本戦出場を決めた翌日、ボーイズ・レオニドヴィッチ・パステルナークは普段通りの朝を迎えていた。
決戦を翌日に控えるからと言って、彼女の日常が大きく様変わりする訳ではない。
それは同時に、彼女を苛む現実が未だ不変を貫いているという事を意味していた。
「うぐう」
思わずうなり声をあげたパステルナークの前には、先月の水道代、ガス代、電気代、家賃といった諸々の請求者が並び立つ。
これに加え追い打ちをかけるように、脈々と家計簿に書き綴られてきた食費代が彼女の脳裏を過ぎり、パステルナークの朝には毎度の如く暗雲が立ち込め始めていた。
羅列した数字が蚊柱の如き軍勢を思わせ、彼女の思考を覆い始める。
パステルナークは学園に通う傍ら鎮伏業を営んでいた。しかし、怪異退治とゆうものは博打家業と同じだ。稼げる時は稼げるが、稼げない時は全く稼げない。
かさむ生活費が日常を逼迫させる只中にあって、最近のパステルナークの釣果は零に等しかった。
いわゆるボウズというやつで、朝の苦悩ぶりから見ても切羽詰った状態であることがうかがえる。
おまけとばかりに命の危険性までもが付随してくる訳だから、ハイリスクハイリターンというお馴染みのフレーズにまで疑問符がつく次第であった。
こういった裏事情から、パステルナークにとって超人大武闘会は渡りに船と言えた。何せ賞金一億、賞金一億と来た。
現状、これほどの賞金が懸けられるケースは超弩級災害並びに鬼号怪異を除いて他になく、パステルナークが瞼を閉じれば、夢現の世界が彼女を誘う。
そこでの彼女は札束で出来たソファに座り込んでいた。
贅沢な金の使い方の割に、やけに部屋の灯りは暗い。彼女は徐にライターを取り出すと、一枚の紙幣に灯火を移す。
「どうだ、明るくなっただろう」
そこでハッとして、彼女は現実へと立ち戻った。あんまりにも高慢ちきなパステルナーク(仮)が、彼女を空想から現実へと帰還させたのであった。
多分に滑稽さを含んでいた妄想に、パステルナークの口元から溜息が漏れる。
馬鹿馬鹿しい想像を払拭するべく顔を洗った彼女は、食事もそこそこに制服に着替えた。
学校指定のそれは万魔学園に通う者に等しく支給されているが、別に強制されている訳でもない。普通に私服で通うものもいれば、制服に魔改造を施している者までいる始末だ。
パステルナークの場合、それを着ていくのは経済的事情に因った。女の子の服は、べら棒に高いのが通説である。
鞄に教科書類を押しこみ身支度が一通り終わったところで、彼女は前もって玄関先に立てかけておいた、大切な相棒に手を伸ばす。
宝石が敷き詰められた、豪華絢爛な鞘である。明らかに装飾過多のそれにかけられたであろう金額は想像に難くなく、そこにはパステルナークの執着ぶりが伺えた。
柄を五指で握りしめ、秘められた刃を抜き放つ。
するりといとも簡単に解き放たれたのは片刃のツルギだ。機能性を度外視した左右非対称の鍔が特徴的で、片側は膜を捥がれた昆虫の翅を思わせる。
抜き見の刀身にはパステルナークが映り込んでいた。光を帯びたそれを、彼女は見つめ返す。まるでそれは、深淵を覗きこむ童子のようだった。
時の経過を忘念したかのような空間に誰かが足を踏み込んだならば、彼ないし彼女は今のパステルナークをこう評したに違いない。剣に魅入られている、と。
「よし」
カチンと聞こえの良い音を立てまして。パステルナークは刃を仕舞いこんだ鞘を肩に背負う。
万魔学園に至る道は、にわかに喧騒を帯び始めていた。無理もない話である。
明日には類を見ない馬鹿騒ぎが始まる訳であって、気の早い連中はヤクザに喧嘩を売ってまで出店の準備を始めており、乗り遅れた連中はダフ屋をカツアゲしている。
当然、本戦出場を決めたパステルナークにも期待の声は寄せられた。
鎮伏屋としてそれほど名が売れている訳ではなかったが、通学路となっている路上では好嫌入り混じった視線がパステルナークに絡みつく。
パステルナークはそれを悪くはないと感じていた。
出自上の関係から嫌悪感の籠った視線には慣れているが、彼女に限らず、見ず知らずの人々から好感情を受けるなどという事態は中々訪れない。彼女が頬を掻くのも無理はなかった。
しかし、気恥ずかしさを伴ったパステルナークの高揚感は、背後から近づく気配の察知を遅らせる事になる。
「なーにのほほんとしてんのよ、アンタは」
「わわっ、化光!?」
青天の霹靂。犬も歩けば棒に当たる。
聞こえが悪く感じるかもしれないが、少なくともパステルナークがばつの悪さを感じたのは事実だ。
ともかくパステルナークが声に従って振り向くと、そこには白衣を身に纏った少女がいた。苛立たしげに眉が顰められ、双眸共々、配下にはくっきりと残る隈を侍らせている。
特徴的な桃色の頭髪は先端に至るにあたってカールが巻かれていて女の子らしさを主張しているが、如何せん力不足である事は否めない。
野暮ったい服装と徹夜明けの相貌は彼女の魅力を台無しにしていて、やもすると髪の毛の曲線がアイロンに因るものなのか、はたまた風呂に入っていないからなのかさえ疑わしくなってくる。
倉雲・化光は掛けていた眼鏡を吊り上げると、再びパステルナークに食ってかかった。
「随分と、陽気に見えたのだわ」
パステルナークは己の不運を恨めしく思った。
まさかここで化光と出くわすとは思っていなかったというのが正直な所で、彼女の口調は途端にしどろもどろになる。
進路方向に目を移すも、万魔学園の全姿は未だに見えてこない。人魔のバーゲンセールが列をなし遠方に至るまで伸びているが、それは祭り囃子の響く祭典を思わせた。
とはいえ、広大な学園内に入りこんだ所で、パステルナークと化光は同じクラスだ。
結局ははちあう事になるという現実に思い当り、パステルナークは観念したかのように息をつく。
「そ、そりゃー、明日は本戦だからね。そういうー、嬉しさ? ヨロコビ? みたいなものが出てたんじゃないかな」
「ふーん。そりゃー私の誘いを断ってまで予選出てたんだから、突破しないとね」
この言葉にはパステルナークも怯んだ。
なんといっても、それは指を折り曲げて数えるのが不可能になるほど繰り広げられてきた問答であったからである。
辟易とした感情は当然として、良心の呵責というやつまでもが鋭い切っ先をもってパステルナークを苛ませるものだから、一方的な化光の攻勢はどうしても苦手な部類として映る。
ここまでくると、パステルナークの心情を一切無視した意見が聞こえてくるもので、やれいい加減教えてやればだとかなんとかかんとか、化光への同情を帯びたそれがパステルナークの背中に突き刺さってくるものだ。しかし、それでもパステルナークには返答のしようがなかった。
そういったパステルナークの動揺を知ってか知らずか、化光の口調は過熱さを増していく。
「いい加減、教えてほしいんだけど。魔法とかゆー、意味の分からんものについて」
「ははは……やっべー……」
「何が、やっべー、だっての! 予選の時も言ったけどねぇ」
「うぐぐ。で、でもあの時は仕方がなかったんだって! 賞金一億! 賞金一億だよ!? 食費水道電気にショッピング! ガラス越しのトランペットに目を向ける少年なんて扱いもう懲り懲りなんだけど!?」
「どーせその変てこりんな魔法剣に金掛ける羽目になるに決まってるってーの!」
「へ、変てこりんって……どこもおかしくなんてないでしょうが!」
「片時も離さず生活してる時点でおかしいのだわ! 全く、どいつもこいつも!」
化光に釣られる形でパステルナークも声を荒らげる。しかし、化光も負けてはいない。
その小柄な体型の何処に潜んでいたのかも定かでない大声で真っ向からパステルナークに対抗する。
先に見ても分かる通り、毎度の如く繰り広げられる二人の喧騒は、基本的に化光の言いがかりから始まっていた。それも、一方的な、だ。そこでは、化光という少女の意地が起因となっている。
とある事情から身体に機械化を施している彼女は、魔法と剣技をもって鎮伏屋を営むパステルナークの事をどうにも認められずにいた。
理由はというと、化光は魔法という、根拠も理由もへったくれもない未知の力を疎ましく思っていたからである。
化光が信奉する科学を見れば、そこには脈々と受け継がれてきた式が根源を成している。しかし、魔法にはそれがない。
無論魔法サイドにも長い歴史と経験則が発展を促した経緯がある訳だが、ごく一部の、限られた素質を持った者のみが使用出来るという点が科学との致命的な違いと言えた。
又今回のケースで言えば、後天的な習得に因るのではなく、先天的な才能に依って魔法を行使しているパステルナーク自身、何となくで魔法を使っているのにも問題があると取れる。
いわば、無意識の所作。この域にある者にしてみれば、自分自身でさえ漠然なイメージしか持ちえないのだ、他人に伝えるといったことが難しいのも無理ならざる所であろう。
とはいえ、パステルナークが口を噤む原因が他にない訳でもない。パステルナークがそれを口外するのは稀な事で、化光は二重の壁に阻まれているのも同義であった。
しかしながら、そのような裏事情も、今の化光にしてみれば些末な障害物にしかなりえない。
彼女の口の根は乾く事を知らず、困窮したパステルナークが出した答えは、生贄を差し出す事であった。
「そ、そういう話は魔理沙の方が詳しいんじゃないかな?」
「アイツはいっつもサボタージュなのだわ! 一年通して、万魔学園に来ない日の方が多いし! 家に行こうとも森は深くて険しいし!」
そこで計略は途端に破綻を迎えた。化光の頭部に付属した排気筒から、けたたましい音と共に蒸気が込み上げる。逆に火に油を注ぐ形になったとして、パステルナークの冷や汗は増すばかりであった。
所で、ここで話に上がった霧雨・魔理沙とは、化光やパステルナークのクラスメイトでもある。
人間種でありながら魔法を行使するものは『大召喚』後の世界でも殊更珍しく、加えて期待の鎮伏屋ルーキー『星ノ切符《アクショーノフ》』でもあったから、彼女の知名度はそれなりに大きいと言える。
そんな彼女だが、万魔学園で遭遇する機会はあまり多くない。
これは、学園に内設された図書館から蔵書を盗み出し、学園関係者に追われている為だとされているが、真相は定かではなかった。
ともかく確かな事は、日頃見かけないサボリ魔よりも、律儀に学園に通い続ける常識人の方が、化光の張った網の目に掛かりやすかったという事実である。
化光の追及はそれこそ苛烈を極め、科学理論を持ちだし始めた所でパステルナークの脳味噌は熱を上げて磨耗を開始した。
人間、否、人魔問わず、理解の及ばぬ話を聞かされては頭が痛くなってくるという話で、定型を持たぬ数式と専門用語はとぐろを巻いてパステルナークに襲い掛かる。
当然、パステルナークは指先一つでノックダウンだ。
しかし、歩道を通行止めにしてまで行われた魔道科学論争も、長くは続かなかった。
突如として現れた第三者の発した鶴の一声が、二人の視線を奪う。
パステルナークはその視線に一瞬期待を込めたが、即座にそれは落胆へと転じた。
「二人とも、人の行きかう歩道を塞ぐのは感心しないわね」
「げっ」
「げげっ」
「自分の感情に正直で宜しい」
それは化光も同様だったようで、闖入者の到来は、すれ違い続けた二人の意見が重なった瞬間でもあったといえる。
理路整然とした口調が二人の諍いを終結に導けたのは、彼女が二人にとって共通の知人であり、なおかつ頭の上がらない人物であったからだ。
「全く、貴方たちは毎回毎回。犬猿の仲とはよく言ったもので、傍目から見ればそれは暇つぶしに丁度良いのだろうけど、鶏の役を担わされるこっちの身にもなってみなさいな」
茨・華仙は、秀真は万魔学園にて教師を務めている人物である。
華仙はスリットの入った大陸風の衣を着こなしていて、化光よりも色の濃い頭髪をシニョンで纏めている。
そこまでなら珍しくも何ともないが、邪王炎殺黒龍波でも放ちそうな勢いで右腕を包帯が覆っており、布切れは五指に至るまで及んでいるとなれば話は別だった。
彼女は先ず、並列に並び立っていた二人の立ち位置を即座に正す。
ここまでくれば後々の展開は簡単に予想できるもので、パステルナークは先手を打つがごとく、
「えっと、お早うございます華仙先生!」
「お早うございます、ボーイズ・レオニドヴィッチ・パステルナークさん」
「ははは……」
生徒の本名を正確に記憶しているあたり、華仙の教師としての評価はまずまずと言えよう。
とはいえ、業務を立派に勤めあげている事と、生徒に人気があるか否かは全くの別問題である。
彼女はどちらかというと敬遠されるタイプで、悲しいかな、受け持っている授業の評判も良いものではなかった。
長年生きているだけあって知識量は豊富だが、資料を第一に置くきらいがあるため、如何せん応用力がない。話の幅が広がらない。
そして、致命的な欠点は彼女の性格にあった。
「パステルナークさん」
「は、はい」
「そんな気負いしなくていいの。――さて、本戦出場おめでとうございます。早速明日から開始されるようですが、それにも関わらずいつも通り学園に通うとするのはとても大切な事だと思われます。今日は明日に備える意味を含めて、しっかりと生気を養えてくださいね」
「はぁ」
「力、山を抜き、気、世を蓋うという言葉がありますが、これは正しく『大召喚』後の世界を生き抜く若い世代に最も当てはまる言葉と言えるわね。ですが、何事にも力の出しどころ。少なくとも、このような往来で発揮されるべきものではありません」
「そーですね……」
「今回の発端はいつぞやと同じく化光さんですね。その原因も、またもや何時ぞやと同じ。しかし、人魔あふるる『大召喚』後の世界において、己の知識が及ばぬ世界があるのはまた当然の事だと思わない? 私自身、未だ至らぬ所多く、精進の続く毎日でありますが」
「あーはいはい。まったく、ほんと口やかましい鬼ババァなのだわ」
「ちょっと! 話はまだ終わってないんだからちゃんと聞きなさい! あと、お前今鬼って言った? 鬼って言ったわよねぇ?」
「うげ、藪蛇……」
「ほら、怒らないからちょっと嗅いでみなさいな。どこにもアルコールの臭いなんてしないでしょう。だいたい、あの飲んだくれ一号飲んだくれ二号を筆頭とする鬼どもと同一視されるというのは、さすがの先生としても容認できないわ」
「先生、誰も聞いてませんから……」
「ハッ、もしや、語るに落ちたとでも言いたいのかしら。私の身体が目的? お生憎だけど、私の正体が露見した暁には知人全員デストロイ――」
「頭湧いてるんじゃないのこの新手のマッチポンプ。これだから鬼ババアの相手は疲れるのだわ」
「ケ・テ・ル・さ・ん?」
右から左へと聞き流すパステルナークに、反駁する化光。
両者の反応は異なってはいたが、ここからだけでも華仙の人物像は窺い知れる。
茨・華仙という女教師は一昔前のモラルと規範を引っ提げており、彼女の説教じみた態度を苦手とする輩は殊のほか多かった。相手の都合など気にもしないのが、これまた質が悪い。
曰く、夏休みを直前に控えた、校長の糞長ったらしい話。曰く、夏の終わりを告げる母親の宿題催促。彼女と相対する者の脳内にはそういった記憶が想起される。
つまりはそうゆう事で、華仙の説教は幼少期の苦々しい記憶を彷彿とさせるのであった。所謂、学生諸君が最も苦手とするタイプだ。
華仙の肩を持つのであれば、それなりに融通がきき、それなりに人気もあるといえばある。
しかし、学生が教師に対して苦手意識を持つのは世の常というものだ。
華仙もある程度はそれを把握しているらしかったが、彼女の教師然とした態度が鳴りを潜める事は一向になかった。
「ま、固苦しい話はここまでにするけど、貴方達本当に飽きないわねぇ。水と油とでも言いますか」
「いや、私はそんなつもりじゃないんですが……」
「こちとら聞きたい事があるだけなのだわ! そもそも、科学で説明出来ない事象がある方がおかしいんだっての!」
「口喧嘩はそこまでで結構! ほら、授業も始まるし、走って走って!」
「え~っと、走るにしてはまだまだ遠いし、時間的にも余裕があると思うんですが……」
「若人の本分は元気、健康、病は気からです。走った所で何の損にもならないわ」
「得にもならないけどね。これだからババアは」
「誰が鬼っ、じゃなかった、誰がババアだって!?」
華仙に追いかけられる形で学園の門が見え始めた頃には、さしものパステルナークであっても息切れを起こしていた。
化光の方を見やればここぞとばかりに機械仕掛けの肉体を有効活用しているらしく、足の裏に展開したキャタピラが怒涛の勢いで駆動している。
足元が奏でる喧噪とは裏腹に、化光は疲労の一つも見せてはいなかった。
しかし暫くすると、彼女らの足並みは揃って停止を果たす事となる。
当初、その後ろ姿との距離が段々と狭まっていくものだから、華仙は思わず首を傾げずにはいられなかった。だが、直ぐにその理由には思い当たる事となる。
門をくぐった所で、華仙は眼前に広がる光景に目を見開き、遅れるようにして声を張り上げた。
「貴方達、一体何をやってるの!?」
視界に広がったそれを、ファイターズ・ストリートで日夜繰り返される馬鹿騒ぎと同一視する事は華仙には到底出来そうになかった。
言うなればそれは、怪物による蹂躙。迷宮に閉じ込められた生贄が、成す術もなくミノタウロスに捕食されるかのような惨状である。
怪物の一挙一等足からは隠す気もない殺意が散見され、常人であれば、この場に居るだけで気分を害するほどだ。
その殺意を真正面から受け止めて、たった一人の生贄は宙を駆っていた。何を隠そう、霧雨・魔理沙その人である。珍しくも学園に来たかと思えば、このような騒ぎの当事者に成りおおせているのだから、トラブルメーカーの名は伊達ではない。
物理法則に束縛されないその動きは、彼女が跨った掃き箒に因るものであって、その姿は往年のアニメーション映画を彷彿とさせた。所謂、魔法使いという奴で、柄の先端には学生鞄が掛けられている。
魔理沙は飛んで回って跳ねまわりながら、同じく自在に空を舞う怪物の襲撃を辛くも凌いていたが、今回はあまりにも分が悪すぎた。
両者の間には歴然とした力の差があり、それは海よりも深く谷よりも険しい。
魔理沙の敗因は、日頃の悪行が祟り、とうとう怪物が堪忍袋を破裂させてしまった事に因った。
怒髪天を突くといった表情を見せる怪物に、魔理沙は直ぐにでも逃げだしたい気持ちに駆られていたが、今回ばかりはそうは問屋が下ろさない。
魔理沙の四方八方は、異常発達した植物によって囲まれている。当然、字面が含有する異常性は常軌を逸したものであったが、目の前に広がる光景が常識を粉砕する。
身の丈、優に二十メートル。その頭頂部にはこれまた巨大な花弁がその蕾を広げており、不釣り合いな可憐さを世に振りまいている。
いっそ毒々しい色合いを帯びていればよかった。道端の小花を思わせる薄桃色の花弁は、しかし通常のものよりも数倍の大きさを誇り、その異様さを増大させる。
これは魔理沙が脱走を図ろうとするのを阻害するばかりでなく、その空中飛遊の難易度までも吊り上げた。意思をもったかのように茎から葉が飛び出ると、跳び回る羽虫に殺到する。
魔理沙を縛り付ける緊張はこれらに対する回避だけでも十二分を優に過ぎたが、魔理沙を真に悩ませたのはこれら植物の繰繰り手であり、即ち怪物であった。
怪物の名は風見・幽香。万魔学園が教師兼庭師にて、学園内の管理を一手に担う人物でもある。
普段の彼女は比較的穏やかであると知られていて、これほどの激昂を向けるのも学園長に限られていた。
しかし今やその思い込みも、生徒達の思考からは残滓も残さず刈り取られており、般若を思わせる幽香の顔つきは、見る者を恐怖に陥れる。
幽香の動きは直線的で、弧を描くようにして宙を舞う魔理沙とは対照的だ。又、その動き自体も決して速くはない。
だが、それは小細工の必要性を感じさせない彼女の自負から来ており、その動線には一切の淀みが見当たらなかった。一種の威容さえ思わせる態度に、魔理沙の心胆が震える。
「ハッ! 強い強いと思ってはいたが、まさかここまでとはな」
「強者は基本的に笑顔で、その力を無暗に振り撒かないものよ」
「よく言うぜ。学園長と度々殺り合ってるそうじゃないか」
「…………」
無言の圧力を前に、魔理沙の五指を旗手とし、魔法が迸る。
親の元を離れたそれは、瞬間的な麻痺を起すには十分なほど練り上げられた電撃属性の魔法弾だ。
この一撃に対し、彼女は避けるまでもないとばかりに真っ向からの対峙を果たした。到来する、刹那の接触。
凝縮された魔力が、衝突による衝撃から四散を起こし、幽香の血肉を駆け巡る。血が沸騰を繰り返し、肉に緊縮が生まれ、雷撃は轍となって幽香の全身を疾走する。
しかしそれら全てをもってしても、怪物の突進を止める事は叶わなかった。
「ビリ漁でもしたいのかしら?」
「お生憎様だが、さすがの私もカニバリズムは趣味じゃない。胃がもたれるしな。私の信条には反するが、ここはキャッチ&リリースだぜ」
「所で、ビリって秀真だと違法行為なのよね。何でかしら」
「んー? そりゃ、漁をしようとしている時に誰かが足を突っ込んでいたら、そいつが感電しちまうじゃないか」
「一石二鳥じゃない」
「妖怪目線で語ったつもりはないんだけどな」
話を区切った幽香は、それまでの動きに反し、急速な勢いをもって魔理沙に接近を果たす。これを前にして魔理沙はとうとう腹を決めた。元より、逃げ回り続けるのは彼女の性分ではないし、そも、魔理沙自身これ以上の逃避行は困難と考えていた。
四方八方を取り巻く、意思を持った鉄格子にこれ以上神経を擦り減らされては、遅かれ早かれ幽香の毒牙に掛かるのは時間の問題だ。
そうなってくると、当然魔理沙の思考に浮かぶのは正面突破以外の何物でもない。それ以上の妙案が浮かぶ訳でもないとくれば、自然とそれには補正がかかる事となる。
緊張とアドレナリンの放出により集中力の増した思考回路は、逆説、強いられるかのような単一化を果たし、もはやその範疇に後退の二文字は存在しなかった。
魔理沙は自身に言い聞かせるようにして、掃き箒の先端を幽香に向ける。
「とっておきを見せてやるさ」
次の瞬間、空気を切り裂くようにして、魔理沙の股座に鎮座していた掃き箒が戦場に解き放たれた。
乗り手を失った竹箒は野次馬の視線を置き去りにして空間を駆け抜け、大敵に向かって突撃を敢行する。その視線は、怪物の眼窩に向かって真っすぐ向けられている。
この突然の行動にはさしもの幽香でさえ反応が遅れることとなった。
直接矛を交えるものでさえその次撃の策を見抜けなかったのには、霧雨・魔理沙という人間種の脆弱性が根本的な原因として存在する。
幽香にしてみれば、箒一つなければ空も飛べぬ存在が、いとも簡単にそれを手放す事実に到底思い及ばなかったのだ。事実、寸での所で回避を行ってみれば、件の人間種は重力に従って大地へと吸い込まれていく。
これ幸いとばかりに幽香は追撃を仕掛けようとしたが、そこに待ったをかけたのが、今しがた標的を外したばかりの掃き箒であった。
一度幽香の前を通り過ぎっていたそれは、彼女の後方にて停止。その後、先の勢いを取り戻してから再びの突撃を行った。
「わお」
それは正しく魔理沙へと向けた感嘆の意である。短い驚きを吐いた後、背後から再び迫った掃き箒に対し、体を捻って回避をこなす。それは決定的な隙といえた。
一方、手元から離れたそれを自由自在に操る術は、魔法使いにしてみれば序の口もいい所だ。
帰還した掃き箒の柄にさながら波乗りの如く両足を落ち着かせると、魔理沙はおまけとばかりにマジックミサイルを標的に向けて撃ち込み、着弾。
無論、その程度で倒れるような相手ではないという事に関して、魔理沙はすでに織り込み済みである。
だが、幽香にとっても思いがけないその一連の動きは僅かではあるが動揺を誘い、彼女と直結した植物達もその動きを止める。
その一瞬こそ、魔理沙の欲したものだった。
「火生土、火剋金って奴だ……!」
魔理沙お手製の改造学生服は、脇腹あたりの内ポッケが幅広に改修されている。
ある程度のふくらみを持たされたそれは、すそからはみ出る寸前で収まっているものの、外面はあまり宜しいものではない。
奇妙なふくらみに邪推を加えてしまうのは、銀行員然り、警察然り、ごく普通の反応であったからだ。
亜米利加人が耳にタコがつくほどフリーズフレーズに聞き慣れたのも、ポケットが秘める危険性を口酸っぱく幼少期の内から説かれてきたからに因る。
事実、彼女の学生服は銃なんぞよりはよっぽど危険なものを内に秘めていた。
往年のウエスタン・ガンマンを彷彿させる動きにつられ、学生服がはためく。
すかさず内ポッケの中に潜り込んだ彼女の五指が再び姿を見せた時、その五指には『ビックリドッキリメカ《一発逆転の秘策》』が握りこまれていた。
所謂マジックアイテムと呼ばれる代物の一つで、手の平大の八角柱に、台座用の足が付属している。
正八角の表面を見れば、中心の窪みから八方へと直線が走り、区切られた区域の中で非均等な太彫りの線が幾重にも重なって踊る。
一見ただの紋様にしか見えぬそれは、大陸由来の宗教を元としており、それぞれの記号をして乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌、即ち八卦を示したものだ。
風水として度々使われる事の多い八卦図だが、魔理沙の所持したそれは特別製で、そんじょそこらの代物では及び付かない。
ヒヒイロガネを礎とし、かつて斉天大聖孫悟空を封じ込めたものを模したそれは、ミニ八卦炉と呼んでも差し支えのないもので、時として山をも消し墨にする大火を吐きだす。
普段は専らガスコンロ代わりの調度品として使われている訳だが、その真価を発揮する場面がとうとう訪れた。窪みから、光が湧きでる。
泉のように溢れるそれは、可視化出来るほどまでに凝縮された魔力の渦だ。注ぎ込まれた魔理沙の魔力は撃鉄と化し、その勢いでチャンバーへ。
ミニ八卦炉は、言うなれば魔力の増幅器だ。人間では辿りつくのも困難な局地にある大魔法をいとも容易く生み出すそれは、もはやマジックアイテムの範疇には含まれない。
露骨に光を放ち始めたそれを、高まる動悸と共に魔理沙は抑えつける。
魔理沙はこのマジックアイテムの危険性を、十分承知していた。一歩誤れば、暴発した魔力の渦に巻き込まれて魔理沙の四肢は一瞬にして灰塵に帰すであろう。
だが、それを補って余りある力がミニ八卦炉には秘められている。その力を使いこなすために行われきた『経緯《努力》』が、魔理沙に多大なる自信を与えていた。
五。
先ほどのマジックミサイルが起こした実体煙が霧散し、幽香が再び姿を現す。
「面白い見せものが見れそうね?」
四。
無傷の大敵に、魔理沙は挑発的な笑みを浮かべた。
「吠え面かくなよ?」
三。
二。
一。
無粋な調停者によって、強引に天幕が下ろされたのは正にその時である。
「ぐぇ」
轢き逃げの憂き目にあった蛙の断末魔のようだ。見物人はそう思いながら、事態の急転を取りあえず見守る。悲痛な声の主は戦闘態勢を敷いていた霧雨・魔理沙その人であった。
しかし、今や彼女も散散たる体を晒していて、文字通り首根っこを掴まれて無力化を余儀なくされている。
借りてきた猫といった風の魔理沙を通り越して、幽香は無粋者に視線を向けた。
「あら、華扇じゃない。何時の間に来てたの?」
「貴方達が一悶着起こしている間に、ね。全く、こんな朝っぱらから教師が生徒に手をあげるなんて」
「それじゃあ、今度からは夜襲をかける事にするわ。それなら別に構わないでしょ?」
「人の揚げ足を取るな!」
事態の収拾を図ったのは華仙だった。
彼女は瞬間移動――字面通りなのだから、何とも陳腐な言い草だ――をもって魔理沙の背後に迫ると、そのまま首根っこに手を伸ばした。
ミニ八卦炉の行使にはそれなりの集中力を要するものだから、魔理沙はこれに成す術もなく捕らわれる羽目になった。
おまけとばかりに、主を囚われた箒は地に落下していく。カランと虚しく響き渡ったその音が、闘いの終結を静かに告げていた。
興が削がれたという事だろう、場を包み込んでいた殺意は搔き消え、圧力を感じさせる空気の重さはもはや存在しない。
恐るべき趨勢を見せていた花々も、先ほどの姿が嘘のように縮小を見せており、可憐な花弁が似合うサイズを取り戻している。
風見・幽香はいつも通りの笑みを浮かべていた。。強者は時たまブチ切れるが、基本的に笑顔で紳士的なものである。
「命拾いしたわね、魔理沙。あのままいったら、貴方負けてたわよ」
「ネットにぶつかったボールがどちらに落ちるかなんざ、誰にも分からない話だがな」
「面白い事聞いちゃった。それじゃあ、後日もう一度やりましょ?」
「人が聞いている所で再戦の約束なんて、いい性根していますね……」
事の始まりはこうである。
幽香が栽培している花を、魔法薬の調合に使おうと魔理沙がかっぱらった。それに幽香がブチ切れた。説明、終わり。
華仙としては、幽香の過剰折檻に関してもとやかく言いたい点は山ほどあったが、先に咎めるべきは魔理沙の窃盗行為にある。
そもそも華仙にとっては予想が的中した形であった。幽香ではなく魔理沙を先に無力化したのも、どうせ諸々の発端はこちらに違いないという思いがあったからである。
無論、彼女の方が御しやすいというのも、あながち嘘ではないが。
「久々に通学したと思ったらこんな騒動起こして……まぁ別に何時来てもいい訳だし、門前での喧嘩沙汰なんてのが日常茶飯事な部分はありますが」
「まぁまぁ華仙センセー。怒ると皺が増えるってな。それこそ、山姥みたいに」
「誰が鬼ですって!?」
「だいたい、酷い顛末にしてくれたもんだぜ。例えるなら、まるでマラソンランナーにディープなハグを決める野次馬。打ち上げられたファールボールを勝手にとっちまう観客。フィールドに入りこんで試合を邪魔する露出狂って所だな」
「馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたけど、まさかここまでとはね。特に、最後の例え。よくもまあそんな例えを出せたものです。許しがたい。端的に言うと堪忍袋の緒はとうの昔に切れました!」
途端に始まった教師の説教に、辺りは普段の喧噪を取り戻しつつあった。
生徒の身でありながら賭け事に興じていた連中は、引き分けによる払い戻しを求めて胴元を必死に捜索している。
意図は異なるものの、同じ穴の狢と化していたのが倉雲・化光だ。ふと視線をもどすと、傍らに居た筈のパステルナークが忽然と姿を消している。
「パ・ス・テ・ル・ナ・ア・クッ!」
怒声にも似たそれを背に受けながら、件の少女、パステルナークは颯爽と校内に入りこんでいた。三十六計逃げるに如かず、というやつである。
ここまで来ればさしもの化光であっても今日の所は諦めがつくであろう。授業の合間にとやかく糾弾される可能性もなきにしもあらずだが。
とにもかくにも、ここにきてようやくパステルナークは自由を得る事が叶った。こうなってくると、教室を開けるのにも朗らかな気分が自然とくっついてくるものである。
「おはよー……」
所が、ようやく手に入れた陽気な気分とは裏腹に、教室は暗闇に沈みきっていた。
暗黒空間を前にして、パステルナークの挨拶は歯切れの悪さを伴って掻き消える。
何事かとパステルナークは暫くの間首を傾げていたが、その原因にはすぐ思い当る事となった。
彼女の視線の先では、元気玉の生き字引とまで称されるコリーズが片割れ二ツ岩・魔魅が、これでもかとばかりに机に突っ伏して悲しみに浸っていた。
八重歯の光る子供っぽい顔は当面の間姿を見せる様子はないようで、つばが直角におりまがった二つ角帽子も、主につき従って頭を垂れている。あまりの陰気の放ちように、パステルナークはひどく驚きをおぼえた。
明日は雪かもしれないとさりげなく酷い事を考えながらも、パステルナークは接触を試みる。
とはいえ、こんな魔魅を見た事は未だかつてなかったわけだから、直接声をかけるわけにもいかない。
自然と足音を立てないように教室に入り込んだパステルナークの視線の先には、魔魅の傍らにて困り顔を浮かべる久木・初音の姿があった。
目尻のつりあがった狐目の持ち主で言わずとしれたコリーズが片割れであるが、そんな彼女であっても相棒への対応には苦慮している様子だった。
その顔には何とも言い難い表情が浮かんでいる。
「初音。魔魅、どうかしたの?」
「あー、何て言うか、こればっかりはどうしようもないっていうか」
「?」
「例えばさ、空でも飛ばないかぎり、地震からは逃げられないじゃん? それと、コーラを飲んだらゲップをしちゃう事からも逃げられないよね」
「初音、女の子がその例を出すのはちょっと……」
「わわわ、分かってるわよ! ちゃんと反省してるわよ! ……まぁともかく、避けられない不運ってのが世の中にはあって、魔魅がこんな感じに項垂れてるのも、全ては叔母さんが近々やってくるからな訳」
「魔魅のおばさん?」
「うん、まぁ守鶴の大叔母様への用事のついで、らしいんだけどさ」
悪戯好きの魔魅がここまで意気消沈している訳だから、ドがつくほどの厳格な性格の持ち主なのであろうか。そこまで至って、パステルナークは自身の考えを改めた。
二ツ岩・魔魅は狸の化生だ。元来妖怪狸というのは悪戯好きであって、叔母なる人物の人柄も当然伺い知れる。
そうなってくると、同族嫌悪でも起こさない限り、魔魅と叔母君の関係は気が合う仲に値するのではないか――――魔魅が叔母、二ツ岩・マミゾウの実情を知らぬパステルナークがこういった誤解を持つのも無理ならざる所であった。
尋常ならざる魔魅の恨み節が、まるで地獄の底から聞こえてくるかのように木霊する。
「うぐ、ちょっと前に妖怪ウォッチを借りパクされたばっかりなのれす……」
「うげー、でも叔母さんならやりそうだなー。問いただしても絶対返してくれないよ、それ」
「どんだけ大人げないのよ、その人……」
「通信対戦で負けそうになると必ず電源切るれすし、マリカーやると執拗に赤甲羅ぶつけてくるような人なのれす……」
剣もほろろといった涙声に、思わず初音とパステルナークから同情の念が込み上げる。
周辺一帯に広がりつつあるは負の念。それを払いのけるヒーローの到着は未だ遠く、当事者を間に挟んでの気不味い雰囲気が漂う。
場の空気をごまかすにはぴったりの話の種が、彼女らの頭にちらついているとなれば、それが話題に出されるのは自然の成り行きと言えた。
「そういや、明日は美奈歩も鳥ジャガーもパステルナークも魔理沙も……って、このクラスから出場し過ぎでしょ。一回戦目からクラスメイト同士みたいだしさー」
「あー、うん、確かに。亜門や辺人あたりも出てくるかと思ってたんだけど、めんどくさがって予選にも来てなかったみたい」
「まぁあの二人ならそう言いそうだよねー。それより、さ! どうなの一回戦? 勝算ありそう?」
「微妙なトコ、かな。そもそもクラスメイトと闘うって話自体、あんまり気が乗らないからさ」
「え~~? でもさ、でもさ。相手は魔理沙だよ? そんなんで大丈夫なの? 絶対本気でやってくるよ!?」
気弱な態度と曖昧な対応をみせるパステルナークに、初音は喰ってかかった。
こうなってしまえば否応なく、身を乗り出す勢いの少女をパステルナークが苦笑と共に諌めた所で、三人官女の話題は方向性を獲得する羽目になる。
「魔魅としては、どっちにも怪我はしてほしくないのれす」
「いやいや、そりゃ皆おんなじ思いでしょ。てか、もう大丈夫なんだ?」
「うぐう。せっかく考えないようにしようと決めたところだったれすのに……」
「ヤベー! 要らぬ墓穴を掘ってしまったー!」
コリーズの会話を尻目に、当事者たるパステルナークは暗中模索の迷路にどっぷりとはまり込んでいた。無論、ラビリンスでは霧雨・魔理沙が番人となって徘徊している。
さて、霧雨・魔理沙という少女の人となりをそれなりに知っていれば分かる通り、彼女は大の負けず嫌いである。
どんな勝負であれ、土に塗れた敗北を味わうつもりはないし、どんな苦境であれ勝利を目指す。例え相手がパステルナークであったとしても、その志が変わることはないだろう。それが、パステルナークにとって厄介な部分でもある。
「明日、か」
霧雨・魔理沙。
パステルナークは時折、この名を持つ者に対し遠慮がちになる事がある。
無論それは友達付き合いの延長線上にある話であって、何もはなっから彼女の事を拒絶している訳ではない。
詰まる所、パステルナークは霧雨・魔理沙を羨ましく思っていたのだ。度々距離を感じる羽目になるのは、その姿があんまりにも光り輝いて見えるせいだ。
魔法使い。その名を冠するだけあって、魔理沙は惜しげもなく自身の魔法を披露する。
周囲の視線がそこに介在する余地はなく、魔理沙自身、他人の意見など全く重宝するつもりはないらしい。
その点において、魔理沙とパステルナークの魔法に対する価値観はひどく異なる。
魔理沙にとって魔法とはもはや切っても切り離せない関係に値するが、パステルナークは魔法の行使そのものを倦厭していた。ここに、パステルナークの一方的な遠慮が生まれる。
パステルナークが思案の暗海を漂っている最中、気づくとコリーズの怪訝そうな視線が彼女に向けられていた。
「どうしたのれす?」
「な、何でもないって! それにしても魔理沙遅いよね! 華仙センセも授業始まる前には説教終わらせると思うんだけど」
「え、そもそも魔理沙今日来てるの?」
――――そういえば、二人は朝のことを知らなかった。
ダンテが俯瞰する中行われた珍騒動をパステルナークが軽く説明しようとしていると、教室の扉が開かれ、遅れるようにして数人が雪崩れ込んでくる。
見知った顔ぶれだ。そのうちの一人は先の騒動の当事者で、悲痛な顔色を浮かべながら先頭を行く者に背負われていた。
「あー、華仙センセの拳骨はホント効くぜ……」
「うそいえや。自分、コブにもなっとらんしオオボケこいとるだけやんけ」
「そりゃ見当違いも良いところだな。私の繊細なハートは傷つきやすいものなのさ」
「…………」
「あたた、いくらなんでもいきなり落とすことないだろ」
「うっさいわ」
「……どーでもいいから、さっさと入るのだわ。はっきり言って邪魔!」
前からそれぞれ上池田・美奈歩、霧雨・魔理沙、倉雲・化光の順で教室に入ってくる。
三人の後ろには美奈歩の弟上池田・実歩が続くが、残念ながら彼だけはクラスが違う。
『一クラス一種族』という、多種族間の交流に重きを置いている万魔学園らしい独自の校則があるためだ。
「ほな、また後で」
「何かあったら言うんやでー」
「んな子供やないんやから……」
「お、そうだそうだ忘れてた。実歩、今度新薬の調合具合を見てくれないか?」
「……俺は便利屋っちゅー訳やないんやけど」
「そうだな、つらら屋のハーケンダッツを奢る事も吝かじゃあない」
「甘いモンは好かん。……ま、今度な」
「ははっ、そうゆう、何だかんだで頼み事を聞いてくれる所が私は好きなんだよ」
「ま、手のかかるのが一人二人増えた所で変わらんしな」
「こら実歩! 誰が手ぇかかるやってぇ!?」
漫才の下りは、この際日常茶飯事の一つとして捉える事が可能だ。
実歩に別れを告げると、美奈歩と魔理沙並びに化光は真っ直ぐパステルナーク達の元に歩みを進めた。
さて、井戸端会議に新たな隣人が加わったところで話題の方向性が転回を見せることはない。
この時もっとも際立ったのが霧雨・魔理沙による宣戦布告である。
「パステルナーク!」
「な、何ッ?」
「いいか。明日は本気でくるんだ。遠慮されて勝ちを譲られても私は全然嬉しくないからな」
「そ、そりゃー言われなくても本気は出すよ。体調は万全だしね」
「ま、それならいいんだが」
動揺を見せるパステルナークを、魔理沙の視線が貫く。
精一杯の鉄仮面を鋳造してみせるパステルナークであったが、その内心は驚きを隠せずにいた。
それは、幼少期の経験から他人の感情の機微に敏いパステルナークならではであった。今しがたの魔理沙の視線には敵意が少なからず込められており、その感情への対処法に熟知しているほど、彼女は大人ではなかった。
パステルナークの口数が少なくなっていく事を周囲は不思議に思ったが、まさかその原因が魔理沙にあるとは思いもよらなかったわけで、魔理沙自身その事実はおくびにも出さず、化光が声を上げた頃には周囲も違和感を喪失しまっていた。
「そうだ魔理沙。アンタもいい加減、魔法について教えるのだわ。パステルナークは口が堅いし」
「un? なんで私がそんな事……大体、科学者ならお得意の科学で解明してこそなんぼだろ? 化光は、人様に答えを教わる事が出来ればそれで満足なのか?」
「むむむ。言ってくれるのだわ」
「ちょうど都合よく、明日は馬鹿騒ぎが始まるんだ。もしかしたら私ら以外にも魔法使いが出てくるかもしれない。比較対象が増えればメカニズムの解析も捗るかもしれないな。ま、私は簡単に見抜かれるほど安い女じゃないけどな」
「魔理沙にしては一理あるわね。特に行くつもりはなかったのだけれど、十分検討させてもらうのだわ」
パステルナークから魔理沙へと対象を変えた化光の詰問は、のらりくらりとはぐらかされてしまった。
魔理沙のこういった機転の回るところは、パステルナークとしても羨ましい部分ではある。
「そういや、ちょっと前に変なのに出くわしてな。黒いもやもやした奴だったんだが」
「変なの?」
「狐か狸に化かされたのかは知らんが、明日はもう大会だし、何かの前触れみたいで気味が悪いぜ」
「前から思ってたけどさー、狐か狸に~って常套句、軽く風評被害だよね? 私らもそんな毎日毎日暇じゃないっての」
「三重では狐の七化け、狸の八化け、貂の九化けと言われているのれす。魔魅たちばかりフォーカスされているのは納得いかないのれす」
「うーむ、コリーズが言うと説得力あるわな……」
と、ここらで話の方向性がレールから脱線する。闇雲な轍を主導するのは勿論魔理沙だ。
「そういや、狸って足フェチなのか?」
「はあ?」
魔魅が思わず素っ頓狂な声を上げてしまうのも無理はなかった。
足フェチ。一族代々の化け学がそんな言葉で形容されるとは思いもよらなかったものだから、その視線には次第に剣呑な雰囲気が付きまとう。
「あー、悪気があって言ったわけじゃないから安心してくれ。ほら、足まがりに馬の足、話によると、足洗い邸の怪異も元を辿れば狸の仕業って話じゃないか。そんな話を聞かされたら、狸は足に関して並々ならぬ執着があるんじゃないかと勘繰りたくなる」
魔理沙の言葉通り、足に関わる形で人と交わる狸は多い。
足まがりは香川県は高松市に出没すると知られる妖怪で、道を歩いている通行人の足に綿のようなもので絡み付いてその足並みを邪魔するという。姿こそ見せないものの、件の下手人の正体は狸であるというのがもっぱらの噂だ。
馬の足は福岡並びに山口県で遭遇報告のある妖怪であり、こちらもその正体は狸とされている。なんでも、夜古塀から枝が出ているようなところを通るとき、文字通り馬の足がぶら下がっていることがあり、これに気付かず下を通ると蹴飛ばされてしまうという。
不思議町町人には馴染深い足洗い邸にも狸の影が見え隠れしている。本来の本所七不思議が家人に害を及ぼすものとして語られているのに対し、一説では、家に不運が迫りそうになると狸が大きな足を出現させて火急を知らせるらしい。
さて、逸失のない理解をようやく得た魔魅であったが、その口ぶちは思うように捗らなかった。
「むー…………よくわからないのれす」
「何だって? 自分の先祖だろうに」
「てか、その話そろそろ止めない? 足足言ってるとカシマさんが湧いてきそうだし」
「カシマ・レイコか。あいつ、いつも鋏持ち歩いてて怖いんだよ」
口裂け女の姿が脳裏をよぎり、その場の人間を身震いさせる。
さしもの魔理沙であってもそれ以上この話題を続ける気力はなかったようで、いらだたしげに髪をかきむしった。
無論、狸が足フェチだろうが何フェチだろうが魔理沙には全く関係ないしどうでもいい話である。
所が魔法使いの性分というやつだろう、一度気になってしまった事をそのまま放置しておく事は魔理沙はどうにも出来そうになかった。頭の片隅に追いやろうものならいつの間にか意識の上に浮上してくる事は確実で、全くもって度し難い。
「この手の話だと、栞か……でも最近本盗んだばかりだからいい顔はされないだろうな……となると、今度足洗邸のアイツにでも聞いてみるか」
「足洗邸!?」
「うおっ、びっくりするな。いきなり大きな声だすなよ」
途端に初音が大声があげるものだから、魔理沙は思わず後ずさりしてしまった。
要因はそれだけではない。嬉々とした表情が初音の顔全面を覆い尽くし、瞳はなぜだかキラリキラリと輝いている。
事情を知る者たちにしてみれば、毎度毎度のこの反応には辟易とするしかない。
しかし、久方ぶりの魔理沙がそれに思い至ったのはしばらく後の事だ。
成程成程と得心顔を浮かべた魔理沙はからかうような笑みを浮かべながら、
「初音には悪いが、そっちじゃない。最近足洗邸に引っ越して来た奴で、そうゆう事に詳しそうな奴がいるんだよ――――田村・福太郎っていうんだが」
足洗邸っぽい民俗談義を加えてみるテスト。
いかがなものだろうか。