にとりは完全に雛を見失っていた。守矢神社を出た時にはすでに雛の姿は無かったのだ。
「むむぅ……雛ぁ、何処に行っちまったんだよ」
妖怪の山は幻想郷の中でも屈指の面積を誇る場所だ。闇雲に探して見つけるのは難しい。しかし今は己の足で探すしかほかないのだ。手がかりが無いのだから。
そしてにとりはしばらく上空を飛び続けた。そしてふと気が付いた事がある。
(哨戒天狗たちの姿が見えない?)
雛と共に山にやって来た時は厳しい検問がしかれていた。しかしどういうわけか今は検問が解かれているようだ。そしてその理由ににとりは心当たりがあった。
(多分、大天狗様と八坂様たちの会合が終わったんだろうな……)
にとりは早苗が言っているのを思い出していた。
八坂神奈子は天狗たちとの会合に出掛けたと。そしてもうすぐ帰って来る。そのように言っていた。このタイミングからして、哨戒天狗たちの見張りがいなくなってるのはそのためだろう。
そして、なんともタイミングの悪い事だとにとりは憤慨した。もしもまだ天狗たちが哨戒中であったならば、雛の事を見かけていたかもしれないと言うのに………
気が付けばにとりはすでに河が流れる山麓にまで降りていた。
ここはキュウリ畑のすぐそばだ。ここから先はもう妖怪の山の領地外となる。にとりは焦っていた。この先に行かれたら本当に手がかりが無くなってしまうからだ。
(雛……本当に何処に行っちゃったんだよ)
一度にとりは地上に降り立った。そして熱くなっている頭を冷やす様に河の水を被った。火照った体に冷水はかなり効いたようだ。にとりは次第に冷静になって行った。
そしてにとりは辺りを見渡した。ここはキュウリ畑の近い場所でもあるが、今朝方に雛と出会った場所でもある。もしかしたらこの側に雛がいるかもしれないと考えた。そして付近を探していると、何やら河の上流の方から黒くてどんよりとした気配が流れてきた。
これは『厄』だ。
通常、厄と言う物はネガティブな想いや感情に関する心意現象だ。それらは視認する事の出来ない存在である。しかし一か所に集まってしまうと目の前に在るように、ドス黒く、どんよりとした何かに可視化する。
にとりは厄の発する方へと向かって行った。そしてようやく彼女を見つける事が出来た。
「ようやく見つけたよ、雛」
「に、にとり……?」
ほっと安心したような顔に対して、雛は俯いたまま立とうとしない。
「さあ、雛。守矢神社に戻ろう。こんな所にいたって何も解決しないよ?」
「も、戻れないわ今さら。早苗ちゃんにあんなひどい事を……」
「あれは雛のせいじゃない。早苗のせいさ。早苗も変に誤解させてしまって謝りたいって言ってる」
「あ、あれは誤解なんかじゃないわッ!」
「ひ、雛……?」
雛は叫んだ。それは普段の冷静な雛とは思えない強い言葉だった。
「だ、だってにとり……良く考えてみて? あんな風に事故が連鎖するなんて普通はありえないでしょう?」
「だからあれは偶然で――」
「例え最初は早苗ちゃんの不注意から始まった事だとしても、私の厄がその後の連鎖を後押しした事は疑いようもないわ」
「雛……」
「それにこれを見てにとり。貴女にも見えるでしょ? 私の回りに纏わりついている『厄』が。さっきよりも強く、色濃くなっている。これから先、こんなふうにお喋りしてるだけでもきっと……」
雛の回りにはどす黒くウヨウヨとした煙と言うか気配と言うか、とにかく形容できない物が漂っていた。その中心のいる雛のドレスは鮮やかな紅色では無く、まるで血が固まったかのようにどす黒く変色している。
「だ、だったら……だったらどうする気なのさ、雛! このままでいられるわけがない。絶対に良くならない。もっと悪化するに決まってるよ。だから早く守矢神社に……。今なら八坂様も帰ってきてるよ。山の警備が解かれていたからきっと帰ってきてる。だから……!」
にとりは何か嫌な予感がした。勘と言う不確かなものに違いないのだが、今雛を一人にさせたら絶対に良くない事が起きる。そんな気がしてならないのだ。
しかし、そんな必死のにとりを雛は軽くいなした。
「駄目。守矢神社には行けない。八坂様たちが帰ってきたのなら尚更。もしもあの方たちに何かあればみんなが困るわ」
「そ、それじゃ、雛はどうする気なんだッ!? 『厄』を消す事が出来なかったら結局みんなに災難が……!」
「大丈夫。大丈夫よ」
「は、え?」
少々熱くなっているにとりに対し、雛は冷静な声で言い放った。『大丈夫』だと。
余りにも冷静な声に一瞬、不安を覚えて言葉を失ってしまった。
「厄神としての使命だけはきちんと果たすわ。この厄は私が責任を持って消して見せる。だから、もう大丈夫なの……」
「な、何を言って……」
「ごめんね、にとり。今まで嫌な思いさせちゃって」
にとりの嫌な予感がいよいよ確信的になってきた。今、この厄神を一人にしてしまったら絶対に取り返しのつかない事になる。この不安は予感と言うよりも確信に近い。妖怪としての、河童としての勘がそう言っているのだ。
厄を消す事が出来る?
それが出来ないから雛は泣いていたんじゃないのか?
それが出来ないから守矢神社に相談に行ったのではないのか?
「雛ッ!!!」
にとりは雛の手を掴みとって走り出した。
余りにも急な事であったために雛は呆然としたまま引っ張られて行く事になる。
「ちょ、ちょっとにとりッ! 何するの!? 離して!」
振り払おうにもにとりは力一杯雛の腕を掴んでいた。
にとりは雛の言葉を無視するように言葉を続けた。
「雛、この先にね、この先に私のキュウリ畑があるんだ! もう収穫間近でねッ! すでに熟れてるキュウリも幾つかあるんだッ!」
「にとり、離しなさいッ! 今の私に触れるなんてどうかしてるわッ! 離してッにとりッ!」
「嫌だッ! 離さないよ」
「にとり!?」
「絶対に離さない。今、雛は絶対に良くない事考えてるだろ?だから離さない」
「にとり……私の側にいたら不幸になるわ。だから……!」
「雛! 雛は今、いろんな事が起きすぎて嫌な気分になっているだけなんだ! 美味しいキュウリを食べればそんな嫌な気分なんか一瞬で吹っ飛んで、幸せな気分になれる。厄だってどこかに消し飛ぶさ! だから雛ッ! 一緒にキュウリを食べようよッ!」
「にとり……」
今の雛がこんなにも思いつめていたのはにとりにとって予想外だった。自分よりも他者を優先するのは『厄』を一身に背負う厄神としての本能のようなモノなのだろうか?
雛は良い奴だ。本当に良い神様なのだ。
誰よりも人間を愛している立派な神様なのだ。
しかし雛は今、能力に限界が来てしまったと言う不安から、誰かを不幸にするのではないか、誰かに災いをもたらすのではないかと怯えてしまっている。
だがそんな事は無い。決して無い。にとりはそう強く信じている。
だから雛の目の前で誰も不幸では無い事を証明しなければならない。雛の近くにいて幸福だと言う事を彼女の目の前で証明しなければならない。
そして、手短な幸福と言えば、美味いモノを喰う事だ。これは人間であれ、妖怪であれ、神であれ、誰も変わらない幸福と言う名の一つの形だ。
雛と一緒にキュウリを食べる。
今回のキュウリの出来は、今までの中でも最高傑作と呼べるような代物だ。雛に食べてもらう。そして美味しいと喜んでもらう。そして褒めてもらおう。そうすればにとりだって幸福だ。育てたキュウリを褒めてもらえれば幸せな気分になれる。
雛に元気になって欲しい。雛に、側にいるだけで災厄が起きる事は無いと言う事を証明させたい。
その一心で、にとりは河沿いを下って行く。
もうじき、土地が開けた場所に出る。そこがにとりのキュウリ畑だ。
だがにとりはまだ知らなかった。
『厄神である雛の側にいても災難に見舞われる事は無い』
その認識がどれほど甘いものであったのかを。にとりは後に知る事になる。
おひょおおぉ!
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