第17話
私がアルの
この人外娘が私に齎したものは、何も凄絶な戦いだけじゃない。
生きている限り続く他愛もない日々の生活。
そんな私の日常の領域にすら怪異は影を伸ばし、平穏からの変化を強制する。
私の
「…………」
汗を流そうと、人がシャワーを浴びに行ったほんの十数分。
本当に僅かなその時間に、怪異は襲来した。
バスルームから戻ってきた私の視界に飛び込んできたのは―――
妖しい粘液に塗れた事務所だった。
「…………ふぅ」
OK、とりあえず落ち着きましょうか。
(……最近は忙しくて疲れが溜まってるのかしらね)
瞼を閉じて眉間を揉み解した後、大きく深呼吸。
良し。
目を開け、もう一度部屋を見る。
―――やっぱり、妖しい粘液に塗れていた。
床、壁、天井、調度品。
何処もかしこも塗れに塗れ、まるで浴槽一杯に満ちたゼリーをぶちまけたような惨事だった。
「ぬうぅぅぅぅ! こやつめぇぇぇぇっ! 大人しくせんかぁぁぁぁぁっ!」
ふと、ここからちょうど死角な場所。
ソファーの後ろからアルの叫び声が聞こえてきた。
(……はぁ)
まあ、確認するまでもないわよね。
この家には2人しか居ないんだから。
―――やっぱりアナタの仕業ね、この古本娘。
「アル―――ッ! いったい何やってるのよ―――ッッッ!?」
「うにゃあああ……っ! ん? 何だ、九淨か」
何かに集中していたアルだったが、私の声に気づいたようで、ソファーの陰から顔を出した。
アルの顔もまた、部屋の有様と同様に妖しい粘液に塗れていた。
……その、なんていうか。
その様子がこう―――扇情的というか。
「……何故、顔を赤らめる?」
「……顔、拭きなさいよ」
「顔? ……まさか汝、妾で邪な妄想をしたのではあるまいな」
「そ、そんなことより! 何よ、この状況!? 色水代わりにゼリーでもぶっかけたホーリー祭りか何かなの!?」
「いや、別に祭りではない……
アルがそう言うとソファーの陰から“何か”が姿を現した。
「………………」
なんだろう、この遊星からの物体Xは。
ぬめぬめしててねばねばしてて、アメーバのようなゼリーのような……そんな名状し難い感じ。
うねうねと蠢きながも微妙な愛らしさがあり、なんていうか色々トラウマになりそう。
―――泣きそう。
「ショゴスと言ってな。元々は“古のもの”が使役していた奉仕種族だが。ダンセイニよ、挨拶するのだ」
……ダンセイニ。
何ともご立派な名前ね。
アルに命じられたダンセイニは、表面を蠢かせながら一部を変化させ、手のような触手を創り出した。
そして、色々混乱している私の目の前にソレが差し出される。
(……大丈夫なのかしら)
恐る恐る、ソレを握り返す。
「てけり・り」
……ナンカシャベッテル。
よくわかんないけど、多分挨拶なんだろう。
「……どうもご丁寧に」
優しく腕を上下に振ってくれた。
所謂
ヤダ―――紳士だわこの子。
「って、何が紳士やぁぁぁぁぁぁぁ!!」
自分の思考にノリ突っ込み。
「……で、何でこんなのを家に連れてきたワケ?」
とりあえず、物体Xが居る理由を訊いてみた。
「うむ。……この家にはベッドがないであろう?」
「……正直ソファーで充分だったからね。此処最近はあなたと一緒だけど」
「妾は繊細なのだ。いつまでもソファーで、しかも同衾などしておれぬ」
「といっても、どうするのよ?」
「
アルが、そのしなやかな指をパチンッと鳴らす。
それを合図にショゴスが蠢き、その姿を変質させていく。
そうして完成した形態は、まるでウォーターベッドだった。
(つまりは……え?)
「良し。これで安眠できるというものだ」
「……
「なんだ、羨ましいのか?」
「や……何でもないわ」
そうして私は深く考える事を止めた。
「……ふぅ」
ソファーに寝転がり、天井を見上げる。
(……最近、毎日が嵐みたいだわ)
アルの断片―――ページモンスターとでも呼ぼうかしら。
アトラック=ナチャ以来遭遇してはいないけど、アルはこの街の中に、その気配を感じているらしい。
断片の捜索、私の鍛錬、魔術についての知識もそう。
やるべきことは沢山ある。
毎日ヘトヘトのボロボロだ。
けど……以前までの空虚な私を埋める充実感があるのも否定できない。
アル―――あの子の意地の悪い笑みを思い出すと、それを認めてしまうのは癪だけど。
(まあ……仕方ないわね)
明日もまた大変な一日になるのだろう。
私は瞼を閉じて、明日に備えるべく眠りに入った。
―――人というのは誰しも夢を見るものだ。
永劫でなければ、眠りは死ではない故。
たとえ目覚めと共に、朝に融けてゆくとしても。
人というのは誰しも夢を見るものだ―――
「ううっ……影がぁ……南極の影がぁ……」
それは冒涜的な夢だったり
「んにゅ? 中々美味ではないか? ……にゃふにゃふ」
楽しい夢だったり
「……お爺様」
悲しい夢や
「ぐおー……ゆるすまじぃぃぃ……大十字九淨……かくなる上は最終手段……押してはいけない赤いボタンをスイッチオン。ポチッとな」
色々微妙な夢
そして―――
白。
白。
しろ。
私のゆめを染め上げる、しろ。
私の過去を覆い尽くす、しろ。
よごれひとつない、気がくるってしまいそうな、しろい、ろうや。
白い牢獄の中、身を寄せ合う2人の子ども。
2人はただ、待っている。
まだとおい、朝を。
白の世界の外、あの場所に辿り着く、そのときを―――
「……ッ! ―――最近は、見てなかったのに……」
それは―――過去の夢。
さらには
「………いやぁ」
「……いやぁ……いやぁぁ……いやあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
悪夢。
「ゆめ。ユメ。夢。ヒトの世界に溢れる想いの結晶―――」
女が
女の内より溢れる闇、闇に貪り食われる怪異に。
やがて怪異は力を失い、数枚の紙片となってしまった。
「突然襲ってくるなんて酷いなぁ……まったく、本体に似て兇暴なんだから」
女が紙片を拾い上げる。
「さて、コレを素直にマスターテリオンに渡しちゃうのもつまらないし……どうしようかな?」
艶かしい唇に人差し指を当て、思案する。
「……よし。ここはまた九淨君を困らせちゃおうかな?」
女は妙案とばかりに、満足げな顔をして頷いた。
「ごめんね、九淨君……でもカワイイ子には意地悪したくなるものなんだよ。それに―――」
闇が蠢く。
女の笑みが、闇に揺らぐ。
「夢を見せるのが道化の仕事。お仕事はしっかりやらないとね……」