三年間の高校生活に語るべきことはほとんど無いようにキズナは思う
つまらなかったわけではないし辛かったわけでもない。
容姿端麗成績優秀ともあれば、それこそ、イジメの対象にされたかもしれないが、運よく友人にも恵まれた。
そう、学校生活が色よいものになるか否かは、単にめぐり合わせの問題なのだ。
それを鑑みれば、この三年間は、実に充実した毎日を過ごしていたと言い切ることができる。
自らに課した『カンピオーネであることを秘匿する』という制約も、それを守ろうとする行為自体が頭を使う作業になるため、比較的楽しかったのだ。
あえて自分に制約を課すというのは 強すぎる彼女が、一般人たちと普通の日常を送るために考案したものだ。キズナは、自らが特別であるということを常に意識していなければならないと考えている。そうでなければ、対等な関係での人間関係は構築できないはずなのだ。
そのための制約だ。そして、それもあと数ヶ月の辛抱だ。
きっと、その先にあるのはバラ色の世界に違いなく、それを思うだけで背筋を甘い痺れが走る。
今、同級生に限らず多くの若者が同じ夢を抱いている。
それが、大学進学か、就職活動か、それとも世界へ打って出るかの違いでしかなく、それを踏まえれば歳相応と言えるだろう。
キズナのそれは、時を置けば、特に労せず手に入るもの。
それゆえに、待ち遠しい。
ところで、カンピオーネという存在はただそこにいるだけで争いごとを呼び寄せる性質があるらしい。
キズナは博物館の中にいた。
人気は無い。閉館してから、二時間は経っている。
博物館は、その性質上年中空調を効かせていなければならない。節電が叫ばれる昨今の風潮の中で、多少室温を上げているようだが、それも苦渋の決断なのだ。
なぜならば、温度、湿度、光。これらは収蔵品に多大なるダメージを与える要素になるからだ。温度と湿度は、劣化を促進し、カビや虫の発生要因ともなる。太陽光や蛍光灯に含まれる紫外線は、日本画の天敵である。紫外線に曝された天然着色料は、瞬く間に色を失ってしまう。
では、展示しなければいいのではないか、というとそうでもない。
博物館は、収蔵品の収拾や研究以外にも、展示などを通して市民の教育の場を提供する義務があるのだ。
よって、博物館は、紫外線を含まない蛍光灯を使用した上で薄暗くし、常に温度や湿度を管理するなどして、展示物を守っているのである。
今、キズナが見て回っているのは、そんな展示品たちだ。
刀や槍といった刃物類が、キャプション付きで展示されている。
「今やってる企画展は、『我が国が誇る刀剣の世界』でしたよね。CMで見ましたよ」
刀剣自体は、呪術の世界では珍しいものではないが、表の世界からは消滅して久しい。
戦国ブームも相まって集客率は上々と聞く。
「刀や剣というのは、展示が非常に難しい遺物の一つです。なにせ、材質が鉄と木、物によっては装飾が金銀なんて場合もありますので」
「材質が異なれば、それを保存するための温度や湿度も違いますからね」
「ご明察です。媛」
「媛と呼ぶのは止めてください」
展示されている刀剣類は、刀身と柄、鞘が別個に保存されているのだ。今は同じケースの中で飾られているが、それも組み立てられてはいない。
鋼には鋼、木には木、それぞれ保存に適した環境が異なるのだ。
「こちらです」
担当の呪術師に案内されて、キズナは奥まったところにある部屋に案内された。
その部屋には、展示されていない収蔵物がいくつもおいてあり、さらにその奥に扉がある。
「あの扉の向こうが、収蔵庫になります」
「ここは?」
「ここは、収蔵庫に保管している物品を外に出す時に、それらを一時的に置いておく部屋です。急な環境の変化は、劣化の原因になりますから」
「慣れさせるための部屋ってことですね」
「はい」
そして、その奥にある部屋に、キズナがこの場に呼び出された理由がある。
すでに、キズナは不穏な気配を感じ取っていた。
ねっとりとした、不快な視線を感じている。間違いなく、視ている。人知を超えた手段でキズナのことを監視しているのだ。
しかも、そこにあるのは本当に不愉快ながら、明確な情欲である。
なまじ、顔立ちが整っているだけに、そうした視線には慣れっこであるが、不快なものは不快なのだ。
問題は、あの部屋の中から漂ってくる気配とこの視線が合致しないことだ。
より危険なのは、視線ではなく鑑定を頼まれた物品のほうだと断言できる。
「どうされましたか?」
隣の呪術師は、気づかないのか共犯か、何れにせよ相手の目的が何かはっきりするまではこちらからは動かないのが得策だ。
なんでもないと告げ、収蔵庫の扉を開けた。
――――途端、吹き寄せてくる熱気。
とてつもない炎の奔流。
紅蓮に染まる世界。
煩悩を焼きつくし、仏法を守る聖なる炎――――
「ッ……」
一瞬乱れた呼吸を整えて、改めて部屋の中を見る。
真っ白な部屋の中に、無数の美術品や考古学史料が保管されている。中央にあるテーブルに置いてある木箱が、件の物品であるらしい。
これまた、厄介なものを見つけ出したものだ。
案内役の呪術師が、手袋を嵌めて木箱の蓋を開けた。
それは、呪符を繋ぎ合わせた長い包帯状の布切れで包み込まれた細長い剣であった。
「倶利伽羅剣ですね」
「その通りです。とあるお寺の遺構を発掘調査していたときに見つかったものなのです。すでに調査も終えましたし、今回の企画展で展示する予定だったのですが、一昨日の夜から急速に呪力を蓄え始めまして」
「それで、わたしのところに来たって訳ですか。しかし、これは見るからに神具。封印を強めるといっても、時間稼ぎにしかなりませんよ」
「委員会としては、僅かでも時間を稼いでいただければそれで構わないのです。その間になんとか別の対処法を模索しますので」
なるほど、今はとにかく時間が欲しいというわけだ。
刀身からは、封印の呪符をもってしても押さえきれないほどの呪力が漏れ出ている。
聖なる呪力だ。
大地から力を吸い上げているに違いない。
倶利伽羅剣は、不動明王が振るう仏敵をまつろわす剣だ。これ自体に《鋼》の性質が宿っている。
「なんとかなりそうですか?」
「ここまで来ると、一筋縄ではいきません。一度、内包された呪力を外に出して、その後再封印という形を取るべきなのでしょうが……」
そこまで言ってから、キズナは視線を彷徨わせた。
「呪力を放出するのはリスクが大きいですね」
キズナは自らが導いた最善策を打ち消した。
呪術師のほうも、それを是とする。
「はい。この部屋には、倶利伽羅剣以外にも複数の呪物が封印されているようですので、呪力を放出させた場合、その力に触発されないとも限りません」
そうなっては、もう何が起こるかわからない。
最善を選んだ結果最悪を導く。
笑えない事態である。
神具の取り扱いはただでさえ慎重にならなければならないのだ。下手を打てば、土地が丸ごと吹き飛びかけない。
かといって、外に倶利伽羅剣を持ち出すのも危険を伴う。
今や、倶利伽羅剣は限界まで膨れ上がった風船だ。僅かの衝撃で破裂してしまう可能性があった。
「よくもまあたったの二日でここまでになったものね」
呪符の表面を指先でなぞる。隙間から見える刀身は、年月による風化を物ともしない金属光沢がある。
「これから封印作業に入ります。まず、これ以上呪力を蓄えることがないように、外界から遮断します。それから、溜まった呪力を地脈に還す術式を刻みます。これで、多少は時間が稼げるでしょう」
キズナにできることは、呪力がこれ以上溜まらないようにすることだけだ。そのために、まず刀身に呪力が流れ込まないようにし、それから溜まった呪力を元の地脈に還すことで抜いてしまおうというのだ。
風呂桶を想像すると分かりやすい。
これまでの倶利伽羅剣は、栓をした状態で湯を注がれる風呂桶である。その状態では何れ湯があふれ出てしまうので、キズナは注がれる湯を止めた上で、栓を抜こうとしてるわけだ。
そして、一度栓を抜いてしまえば、後から湯が流れ込んでも下から抜けていくので溜まることはない。
時間稼ぎをするのであれば、十分な解決策だ。
問題は、これが風呂桶ではなく神具であり、すでに破裂寸前だということだ。
繊細な作業になることは間違いない。
「分室長への連絡はお任せします。暫し、お時間をください」
「わかりました。集中力の必要な作業ですし、私は外でお待ちします」
それから、倶利伽羅剣以外には極力触れないようにと注意を受けてから、その呪術師は部屋の外に出た。
それから、三〇分ほどが経った。
空調設備が整っているおかげで、室内はひんやりとしていて肌寒い。
それにもかかわらず、キズナの額には汗が浮かんでいた。
相対する倶利伽羅剣の呪力が、熱力学に囚われない形でキズナを炙っているのだ。目に見えぬ呪力の熱気が立ち昇っていて、それを感知できるキズナは正面から熱を受け止めているわけだ。
やがて、キズナは倶利伽羅剣に添えていた手を離した。
傍目から見ても、変化はない。しかし、呪術の心得のある者が見れば、変化は一目瞭然であろう。
部屋に充満していた『火気』が消えている。
キズナも自分の双肩にかかっていた重圧が消えたことにほっとした。
とはいえ、まだこれはまだ前哨戦でしかない。一時的に神具を眠らせたに過ぎず、本格的な作業はここからだ。
高位の巫女が可能とする奇跡。
御魂鎮めの法である。
キズナの切り札でもある。権能ではないが、神々の力を一時的に無力化する砦となる呪法だった。
今の日本で、この呪法を扱えるのはキズナを含めて数人だけ。近いうちに万里谷祐理も会得するだろう。その時には、また先生面するのも悪くはないかもしれない。
「さて、次はっと……ッ」
次の儀式に以降しようとした矢先に、キズナは背筋を這うような悪寒を感じて札を投じた。
宙を舞う呪符は、空中で針となり、それを刺し貫いた。
瞬間、息を呑んだ。
真っ白な壁に縫いとめられた黒いボディ。
全長は40mmになろうかという巨体で、六本の足をわさわささせている。
三億年もの歳月を経て健在。
神代以前の世界からこの世に生きる漆黒の身体は、現代を生きる少女を悪夢の底に突き落とす。
それは存在は悪魔以上に悪魔であり、実在するだけに脅威度も極めて高い。
彼らの歴史からすれば、人類の歴史など文庫本一ページにも満たないだろう。
触角は長く、脚の棘は数メートルの距離を隔ててよく見える。
「ゴキブリ……ッ!」
間違いなく、それはゴキブリと呼ばれる昆虫だ。
テラテラと光る背と頭部を貫かれながらも生きながらえている生命力などまさにゴキブリの典型例。
絵画を食い荒らす博物館の天敵にして、少年少女の悪夢の結晶に他ならない。
おまけにその大きさは本州に生きる種ではありえない。
胸背板に黄白色の環状紋。どちらかと言えば、黒というより茶褐色。
主に沖縄で活動する、でかいヤツ。
空を飛び、人を襲うとまで呼ばれるワモンゴキブリであった。
「なんでそんなのが東京の博物館にいんのよ!?」
キズナの疑問ももっともである。
博物館は常日頃から虫の発生には極めて過敏に反応する。昨今の風潮は発生してから殺虫剤を噴射するのではなく、予防からしっかりしようとなっている。よって、ゴキブリが現れることはまずない。それが、よりにもよって収蔵庫に出現するとは、これは由々しき問題であった。
最近のゴキブリはプラスチックも食うらしい。
それは置いておいて、一匹いればさらに多くのゴキブリがいるというのが、この虫の厄介なところである。
かさかさわさわさと、気味の悪い物音に周囲を見回してみると、出るわ出るわワモンゴキブリの大集団である。
虫の扱いは日本呪術の基礎であり、平安時代の闇を駆け抜けた陰陽師をして震え上がらせる生理的不快感。
床、壁、天井、いたるところにワモンゴキブリがうごめいている
そして、確信した。
このゴキブリたちは『式』である、と。
「さっきの視線の主か。今ここで動くことに何の意味がある」
封印処理が不完全な倶利伽羅剣で一騒動起こそうとでもいうのか。
否、下卑た視線はいまだにキズナを向いている。
どうやら、このゴキブリを用いて、キズナを害そうとしているらしい。
こういう手合いの考えることはただひたすらに下衆である。
もはや、室内はゴキブリに埋め尽くされている。呪術によるものか数は増え続け、折り重なり白い壁はいつしか真っ黒な生物に染め上げられていた。
ゴキブリたちは一つの意思に従って、怒涛となり、キズナに踊りかかった。
■
博物館の警備員室にて、くぐもった笑い声を上げている一人の男がいた。
歳は二〇代前半といったところで、警備員に扮しているが、紛れもなく呪術師である。
彼は、もともとこの博物館に勤める学芸員でもあった。正史編纂委員会に所属する呪術師の一部はこうした博物館で学芸員を務めつつ呪物の管理を行うのである。
この男は、数ある呪術の中でも特に虫を使う呪術を得意としていた。
月沢家とほぼ同格の名家、高見家の次男坊である。名は裕三。両親は正史編纂委員会の重役を勤め、裕三自身も非常に高度な呪術を使う高位呪術師だ。
「貴様が悪い。貴様が悪いんだぞ!」
呪詛を呟く裕三は解き放った虫を通して収蔵庫の内部を視ていた。
うごめく黒い虫たちにたかられて、もはや黒い人型としか見えないキズナの姿。
裕三には裏の顔がある。
表面上は好青年を演じてはいるが、その内面はおどろおどろしい虚栄心と名誉欲に満ち溢れた愚物である。
こういう手合いは執念深く嫉妬心が強い上に、プライドが高い。そのため、自分を傷つけるものに対して極めて攻撃的になる傾向がある。
しかし、幼いころから特別視されて育ったことで肥大したプライドは、月沢キズナによって木っ端微塵に踏み砕かれた。
以前、キズナが一方的に縁談を蹴り飛ばした相手こそ、この裕三なのだ。
特別な人間には特別な伴侶が必要である。
その観点から言えば、キズナはまさに最高レベルの相手だ。
器量よし、魔術の腕よし、家柄よしである。
逃す手はなく、自分の能力や容姿にも自信を持っていただけに、見合いをするまでもなく拒否されたことが大いに裕三のプライドを傷つけていた。
その傷は今でもジクジクと裕三を責め苛んでいる。
なんとしてでも手に入れる。
それだけでは足りない。
思いつく限りの責め苦を与え、徹底的に辱め、淫らな娼婦も同然に仕立て上げてやる。
それくらいでなければ、この恨みは晴れることがない。
女の扱いは心得ている。それは愛情によるものではなく性欲の捌け口としてのものだが、相手が裕三を受け入れるように躾けるのは限りない快楽と優越感を伴う作業である。
このゴキブリたちは、裕三が特別にカスタマイズした式神であり、女の精を喰らい快楽の底に沈めて調教するための『蟲』なのだ。
これまで堕としてきた女と同じように、キズナも堕としてやろう。
「これで、君は俺のものだ」
キズナの白い肌を汚物で汚すことを妄想しながら、裕三は暗い笑みを浮かべる。
「愚物と思っていたけれど、まさかこれほどとは思わなかった……最低な男ね」
裕三の背後から声がした。
飛び上がるように振り向くと、そこにはキズナが平然と立っていた。足元には気絶した案内の呪術師を横たえている。
「バ、バカな」
「古典的な反応ね。面白みの欠片もない」
「あれは、式か。だが、いつの間に。そんな余裕はなかったはずだ!」
「そうね。四方をゴキブリに囲まれ、部屋には鍵がかかっている。おまけに結界で封までされてね。……それで、その程度でこのわたしを捕らえられると思っているの?」
冷徹な視線は、もはや裕三を視界に入れることすらも拒否しているかのようだ。
「貴様は」
裕三の声は震えている。
恐怖ではなく羞恥と屈辱でだ。
「貴様は、また俺を愚弄するのか!?」
呪力が迸り、壁面から蟲がにじみ出る。
ゴキブリを選んだのは、式となる虫の中でもとりわけ強靭な身体を持っているからだ。
ワモンゴキブリで秒速1.5メートルの速度で走る。木々を削り喰う強い顎は、そのまま武器となる。そんな生物を式とするのだ。戦闘用にするにももってこいの生物であり、その虫に、蟲使いとしての叡智を込めた結果、通常のゴキブリ以上に凶暴で、凶悪な仕様となっている。
「ふ、ふふ。こいつらは鉄をも喰らう顎を持つ特別製だ。体表の脂質には催淫効果こそないが、その代わりに痛覚を鋭敏にする効果を付与している! 身体の末端から虫どもに喰い荒らされながら、激痛にのた打ち回るのだ! 最高のショーだと思わないか? それが嫌なら、今すぐここで跪け! 命乞いをしろ!」
「下衆の考えることはつくづく下衆だということがわかった。今度から、あなたみたいな人は絶対に相手にしないことにしよう」
「ゴキブリどもォ! ぶっ殺せ! この小生意気な小娘を地獄に落としてやれ!」
号令がかかり、羽音を立てて無数の殺人ゴキブリがキズナに飛びかかった。
■
一匹のゴキブリを人間が恐れることはない。
仮に、そのゴキブリが肉を喰らう虫だったとしても、体躯の違いはいかんともしがたい。人間側は、振り払うなり踏み潰すなりすればよい。
しかし、それが数千数万もの大群であった場合、体躯の優位性は覆される。
それはまるでアリが獲物に群がるが如き光景だった。
キズナの身体によじ登るゴキブリたちは、一秒間に数百匹。それを振り払うのはもはや不可能である。しかも、その一匹一匹が呪術で強化された式神なのだ。脚と牙は自然界ではありえない発達をしているし、その食性は人肉を骨ごと喰らう凶悪さだ。
そもそも、ゴキブリは雑食性で、何でも食べる。人間の髪の毛すらも餌とする彼らが、人を喰うことを覚えたのなら、人間など骨も残さず喰い尽くされる。
二秒後には、キズナの姿はなく、真っ黒なゴキブリの山が完成していた。
勝った――――勝利を確信しての凄絶な笑みは、ゴキブリの山からひょっこり顔を出したキズナによって打ち砕かれた。
「なァ!?」
驚愕に目をむく裕三を尻目に、キズナは完全に自由の身となった。
ゴキブリの山が内部に生じた空間に落ちて、崩れた。
「虫の使い方がなってないね。何一つ駆け引きができてないじゃない。わたしと虫で呪術戦がしたいなら、せめて道満レベルの呪術を行使しなきゃダメ」
「道満……蘆屋道満だと!? ふざけるなッ! 貴様、安倍晴明に比するとでも言うつもりか!?」
激高する裕三は、キズナの返答を待たずにゴキブリを蠢かす。数をさらに増やし、数と重量で圧倒する算段なのだ。
しかし、そのゴキブリの怒涛を、キズナは微動だにせずすり抜けた。
「なんだ、その力は? すり抜ける術など聞いたことがない……そこにいるお前は、幻術か!?」
「くだらないことを言ってないで現実を見てよね。ここにいるわたしは紛れもない本物。でも、あなたが幻術だと思いたいのなら、幻術でもいいんじゃない? 本物か偽者かなんて、大した違いはないのだしね」
「ほざけェッ!!」
裕三はなりふり構わず、三度同じ攻撃を繰り返した。
一度破られた攻撃を断続的に続けるのは、呪術の世界ではナンセンスだ。少なくとも、相手の術式を見破るなり対処しなければ呪力を無駄に消費するだけで終わる。
その定石に照らし合わせてみれば、裕三の決死の攻撃はまったくの無為である。
キズナのすり抜ける術の正体を理解しないままに攻撃を加えたところで、かすり傷一つ負わせることはできないのだ。
それにしても、なんというずさんな術式だろう。
三流呪術師の使う呪術は三流レベルなのは当然のこととしても、これはない。
これが、神様の書いた脚本だというのなら、世の中が上手く回らないのも納得できる。この程度の筋書きしかできない神様に世の中を都合よく回すことなどできはしないのだから。
それに、正体を看破したところで、どうにかなるわけでもない。この戦いは、もはや戦いですらない。なぜなら、勝敗とは戦う前から決まっているものだからだ。
大の字で倒れた裕三を、キズナは部屋の端から感情のない瞳で眺めていた。
裕三自身は、いつ自分が倒されたのかすらも分からなかっただろうし、今でも戦っていると思いこんでいるに違いない。
自分の一世一代の術が効果を発揮しないというのは、呪術師にとっては途方もない悪夢なわけだが、今回は文字通り悪夢を見せられていたのである。
そもそも、式を使う陰陽師が相手の前に姿を見せる必要はないのだ。
裕三が、警備員室にいながら収蔵庫のキズナに襲い掛かったように、式を遠隔操作することで自分が矢面に立つことなく相手を圧倒するのが式による戦いである。
それを誰よりも理解しているキズナが、わざわざ相手の正面に立つことなどありえない。
西洋の騎士剣術とは違うのだ。
呪詛は、隠れたところから、相手に悟られぬようにかけるべきで、式もまた同じ。
端からキズナは裕三と勝負をしていなかった。
適当に挑発して、彼が激高すればそれで終わりだったのだ。
「ああ、お帰り」
キズナが虚空に差し出した指先に、一匹の蚊が止まった。
この蚊こそ、キズナが用いた式なのだ。
この蚊に刺された者は、当人の自覚のないままに夢の世界へ誘われる。
蚊はあらゆる病を媒介する虫である。その性質に加え、小さな身体かつ相手を刺す際は僅かの痛みしか感じさせない隠密性の高さ。呪詛を運ばせるのに、これほど都合のいい虫はいない。
もちろん、この虫一匹では相手にさしたる効果を与えることはできない。それなりに修練を積んだ呪術師なら、簡単に弾ける程度の術である。
しかし、キズナの度重なる挑発と、自身最高の術を行使し続けていたこともあり、裕三は刺されたことにも、呪詛をかけられたことにも気づかなかったのである。
キズナは、一匹の蚊で数万匹のゴキブリを征したのであった。
「ご苦労様」
労うや否や、指先に灯った火が蚊を灰に変えた。
殺人ゴキブリも、主が倒れたことで動きを止めた。式に改造されたことで、自立行動が取れなくなったのだ。もう、この虫に害はないが、これ以上気色悪い光景を目の当たりにするのは我慢ならない。火界呪をもって室内のゴキブリを一掃し、無様に倒れ伏した敵を縛り上げた。
物量作戦は正面から挑んでくる相手には効果的だろう。しかし、キズナのようなその裏をかく相手にとっては呪力の空費でしかない。
「物量戦も現代的ではあるけどね」
戦は数で決まる。
それは否定できないことで、数に勝る者が勝者となる歴史が積みあがって現代に至る。
だが、キズナを前にして数千数万程度の物量が果たしてどこまで通用するか。
キズナが召喚し得る式の総数は文字通り無限。
その呪力の続く限り、いくらでも呼び出すことができるのだ。
畢竟、高見裕三は戦う前から敗れていた。
勝ち目など一〇〇〇年前から存在しないということを、終ぞ理解することはないだろうが。
■
とくんと脈打つのは封じられたはずの倶利伽羅剣。
キズナの封印処理で失いつつある呪力を、周囲を埋め尽くしていたゴキブリから簒奪し、今や限界ギリギリまでその力を高めていた。
その身に巻きつく呪符を焼き払い、収蔵庫内を猛火で包みながら独りでに起き上がる。
すでに木箱は灰となって吹き払われた。
真っ赤に溶解するテーブルの中央に、切先をうずめて直立する。
それは『地に突き立つ剣』である。
スキタイより始まり、洋の東西に散っていった剣神のモチーフ。
紅蓮の炎の中から、青黒い手が現れて、倶利伽羅剣の柄を握り締めた。
中国には漢方薬に使うためのゴキブリを養殖する養殖場があるらしいです。そして、その養殖場から100万匹のゴキブリが逃げ出す騒動があったという……周りの人は夜寝れないね。