるを得ない。冬馬にも、まったく情報が入っていないからだ。分かっていることは、葛の葉がこの事件を引き起こした一派と繋がっていることと、キズナに対して個人的な執着心を抱いていることだけである。

「今の段階では明言は避けなければなりませんが、幸い、敵ではないようです。少なくとも、月沢さんとは敵対関係にないようですから、間接的に私たちの味方だと思いたいですね」

 崇徳院を蘇らせた経緯や目的など聞きたいことはそれこそ山ほどあるが、今はキズナの回復が最優先だ。葛の葉という神祖が、キズナを回復させると言う以上は彼女と事を構えるわけにはいかない。

「信用しても大丈夫なのでしょうか?」

「信用するしかない、というのが現状ですからねェ。神殺しの皆さんが、『まつろわぬ神』と同族以外に殺されることはないという経験則を頼りますよ」

 神祖にとってもカンピオーネは格上の存在であり、殺害するのはほぼ不可能だ。キズナが死に掛けてる状況ならば、あるいはジャイアントキリングがあるかもしれないが、そうならないように恵那が見張っている。

 神祖が相手でも恵那ならばある程度は戦えるはずだ。異変を感じればすぐに冬馬も駆けつける。とにかく、今は護堂とキズナが共に回復してくれなければ日本の先がない。最悪、ヴォバン侯爵やサルバトーレ・ドニなどが上陸して辺り構わず大決戦に持ち込むかもしれない。いずれにしても、ただでは済まない事態となるのは容易に想像がついた。

 と、そのとき、興福寺の中から膨大な呪力が発生した。

 ただの呪術師では決して発生させることのできない規模の力の流動に、祐理と冬馬は同時に振り返り、それがキズナを寝かせている部屋からであると察して慌てて駆け出した。

「どうかされたのですか!?」

 青白い光が溢れ出る部屋に、祐理と冬馬は飛び込んだ。

 濃密な呪力に当てられそうになるも、堪えて部屋の様子を見る。

 畳の部屋の真ん中にキズナが横たえられており、その傍に葛の葉が座っている。葛の葉は、頭に狐の耳を生やし、九本の尾をくねらせてキズナの手を握っていた。

「あ、祐理」

「恵那さん。これは、一体……」

 祐理は恵那に尋ねた。

 呪力の波はすでに引いている。

 その残滓からだけでも、ほんの一瞬、大呪術を行使したのだと分かる。光が収まると部屋の隅にいた恵那が腰に佩いた太刀の柄から手を離して祐理に微笑んだ。

「月沢さんの顔色が戻った……治癒術ですか?」

「ううん。もっとすごいのだよ」

「もっと……?」

 顔を赤らめた恵那の言葉に祐理は首を捻る。

 確かに、ただの治癒術ではキズナの重傷を完治させるのに時間がかかる。血色の良くなったキズナを見れば、キズナの大半が治癒しているものと推測され、治癒術で行える回復速度の限界を軽く超えているということになる。確かに、それを実現するのは「すごい」と評するのも分かる。

「泰山府君祭。見るのは初めてだったよ」

「泰山府君祭!? 今のが、そうなのですか!?」

 恵那が呪術の正体を語ったが、その儀式を聞いて祐理は目を見開いて葛の葉を見た。

 千年前に実在した大陰陽師、安倍晴明が用いたとされる大呪術である。

 陰陽道の最高神であり、冥界の神でもある泰山府君に仮託した呪術は、よく死者蘇生の術などとしてフィクションでは描かれる。現実には、さる高僧の寿命を引き伸ばした延命呪術であるとされるが、現代の呪術師にはとても理解することのできない最高難度の秘術である。

「葛の葉様は安倍晴明の母君とされる方ですから、できても不思議ではありませんが」

 葛の葉を見る祐理の目は、葛の葉の状態をよく見通していた。

 治癒術とは根本から異なる術である。ただ傷を癒すだけではないだろう。本質的に失われた寿命を引き伸ばすというのだから、この儀式が触れるのは「命」そのものと言える。何の代償もなしに実現できるものではないのではないか。

「媛巫女ちゃん。その目でうちを視るのは止めなさい」

 葛の葉に窘められて、祐理は慌てて視線を逸らして謝った。

 霊眼で相手の素性を勝手に見通すのは、人間にすればプライバシーを覗き見られているようなものである。下位の存在に、そのようなことをされれば、『まつろわぬ神』でなくとも不快に思うものである。

「まあ、いいわ。これで、この娘も持ち直したし」

 慈しむように、葛の葉はキズナの髪を撫で付ける。

 静かな寝息を立てるキズナは、まるで母に寝かしつけられた子どものようであった。

「封印を解かれたのですね」

「うん」

 葛の葉は頷いて、祐理の言葉を認めた。

 葛の葉の身体には充溢した呪力がある。本来の神祖では持つことのできない呪力量。それは、葛の葉が命のすべてを費やしてキズナを治療しようとしたということを如実に表していた。

「生憎と、もうこの世に未練もなくてね」

 疲れたように葛の葉は笑う。その姿に声をかけたものかと躊躇しつつ、冬馬が進み出た。

「この世に未練がないと仰るのであれば、崇徳院や月沢さんとの関係など教えていただけませんか?」

「無理」

「しかしですね」

 すげなく断られて、冬馬は肩透かしを食らったような気になった。色々と、話してくれそうな雰囲気ではあったのだが。

「何を言われようと、うちが話すことはない。なんせ、うちはあんたたちの味方ではないからね。この娘とは個人的な関係があって助けたけれど、そちらさんを助ける理由はないよ」

 感情もなく、淡々と事実を告げているのだといわんばかりに葛の葉は冬馬に語った。

 味方の味方がそのまま味方になってくれるわけではない。キズナに肩入れしても、正史編纂委員会には関わらないというのが葛の葉のスタンスのようだ。

 竜蛇の封印を解いた葛の葉は遠からず命を落とす。しかし、その間は『まつろわぬ神』に匹敵する力を取り戻すもので、今の葛の葉はカンピオーネとも戦える戦闘能力を有している。何よりも、呪術に秀でた神格というのが厄介で、人間では勝負にならない。

 ここは、機嫌を損ねる前に大人しく引くのが得策であろうと冬馬は引き下がった。

 キズナのことを大切に思っている。

 ただそれだけは、理解できた。ならば、監視の必要もないだろう。

 冬馬は祐理と恵那の二人と目配せして部屋を辞した。キズナと葛の葉を二人にして、どのような動きになるのかを探ろうというのである。また、護堂もそろそろ動けるようになるころだ。今後の方針を、改めて王と突き詰めなければならない。

 

 

 

 □

 

 

 意識が不意に覚醒する。

 夢すらも見ることなく、昏々と眠り続けていたキズナはゆっくりと瞼を開けた。室内は仄暗く、外から橙色の光が差し込んでいる。日暮れかあるいは曙か。昼と夜の境に、自分は目覚めたらしい。

 それから、しばらく茫洋として視線を彷徨わせたキズナだったが、源為朝の矢を受けて敗れたことや龍巳が敵の手に落ちたことを思い出して、慌てて身体を起こす。

 そのまま外に飛び出そうとして、キズナは堪えた。

 状況が掴めていない。自分は確かに敗北したのだから、捕虜にされている可能性もある。そうなれば、ここは敵の縄張りの中ということだ。迂闊な動きが自分を利することはない。頭に昇りかけた血を、キズナは強引に引き下げた。

「よかった。目が醒めたの」

 背後から声をかけられて、キズナは振り返る。

「アンタ」

「おはよう、晴明」

 そこにいたのは葛の葉であった。

 砂壁に背中を預けた葛の葉が、暗がりの中でキズナに微笑みかけていた。

「今更わたしの前に出てきて、一体なんのつもり?」

 険のある口調でキズナは葛の葉に問うた。

 キズナにとっては、葛の葉は母であると同時に敵である。敵意を向けられることも分かった上で、葛の葉はキズナの前に姿を現しているということか。

「竜蛇の封印を解いてる?」

 キズナは掴みかかろうとして、止めた。

 葛の葉が、すでに死に体だったからである。壁に体重を預けているのも、もはやそうしなければ体勢を維持できないくらいに力を失っているからであった。

「……どうして?」

 葛の葉が竜蛇の封印を解いた理由は、明確だ。

 キズナの傷を癒すために、己の命を消費したのである。キズナは、確かに自分の中に、葛の葉の力の残滓を感じている。

「さあ、どうなのかね」

「まさか、今更後悔でもしてるっての? あの魔縁を蘇らせたこととか? そのけじめをつけるためにわたしを助けたって?」

 キズナは語調を強めて葛の葉に言葉を投げかける。

 今までにも幾度も言ってきた。後悔するのなら初めからするなと。魔縁を呼んだら呼んだで、その敵であるキズナを救うなど、矛盾しているにもほどがある。

「オマエが復活させた崇徳院のせいで、龍巳が危ない目にあってる。――――オマエがッ、元凶だろうッ。それを、今になって後悔しても、遅いッ」

 キズナは燃える太刀を抜いて、その切先を葛の葉の眼前に突きつけた。

 娘に憎悪を向けられた葛の葉は、殊更に悲しげな表情を浮かべた。

「どうけじめをつけるつもり? 葛の葉狐」

 それでも、晴明に問われた葛の葉は、毅然として答える。

 否、つけるべきけじめなどない、と。

「え……?」

「うちはけじめをつける必要はない。そんなものは、端からないのよ、晴明」

「な、に。ふざけるなッ。何がつけるべきけじめはないだ。そんなはずはないだろッ。龍巳が、わたしの絆が、せっかく、このッ」

 目を怒らせて言葉を詰まらせ、キズナは必死になってなんと言うべきか頭を使う。しかし、怒り心頭に達し、激高寸前となったキズナは、ボキャブラリーが致命的に不足していた。頭はまったく働かず、悪口すらも出てこない。まさしく、絶句という状況であった。

「うちはね、うちの幸せを壊したすべてに復讐したかった。だからこれで正しい。うちはただ自分の娘を死なせたくなかったからあなたを助けたのであって、決してうち自身の悪事を清算するためにあなたを助けたわけじゃない。うちにはつけるべきけじめはなく、この国はうちに対してつけるべきけじめがあった。要するに、一〇〇〇年分の利子込みで借金を返してもらっただけなのよ」

「そんな――――」

 ぎちり、とキズナの中で何かが音を立てた。

 それは、奥歯を噛み締めた音か、あるいは柄を握り締めた音かもしれない。けれど、そんな些細なことに気を取られることもなく、キズナは眼下の神祖を睨み付ける。

「あなたには帰ってくるなと、言っていたでしょう。危ない目に遭う。もしかしたら、それ以上に辛いことだってあるかもしれないって。言ったのに、帰ってきた挙句に首を突っ込むから」

「あんなことを言われて、気にならないやつがいるか」

 事前に注意されていたのは事実だが、不透明に過ぎる説明に加え何をやろうとしているのかは明確だった。キズナは当然それを阻止する形で動く。葛の葉も、半ばそれを確信していただろうにあえてキズナに言ったのは万に一つの可能性で日本から遠ざけることができればとの思いからだった。しかし、時期悪くキズナと因縁のあるグィネヴィアが日本で騒ぎを起こし、葛の葉たちが行動する上で最良の時が重なったためにキズナを巻き込む形となってしまった。葛の葉が後悔していることと言えば、キズナに自分と同じような思いをさせてしまったことだけで、それだけでも、己の命がどうなろうが関係なくキズナに最後の機会を残そうと崇徳院の前に出るには十分な理由となった。

 葛の葉は、キズナを通して誰かを見ている。

 それが分かるから、キズナもまた葛の葉の痛みを理解できた。太刀を振り下ろさない理由も、根底に親殺しへの罪悪感と同情心があるからであった。そのどちらが欠けていても、キズナは龍巳との仲を裂いた悪人と断じて首を取っていたに違いない。

「殺さないのね」

 キズナは答えない。葛の葉は、静かに笑みを作った。逆上から醒めれば、キズナは合理的に物事を考えてしまう。葛の葉を殺しても、事件は一切解決しない。かといって生かす理由もないが、殺してしまえばキズナの良心が彼女を責め苛むこととなろう。

「ほんとに、甘い娘。けど、そこはあの人譲りなのかなぁ」

「どうして、崇徳院を蘇らせた?」

「昔、愛した人がいた。それを奪った者と容認したすべてを、うちは憎む。時代が移ろい、呪う相手がいなくなって、うちはどうしたらいいか分からなかった。だから、人ではなく国を恨んだ。――――ふふ、ほら、だからね。縋るならやっぱり怨霊神が相応しいでしょ」

 平和を祈念するのなら、平和を司る神。一方で、天下滅亡を祈念するのなら、答えは自ずと絞られる。しかも崇徳院は、降臨させる必要もなく京に封印されていたのであるから、葛の葉が目を付けるのは至極当然のことであった。

「博雅君を取り戻すには、崇徳院を滅ぼさなくちゃいけない。難しいわねぇ……」

「馬鹿にするな。わたしは、すぐにでも京に攻め上って叩き潰してやる。わたしがわたしであるために、アイツはどうしても必要なんだ」

 始まりからしてそうだった。

 キズナが神殺しになったそのとき、同伴していたのは彼だった。彼の助けがあって、キズナは神殺しを為し遂げることができたのである。その後の戦いも、多くは博雅を連れ立ってのものであり、現代に至ってもそれは変わることがなかった。安倍晴明(月沢キズナ)というカンピオーネは、源博雅(水原龍巳)という従者があって初めて成立するのだと。絆を断たれた今になって、再認識した。

 だが、まだ失われたわけではない。

 今ならばまだ間に合う。怨霊神の主従崩壊の権能は、キズナと龍巳の人間関係に致命的な破壊をもたらすものであったが、幸いなことに霊的結合を否定するようなものではなかった。あくまでも精神に作用する呪詛であり、だからこそ、龍巳との間に結ばれた契約は今も生きている。それは、彼の生存をキズナに教えるものでもあった。

「そう、なら頑張って。もう、時間もないからね」

 キズナの背筋が、ざわ、と総毛だった。

 おぞましい力が、近付いてきている。

「どうやら、ここがばれたらしいわね」

「向こうから来るか。いいじゃない、相手してやるわよ」

 キズナは、踵を返して部屋を出て行こうとする。相手のほうから出向いてくれるのであれば、これほど楽なことはない。京都市内は敵の城塞だ。攻めるに厳しく守るに易い。相手がしろから出てくれるのなら、こちらも応戦しやすい。

「その身体で、戦うのは厳しいんじゃない?」

 葛の葉に指摘されてキズナは足を止める。

 葛の葉の渾身の治療によって傷は塞がったが、体調も含め万全とは言い難い。葛の葉に言われるまでもなく、せめて呪力が回復するまでは決戦を避けるべきであった。実家から渡された霊薬を使っても、早々回復する見込みはない。

「晴明。うちを使いなさい」

「何言ってんの?」

「娘に遺せるのが、これくれいってのも悲しいけどね。でも、あなたの役には立つでしょ」

 葛の葉はどこからか呼び出した小刀で自分の首を切った。血が滴り、衣服を赤く染めていく。膨大な呪力が漏れ出しているのが分かる。

「あんた……!」

「ほら、早くしなさい。……死んだら、何も残らない、よ」

 すでに手足の先が結晶化している。

 葛の葉の肉体が緩慢な死を迎えつつあった。竜蛇の封印を解いた神祖は、強大な力を得る代わりに死ぬ。その宿命が、葛の葉にも手を伸ばしていた。

 キズナは葛の葉の横に膝をつき、その首に牙を突き立てた。

 ドラキュラから簒奪した吸血鬼の権能によって、葛の葉の血を啜る。粘つく血液は、『まつろわぬ神』に匹敵する呪力と《蛇》の末裔に相応しい再生の特性が宿っている。一口啜るごとに、身体に呪力が染み込み、キズナのポテンシャルを急速に高めているのが分かった。

「面倒、かけたわね」

 葛の葉は、首に噛み付く娘を弱弱しく撫でると、そのまま永い眠りに就いた。

「本当に、バカな人」

 けれど、罵倒する気にはなれなかった。

 一歩間違えば、おそらく自分もこのように成り果てただろうと、確信してしまったからだ。次第に薄くなっていく葛の葉の身体は、ある一瞬を境に結晶と化し、砕けて砂となった。

 人一人分の砂の山。

 キズナは手の平から零れる砂に息を吹きかけた。

वा(ヴァー)

 無風であるべき室内を突風が駆け抜けた。

 吹き抜ける秋風に、舞い上がった砂は屋外に押し出され、大気に溶けるようにして世界のどこかに消えていく。母の亡骸を見送ったキズナは、最後の戦いに向かうべく立ち上がった。

 

 


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