鈍い衝撃とともに足元がぐらつき、声をあげる間もなく体が床に叩きつけられる。やっとの思いで上半身を起こすと、白みを帯びた長い毛先が目に入った。
妖魔の血肉の影響だ。力を得るためにガラテアの体内に埋め込まれたそれは、肌や髪、目の色までもを変えてしまう。
「立てるか」
上から突如降ってきた声に、呆然としていたガラテアは慌てて顔を向けた。
銀色の2つの目がガラテアを見つめている。しかし、それは柔和な眼差しだった。
「立てるか、訓練生」
「訓練生……?」
ガラテアは首をかしげる。
「お前のことだ。ほら、立て」
手を差し出され、ガラテアの手は難なくその手を取った。
立ち上がると同時に勢いよく頭を下げる。この人もおねえちゃんの仲間のクレイモアなのだろう。しかも、多分だが割と強い部類の。
「あの、ぶつかってごめんなさい」
「いや、気にするな。こっちこそすまなかった」
何せ妖気がまだ感じられないからな。と付け足した相手の言葉を、ガラテアは聞き逃さなかった。
「妖気?」
「ああ、私たち戦士は、お互いの存在やその場所を知ることができるんだ。気配といったほうが分かりやすいかな」
「へぇ……」
ガラテアは納得して頷く。それを見下ろし、今度は相手が聞いてきた。
「それよりお前、部屋に戻らなくて平気か?まだ完全に戦士の体になった訳じゃないんだろう?」
心配してくれたのだろう。それは嬉しいが、今はやりたいことがある。ガラテアはそっと首を振る。
クレイモアとはいえ、この人は穏やかそうな人だ。そう思った。
「まだ大丈夫。今はまだ、外の空気を吸っていたいの。あの、えっと」
「イリスだ」
「私はガラテア。ところでイリスさん、フィオラっていうクレ……ううん、戦士の人を知らない?」
イリスは軽く目を瞑ると、何かを探すように眉をひそめた。しばらくして目を開き、聞き返す。
「フィオラ?多分今は任務中だと思うが、何か用でも?」
「ううん。そのおねえちゃんに引き取られてここに連れてこられたから、今どうしてるかなって」
イリスは納得した顔をすると、そのまま歩き出した。ガラテアも興味本意でゆっくりとその後を追う。たった2、3分話しただけだが、すでにガラテアの心にはイリスへの信頼が芽生えつつあった。
「それにしても、お前、敬語を使わないんだな」
「イリスさんは何か優しそうな気がしたから、大丈夫かと思ったの」
そうか、と呟き、イリスは小さく破顔した。
「ちょっと……我を忘れそうになりましたね……」
廃墟の壁に寄りかかり、フィオラはぐったりと座り込んだ。
押さえた左肩からは血がだらだらと流れ、服はもはや原色をとどめていない。そしてフィオラの左前方には、翼の生えた妖魔が倒れ伏していた。
「そういえば……飛翔体もまれに存在するんでしたっけ」
力なく目を閉じるとつい先程のことがどっと思い出される。
あの後は、正直言って乱戦だった。
嫌なことを言ってくれた妖魔を切り開いたと思ったら、左右から何体もの妖魔が手をのばしている。とっさにしゃがみこんだのは痛手だったが、触手が刺さったのが左手だったことが幸いした。妖魔にのし掛かられる寸前に上空に跳躍することができたのだ。
これが右手や胴体だったらと思うと背筋が寒くなる。
そして着地と同時に広がった妖魔を切って切って切りまくり、危ないときはミリ単位で横に避けたり跳躍したりした。自分を囮に狭い場所に引き付けて一気に倒す。そんな泥臭い戦法も何度も使った。
こんなありさまでナンバー13かと思うと、情けなくなる一方だ。
だが、とりあえずは姉に感謝しなくては。その情けないナンバー13の命を何度も救ったのは、姉に教わった瞬間移動の技術なのだから。
「生きているのか、フィオラ」
いつものように頭上から黒服の声が落ちてくる。だが、フィオラが疲れているせいか、それはいつもより体にじんわりと響く声だった。
「どうしたんですか、黒服さん。死んでいたほうが良かったんですか?」
無機質な両目に映る、見慣れた姿。フィオラを幼い頃から育て、あわよくば殺そうとしている組織の黒服。
「いや、ただ意外に思っただけだ」
「何を……?」
「ここは、もともとナンバー30番代の戦士の任地だった。だが、そいつはちょうどここで死んだ。代わりを補充する間と思って、組織は隣の任地だったナンバー9の戦士をここに向かわせた。しかし、そいつも死んでしまった」
「それで、わたしが充てられたというわけですか」
「そうだ。そしてお前は生き残った。お前はナンバー9より強いわけだ」
「ちょっと待ってください。まだわたしが生き残ったという保証は……」
フィオラは押さえていた手を放し、左肩をさらした。黒服の目がそれを捉える。そこにあったのは左腕ではなく、のびきった筋肉の欠片とちぎれた神経が数本のみ。それが緩やかに繋がり始めている。
「それがどうした?お前は防御型だ。いくらでも代わりは生えてくるだろう」
「……それは運次第ってところですね。ちょっと離れててください」
フィオラはそう言いおくと、黒服が動くのを待たずに妖気を上げた。
瞬く間に瞳が金に染まり、妖気の波が銀髪を微かに震わせる。顔の筋肉に妖気が食い込むのを感じ、慌ててフィオラは妖気を沈める。数瞬の攻防のち、妖気は緩やかに後退を開始した。
全く油断も隙もない。それでも隙あらば筋組織を侵略しようとする妖気に耐え、ひたすらフィオラは剣を握りしめる。大好きな姉のことを思い浮かべ、深奥に渦巻く快楽を意識から消す。
「ぐっ……」
弱い自分を鍛えたのはセレナという師匠だ。今ここに自分があるのは、すべてナンバー23である姉のおかげだ。
いかに周りが弱いと言おうとも、フィオラにとってセレナは決して越えられない壁であり、いつか越えたい壁でもある。
だが、その壁を思い浮かべるとこんこんと生きる活力が沸いてくるのは、なぜだろうか。
目を開けると、目と鼻の先に黒服の顔があった。そしてその右手はフィオラの胸元に伸びていて。
「あ」
黒服が小さく彼にしては間抜けな声を出し、それでフィオラは我に返って叫んだ。
「……ど、どさくさに紛れて何をやってるんですか黒服さんっ!」
黒服を町の向こう側までストレートに蹴飛ばし、フィオラは盛大な音をたてて剣をしまった。出口に向かってすたすた歩き出す。背後で何か重いものが地面に激突した音が聞こえたが、知ったことではない。咄嗟だったが一応手加減はしたし、あれくらいで死にはしない。でも、
「もしかして……バレた?」
フィオラは呟き、胸に手を当てた。
ガラテアからもらった人形だが、始終手に持って歩くわけにもいかないので仕方なく間に押し込んだのだ。人形がわりと小さくて助かった。
もし触手で狙われて防御が間に合わなかったとき、陶器だしちょっとした時間稼ぎくらいにはなるか、というつもりだったのだが……
確かにそれはいけないことでだったかもしれないけど、わたしに文句を言う筋合いはないかもしれないけど、
「やっぱり予告もなしに胸を触るのは良くないと思います!」
フィオラはそう吐き捨てると、顔をしかめて町を出ていった。
「妖力開放も終わった。町を出ていくぞ、ルブル」
「そうか、任務は終わったようだな。戻っていいぞ」
ルブルは手元に目を落としてにやりと笑う。しかし、その意識は手元からはほど遠い少女に集中していた。
エルダは後ろを振り向き、澄んだ音を響かせる滝をみやる。
「お前には私たちなどどうでもいい存在か……」
まるでこの世の穢れを知らぬというようにさらさらと流れ落ちる滝を一瞥し、エルダは静かに任地へと帰っていった。
近いうちにもう一度、少女と会うことになるとは思いもよらず。
赤く燃える夕陽を隠すように、雲は蠢きながら流れていた。