鬼の約束 作:あぶち
今朝の雨で湿気た空気が、まるで肩にのしかかってくるようだった。倦怠感とこの雨のにおいが、鬱陶しくてたまらない。
私は体にまとわりつく湿気を振り払うように、重石のような足を引きずり、水路沿いを走り続けた。
いったい、もうどれだけ走ったのか。
ブーツの中で血が滲んでいるような錯覚すらおぼえて、私はふと見つけた路地に、身を滑り込ませる。
倒れ込むように建物に背を預けて、息を整える。荒い呼吸を必死で整えながら、辺りの様子を知ろうと耳をすます。けれど、耳もとで脈打つ自分の心音と、水路の轟々とうねる水音とで、なにも聞こえなかった。
「はあっ、は……っ」
建物の陰から顔を出し、来た道を確認する。人の気配などない、あるのは崩壊したビルと蔦の絡んだ標識ぐらいだ。
「はあ、はあ、
言い聞かせるように呟いた瞬間、体が重くなった。地面に引っ張られるようにアスファルトに尻をつけば、スカートがじわりと濡れていくのがわかる。今さら立ち上がるほどの気力も残っていなくて、私はぐったりと力を抜いた。
緊張の糸が切れたうえに体力の限界だったのか、体が訴えるように痙攣している。
震えをとめようと、私は自分の体を抱きしめた。でもこの震えはきっと、疲労のせいだけじゃない。
いつ自分たちを探す声が聞こえてくるかと思うと、怖くてたまらない。足音が聞こえてきたらと思うと、恐ろしくて叫び出したくなる。一度考えてしまえば、今朝の雨でかさを増した水路の水音に混じって人の足音が聞こえる気がして、私は来た道を何度も覗いた。そのたびに、誰もいないことにほっとする。
こんなところからは一刻も早く立ち去りたい。早く集合場所に向かいたい。
けれど、重い足は言うことをきいてくれない。
(もっと、もっと鍛えておけばよかった)
自分の非力を呪いながら、ぱんぱんにむくんだ脚を拳で殴る。痛い云々ではなく、麻痺している感じだった。
「……ぅ、う……」
「!?」
ふいに聞こえたうめき声に、私は疲労も忘れて飛び上がった。
声は、路地の奥から聞こえてくる。曇天のうえ、陽が沈みかけたこの時間帯では、暗くてよく見えない。
私は路地の闇で唸る者を警戒して、腰を低く落とす。ベルトに刀は挿さっていないが、私は居合いの構えをとった。
「《
小声で呼べば、手の中でチリリと火の粉が溢れる。火の粉は炎となり、ぶわりと燃え広がった炎のなかから刀が現れた。柄と鞘を痛いくらいに強く握りしめて、私は闇を睨みつける。
引きずるような足音と荒い息遣いが、ゆっくり近づいてくる。少しずつ、その姿が見えてくる。
闇に溶けいる黒地の軍服。赤のラインと、ちらと反射する金の装飾。
(
あの特徴的なデザインの軍服は、間違えようがない。
やはり追手が近づいていたかと、私は刀を抜きかけた。けれど、半ばまで抜いたところで、私は手をとめる。
その軍人は一人だった。なにより手負いであり、遠目でわかるだけでも矢やクナイが体に突き刺さっている。建物の壁に沿って、体を引きずるようにこちらへ歩いてくるのだ。一歩一歩進むたびにその体からは血が滴り、いつもはひとつにまとめられている黒髪は、邪魔ったらしく揺れている。
痛ましい彼の姿に、心臓が凍った。
「
考える間もなく駆け出した私は刀を投げ捨て、彼の体を支える。
投げ捨てた刀が、火花となって散る。彼は俯けていた顔をあげると、一瞬その火花を目に留め、次にゆっくりと私を見た。
焦点の合わない目が、見開かれる。
「ごほっ、る、り……?」
血を吐きながらも、痛みに歪んでいた彼の表情が和らいでいく。
「ハッ、生きていたか……」
「喋ったらだめです! 今、手当てしますから!」
傷口に障らぬよう慎重に、理央さまの体を壁際に座らせる。
理央さまの体は、ぼろぼろだった。腹を深く抉る刀傷から、胸に空いた銃傷から、クナイに貫かれた肩から、血がとめどなく流れ出る。早くもアスファルトには血だまりができていた。
私は頭が真っ白になった。どこから手当てすればいいかわからない。そもそもこんな重症の人間を手当てできるほどの治療器具など、手元にない。なにが出来るのか、分からない。
そもそも、これほどの深手、生きているのが不思議なくらいだ。ここに来るまでにだって、どれだけの血を失っただろう。浅い呼吸を繰り返す彼を見れば、もう手遅れなのでは?なす術などないのでは?と悪寒がよぎる。
しばらく混乱したまま、私はあちこちへ目をやる。どこを見ても傷ばかりで、それも深い裂傷で、手当てのしようなどないのがわかる。けれどふと、軍服の破れ目からのぞく理央さまの肌に、不気味な痣が浮かんでいるのに気づいた。
ハッとした私は、無心でスカートの裾をちぎった。その端切れを彼の腹部に押し当て、少しでも血が流れるのをふせぐ。
彼と契約した鬼が、彼を生かそうとしている。ならば私がすべきは、少しでも血が流れるのをふせぐこと。止血さえできれば、鬼呪が傷を再生してくれるだろう。
「お願い、とまって……」
しかし血はとまらず、端切れはすぐに血を吸ってしまう。吸いきれなかった血が、血溜りを広げていく。
「なんでとまってくれないの!」
焦れて思わず叫んだとき、遠くから声が響く。
「
「早く探せ! 吸血鬼と繋がっていた裏切り者だ、捕まえて情報を聞き出せ!」
理央さまを探す、帝鬼軍人の声だ。
このままここに留まっていては、見つかってしまうのも時間の問題だろう。しかし血がとまらない以上、下手に動けない。
圧迫止血では手に負えない。数秒躊躇したものの、私はふたたび火花を散らして刀を出した。
「理央さま、傷口を焼いて止血します。痛みはありますが、すぐに」
「まて、
刀を持つ私の手を、理央さまの血濡れの手がおおった。
多少負担をかけてでもこの傷は止血しなければならない、致命傷だ。だというのに理央さまは処置を拒む。
その意図を探るように理央さまの表情をうかがえば、彼はまっすぐに私を見つめていた。
瀕死の人間の目とは思えず、息を呑む。
「俺のことは、いい。お前だけでも……逃げなさい」
「な、なにを仰っているんですか! 守るべき主を置いて従者が逃げるなんてっ」
理央さまの手に、ぐっと力が入る。血で滑るのか、理央さまは私の手首を掴み直した。痛いくらいの力に、骨が軋む。しかし、痛いと呻くことも目をそらすことも、彼の鋭い眼光が許さない。
「宝幢の血を、絶やすな。お前が、宝幢の血を、繋げていくんだ」
「ち、違います。宝幢家を繁栄させていくのは理央さまです! 理央さまお一人しかおりません!」
「傍系のお前にも……宝幢の、血、が……ぎゅう、き……が、っげほっ、ごほッ」
「理央さま!?」
言葉が途切れた瞬間、彼が大きく咳き込む。口を手で押さえていたが、吐血しているのが見て分かる。
「理央さま、もう喋らないでください……。たとえ宝幢の血が流れていようと、私の中にその力はありません。《
「瑠璃、聞け……当主としての、命令だ……これから言うことを……ぅ、ぐっ……だまって、聞きなさい……」
「っ……」
そう言われてしまえば黙って聞くしかなく、私は理央さまの傷を押さえて、唇を噛んで黙り込む。
理央さまは細い呼吸を繰り返し、その合間合間に話していく。
「奈良に、古い友人がいる。名は、あべいはると……。きっと、力を……貸して、くれる」
「分かりました、止血したらすぐに皆と合流して、そちらへ向かいましょう。ですから、どうかもう喋らないで……ッ」
彼が言葉を紡ぐたび、血が溢れてくるのがわかる。濡れた端切れのせいか、血肉を直接押さえつけているような気持ち悪さまで感じる。
もうこれ以上血を流してほしくないのに、私の願いなど聞いてくれないのか、理央さまが口を閉じることはない。
「
血が止まらない。
「分かりましたッ分かりましたからもう黙ってくださいッ!」
「お前を、鬼にはしたくない」
まるで、泣くような声だった。
聞いたことのない主の弱々しい声音に、私の思考が止まる。
顔をあげれば、やはり理央さまは泣いていた。
決して、表情が豊かな人ではない。喜ぶときも怒るときも、わかりやすく表情を変える人ではなかった。喜怒哀楽が顔に出ない彼は、なにを考えているかよく分からないと周りの者に言われるほどの鉄仮面。その彼が顔をくしゃくしゃに歪めて、涙を流している。
だが、私が驚いて固まってしまったのは、彼の涙のせいだけではなかった。
濡れた彼の頬に、鬼呪の痣がじわじわと広がっていくのだ。断じてそれは傷を治癒させるためのものではない。
「ああ、どうか……ゆえに、蛇の道を強いてしまう俺を、どうか許してくれ」
その言葉の意味は分からない。次の瞬間には私は理央さまに押し倒されていて、言葉の意味など考える余裕もなかった。
「理央さまっなにを」
私に覆いかぶさった理央さまの腹から、どぼどぼと血がこぼれ、私の軍服に染み込んでいく。
何をする気かはわからない。けれど、このままでは本当に死んでしまう。
やめさせようと、私を地面に縫い付ける理央さまの手を掴むがびくともしない。どうやら鬼呪の力で無理矢理に体を動かしているらしかった。
「おやめください、死んでしまいます!」
肌に浮かんだ痣は、止まることなく彼を浸食していく。頬に歪な紋様が貼りつき、それは生き物のように彼を征服していく。
「許してくれ、いや、許さなくていい。憎め、憎め、恨め! 俺を、その目に刻みつけ、耳に断末魔を、チカラ、違う違うッ、《牛鬼》の力をお前に、そうだ、鬼になれ、鬼になれば、あああそうじゃない黙れェェエ!」
痣が広がるにつれて、理央さまの言葉もおかしくなっていく。
鬼に侵食されているのだろう。もはや彼自身のの意思で体を制御できていないのか、苦しみもがくように、彼は自分の体をかきむしる。
「理央さまッ!? しっかりしてくださいっ鬼になってしまったら柊の思うつぼです!」
苦しむ理央さまの軍服を掴み、強く揺する。
「理央さま! 正気に戻ってください、理央さまぁッ!」
「が、ぁああ…ッ!」
理央さまが、自らの肩に刺さったクナイを引き抜いた。そしてそれを振り上げる。
殺される。そう思ったが、それで理央さまが正気を取り戻せるならと、私は目を閉じた。
肉を裂く水っぽい音がして、生暖かい液体が私の顔にかかる。
痛みがないことにハッと目を開けると、理央さまが反対の肩にクナイを突き刺している。正気を保つためなのか、呻きながら肉を抉っていた。
「が、ぐ……」
「理央さま、お、おやめくださ……がっ!?」
突然、口に理央さまの手が差し込まれた。
黙らせるためだろうか。しかし、まるで私に口を開けさせるように、彼の手が動く。
「……る、り」
再び、理央さまはクナイを抜いた。そしてクナイの刃の部分を握り、それを私の顔の上へ持ってくる。
「おまえ、に、《牛鬼》の血を…………。チカラがあれば……ひいらぎ、から、逃げられる、だろう……?」
ぐっとクナイを握る手に力を込めているのがわかった。赤い雫が、こちらへのびてくる。
私の頬に、温かい雫が降ってきた。
「生きてくれ……瑠璃……。俺の、大事な、」
もう彼の声は掠れてしまって、最後のほうは聞き取れなかった。口の動きからなんと言っているのかも、よく判別できない。
赤い血がパタパタと降ってきて、口もとにかかった。何滴かは口の中に落ち、舌に鉄臭い不味さを感じる。
私の口の中に血が落ちたことを確認して、彼はゆっくりと手を抜く。
理央さまの顔は、鬼呪の痣に覆い尽くされていた。眼球も黒く染まり、瞳孔は赤に変色している。黒髪の合間から、ツノが覗いている。
「いたぞ! 宝幢理央だ、捕獲しろ!」
理央さまは私の上から退くと、落ちていた刀を拾い、声が聞こえたほうを向く。
私も慌てて起き上がり、刀を掴んだ。
路地の奥から、帝鬼軍人たちがわらわらと集まってきていた。彼らはツノを生やした理央さまを見て、慄いていた。
「なっ、鬼に乗っ取られたのか!?」
「まずい、牛鬼は鬼神クラスの鬼だ! 全隊、陣形を組め!」
軍人の数が多い。これでは、誰かが足止めしなくてはとても逃げられない。
私は理央さまに駆け寄る。
「けほっ……、理央、さま。私が時間を稼ぎます。どうかお逃げくだっ」
次の瞬間、私の体は後ろへ吹っ飛んでいた。
先ほどまで向こうを向いていた理央さまの赤い目がわずかにこちらを向き、片脚が不自然に上がっている。蹴り飛ばされたのだと、体が落ち始めてからわかった。
飛ばされた先は、轟々と流水のうねる用水路だ。昨日の雨で、かさが増している。落ちてしまえば、私の体など簡単に攫われてしまう。
だめだ、理央さまを守らなくては、ならないのに。
やけに時間がゆっくり進む。動画のスローモーションのように、ゆったり動く。こちらをじっと見る理央さま、理央さまに襲いかかろうとする軍人たち、理央さまに伸ばした手、もどかしいほど全てが遅かった。
私の手は何も掴めない。たとえこのスローモーションの中で普通に動けたとしても、私の手は理央さまもアスファルトの縁すらも触れない。遠過ぎた。
落ちるしか、ない。
そう思った瞬間、理央さまが赤い目を細めた。まるで微笑むように。
そしてそれが合図のように、世界の速度が元に戻る。
「理央さ――――」
視覚も聴覚も、声も、意識も、すべてが、うねる水に飲まれ消え去った。
オリジナル増し増しの終わセラ二次オリです。なんでも許せる心の広い方向け。
拙い処女作(二度目)ですが、お付き合いいただけたら幸いです。
「あの荒廃した世界観好きよ!」と書き始めた所存。二次オリなのはほんと許してください、原作キャラ使うと確実にキャラ崩壊しちゃう。ただ終わセラは漫画でしか追っていないので設定に矛盾など出てくるかもしれません。指摘していただければその都度直したり直さなかったり補足したりするかもしれません。(一応小説は一巻だけ読んだことあります。つまりはうろ覚え)とりあえずいろいろお許しください、以上。