アラカルト - どこまでも自由な短編集 作:バレッタを付けた猫
私の祖国というやつは、どうやらずいぶんと鮮やかに彩られた国であるらしい。そう感じたのはいわゆる後進国と言うところに行ったときのことで、先進国出身の私の目に、その国の風景はどこか色褪せて見えたのだ。
色とりどりのネオン、原色の車達、高層ビル群、いくつかの緑。共通するものと言えば肌の色と髪の色くらいなもので、段々とそれすらバラケてきている。生まれ育った地はつまりそういう風景で成り立っていて、このどこを見ても同じ色の国とは全く異なっている。
何というか、灰色なのだ。
まばらな車通りに広いだけの道幅。バスに乗ってそこを通りながら、同じくまばらな建物を見やり、一様なそれに嘆息する。レンガ、コンクリート、木。造りは様々なれど、色は全く変わらない。灰色。グレー。白対黒イコール一対一。目には優しいかもしれない。歩道を通る人々もやっぱり同じ色で、まあこっちは土気色と言った方が良いのかもしれないが、とにかく一本の串に貫かれたような共通項が再度ため息を煽る。
この国に来た理由は、例えばボランティアだとか、例えば国連のうんたらだとか、ご大層なものじゃない。安く行けて遺跡があって、現地のツアーガイドがくっついているツアーだからと申し込んだだけの、ただの観光。右手に見えますのはーってちょっと辿々しさが目立つ日本語で観光案内をするガイドさんが、今回の水先案内人というわけだ。
空港を降り、バスに乗って数十分。最初の目的地に到着した。そこはここで最も有名な遺跡で、紙幣のデザインにも用いられている。正直こんなメインどころを最初にしちゃって持つのか四日間、とも思う。
ガイドの説明はなかなか面白い。国の歴史を交えつつの解説、時期によるちょっとした違い、地元民の知る穴場スポットと、観光客のツボを心得た展開だ。割合最近まで内戦が続いていたこの国では、完全な形で残っている遺跡が少なく、一見して問題なさそうなこの場所もところどころ欠けていたりするらしい。その辺の壁には、おそらく弾痕と思しき小さな丸い窪みや穴がいくつもいくつも空いていた。
遺跡観光は続いていく。外をしばらく堪能した後は、内側を見に行くらしい。ここまで完全に開放している遺跡も珍しい。あるいは、そうまでしてでも稼ぐためだろうか。ここが国の稼ぎ頭であることは想像に難くない。
階段を上って中へ入る。元々あった階段ではなく、後付けの物だ。劣化や損傷が激しいことから使用に耐えないと言う。上の方に入ることが出来ると聞いて、一番喜んだのは家族連れの子供だった。何とかと煙は高いところが好きと言うが、さっきまでの家族談話を耳に挟んだ限り馬鹿ではないらしいし、高いところ好きに子供を追加するべきだろう。上層階一番乗りは譲ってやる。
上から見た景色は、あまり期待していなかったが、やはり灰色だった。正確には人工物全般が灰色に見えた。遺跡の外周をぐるっと囲む森の緑は鮮やかに、その外側の町並みは単色で、さらに外の荒れ地めいた地域は枯れ草と緑でまだら模様。
ああ、でも、最初に見たときよりちょっとは色づいて見えはしないだろうか。ふと思い立って、その理由をさっきの子供が口にする。
発せられたのは独裁政権の名前。内戦、つまりは革命戦争によって転覆した政権の名前を出しながら、子供は両親へ独裁が何年続いていたのか訊ねていた。結局両親もはっきりとは知らず、ガイドが三年間、見方によっては四年間です、と答えて終了した。
すでに三十年を越す時間が経ったとは言え、この国はナチスドイツと同じく独裁から脱却し、立ち上がった民の国なのだと。私はどうやらその歴史に感服していたらしい。考えてみれば私の出身国というやつは、ちょっとした独裁こそあったものの革命も独立も何もなく、ずいぶん平和に続いていた国なのだ。笑ってしまうことに植民地化すらされていない敗戦国だ。あの国で独裁政権が興ったとき、まともに革命が起こるかどうかすら疑わしい。
遺跡観光はおおよそそこまでで終了した。四日間の行程のほとんどが遺跡探訪で占められていると考えると、こうして半日近くかけてゆっくり見られるのはありがたい。それを狙って参加したわけだが。
バスへ向かいます、とガイドが言い、後ろに続く言葉に参加者の顔は渋くなる。乗り込んだ後、物売りの子供達が窓をノックしてきます。必ず無視してください。
ガイドの言う通り、バスに乗り込むやいなや窓がノックされる。ようよう顔が見えるほど小さい子供達が、どこで拾ったのかも分からない使いかけの鉛筆やら何で作っているのかもよく分からないアクセサリやらを腕いっぱいに抱え、現地語でこれ買って!と叫びかけてくる。値段も日本円で端金にもならない程度。それでいったいどうするんだ、と。ただただ気になってしまう。ほんの少しでも良いから買ってください。必死な言葉を無視するのは、なかなか労のいる仕事だった。
そして、バスが発車する。初速がしっかり付く頃には、物売りの子供らは別のバスに群がっている。出てしまったバスに呼びかけても無駄だ、と知っている。百人で一人、哀れんで買ってくれるのならば、万人に懇願すれば百人が買ってくれる。端金も積もればその日のパンになる。子供達はそれを知っていて、知っているからこそ抜け出せない。
子供達を無視してバスは走り、中心街の一角にあるホテルへ行き着いた。貧しさを湛えていた風景から一転、そこだけが先進国の香りを漂わせる。おいしい食事にふかふかのベッド、暖かな部屋にほかほかのシャワー。この国の人々の多くが得ようとしても得られないものを、私達は自国通貨で千円程度で手に入れてしまう。ここでの一円は端金ではなく、純粋に金として換算される。先進国の安っぽさに吐き気がした。
寝て、起きて、カーテンを開いて目に飛び込んでくるのは通りの喧噪ではなく、閑静で色褪せた町並み。半分どころか三分の一で十分な道幅で、車線などないかのように乗用車が走り抜ける。
食事は現地の食ではなく、ごく普通に洋風だった。観光客しか泊まらないようなものだから、と言うことだろう。昼食は郷土料理らしいから楽しみはそこに取っておくとして、味付けくらいは違うかなと口に運んでみる。あいにくいつもの感じだった。確認してみれば、やはり海外からのシェフ雇用。先進国を思わせるホテルで先進国の食事を取り、旅行の感覚の薄さにちょっと残念がる。
だから、だろう。昼食はとんでもなく美味しかった。現地の食材、現地の調味料。現地の水に現地の食器。そして現地の調理法。料理はおそらく贅沢な代物なのだろうが、郷土料理であることに代わりはなく、ほくほく顔でパクついていく。午前の遺跡歩きの疲れが吹っ飛んでいく。普段は味わえない独特な風味に驚いたり、謎の物体Xを恐る恐る口に運んでみたら予想外に美味しかったり。これだよこれ。私が求めていたのはこれ。
そこでふと、隣のテーブルの会話が耳に入る。同じツアー客ではない。だが、現地の人というわけでもない。そもそも私の国の人でもない。二人組の別組は、自分達のガイドについて話しているようだった。
この店の店員はほとんど英語が話せないだろう?だけど、あのガイドはそれなりに話せる。あの感じじゃ学もそこそこあるみたいだし、頑張って勉強したんだろうね。
おおよそそんな会話。確かにこっちのガイドの話でもこの店は観光客がよく訪れるとの説明があったが、他国言語を話している素振りはない。それぞれのテーブルをガイドが回りつつ通訳している有様だ。つまりはそれだけバイリンガルが貴重で、かつエリートと言うことか。先進国ではたいして珍しくもないどころか、現代人の多くが二カ国語話者だから、正直その辺の感覚が狂ってしまう。
うちのガイドはどれだけ勉強したのだろう。使いかけの鉛筆が売り物になる国で、勉学とはどうなっているのか、私には想像も付かなかった。
料理がなおさら、美味しく感じられた。
三日目の夜、ナイトマーケットとやらに案内された。読んで字の如く。夜になるとメインストリートに大量の屋台が並び、昼の静けさからは想像も付かないような賑やかさに囲まれる。要するに仮設市場。色とりどりどころか極彩色レベルで、何というか、うひゃあ、って感じ。
にしても、なるほど、と思う。これだけのものがあるなら、最大級の遺跡が初日一発目にあっても問題ないわけだ。民族衣装や楽器、民芸品その他諸々。物としての売り物だけでなく、大道芸なんかもある。なぜかドクターフィッシュまで。
ガイド曰く、お土産はここで買いましょう。ただしスリと万引きには気をつけて。ショルダーバッグは斜めがけ、リュックサックは背中ではなくお腹側で保持する。財布や携帯もポケットには入れず、必ずジッパーの付いた鞄に入れる。等々。この辺りはどっかの平和ぼけ国家以外では常識。
お土産はリクエストがあったから問題なし。自分用は何にしよう。迷いに迷った挙げ句、とりあえずガイドに聞いてみることにする。下手に歩いているといろんなものを買っちゃいそうだ。
コショウなんてどうですか、と、意外な答えが返ってくる。世界一美味しいとも言われているんですよ。続く言葉に私の心は完全に突き動かされた。昨日のお昼はとてつもなく美味しかったから。おすすめのお店もついでに聞くと、そのまま案内してくれた。
道すがら、私はガイドに聞いてみる。けっこう勉強したの?と。言葉もそう、歴史もそう。観光案内に関しては業界に入ってからだろうが、それでもずいぶんな知識量だ。たぶん、そんなでもありません。回答に聞き返す。たぶんって?
この国では、そもそも勉学の機会が限られています。私は両親の配慮もあって学びに力を注ぐことが出来ましたが、それでも家の仕事は多かったですし、皆さんの国のように丸一日勉強出来たわけでもないんです。先生が強盗に襲われて逃げちゃったこともありました。だからたぶん、皆さんよりずっと勉強はしてこなかったと思います。
あ、でも、それを悲しいとか、悔しいとは思いません。今この国は自分達のことで精一杯ですし、追いつけ追い越せやっている場合でもありませんから。援助もあちらこちらからもらっていますしね。
その弁には力があった。この国を変えてやるとかそういう話ではない。私達がこの国を作っていくんだという決意だと思う。全身全霊、粉骨砕身で、とにかく今を生き抜いてやろう、と言うような。
彼女は眩しい。ちょっぴり自分が恥ずかしく思えて、ポリポリ頬を掻きながら会話を続けた。
そして四日目。私は彼女に、こっそりメモを渡していた。私の連絡先が書かれた紙だ。今度はあなたがおいでよ、と。彼女は満面の笑みで、はいと頷いてくれた。
この行動を、空港から出た私は小さく後悔する。なんだこの色褪せた国は。物売りの子供達はいないし、ほとんどの人がそれなりの衣食住を持ち、道にはいつでも車が走る。貧しさを表面には出さない先進国。
だけどこの国に、貧しさの裏に持ち合わせる輝きのようなものはない。彼らの心は皆一様だ。生き抜いてやろうとか、この国を担うんだとか、そんな精神どこにもない。ナイトマーケットの活気も、郷土料理の美味しさも、独裁から立ち直った強さも、何にもない。
私は小さく後悔した。この国のガイドというのは、かなり難しいものがありそうだ。