ふわりふわりと凪いだ海に浮かんでいるかのように意識がたゆたっている。
ゆったりとした思考。
己が溶けていく感触に、心まで浸っていく。
「総て終わりましたね」
眠りに就きそうにな意識を覚醒させたのは、聞きなれた友の声。
「しーちゃんか」
生と死の境で、二人は再会した。亜麻色の髪が美しい、異国風の神祖は、一〇〇〇年も昔から、ずっとこの国を見守ってきた彼女。となれば、葛の葉はその国を滅ぼそうとした憎い敵となるか。
「怒ってる?」
「いいえ」
玻璃の媛は、たおやかな所作で首を振った。
「むしろ、謝るのはわたくしのほうです。あなたの苦しみを知って、知らぬふりをしました。それが、このような結末になるなど、思いもせず」
「止めてよ」
葛の葉はため息をついた。
「やらかしたことに変わりないもの」
国を滅ぼそうとした事実に変わりなく、崇徳院を蘇らせたのは言い訳のしようのない大悪である。自覚していて、やったのだから妙な慰めは必要ない。
「では、わたくしは最早何も言いません。地上のことに口出しする歳でもありませんしね」
「まあ、ほんと一〇〇〇歳だしね」
「怒りますよ、葛の葉」
「朝令暮改にも程があるでしょ」
くすり、と葛の葉と玻璃の媛は笑いあった。
真白な世界に、葛の葉の色が溶けていく。せめて、結末だけはと留めていた意識も解体されていくことにある。
「もう逝きますか」
「ふふ、そうみたいだね」
果たして声がどこから出ているのか。葛の葉の存在を感じるものの、姿はすでに見えなくなった。
物の数秒で葛の葉は逝くだろう。
一度、輪廻の旅に出れば、次に出会えるのは数百年後になってしまう。その時、玻璃の媛が今のままで生きているという保証はない。
後は、何を尋ねようか。
考えて、一言だけどうしても聞いておきたいことがあった。
「晴明は、どうでしたか?」
かつての彼女が見ることのできなかった愛娘の成長を、実際にその目で見て何を思ったのか。夫との日々を奪われて苦悶した葛の葉にとって、晴明はどのような存在だったのか。
玻璃の媛に問われた葛の葉は、すぐに返事をした。
予め答えを準備していたかのような、迷いのないしっかりとした答えだった。
葛の葉の声は白い世界に溶けて消えていく。
最期に笑ったように思えた。
シン、とした静寂の中。葛の葉の気配はもう感じられない。
しばらく、葛の葉の残した言葉を味わった後で、玻璃の媛は相好を崩した。
「そうですか。それは本当に、よかったです」
娘の活躍を見守って、笑って逝けたのならそれは幸せだったのであろう。
古くからの友人が、苦しみを抱えて旅立つのは心苦しい。その支えになることもできなかった手前、彼女の最期の思いは気にかかっていた。
推測するしかない。
しかし、確信はしている。
葛の葉は、もう大丈夫だと。次の生で過去を思い返しても、憎しみに囚われることなく前に進めることだろう。
玻璃の媛は目尻の涙を指で拭い、自らのあるべき場所に帰って行った。
□
『京都市を壊滅させた大火災から今日で七日が経ちましたが、火災の原因は、未だ分かっていません。政府は安全の確認が取れていないことから京都市全域を立ち入り禁止区域に指定しており、依然として被災者の避難生活は続いています。こうした状況に政府は、今日の午前一〇時、緊急会見を開き、早期の原因究明と復興支援に取り組んでいくとの方針を新たに示しました』
テレビでは連日連夜灰燼に帰した京都市内の映像が流され、深刻な被害を伝えている。
歴史ある寺社仏閣の多くが燃え落ち、経済的損失以外にも文化的損失も極めて大きなものとなった。
このニュースを聞くと、護堂はどうしても気持ちが落ち込んでしまう。世間的には京都大火災と仮に呼ばれているが、実体としては『まつろわぬ神』とカンピオーネとの激闘であり、京都破壊の一助を担った護堂としては耳にニュースが届くたびに申し訳ない気持ちになってしまうのである。
しかし、それは西の話。
東京にはほとんど影響がない。少なくとも今の段階では。京都の復興には向こう数年かかる見通しで、しばらく関西方面に経済的に与える影響は大きいと思われるが、その一方で東京は被害がなかったために東京への人口流出はさらに加速してしまうのではないか。
「まあ、護堂が責任を感じることはないわよ。むしろ、あなたは王の責任を果たしたのだから、誇っていいわ」
エリカはそう言うと艶やかに微笑んだ。
エリカとリリアナは、正史編纂委員会が管理する都内の病院に入院していた。崇徳院の怨霊による影響を検査しなければ、後々の悪影響が現れるかもしれないとのことだったからである。
言霊の剣で斬れるのは怨霊そのものであって、怨霊が与えた物理的変化などは別である。物理的、医学的問題が発生したとすれば、エリカやリリアナの今後に関わる。呪術面だけでなく、医学面から詳しく検査しなければならないのである。相手が日本最大の崇徳院というだけあって、検査する側もかなり細かいところまで検査していた。一週間も検査入院が続いているのはそういった理由からであった。
「今回はわたしもリリィも護堂に迷惑しかかけてないから、まあ、なんとも言い難いところがあるけれどね」
「申し訳ありませんでした、草薙護堂」
エリカは苦笑いを浮かべ、リリアナは心底申し分けなさそうに護堂に頭を下げた。
「役に立てなかったのは、みんな同じだよエリカさん。恵那たちだって、結局安全なところから見てることしかできなかったしね」
にかっと恵那は笑って頭を掻いた。
おどけてみせる恵那の姿にエリカは微笑む。
恵那は祐理の護衛という形で護堂に貢献していたが、戦闘には参加できなかった。怨霊神の力を確実に斬り裂くまでは、恵那も敵に取り込まれる可能性があり、その後はあまりにも激しい戦闘に近づくことができなかったからである。
「日本の怨霊神が、あそこまで凶悪だとは思わなかったわね。一つ、勉強になったわ」
「まさしく悪魔だったな。月沢様がルシファーの権能を簒奪されているが、あれの日本版と言ったところか」
エリカとリリアナはなにやら呪術談議を始めた。日本の信仰と西洋の信仰の違いと共通点など、専門的な解釈を話し合っていて、実に楽しそうである。護堂に刃を向けたことで、二人はしばらく落ち込んでいたのだが、ここ数日で持ち直してきたようでほっとする。
と、そのときドアがノックされ、エリカの返事を受けて中に祐理が入ってきた。
「おはようございます、エリカさん、リリアナさん。と、草薙さんと恵那さんも」
「万里谷、お疲れ」
「おっはー、祐理」
護堂が軽く手を挙げて祐理と挨拶し、恵那はにこやかに祐理に駆け寄った。
「お、りんごじゃん。おいしそう」
「恵那さん、これはエリカさんとリリアナさんに持ってきたんですよ」
祐理は困ったような表情で恵那を嗜める。祐理の手にはバスケットがあり、その中には艶やかな光沢を持つ新鮮なりんごが入っている。
「あら、いいじゃない祐理。みんなでいただけば」
「エリカさんがそう仰るのなら」
「あ、なんだわたしの心が狭いみたいじゃないか。万里谷祐理、わたしの分も同じように扱ってくれ」
「え、はい。では、そのようにしますね」
祐理は愉快そうに笑った。
椅子に座って、りんごの皮を剥き始める。
「万里谷、それでどんな感じになってるんだ?」
護堂は祐理から貰ったりんごを一口食べてから、祐理に尋ねた。
祐理は媛巫女として、京都市内の後片付けに駆り出されている。祐理の霊視能力は、怨霊の残滓などに対して非常に効果的だったからである。
「呪術的な問題はほとんど解決していると思います。地脈が歪んでしまったので、それが元通りになるには十年以上の時間が必要ですけど、それ以外は大した影響を残していないようですね」
「じゃあ、俺たちに何かできることがあるってわけじゃないのか」
もしも、神獣の類が飛び出てくるようなことがあれば、それは護堂の出番となる。しかし、当面そういった状況にはならないとのことであった。となれば、壊すことしかできない護堂の出番はない。
「甘粕さんも飛び回ってて、今にも死にそうな感じだったわね」
「あははは、あの人はいっつもそうだよ。忙しいサラリーマンって感じ」
「一応、公務員のはずだがな」
戦後処理は、護堂の仕事ではない。
それも申し訳ないと思うができないものはできない。専門の人々が、汗を流すこととなるだろう。その中にはもちろんあの苦労人の名前も入っているはずだ。
戦いは終わり草薙護堂は生き残った。
今、大切なのはそれだけだ。
「そういえば、月沢さんはどうしたんだろう」
気にかかるのは、共に戦ったカンピオーネのことである。
最後に、崇徳院を倒したのは彼女である。護堂は蘇生した後で、話でもしようかと思っていたのだが、彼女は護堂の前に姿を現すことはなかった。
護堂の言葉に祐理が答えた。
「月沢様なら、もう旅に出てると思いますよ」
「旅?」
「はい。あの方は、旅がお好きなんです」
「へえ、そうなのか。じゃあ、大丈夫なんだな」
護堂は窓の外に視線を向ける。
激しい戦いの後とは思えない、穏やかな秋風が吹き抜けている。これから先、もしかしたら彼女と本格的に戦わなければならない事態もあるかもしれない。だが、そのときはそのときだ。エリカとリリアナが退院すれば、今まで通りの日常が戻ってくる。今は、それを楽しみにして、他愛のない会話に興じていればいい。
□
アルメニア、エチミアジンにて。
崇徳院との激闘を終えて帰ってくると、待ち構えていたかのようにアンナたちが戦勝の祝宴を開いてくれた。地元での戦いではないにも拘らず、我が事のようにアンナは喜んでくれたのが印象的である。
キズナに心酔している様子のあるアンナにとっては、キズナの勝利は揺るがないものであったが、それでも心配はしていた。
そんなわけで、キズナが無事戻ってきたことで、半ば泣き出しそうになっていた。
京都の大災害は日本国外でも大々的に報じられていたこともあり、日本の様子がはっきりしない数日間は、アンナにとっても心配で寝付けない日々だったのである。
そんなアンナを慰めて、アルメニアで知り合った呪術師たちと酒を酌み交わし、深夜まで続いた宴会が終わってから一時間ほど経っただろうか。
自室に戻ったキズナはベッドに腰掛けて、椅子に座って寛いでいる龍巳を見る。
久しぶりの自室。相変わらずの相部屋だが、当初に比べて互いの距離が縮まったのか羞恥はほとんど感じなくなっていた。
「かおるんから連絡来てたよ。今度、別にお礼がしたいってさ」
「結局、あちらにまともに連絡しないで出てきたからな。俺だけでも残って事後処理に加わればよかったか」
「だめだめ。向こうは向こうでやればいいんだから、龍巳一人残っても意味ないよ」
「確かに、それはそうだけどな」
「連絡くらいメールでも何でもやりようはあるから大丈夫だって」
未曾有の大災害に対処するために正史編纂委員会も日夜フル回転の日々を送っているらしい。馨からの簡素なメールは、その多忙ぶりを克明に愚痴るものだった。短い文章の中でに用件と愚痴を織り交ぜる独特な文章構成は、キズナとの気安い関係を窺わせるものであった。
「キズナがいなければ、京都壊滅程度じゃすまなかったからな。正史編纂委員会は、キズナに大きな借りができたってことになるな」
「そっか、そうだね。うん、貸し借りは大事だよね。……さて、どうやって困らせてやろうかな」
「ほどほどにな」
冗談だとは思うものの、キズナのことだからある日突然気分を変えて、何か傍迷惑な要求を突きつけるかもしれない。
キズナにすら、そのときが来るのかどうか分からない。しかし、何かあったときに、王の権力で要求するよりは正当性があって、こちらの罪悪感も薄れるだろうと思うので、この件は頭の中に留めておくこととする。
南北朝期に封印された崇徳院は、今回の戦いで消滅した。日本は、この戦いで一つの災厄の芽を摘むことができたのである。
しかし、それはキズナにとって何の価値も見出せないものである。
日本のどこかで眠る最強の《鋼》。キズナが『まつろわぬ神』を討伐して真に意味を見出すとすれば、かの神格の完全消滅以外になく、それ以外の神格を倒したところで、仕事の一つと割り切れる程度でしかない。要するに、今回事件に巻き込まれて、その解決に多大な寄与を果たしたものの、キズナからすれば寄り道しただけで、これまで幾度も繰り返してきたカンピオーネとしての日々の延長でしかなかったのである。
龍巳を失いかけるという嘗てない苦難はあった。
母と語らうこともできた。
困難は、今までにないものであったが、終わってしまえばその他大勢の神格と同一の怨霊神であったと回想するだけであった。
「ねえ、龍巳」
キズナは、龍巳に言った。
「ちょっと、外に行かない?」
祝宴の興奮が尾を引いているのか、眠気は一向に訪れない。電気を消しても、暗闇を見通すキズナの目では対して意味を成さず、落ち着かないまま朝を迎えてしまいそうである。何もしないで、ずっと部屋に閉じこもる気分でもなかったので、キズナは龍巳を誘って外出することにしたのである。
何か目的があったわけではない。
外に出たい。
そんな気分だったのである。
エチミアジンの街は、深夜の闇に包まれてひっそりと眠りについている。拠点である大聖堂の近辺は、田畑に囲まれていて、街灯すらもほとんどない。星明りもなく、正真正銘の真っ暗闇であった。
そんな闇の中をキズナは龍巳と共に歩いている。
なんとなく、やってきたのは近くにある世界遺産のスヴァルトノツ。一〇〇〇年ほど前に地震で倒壊した教会跡で、現在は円形に並んだ石の柱などが残っているだけである。
周囲には、当時を偲ばせる瓦礫が今でも散在している。
「息、白い」
キズナの口から、白い呼気が漏れる。
「この国、冬は相当寒いらしいからな」
「夏は暑いし冬は寒いのか。雪が積もるっていうから、まあそうなんだろうとは思ってたけど」
肌を刺すような冬の風がさわさわとキズナの頬を撫でている。
マフラーで顔の半分まで隠して、龍巳と手を繋いだ。
感じるのは、穏やかな温もり。
キズナの小さな手を、龍巳は包み込むように握ってくれた。
「術を使えば、これくらいの寒さ、なんてことないんだろ?」
「うん」
キズナは頷いた。相変わらず、吐息は白い。肌の奥にまで染み込んで来るかのような冷気に、頬が紅くなる。
「でも、いい」
呪術を使えば、寒さを感じることもなく平然と乗り切れる。それこそ、極寒の北極でも過ごせるくらいで、呪術を使える人間のサバイバル能力は非常に高いのである。けれど、キズナは使う気にはならなかった。寒いほうが、温かさが伝わるから、などという気恥ずかしい理由を口にすることもできず、言葉を切る。
一〇〇〇年の月日を越えて、ここに自分がいて、彼がいる。それだけが不変の事実であるかのように、
空に星はなく、ただどこまでも続く灰色の雲が蓋をしている。
ゆっくりと、舞い降りてくる白い雪に冬の到来を予感する。
「ねえ、龍巳」
「なんだ」
キズナは、空を見上げながら呟くように言った。
「わたし、龍巳が好き」
今まで、明確に言葉にすることがなかった台詞であった。胸の中には常にありながら、口に出すのが恥ずかしくて、怖くて、ずっと仕舞っていた気持ちであった。けれど、なんということはなかった。そこにある気持ちに向き合って、信じることができれば、こうまで自然に紡ぐことができる。
「そうか」
龍巳は、キズナの告白を受け止めて、言葉少なに返事をする。
「俺もだ」
待ちに待った言葉であった。
しかし不思議と飛び跳ねて喜ぶようなことにはならなかった。もはや口に出すまでもないことだと、頭では分かっていたからだろうか。そうではないと、すぐに否定する。胸の中に広がる安堵を思えば、内心で不安を抱いていたことはよく分かった。だから、きっと実感が持てないでいるだけなのだ。じわじわと、胸を熱くする想いが、それを物語っている。
ついに、我慢できず、キズナは相好を崩して呟いた。
「よかった」
きっと、これは始まりに過ぎない。
キズナと龍巳はこの瞬間、やっとスタートラインに立ったのだ。崇徳院が遺した言葉の通り、これからも二人には多くの苦難が待ち受けているだろう。しかし、何一つ恐ろしくはなかった。頼れる仲間がここにいる。たとえ運命だろうと打ち壊せると、子どもみたいに信じることができる。
雪は静かに降り落ちて、風に流れて散っていく。
底冷えのする世界の中で確かに温もりを感じつつ、もう二度と離れることがないように、キズナは繋いだ手をしっかりと握りなおした。
ここまでご愛顧いただきましてありがとうございました。
極東の媛魔王はこれにて完結となります。『生まれ変わって主人公』完結から一年。連載期間は一年七ヶ月ほどと前作よりも完結に時間がかかっているんだなあと思いつつ。
女主人公物のカンピオーネは何度も投稿と削除を繰り返す題材でした。
最初は原作沿いでゲーマーで変態な女魔王。すぐに止めて次が極道さんで女魔王。ちょっと続いたけれども挫折。次が従姉で年上の大学生女魔王。第一の権能は為朝の貫通攻撃でした。その他新潟を舞台に不動明王と戦ったりし、紆余曲折を経て、転生という発想に至ったのは、若い魔王が複数の権能を所持している言い訳に都合が良かったというメタな理由からでした。新潟なのは新幹線で東京にすぐ行けるので、原作から離れつつ原作にも介入できる位置にあると思ったから。とはいえ、極東の直接の前作に当たる作品で権能を用いた転生という要素が出たのが大きく、作り直す際に転生にも権能以外のこじ付けをしようと思い立ち、最後の王が眠りに就いたという千年前の日本の有名人で、しかも転生と相性のいいあの方をモデルにするという形に落ち着いた次第です。
前作でハヌマーン殺してたので、それも含めて作り直してよかったです。
今週は毎日更新したぞ(どやぁ)
では改めまして、これまでお付き合いくださいまして、ありがとうございました。