それからというもの、エルダは寝る間を惜しんでフィオラに訓練を与えた。
妖気の扱い方のみならず、戦い方や戦闘中の判断を徹底的に叩き込んだ。
元々フィオラも力への熱意は凄まじい方だったが、エルダの態度はそれ以上に鮮烈なものだった。
訓練は単純だ。起きたら戦う。気絶するか手首が切断されたら休む。妖気解放は10パーセントまでしかしない。それだけだ。
どちらがどう傷を負おうが、気絶するまで剣は止めない。腹を貫通しようが足が欠けようがお構いなしだ。
このルールは、防御型のフィオラはともかく攻撃型のエルダには厳しすぎる。回復にかかる妖気は通常の比ではない。しかも、下手をすれば永久に手足を失うかもしれない。だがそれを承知の上で、エルダはこのルールを定めた。
「お前はいいな。人間の記憶がないから限界がない」
純粋な人間の頃の記憶を持っていると、どうしてもその影響で実力に歯止めがかかってしまう。あるときはエルダはそう言いもする。
いくらフィオラがへばっても、エルダの表情は変わらない。少女が失神して始めてエルダは、剣を持つ手を止めるのだった。
なぜこんなに訓練を厳しくするのだろう。フィオラも内心そう思わないわけではない。
だが、力のみを求めるフィオラが師匠への疑問を口にするわけがなく、一歩間違えば死へ一直線の苛烈なコースを彼女はただ突き進んだ。
……ああ、冷たい。
頬に水の温度を感じ、フィオラの意識は暗闇から抜け出した。目を開けてみると、満天の星が夜空を彩っている。
起き上がろうと右手をつくと、地面の代わりに沈み込む感覚。手から生じた水の波紋が耳まで届く。
「そうか、ここ、湖だ……」
呟く声は当然掠れていない。何となく喉に左手をやってフィオラは記憶をたぐりだす。
昼はエルダとひたすら戦い続け、そして何度も自分は地面に転がった。失神したのは何回目に倒れた時だろうか。
しかし、流石は防御型の回復力だ。どれだけ叫んでも数十秒後には元通りなのだろう。
そこで考えを打ち切り、フィオラは右足を両手で掴んで起き上がった。
余計なことを考えている暇はない。お姉ちゃんに認めてもらえなくなる。それにエルダだっていつものように、寝ずに待っているだろう。戦って失神しないと、寝かせてもらえない。
物音を出来るだけ立てずにフィオラはいつもの岸に上がり、大剣を掴んだ。
暗闇の中、妖気を探る。虫の音のように頼りなく、蜘蛛の糸のように柔らかい細い妖気をフィオラは探す。
どこだ。どこにいる。焦りを静め、妖気の網を平原全体に広げる。
ほどなくしてそう遠くない場所で網に微かな乱れを感じ、フィオラは口元をわずかに緩めた。反対に手はつかを強く握りしめ、荒々しく背の低い草を掻き分けて走る。
自分の居場所なら、エルダの居場所を発見するのと同時にバレている。今さら物音を断っても無意味だ。
向こうの妖気が動き、エルダの動作を知らせてくる。剣を抜いたようだ。更に熟練すれば、妖気をただ追うだけでなく、相手の動作が予測できるようになるという。だが、それまでフィオラが生きているという保証はどこにもない……。
剣がぶつかり合い、金属音と火花が草原に散った。
すぐさまお互い飛びのき、剣を構え直す。
まず、相手に致命傷を追わせたい時は体の中心軸を、手加減する時は手首や足首を狙う。今回は前者だ。
次に、相手に傷を与えるには、正面から斬りかかるか相手の注意を逸らす、または第三者の介入を狙う必要がある。これは斬りかかりつつ注意を逸らす方向性でいこう。
そして、相手に隙を見せず、かつ相手の妖気を注意深く分析する。
暗闇の中でエルダと視線をぶつけ合う。不意に何の前触れもなく、すっと剣先がフィオラの喉に迫る。フィオラは後ろに跳躍し、なお押し出される剣に下から自分の剣を叩きつけた。耳障りな金属音が響く。
そのまま接着面を傾けて力を流し、エルダの剣が離れた隙に彼女の足元を一旋する。エルダは飛びのいてそれを避け、着地した所をフィオラは執拗に狙う。
相手の腹へ剣を振る。止められる。別のところを狙う。止められる。突く。避けられる。再び突く。避けられる。
エルダが後退し、フィオラは前進するも全く手応えがない。
3度目の胸への攻撃でフィオラが剣を振りかぶったとき、エルダの左膝の部分の妖気が動くのを感じた。膝蹴りを予測しフィオラは飛びのく。しかし、エルダは左足を瞬時に下ろして斬りかかってきた。
フェイントだったのだ。
この辺が自分の未熟なところだ。暗闇の中、フィオラは眉をしかめて攻撃を受け止める。
どの妖気が体のどの部位のものかは大分わかるようになってきたが、妖気の濃度は殆ど感じることができない。
いまだに目に頼ることも多く、そしてこのような夜ではいくら半人半妖の視力でも厳しいものがある。
左へ右へ繰り出される剣先をひたすら捌きながら、フィオラはエルダの隙を探る。
……このままではジリ貧だ。いずれわたしの集中が切れ、集中攻撃を受けて気絶がオチだ。
このまま戦いつづけるより、大きな攻撃をしかけた方がまだ勝つ可能性がある。
跳躍を使うか?いや、この暗さでは危険だ。エルダにちゃんと当たる確率より、外して自分が骨折する可能性の方が大きい。
では、あの技を……。
だめだ。まず技が完成していない。妖気をいたずらに消費するだけで、危険しかない。
となると、やはりエルダの意表をついて隙を作るしかない。意表を突くにはセオリーから外れた攻撃が必要だ。
剣を受けるところでわざと外すとか。逆に、剣を出すところでわざと引くとか。
金属音がフィオラの耳を叩いた。2人の剣が交差する。フィオラの剣が上、エルダの剣が下。
フィオラが上からエルダの胴へと剣を滑らせ、エルダが剣を奮わせてつばぜり合いのような状態になる。
足を後方に下げてここは一旦退く、と見せかけ、フィオラは上に飛んだ。
剣を振り上げ、ほんの2、3メートルを滑空する。
一瞬位置を確認するのに手間取ったらしいエルダが、こちらを見上げて固まる。
腕を切り落とすつもりでフィオラは剣を振りおろした。
だが、流石にエルダはナンバー5だった。剣が体に触れる直前エルダは自ら倒れ込み、犠牲をマントだけに留めた。
すぐさま起き上がり、着地から後方に二転三転するフィオラの腹目掛けて剣を突き刺す。
先に血を吹いたのは、やはりフィオラのほうだった。
傷の痛みに息を切らしながら、フィオラは虚ろな目で空を仰いだ。
相応の傷を与え、一時は追い詰めたと思ったのだが、暗さに邪魔され改心の一撃を外したのである。
もう、意識が暗闇に引きずり込まれるはずだ。目を開けても閉じても暗闇ばかり。
笑おうとして、フィオラは自分が失神していないことに気づいた。
「エルダさん、もう一戦お願いできますか」
「悪いが無理だ。私も足を繋げないといけないのでな」
エルダの足首の辺りから妖気がぼんやりと放たれる。フィオラは沈黙を裂くように言った。
「少し、話しませんか?」
「フィオラ、お前には家族がいたな。確か姉だと聞いたが」
「どうしたんですか、戦闘以外の話なんて」
フィオラは目を何度か瞬いた。彼女が知っているエルダといえば、初日はなんだかんだ優しかったけれど次の日から鬼のように厳しくなって、どことなく姉セレナと同じタイプの人物である。
少なくとも、訓練以外について積極的に話しかけてくる人ではなかった。
「お前が言い出したことだろう」
エルダは動じない。
「初日のお前が言ってた、無くしたくないものの1つなんだろ」
「ええ。よく覚えてますね」
意外さにまるで首が落ちたように頷き、フィオラはエルダの顔を見た。
エルダは銀の目を居心地悪そうに逸らす。
「1つ忠告しておくよ。強くなっても、変えられないものは存在する」
「……例えば?」
「人の心だ」
フィオラは髪が激しく揺れるほど首を横に振る。
「そんなわけありませんよ。姉はわたしが自分より強くなったら認めてやるって言ってくれました」
「だから強くなりたいわけか。それは結構だが、あまり期待しないほうがいいぞ」
「忠告は感謝します。でも、わたしは姉を信じます」
エルダの口から、困惑のようなため息が漏れた。
「……なあ、これは私の単純な疑問だが、1つ答えてくれないか?なぜそこまで他人を信用できるんだ?」
フィオラは剣から手を話し、がばっと草原に寝転んだ。
星が綺麗だ。だが、この同じ空の下に、今この瞬間死んでいく戦士もいるのかもしれない。
2人きりになって早三週間。妖魔や覚醒者、全ての俗世から遠ざかり、剣やマントを見てたまにその汚れを思い出すのみだ。
「ただの他人じゃありません。姉は血を分けた家族です。だから信頼するんです」
「ふうん?他には?」
「確かにそれだけだったら嫌いになっていたかも知れません。でも、本当はとても優しいんです。エルダさんみたいに厳しくわたしを訓練しますが、わたしが寝るとそっと頭を撫でてくれます。
この髪どめも、姉が譲ってくれたものなんです。母の肩身だと言って」
エルダは黙って聞いている。フィオラはつい口が止まらなくなった。
「わたしは普通の家庭を知りません。でも、それがどういうものかをわたしは姉の友人から教えてもらいました。とても大切で、自分の根幹を支えているもの。……表面はどうであれ、中身は温かくて優しいもの。
互いに疑わない間柄でありたいんです」
エルダは顔を星空に向ける。
「つまり、家族だから嫌ったり疑ってはいけないし、信頼していたい、と」
「ええ。たった1人の姉ですから。嫌いになるなんて、寂しいじゃないですか」
フィオラは首の印に手をあてた。
「エルダさんって本当、お姉ちゃんに似ている……。わたしとエルダさんは、家族になれますか?」
「いや。私は誰とも家族になんてなれないよ」
銀の長い髪と髪の間で、暗闇の中でもわかるほど青白い喉仏が上下した。
「……どうかしましたか?」
「いいや、何でもないさ」
再び、沈黙が訪れた。虫の音のみが草原に響く。
星空に月が表れ、黒い雲がゆっくりと流れていく。
「エルダさん、微笑のテレサって、どのくらい強いんですか?」
「どうだろうな。組織の全戦士が束になっても勝てる可能性は皆無だろう」
「ナンバー2のイレーネさんが2人いたら?」
「妖気の大きさだけで考えたらイレーネの方が瞬殺されるだろうな。想像はできないが」
フィオラはあんぐりと口を開けた。イレーネの力は覚醒者討伐である程度知っている。
それだけにナンバー2の戦士が瞬殺される場面などイメージできるはずがない。
「そんな途方もない力が手に入ったら、どれだけのことが自分の思い通りになるんだろう……」
「何もならないさ。そのテレサさえも、組織の掟に縛られているんだから。仮に彼女が離反すれば、粛清者が選ばれる」
「それは……」
テレサより強い戦士が存在しない以上、誰が粛清者になろうともテレサを止めることはできない。
それだけのことではないか。
フィオラは寝転がったままエルダの顔を見上げた。エルダは何も言わなかった。
「騙したんですね、わたしのことを!」
エルダは黙って顔をフィオラから背けた。噛み締めた唇が雲に隠れる太陽の光に照らされる。
「信頼してたのに!」
朝起きると、フィオラは槍を持った組織の連絡員たちに囲まれていた。
黙然とフィオラを見つめる黒服の横で、エルダの口元がわずかに動く。
”だから言っただろう”
エルダの言葉を認識し、フィオラは自分の甘さに愕然とした。家族になれないとは、そういうことだったのか。
エルダとは決して信頼を築くことはできない。そういう意味だったのか。
所詮エルダは組織の一員で、結局わたしの信頼を弄んだのか。
まぶたがかあっと熱くなり、フィオラは目を強くつぶった。
こんなやつに涙なんて見せられるか。
「フィオラ、お前の訓練は終わりだ。お前にしかできない任務ができた。当ててみろ」
悲しみと怒りの入り混じった目でエルダを睨みつけ、フィオラは黒服に向き直る。
こんなやつと同じく信用できない組織に、これ以上いたくない。いっそ組織から離反してやろうか。
「……わかるわけないじゃないですか」
「正解は、黒の書だ。開けてみろ」
黒服は見せつけるように2つに折り畳まれた黒い紙を地面へ放る。
黒服が顎をしゃくり、フィオラは解放された。地面に落ちた黒の書をおそるおそる拾い上げ、震える手で紙を開く。
一瞬してフィオラの瞳孔がちぎれそうなほど広がった。
「ハンネさん……」
それは、以前フィオラの代わりに犠牲になった友人を持つ、戦士の印だった。