口火を切ったのは、バロネス・オルツィだ。
鳳山時計が正しき時を示し、彼が構えた右腕に光が灯る。
「午後十時の『貝殻の服《シェリー・コート》』!」
その言葉と共に、腕に巻き付けられた時計から異形の者が現れた。その躰を構成するは、肉にあらず。
貝殻を重ね合わせて躰を成したそれは、バロネスの五指に纏わりつくと、その一本一本を鋭利な突起物へと仕立て上げていった。
螺旋状の紋様が浮かび上がる彼の指は、今や人のものとは思えぬほど、鋭く細く尖り立つ。
突進と共にバロネスが異形の右腕を送りだすと、八雲・紫はこれを、傘の先端部分をもって迎撃した。
面白いように砕け散っていくは、貝殻の指。何の変哲もない傘と交差を迎えるごとに、その欠片が礫となっては地表へと零れ落ちていく。
突出した傘の部位が、装飾を施された五指の合間を縫ってバロネスの顔面に行き届くようになる頃には、『貝殻の服』はものの見事に崩壊を遂げていた。
あえなく半壊を遂げた貝殻かいなを一旦下げ、バロネスは次なる一手として蹴撃を繰りだす。
紫に向かって襲来するバロネスの右足。それをいとも容易く握りこんだ彼女は勢いをつけて、バロネスをその身体ごと投げ飛ばした。
訪れた浮遊感にバロネスは一瞬その躰を強張らせるも、数々の歴戦を繰り広げてきた彼はすぐさま冷静さを取り戻し、追撃に備える。
着地したバロネスに対して放たれるは、人間種の想像を大いに飛び越えた代物だ。
自ら距離をとった紫の背後にて、後景を切り裂くようにしてスキマが生まれ出づ。
暗窟を彷彿とさせるスキマへと腕を突っ込んだ紫は、空間内にて浮遊する物体を手探りで握り込むと、その是非を吟味することもなくバロネスへと思いっきりぶん投げた。
スキマより排出されるは、これまた何の変異も見当たらない鉄アレイ。
しかして、剛力の加護を受けて弾丸のような速度で疾走するそれは、あらゆる存在を破砕する凶器である。
自転を繰り返しながら迫りくる鉄塊を前に、バロネスは投擲にて対応。融合を解除した彼は、針を縫うような正確さで、貝殻異人を鉄アレイに向かって投げつけた。
尖鋭の鼻先を持つ『貝殻の服』が、鉄塊と正面衝突を果たす。だが結果的に言えば、バロネスのそれは悪手の誹りを免れないであろう。
激突を果たした貝殻人もなんのその、鉄塊は障害を弾き飛ばし、その意思を強固に維持したままに直進する。
投球姿勢を維持したままのバロネスに、自力でそれを回避する手立てはない。
人間種にはそういった力は元々備わっておらず、それ故に、時計は正しき時を指し示すのだ。
「午前二時の『妖精の飛行《フェアリー・レヴィテーション》』!」
バロネスの左足首に装着された時計が、光を放つ。
彼の足元に突如として出現するは、幻想的な装飾を施された足場だ。
羽を携えたそれは、まるで空気の輩として歓迎するかのように、彼を空中へと押し上げた。
肩すかしを食らった鉄塊は、バロネスの足元を通過していく。
しかし、目標が宙へと浮かんだからといって、凶弾がその役目を早々と終えたわけではない。
鉄塊の進行上に待っていた空間の裂け目が鉄塊を呑み込み、閉じる。
再び開かれたスキマの座標位置はバロネスの直近であり、暗雲としたスキマの中から、先の鉄塊が飛び出してきた。
身体をよじってそれを回避するバロネスであったが、通過した鉄塊の行く末に視線を送れば、またもやその先にはスキマが開いているではないか。
ループに歯止めをかけるため、バロネスは再度召喚を試みる。
「午前一時の『陰鬱なビール呑み《グレムリン》』!」
イングランドの地にてその名を知られる、妖精グレムリン。その力の及ぶ所は、機械、そして人に使われる道具。
螺子と歯車で身を形作ったそれは、迫りくる脅威に対し、裸一貫で臨んでみせた。
召喚された三体の内その一体は、再度出現した鉄アレイによって粉々に破砕されるも、残りの二体が鉄塊の動きを緊急停止させ、柄と鉄に分解せしめる。
五百円玉硬貨を弾くのもそこそこに、バロネスが退治対象へと視線を移せば、そこにはただ一歩としてその場を動かずにいる八雲・紫の姿がある。
彼女は、バロネスの出方を待っているように見えた。
事態を収拾するために出向いたにも関わらず、その四肢からは、その視線からは、先に見せた意思の有無さえも判別できない。
結局、この場における意思を最も明確に表し、先に行動に移ったのはバロネスの方であった。
「午前十一時の『水に棲む牛《タルー・ウシュタ》!』
バロネスの雄叫びを受けて、ベルトに装着された時計から猛々しい雄牛が躍り出る。
空中に顕現したそれは、自身が纏っていた液体に足場を模らせ、そこを駆けはじめた。
魔牛は、下界へと通ずる道を万進する。そそり立つ一対の角で、対敵を貫き殺すがために。
しかして、魔牛の角が紫を食い破ることはなかった。彼は、暗闇の中にて迎合する運命にある。
紫と雄牛の間に生まれ出でた『スキマ』の前に、止まる事を知らぬそれはその勢いのままに飛び込み、掻き消える。
次いで『スキマ』が閉じられると、雄牛の所在を知らせる手掛かりはその一片さえも、場には残らなかった。
このような結果に陥れられたものだから、一見バロネスの一切合財の企ては、その有効性を失ったかのように思えた。
バロネスの次撃にどれだけ有用性が認められた所で、紫が手に持つ非常識と対立するとなれば、そのどれもこれもが実質的意味合いを失う羽目となるのは、火を見るよりも明らかである。
ともすれば、それを誰よりも把握しそれにあらゆる事を一任してきた紫が、己の渡り歩いてきた歴史と比較していく内に次第と興味心を失っていくのは自明の理と言えよう。
数合のうちに早くも二つの手駒失ったバロネスに向かって、紫の失望の声が届く。
「――――最初から分かっていたわ。人間ごとき、暇つぶしにもならないと、ね」
小康状態に沈むいくさばには、寒々とした風が吹く。
下界を見下ろす形となったバロネスは傍目から見れば、現状における権勢を誇っているかのように思える。
しかしてその実、空中にて膠着状態に陥ったその姿は、金縛りや雁字搦めといった現象によくよく同一視されるものである事が伺えた。
紫はといえば、あくまで後手をもってバロネスに対峙する腹積もりであるらしく、異界に通ずる裂け目が生まれ出でる予兆は、今の所見当たらない。
静寂を突き破り、再び動的な立場に二人が移るには、バロネスの召喚が必要不可欠であると言えた。
さて、覆しようのない事実として、バロネス・オルツィは人間である。
得てして人間とは脆弱で、実行力を持たず、馬鹿で、愚かで、形容しがたい。
元よりそのような価値観を偏重しているとなれば、その表面上からしか人物像を掴み取ろうしないのは、当然と言えば当然であろう。
無論、長き渡世を経た紫もそういった質であり、彼女のバロネスへと向ける視線は、ある種冷ややかな感情を帯びている。
有り体に言うのであれば、紫は当初より、バロネスに対しての関心を持っていなかったのだ。
彼女が戦場に降り立ったのはただ単に、邸の安寧を取り戻すためという義務感に過ぎない。
足洗邸に『在り』、足洗邸に『居る』という――否、居なければ、在らなければならないという絶対条件に準拠するべく、彼女は今、そこに存在していた。
しばらくして『妖精の飛行』が下降し、バロネスは再び大地に足をつける。
霞みのように掻き消える運命にある台座が、再戦の兆候となって自身を殊更に自己主張する事になろうとは、何とも不思議な感覚に陥らざるを得ない。
露骨なまでに侮蔑の籠った言葉を送られたバロネスにあったが、彼が激昂にその身を委ねる事はなかった。
彼は今、沈黙を拠所として、紫に視線を向けている。
その沈黙は、己の激情を制すのに必死であることから生まれた副産物などではない。
その沈黙は、彼が誰よりも冷静に物事を見定めているという事実に他ならない。
当然のことであるが、バロネスも紫と同様、先ほどの数合に関しては冷静な分析を行っていた。
闘いにおける要因が徹底的な敵情視察、戦力分析でもある以上、自身の戦力をあえて削る必要に駆られもした。
その結果、バロネスは確かに入手していたのだ――――この闘いの優位性を勝ち取るには十二分過ぎるほどの代物を。手にしていたのだ、紫を手玉に取る算段を。
生気を感じさせぬ葉無しの木々たち《観衆》を前に、彼の演技染みた口調が今始まりを告げる。
言霊として先陣を切ったのは、挑発の意味合いを持つ笑い声だ。
「…………クックック」
「あらあら、何が可笑しいのかしら」
「あ――? あ――、あ――。そうか、そうだよな。分かんねェよなァ――クックックック」
不敵な笑みは、紫の表情に亀裂を入れる。
彼女はその言葉こそ平静を装っていたものの、節々には怒りとも不機嫌とも取れる感情の一端が顔を見せていた。
確かに、追い詰めた筈の鼠がこうも癪に障る態度を見せたのだから、眉を顰めたくなるのも無理はない。
しかし、もしもこの場に須美津・義鷹なるものがいたとしたら、彼の頭上には疑問符が幾つも浮かんでいただろう――果たして八雲・紫なる人物は、たかだかこの程度の口撃に過敏な反応を見せる輩であったか?
世間一般的な意味合いを彼女に強いるのであれば、それは既に終了している。
知己たる者者との他愛もない戯れともなれば、そういった姿勢を装うことはよくよくある事だからだ。
だが、バロネス・オルツィはそうではない。彼は、そういった部類に値しない。
であるというのに、八雲・紫のおっかぶった仮面は容易くむけはげてゆき、彼女自身、その剝片を拾い上げようともしなかった。否、その事実にさえ気付いていない。
一方、大妖怪の機嫌を損ねたともなれば、バロネスは絶体絶命の断崖絶壁に攻め立てられたといっても過言ではないのだが――そこに浮かぶは、恐怖などという感情ではなかった。
無論、増長しきった傲慢さが彼の心身を恐怖から解き放ち、やぶれかぶれになろうがなかろうがどうってことのない前後不覚へと万進させている可能性も否めないだろう。
しかして、彼の流暢な語り口に、ネガ的感情が纏わりつく事はない。
その声色が不安や焦心、その他諸々の負に通ずる背景を持つことは終ぞなく、バロネスの言葉は一度たりとて堰き止められることもなく、その口調には何処か力強さが備わっている。
足洗邸には、音が響いていた。
「いやな、オレはね、命賭けねェお遊びバトルってのがキライでね。F・S《ファイターズ・ストリート》でバトった事がねェんだ。だから、オマエみてーな『しゃべる人型』とバトったのも初めてなんだが――クックック。まさかこれほどつまんねェとはな」
先の正面衝突にて打ちのめされ、その身を砕かれた『貝殻の服』が死に体でバロネスに這い寄ってくる。
体中にひび割れが蔓延し今にも崩れ落ちようとしている異形の者は、バロネスの右腕に駆け上がると、先とはうってかわって、時計の中に溶け込んでみせた。
大胆不敵な物言いを躊躇いもなく続けるバロネス。とはいえ、彼の『ヤクモユカリ』に対する判断材料は意外と少ない。
集合時ピジョル・大石より渡された未登録者報告書、そして今回の接触、数合。
しかして前述した通り、彼にとってそれらは、この場における優位性を獲得するには十分すぎるものなのだ。
先ほど得られた確証を援用し、彼は言霊を紡ぐ。
冷徹に落ち着いた声色には企みの糸が張り巡らされており、その一言一言が独特のテンポを持って紫に襲いかかる。
足洗邸には、音が響いていた。
「俺の大っ嫌いな奴はな、自分の刻を停滞させている奴なんだよ。有限の中を、怠惰に生きてやがる馬鹿ども。世の中の大半はそんな奴らばっかだ。そして――そいつを、何の恥じもなく自己主張させてやがるから、『しゃべる人型』とは会いたくねェんだ。中でも、『こいつ頭がおかし―――――んじゃねェか?』って思わせるのが、矛盾を抱えたまま生きている奴だ」
足洗邸には、音が響く。
それは、注意して耳をとぎ澄まさなければ聞き取れないほど、密やかに語られるものだ。
バロネスの言葉は続く。
それは紫の心を捉え、誘惑し、遂には破滅へと追いやるものだ。
「歩きてェ――のに、止まっている。止まりてェ――のに、歩いている。どっちつかずのまま、明確な意思を獲得することもなく、ただ無為に時を過ごしている――テメーの事だ!」
バロネスの演技がかった動きに拍車がかかる。名推理を突きつけるが如く、バロネスは紫を指さした。
どこぞの劇場じみた、ともすれば滑稽とも映る行動にはあったが、得てしてそういったものには迫力がこもるものであり、バロネスの発言は大いに場の空気を変えつつあった。
彼の言霊が如実にその力を示しつつあったのに対し、紫の対応は一種異様なものだ。
沈黙に寄り添った彼女は、男の言葉に対して何ら反論を述べない。
油の切れた骨董品に成り下がったともなれば、彼女の現況は、往々にして理解できるものであっただろう。
しかして、そこには浮かぶ。笑みが浮かぶ。
誰にも気付かれないほどの、微かな笑みが浮かんでいる。
さて、その思惑がどうであれ、バロネスの言葉は誰かれに阻まれることもなく、延々と続く。
言霊を強固に補強するのは、大石より譲渡された報告書であり、そこにはこのような記載がある。
曰く、通称『YUKARI』。
身長百七十センチメートル前後。紫色の服装を好む。
真意を笑みの下に隠し、よく人を煙に巻く。
正体不明。ただし、何の下準備もなく異界への入り口を開く事が可能であり、あらゆる物を取りだし、あらゆる物を呑み込む。分類上人妖種。
鍵になる記述は、異界の扉を何処にでも開く事が出来るという点だ。
沈黙を破りて、紫が問う。
「それで? たかだか人間である貴方が見つけた、矛盾とやら。どういったものなのかしら」
「クックック。バケモン相手に、どうして俺が講釈垂れてやるんだよ? だが、ま――――、ヒントぐらいは出してやってもいいぜ」
彼女の言葉を尻目に、バロネスの右腕が着込んだ時計達の内の一つが、輝きを示す。
それは、八雲・紫を奈落へと引きずりこむ篝火だ。
「午前七時の『眠れる春の少女《スリーピング・スプリング・ガール》』!」
一節の呪文に呼応するは、一人の少女。時計盤が、次なる召喚を生みだす。
それは停滞しつつあった闘いの場に、真なる始まりの鐘を鳴らす存在だ。
新たなる登場人物は、それまでの異形の存在達とは打って変わって、可愛らしい人型の少女であった。
くりくりと丸みを帯びた童顔が、同種との比較をついつい喪失させる。
以前を忘却させるには十分なほどに、彼女の容姿は場に同調してみせた。
フリルをふんだんに縫い付けられた白装束、白頭巾、天使のような羽を携えた彼女はバロネスの方に振り向くと、笑みを作る。
その表情は、強大な力を持ち得た存在にしてはいやに幼げで、無垢に落ち着いている。
「春ですよ?」
一見頓珍漢で荒唐無稽に見える問いかけは、その実、少女の本質を僅かながらに見え透かせるものだ。
それは単に、特定の季節への好意であるというわけではない。
それは彼女自身の精神的支柱であると同時に、己の存在意義を決定づける重要な事項である。
しかして真に申し訳ない話であるが、この場が春であるかどうかと言えば、如何ともしがたい。
辺りを見渡せば、寒空の支配下に置かれ、揃いも揃って葉を落とした木々たちがある。
感情論に依拠したごり押しをもってしても、この場からは一欠片ほどの春も見つけ出す事は出来ないであろう。
当然、バロネスの答えはこのようなものとなる。
「いいや、『此処』は春じゃねェ」
「…………」
かぶりを振って、少女の言葉を否定するバロネス。
途端、一斉に少女の活力はなりを潜め始め、眠たげにその瞼が下がり始めた。
ともすればその勢いのままに地に伏せ、腕を枕に寝いりかねないといった頃合いであっただろうか、再度、バロネスの言葉が少女へと届く。
どこぞの講師じみた物言いの光る彼は、ここぞとばかりに強い口調をもって大声をあげ、少女の耳朶をうってはその意識を覚醒させた。
「なればこそ――――――春を、叩き起こせ!」
春の妖精にとってその言葉は、召喚術師の意図を理解するには十分過ぎるものだ。
跳ね起きた少女の瞳には爛爛とした嬉々が映り込み、彼女を中心とする新たな力が、波紋のように周囲へと広がっていく。
その異変に対し素早く賛同を露わにしたのは、足洗邸の木々たちである。
その枝枝に葉をつけていた時期はとっくの昔に過ぎ去り、彼らは裸一貫の無防備な状態を晒していたが――――妖精の力が、その者らに劇的な変化を起こす。
妖精の意思に沿うがため、彼らは決死的行動を取るに至り、幹は裂け、枝が朽ち、遂には根が滅び始める。
諸々の下準備が完了してから、春妖精は溜めに溜めこんだ雄叫びをあげた。
「HARU・DEATH・YOー!」
その言葉が発せられるやいなや、木々たちの死は、新たなる生へと向かう。
太太とした幹そのものを切り裂き、地面より成熟した木々が生まれ出づ。新生した木々たちのその枝枝は既に芽吹き始めていた。
この不可思議な現象を形作る元凶は、言わずもがな、宙に浮遊する金髪春妖精である。
彼女はしてやったりという表情のもと、起動し始めた木々たちに更なる力を注いでいる。
大仰な表現を持ってしても形容しがたい不思議現象。
その手繰りたる少女も、かつては雑多な、名もなき弱小妖精に過ぎなかった。
春の気色を好む、そこらに有り触れた、取るに足らない存在――それを変えたのが『大召喚』だ。
確固とした伝承もなく場に影響されやすい名無しの妖精たちは、『大召喚』によって溢れ零れた妖力、魔力、神力を取り込む内に、その力を充実させるに至った。
『眠れる春の少女』は『場』を春へと強制転換する。春とは全てにおける転換期だ。死は生へ。子は親へ。枯れ木は花をつける。
新生した桜の木々は遂に満開へと辿りつき、足洗邸は冬桜に包まれる事となった。
南からは突風が来訪し、見事に花をつけた木々を揺らす。
「ハルハルハルハルハルハルハルハルハル――ッ!」
花弁は散りこそすれ、地に墜落することはない。
風に誘惑され、ふわりふわりと落ちゆくそれは不意に力を得て再浮上すると、宙の一点へと溜まりゆき、着々と花弁の雲を作り始めていた。
積もりに積もった花弁の雲は春妖精の号令と共にとうとう行動に移り、全姿を龍に模らせてから紫に突撃する。
当然のごとくそれに対してはスキマが開かれるも、桜龍はその身体を分化。
ぽっかりと開いた大穴を前に意図的な曲線を描いた桜戦線達は、その思うがまま、縦横無尽に宙を駆けはじめた。
突如として巻き起こった桜異変に驚きの気持ちを持ったのは、何も紫ばかりではない。
観客席の邸住人たちと言いますれば、咲き誇る冬桜を前に、思い思いの驚嘆の意を示していた。
冬桜の醸し出す風情に誘われ、ついつい酒に手がでちまうのも、致し方のないことである。
「こま、酒酒。お酒持って来なさいよ」
「ストックがなくなったって、昨日紫が根こそぎ持っていっちゃったニャ。後はもう、消毒用アルコールしか残ってないニャ」
「…………チッ!」
「や、アル中やないんやから……」
人間種的観点から考えれば、消毒用アルコールなんぞものには味の一つも感じ取れない次第でありまして。未練がましくも舌打ちを鳴らす玉兎には、福太郎の鋭い突っ込みが送られた。
最も、玉兎の腎臓の活動臨界点が人間種を遥かに凌駕する可能性は否めない。一升瓶程度であるならば、軽々とラッパ飲みしてしまいそうだ。
紫を除く住人らが談笑に華を咲かせていたその時、がちゃりがちゃりと、聞き覚えのある音が彼らの耳元に届く。
一斉にしてそちらに視線を送ってみれば、そこには見覚えのある狂骨が、井戸から這いあがってくる所が見えるではないか。
「おーおー、えぇ桜が咲いとるやないけ」
「味野さんニャー!」
「おー、子猫、今日も元気やのォ……所で。あっこのババアはなにしとるんや」
挨拶もそこそこに、味野・娯楽の視線は紫へと注がれた。
何筋もの線となった花弁の集合体に対抗し、彼女はスキマを同時展開する。
しかして、彼らは呑みこまれる直前に緊急停止を果たしては紫を翻弄し、徐々に徐々に囲むようにして紫との距離を狭めつつある。
花弁の一つ一つには丹念にまで魔力が込められているようであり、かすめるようにして通過するそれらは服をずたぼろに引き裂くだけでは収まらずに、紫の頬に、腕に裂傷を作っていく。
スキマの同時展開は確かに一定の効力を持っていたものの、多大な量をもって攻めくる桜吹雪の全てを呑み込む事は出来ずに、一度その絶対量を減らした所で、気付いた頃にはまたもや追加がなされている。
傍目から見れば、特に味野はこの場面のみを抽出して見る事となったがため、その口からは自然と野次が飛んだ。
「ハッ! 何を良いようにやられとるんや己は!」
「煩いやつが増えたわねぇ」
新たなる野次馬の登場に、紫は嘆息する。
しかしてその戯れとは裏腹に、事態は一刻の猶予もないほどに緊迫しつつあった。
スキマの開閉は遅々として進まず、桜線を追うべく忙しない動きを見せていた彼女の瞳までもが、どことなく停滞の色を映し始める。
彼女が殊のほかその対応に苦慮しているのは、何も、バロネスの言霊ばかりが原因ではない。
一見美麗として人々の興味を誘う桜吹雪、それこそが彼女の動きを鈍らせていた。
二重三重に封をし、奥深く奥深く沈みこませた筈の苦々しい記憶を、桜の花弁は不意に過よぎらせる。
周囲に香る花の匂いが彼女の記憶を刺激し、脳裏には残影が走る。
先と比べるまでもない。紫には明らかな焦燥感が浮かび始めていた。
そしてそれは、バロネスの意図を大きく外れた所に在り、それでいて、彼に対して積極性をもって協力を申し上げていた。
何が彼女をこうにまで動揺させているのか。
知己たる邸住人たちでさえも気付けぬ何かが、彼女を混沌の最中に陥れている。
常人に分かるのはその程度であろう。真実を知るのは八雲・紫ただ一人に他ならない。
花弁紡ぎし奈落への梯子は、一種の強制力を持ち合わせて、彼女に切迫していた。
「――邸の平和を守るため自ら矢面に立つ、スーパー、ウーマン」
スキマを開いてはそこから何某を取りだし、紫は再度投擲する。
現れ出でたクローゼットはそのどでけぇ図体で桜吹雪を蹴散らしながら、直進、直進、直進――ここでバロネスを打ち砕く事が出来れば、どれだけ良かったことか。
バロネスへと向けられたクローゼットが、彼を貫く。だが、血肉が噴出する事も、苦痛の滲んだ叫び声が上がる事もない。
桜吹雪はバロネスの所在さえも眩ませていたのだ。
魔力を糧に着色を施された花弁がバロネスの五体を形成し、真なる彼は桜吹雪によって隠され、その影さえも掴めやしない。
紫の視界を、煌びやかな花びらが覆い尽くしていく。
「だが、不思議な話じゃねェか。もし俺がお前だったならば、その前後に関わらず、すぐにでもその『スキマ《扉》』を、敵の足元に開く。俺自身、自分の研究を邪魔立てする輩が出しゃばってきたとしたならば、早急にそいつを排除するだろう。しかし――何故だか、お前はそれをしない。最も解決に近い手立てを所持しているにも関わらず、だ。それは何故だ?」
桜吹雪の合間を縫って、男の言葉がとぎれとぎれになりながらも呟かれる。
その言葉の発せられる方向に紫が目を向けた所で、バロネスの声は、また別の場所から響いてくるのだ。
言葉が一つ一つ積み重なってゆき、その重量を増せば増すほど、スキマを掻い潜って紫に到達する花弁の数は着実に増加していく。
「教えてくれよ、その矛盾が内包する、お前の存在意義を」
所がそれまで隆盛を誇っていた花びらは、一斉に死滅することとなった。
命を宿したかのように動き回っていた花びらが続々と地に伏す。
花びらの方向性とまじりあうようにして零れ落ちた赤い液体の源を探しあてれば、そこには腹部を貫かれた春妖精の姿があった。
彼女が晴れやかな笑みを見せていたのも、今や昔。
直近に開かれたスキマから伸びた紫の細腕は、春妖精の腹部から背中までを貫通してみせた。
じわりじわりと赤い染みが広がっていき、少女の四肢がくたりと折れる。
勢いよく異物を引きぬかれた『眠れる春の少女』は、血を吐きだしながら大地に倒れ込む。
スキマから腕を抜き取り、血に濡れた長手袋を脱ぎ棄ててから、彼女はほくそ笑んだ。
「――――ふふふ。中々面白いお話を聞かせてくれたわね。結構、結構。それじゃあ――――もう、終わらせても構わないかしら?」
紫の言葉を機に、一段と大きなスキマがその背後に開かれる。
暗闇の中から姿を現すのは、都合十両編成を施された廃電車だ。
荒び、朽ちて錆びついた車体を惜しげもなく披露したそれは、今か今かと紫の号令を待ちわびている。
しかし、ここに至っても、バロネスの精神は至って平穏を歩んでいた。
それもその筈である。何せ、バロネスにつき従う者――春妖精は未だに生きているのだから。
「ヴィスナー」
衣服を真赤に染め上げた少女が、ゆらりゆらりと立ち上がる。
どことなく幽玄とした雰囲気を持ち合わせるようになった少女は、そのか細い声をもって何事かを呟く。
「ヴィスナー、プランタン、フリューリング。プリマベラ、エアル、マジラ・ヤ・クチプア」
それは魔法の言葉。
死に瀕した彼女が、真に本領発揮するべく放たれた、ある意味呪詛に近いものだ。
その言葉と呼応するようにして、聞こえてくるではないか。
どすん、どすんどすんどすんと。
春の足音が。
「春、春、春、春――――ッ!」
どすんどすん、と。
不可視の足が、現れ出でた車両を踏みつぶす。
不可視の足は、続けて紫をも踏みつぶす。
春妖精の言葉に続き、バロネスは連携を試みた。
右腕を大きく掲げれば、その薬指に輝きが満ちる。
「午後八時の! 『生首に血だらけの骨《ローヘッド・アンド・ブラディー・ボーンズ》!』
途端に開くは、異次元への扉。
倒れ伏し、四肢を投げ打った紫を中心として開かれたそれは渦を巻き、徐々に徐々にと彼女の肢体を呑み込んでいく。
まるで底なし沼のような印象を与えるそこから、今度は汚泥にまみれた白骨体が飛び出て来た。
既にその半身を沼の中へと沈みこませた標的を見つけ、沼の主は意気揚々としてその身に手を伸ばす。
そんな彼に向かって、バロネスは謝罪の言葉を口にした。
「すまねェな」
「春春春春春!」
『眠れる春の少女』は不可視の足をもって、その白骨体ごと紫をもう一度踏みつぶし、異次元空間へと押し込んだ。