どすん。
二階から響いてきた音に、八雲・紫は麗らかな午睡から眼を覚ました。
おぼろげな視界。
外はもうすっかり帳が落ちていた。玄関戸越しに、うっすらと提灯の明かりが見える。
机に置きっぱなしのおちょこに目を向ければ、埃が混ざっていた。
「誰もいないのね」
住民の交流先にあたる居間には、紫以外誰もいない。
寂寥を帯びた一陣の風が紫の心を吹きすさぶが、何、管理人がいないのは好都合でもある。
無粋な物が混ざりましたおちょこを、すいと掬いあげる。
富士山を逆さまに模したそれを、何を思ったのか紫は宙にて傾け始めた。
途端に端から端へ零れはじめる酒。しかして、その濁流が床にてはじける事はない。
どこぞにか消えていく、液体の流れ。床、にでもない。机、にでもない。
地へと地へと零れていく筈の酒の終点に視線をやれば、床に向かう途中にて何某かに妨げられている事がすぐに分かった事であろう。
開いている。
隙間が。
空間を切り裂くように現れた、瞳型の暗黒空間へと、深淵へと、次々と消えていくのだ。
おちょこが空になった時には、突如現れましたそれも、忽然とその姿を消していた。
「それ、もう一つ」
気分の良くなった紫が、心機一転、おちょこに新しく注ぎ始めた時である。
玄関戸が誰かによって開かれた。口についっとおちょこをやった紫は、それからゆっくりとそちらに目を。
「あら」
「何の音だ?」
須美津・義鷹がたずねると、紫は返答代わりに、ぐいっと残りの酒を飲みほした。曰く、知らない、と。
呆れたように息を吐いた義鷹が、靴を履いたままで床に足を――と思いきや、その靴が消える。吸い込まれるように、飲みこまれるように、縮むようにして義鷹の足にひっつくと、そのまま肌色の中に溶け込んだ。裸足となった義鷹は悠々とソファの上に。
今度は紫の問いの番である。
「何をやっておりましたの?」
「ショーギ。今はこまと玉兎がやってる」
「では、あなたは、どうだったのかしら」
「こまの奴、つえーのなんの。法・考直と知恵比べできたかもな」
「あらあらまあまあ」
玉兎が難しい顔をして迷い箸ならぬ迷い駒をしているのが、紫の脳裏に浮かぶ。
まるで私事のように喜びを顔に滲ませる紫とは対照的に、義鷹は暇そうだ。二人分ソファを占領するようにして横たわっている。
観客をするのに飽きてきた所で、義鷹の耳に何某の音が入ったのであろう。
二階にいるのは、田村・福太郎と笠森・仙である。
「二階には誰がいるのかしら」
「人間と元人間って所だな」
「面白い組み合わせね」
「そうかぁ?」
つまらなそうな表情を見せる義鷹に、紫は笑みを一つ。
すると、何の気まぐれだろうか。机におちょこが、もう一つ落ちてきた。
その頭上には、端に可愛らしいリボンを括りつけた、別世界に通じる裂け目。
続いてその裂け目から、とくとくとおちょこに向かって液体が流れ出た。紫お気に入りの酒である。
これには義鷹も驚いたらしく、だらけて横たわっていたその体を起こした。
「あ? 珍しい事もあるもンだな」
「新居者を招き入れた邸へのお祝い、といった所かしら」
「ふーん」
すぃ、と掬いあげられるおちょこ。
そのまま飲み干せばいいものを、目ざとい義鷹めは水面に浮かぶそれに気付いて、まなじりを引き上げた。
「おい、埃入ってんぞ」
「早く飲まないから、よ」
二人の大妖怪が談笑をしていました所、二階からどたどたどたと、これはまあ埃を巻きあげながら誰かが降りてくるではありませんか。
先ほど嫌な思いをしたばかりの義鷹が恨み節にそちらの方を見やると、汗だくだくだくの田村・福太郎。忙しない足さばきで、今にでも踏み外してしまいそうだった。
「どうした。帳も落ちたってのに、爪でも切ったか」
「いや、ちゃいますねん。お仙がな」
「仙?」
笠森・仙といえば、七号室の住人である。
十年前にストーカーに殺され、妖怪として顕現した哀れな少女。
さて、現在の彼女がどうなっているかといえば、これはまあ簡潔に表現できる。
福太郎が一言。
「落ちた」
「落ちた?」
天井下が、床に。
「ハ、猿が木から落ちたか」
「まあ、河童の川流れかもしれませんわ」
妖怪を書き下ろした書物の欠点は、一妖怪の一行動を端的に表したに過ぎないという事である。
天井にいたから、天井下。
風呂の垢を舐めていたから、垢舐め。
では、極端な話。
垢舐めみたいな長い舌をもった其れが、たまたま天井にいたら?
一度心を静めて見つめてみれば、書物の矛盾にはすぐに辿り着くであろう。
しかしまあ、十年も天井に引きこもっていた妖怪が突然地上に転がり落ちてきたわけだ。
義鷹と紫がこう口そろえるのも、無理はありますまい。
こうなりますと、困り果てるのは福太郎である。何せ彼は正真正銘、ただの人間。
『彼自身』は、何の力も持ち合わせていない。妖怪に関する知識も、本家本元に比べれば塵みたいなものだ。お二方が納得したようにけたけた笑っている間も、彼はおいてけぼりである。
右往左往する二手二足が、もがくように答えを求める。
「ど、どないしましょう」
「田村さん」
「は、はいな」
その姿があまりにも滑稽であったのか、助け舟を出したのは意外にも紫のほうであった。
飲んだくれめのありがたいお言葉は次の通りにございます。
「お風呂も沸いているみたいだし、お仙ちゃんに入ってもらったらどう? 十年も天井で寝腐ってみたいだから」
「た、確かに。それは名案ですな」
管理人室には、昔ながらのヒノキ風呂が設けられている。別名鉄砲風呂とも呼ばれる、火を焚くための鋳物製の釜と煙突が備え付けられたものだ。
ガス湯沸かし型の普及しはじめた現在ではとんと見かけなくった部類であるが、どうやら足洗邸においてはまだまだ現役のようでありまして。
お礼もそこそこに、妙案を受け取った福太郎は二階に出戻ると、件の女めを連れだって再びどたどたと降りてきた。
そこにおりますは、二本の足で歩く笠森・仙の姿。久しく動かしてなかったためか、小鹿のような頼りない足つきが特徴的だ。福太郎の裾をきゅっと掴んで、寄り添うように歩いている。
「ごきげんよう、お仙ちゃん」
「あ、紫サン。と、義鷹だ」
「俺はこいつのおまけじゃねえ」
久方ぶりに、七号室住居人が話題の主役になった瞬間だった。十年ぶりの帰還である。
お仙が死んでから十年、その期間に彼女が会ったのは依頼のために立ち寄った義鷹など、片手で数えられる程度にしかない。であるからにして、二号室の住人味野・娯楽が死んだ事など夢にも思わないだろう。
よちよち歩きに等しいお仙があんまりにもあんまりであるため、福太郎は心配そうである。
「お仙さんお仙さん」
「んー?」
「久しぶりみたいやけど、どーなん?」
「何がー?」
「いや、下半身」
「あ、別に大丈夫なんだよね」
ぱっと福太郎から離れて、その場をくるりと一回転。サルサだってマンボだって踊って見せましょう。どうやら妖怪は伊達ではないようだ。福太郎は白けているが。
さてさて、使えない男連中はこの際置いておきまして。
麗らかな淑女が、タップを踊るお仙に声を掛ける。
「お仙ちゃんお仙ちゃん」
「は?」
「お風呂湧いてるみたいだし、入ってきたら?」
「あー、実はその」
顔を曇らせるお仙。二足も途端に沈んで、その場にて行き詰った。
福太郎がよくよく紫の妙案を受け取っていれば、お仙はさっさと管理人室に向かっていたわけであるから、ここで踊り子よろしくなのも、悲しみに顔を歪ませているのも、このままでは福太郎の責任となってしまう。
果たして、事実は全く違った。
申し訳なさそうに、お仙が苦笑する。
「何故か、箪笥に服が入ってないんですよね、これが」
福太郎の初入室時、七号室前住人お仙の荷物はそのまま残されていた。
住居人のための標準装備である卓袱台、布団などはいざしらず、鎮座する箪笥に収納されていたパンツ、ブラジャーなどを発見してしまった時の福太郎は、さぞ驚いた事であろう。
しかして箪笥に収められていたのは、それだけだった。
笠森・仙(故)。生前は女子高生であり、死に装束は制服であったため確かに不思議ではないかもしれぬが、私服を一枚も持っていなかったなどという事はない。
お仙としましては、下着類を置き去りとは全くもってあべこべではないかという憤怒にも似た面持ちであったが、まあ事実は変わらない。笠森・仙が代わりの服を持っていないという。
風呂に入って綺麗さっぱりしたいと存じ上げる。だというのに、再び着込んだ服が十年来共に寝腐っていた死に装束では、恰好がつかないのだろう。
真相は望月・玉兎がかっぱらったといった所だが、まあ今の彼女は知る由もない。
困り果てたお仙を見かねてか、助け船を出したのは、またもや紫であった。
お仙の目前に、ぱさりと服が落ちてくる。おっとっととお仙がそれを捕まえるやいなや、もう一枚。それもう一枚。出所は、どことも知らぬ亜空間。
福太郎とお仙が興味深げにそれ《隙間》を見つめている内に、供給は終わり、それ自身も閉じ切った。
目を白黒とさせたお仙が、恐らくは首謀者と思える人物にたまらず声を掛ける。
「え? あの、これ」
「差し上げますわ」
「ホントに!? ホントにもらっちゃうよ!?」
「ええ、どうぞお好きに」
齢千を疾うに越えた紫の見立てであったが、それはお仙のお眼鏡にかなうものであったらしい。嬉しそうに服服を抱きしめるお仙につられ、紫が笑う。
「えー、それじゃあワタクシ、長年の悲願であった、お風呂に入らせていただきマス」
「ごゆっくり」
「シカラバ!」
鴉天狗もかくやといったすばやさで管理人室に直行するお仙。
と、そのまま襖を開ければ良いのに、意地悪そうな顔を浮かべながら振り向いた。
「福ちゃーん?」
「あん?」
「わたしー、久々だからー、体の洗い方―、忘れちゃったってカンジ?」
「……?」
「部屋片付けてあげたんだし、手伝ってくれても、ね?」
ポルターガイストで、福太郎の部屋を蹂躙していた黒羽はきれいさっぱりなくなっていた。
後々に苦労を後回しにしていた福太郎にとって、それは幸いなことであった。
とまあ、それはそれ。これはこれ。である。
「無理ゆーなや……」
「ふん、福ちゃんの馬鹿っ! もう見せてあげないんだから」
と大きな音を響かせて開き、閉じる管理人室の襖。
と、思いきや、静かに、静かに開き始める。
顔を半分覗かせて、福太郎を睨みつけるお仙。
「見せてあげないんだから」
「どないしろゆーねん」
やっとの事で風呂に向かったお仙。
さてさて、残された三人に渦巻くのは、妙な違和感ばかり。
お仙の気配が遠のいてから、義鷹が口を開いた。
「……変なモンでも食ったのか?」
「悪食扱い、しないで下さる?」
しかして、のらりくらりとその追求を避ける紫。
長らく同じ邸にて紫と暮らしてきた義鷹であったが、こんなにも好待遇を誰ぞに見せたのは何時ぶりであるか、さっぱり思い出せない。
メフィスト・ヘレスに連なる真意の分かり辛い輩というのが、義鷹評であった。
紫の珍妙な行動は続く。
「どうです、田村さんも。お一つ」
「はぁ……」
こつん、と再び落ちてくるおちょこ。
人の善意は無為には出来ない。もらえるものはもらっとけ。
人間らしい風に装うのがここで最良なのは福太郎とて理解できていたが、紫の真意に関しては測りかねていた。何時でもお酒。どこでもお酒。親愛なる隣人よ、汝お酒を愛せといったのが福太郎評である。その紫が、ただで酒を誰かに渡すとは。
ただとは、何よりも高いと評される代物である。
ままよ、とおちょこを掬いとった福太郎に紫が停止を勧めると、宙からこぼれおちる天の水が。
「……隙間《これ》、中はどうなってますん?」
「目が潰れますわよ」
たぷんと波打つまで注がれたおちょこに、不安げな目を向ける福太郎。
徐々に徐々にと、その端に口を近づける。
しばらくしてから、自然と福太郎からこぼれたのは、純粋な賛美であった。
「……! おいしいですね、これ」
「お気に召したようで」
度数の高さが鼻につくが、飲みやすく、また深い味わい。
大吟醸固有のほがらかな香りが、福太郎の鼻腔をくすぐる。
普通に、旨かった。
いやはや、あら何ともなや、あら何ともなや
何事もなくてよかった。
「あら、俳諧を嗜みますの?」
紫が興味深げに声を上げる。
あら何ともなや 昨日は過ぎて 河豚汁
日本橋は小田原町に居を定めていた頃の松尾・芭蕉が、詠んだ代物である。
知的なおかしみを秘めた貞門俳諧が廃れ始め、流行に敏とする談林派が主流となった時代のものであり、謡曲の慣用句を用いて表現された。
「松尾・芭蕉。いえ、松尾・宗房かしら」
「や、たまたま知っていたというだけでして。そも、口に出てはりました?」
「さあ、どうだったかしら」
はぐらかすような笑みに、福太郎はとまどいを示す。
紫の顔に浮かぶ笑みは、まるで雲か霞のようであり、度し難い物がある。
それを掻き分けてまで他人に接す。そこまでの気概は福太郎にはまだなかった。
気分が乗ってきましたのか、紫がもう一つほど、歌を詠む。
「行春や 鳥啼き魚の 目は泪」
更科紀行の旅を終え、早くも春先に未開地東北に旅立つ松尾・芭蕉。言わずと知れた、松島の月を目指したみちのくの旅である。
この歌は、『奥の細道』に記された最初の句にあたる。
「芭蕉は庵さえも売り払ってみちのくの旅に出たそうですわ。門弟たちに別れの思いをもちながら。さて、皆様方の行く末が、松尾・芭蕉のような前途多難な道になりません事を祈って」
くいっとお猪口を唇に。
何ということはない。結局は、飲んだくれの長い長い前口上に過ぎなかった。
「飲んだくれにしちゃ、殊勝な言い分じゃねーの」
「あらあらまあまあ」
くつくつ笑う義鷹に続いて、福太郎も笑った。
根なし草にとっては、絵描きにとっては、松尾・芭蕉の俳諧に賭した人生はなかなかに考えるものがあったらしい。
「お」
そこで新たな住人。ショーギに飽きた望月・玉兎と、竜造寺・こま。
言うまでもない事であるが、戦績は玉兎のボロ負けである。長々と付き合わされたこまの精神は摩耗しきっていて、こくりこくりと船をこいでいる。福太郎から受け取ったスーツケースを床に落としてしまいそうだ。
「なーに、酒のんでんの? 私にもくれ」
「残念ながら」
「あー?」
先の気前のよさは、期間限定であったらしい。瞳を閉じた紫には、玉兎の睨みも効かない。
次いで福太郎に目を向けるが、残念、もはやお猪口の中身は空である。
「ま、いいや。私、一番風呂予約ね。私が沸かしたんだから」
もはやそれは踏みじられている訳だが、言う必要もあるまい。
とんとんとん、と階段を玉兎が昇っていく。
その姿が見えなくったと思いきや、引き返してきて顔だけをひょこんと出した。
「それと福太郎、ちゃんと感想言ってね」
「ん、ま、まあ後後ね。そやね」
エロ小説の感想とは、一体どういうものなのでしょう。
帰り際に手渡された紙の山は、八号室に鎮座している。あれをひも解くのには、準備が必要でございましょう。福太郎には。
こまの姿を福太郎が探すと、管理人室に向かうのを視認できた。どうやらよほど大切な物であるらしかった。それならそれで自分で行くべきだったのでは思いもしたが、一住人が管理人の依頼をむげにも出来まい。
「ハロー、こんにちは、サヨナラ、グンナイ、アウフヴーダーゼーエン。みなさん、元気ですカー?」
そうこうする内に、生き住人の最後が邸に帰還した。次々と玄関戸が開かれた訳であるが、偶然にも帰宅する時間が重なったらしい。一号室住人、メフィスト・ヘレスである。
上から下まで真っ黒に染めましたそれは、まさに悪魔らしい。
マントをはためかせるその姿は、何処ぞのヴィランであろうかといった風である。
「あ、メフィストさん。大丈夫だったんスか?」
「んー? 田村さん、どういう意味デスかな」
その姿を認めた福太郎が、思わず声を掛ける。
その脳裏に残るのは、巫女さんと暗い雰囲気をかもしながら談笑をしていた姿である。
福太郎にしてみれば、人づてにしか聞いたことのないメフィスト像を図りかねていた訳であるが、この交流にてその評価は決まった。
曰く、変な人。
「や、早苗さんと何やら話してはったみたいで」
「ちっ」
「え」
「田村サーン? 秀真国のヒトは奥ゆかしさがあるらしいデスねー?」
「まあ、一般的にはそうらしいですが」
「巫女さんの癖に粗暴なふるまいが見える巫女なんて、知りまセン!」
酷い現実にワッツハプント! などとのたまうお方には、どうにも付き合いにくい。福太郎はついと視線をそらした。変人同士お似合いであるとは、一般人の戯言である。
「んん、どなたか風呂に入ってるようデスな。いささか早めのようデスが。もしやー?」
管理人室の襖より僅かに湯気が漏れ出る。否、それを視認するまでもなくメフィストであったならば誰ぞが入浴中である事を理解したかもしれない。悪魔ですので。悪魔ですので。
その目は、義鷹に向けられている。
「あ? あー……入ってるのはアイツじゃねえよ」
「ほうほう。では?」
「お仙」
「ワッツ、ハプント!?」
殊更に感情を表現するメフィスト。
彼にしてみても、今更ながらに天井下が舞い降りてきたのは意外であったようだ。
そも、万魔殿学園という場所にて英語教師の職についているメフィストにとって、お仙は学園の元生徒にあたる。その彼女がある意味における『進化』を遂げたのだから。感動もひと塩であろう。
「確か、天井にぶらさがっていた筈では?」
「落ちてきたんだとよ」
「ほう、それではお仙サンは、妖怪レベル2となったという所ですかな」
妙な換言ではあるが、これがまたよく的を射ている。
一度は死に、天にお隠れになり、再び、地上へと。
となれば、レベル3は――
メフィストがその未来に、楽しげな思いを馳せていると、突然管理人室の方から叫び声が。
「うぎゃー!」
話題に上がった笠森・仙の叫び声にあたる。
その彼女が、服も着ないでタオル一枚、水も滴るいい女で管理人室から飛び出て来たではないか。
思わず目をそらす福太郎。
ムフゥ、と意味ありげに呟くメフィスト。
遅れて這い出てきたこまが、水浸しになった床を恨めしそうに見つめている。
「ご、ごき、ごききき」
「仙ちゃん。もうこまが退治したニャ」
「げに恐ろしきは猫の習性―! 咥えたままでこっちにこないでよー!」
たとえ人を模した所で、竜造寺・こまの本質は猫、猫、猫。ちらりとのぞかせる歯の間に、ああ、言うも恐ろしや。語るも恐ろしや。黒い物体が死に体で挟まっているではないか。
こまとしてみれば、後々の掃除が手間となるためにお仙を追っているのだが、お仙にしてみれば脅威以外の何物でもない。
どたどたどた。
楽しげで愉快な音に誘われたのか、仕事の後詰めに入っていた玉兎が疾駆して降りてきた。
「あああああ! なーに楽しそうな話してやがんのおおお!?」
兎の怒気が走る。元凶をチラホラ探し始めて、遂に玉兎はその姿を認めた。
ジャーン。ジャーン。
「げぇ、お仙!?」
「玉兎ォ! 兎って雑食!? 邸中のゴキブリ処理してよー!」
「ぶっとばされてえか!?」
足洗邸には昨今、『虫』が増え始めているようだ。
ガシャン。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。カサカサ。
ガシャン。
「フォーカード」
「ワッツ!?」
「ああ、クソ」
さてさて夜も更けまして。
居間では、テキサス・ホールデムの名ギャンブラー元大佐さながらに、紫が二人を手玉に取っていた。
一人は義鷹。
もう一人は、メフィスト・ヘレスである。 ガシャン。
本来ならここにもう一人ばかりいるべきだが、福太郎はさっさと二階にあがってしまった。
風呂上がりのお仙と玉兎は、同室にて、八号室にて格闘芸舞に興じている。床掃除から開放された故の気晴らしであろう。
おこまといえば、手渡されたスーツケースを管理室に仕舞い、早々にねくさること選択したようで。 い ガシャン。
頭を紫の膝におき、にゃんにゃんごろごろ、ソファに横たわる。
さわりさわりと、その背を優しげに撫でる紫。
「ブタばっかんなか、やっと良手が来たと思ったらこれだ」
「紫サン、もしや、サマをしているのでは?」
「まあ、言いがかりですわ」
口元を隠す様にして笑う紫。淑女然とした癖にギャンブラーとは。
上機嫌の余波か、彼女は手元にてぴこんぴこん揺れる猫耳を弄る。
なれ親しんだかのような指の動きであるが、隠された人間耳の方に関しても御存じのように思える。福太郎にとっては垂れ唾ものだろう。
「うにゃ……」
「あらこまちゃん。起こしちゃった?」
紫の膝にて、ぴくんと瞼を開く猫又。
しかして、うつらうつら、船を漕ぐこまは誘われるように、再び眠りについた。
「うむにゃ……」
「まあまあ、可愛らしい」
手配された手札にほくそえみながら、毛駄物と戯れる彼女には訝しげな視線が二つばかり向けられている。
義鷹とメフィストからしてみれば、片手間ごときに何度も何度も負けられるわけがない。
で、あるのだが。
「フルハウス」
「oh……」
「…………」
哀れ、賭けごとの最中であったならば、二人は下着までひんむかれていた事であろう。
義鷹は言うまでもなく、得意分野においてこうまでもしてやられたメフィストの心中は察するに難くない。
どなたも、思わず人間を模すのを止めてしまいそうだ。見れば、義鷹の腕には毛が生い茂り、メフィストの顔には異様な色が走り始めているではないか。
「次だ、次」
「あらあら」
紫はガシャン余裕の笑みで挑戦ガシャン者のまなざしを受け取ガシャンる。
はてガシャンさて、お二人は、このガシャン大妖怪に勝てるのでガシャンガシャンガシャンガシャン。
「うるせえ!」
玄関戸に叫ぶ義鷹。
先ほどから響く、奇妙な音。それは少しずつ、少しずつ、邸に近づいている。
二階の福太郎は素知らぬ事であるが、それを打ち鳴らすは他の住人にとって知己の者である。
果たして、戸は開かれた。
「…………」
棺桶から這い出てきた死体。あるいは、腐り損ねた死体。いや、そのどちらとも言えるだろうか。玄関に立つのは、少なくとも生者ではなかった。
白骨化した半顔。大きく陥没した頭頂部。
所々がシミにまみれた、山吹色の衣装。
味野・娯楽。二号室住人。H・N『地上ヨリ賭場ニ《チャーチル》』。
そこにあるは、三年前に踏みつぶされた人間が、狂骨として蘇った姿である。
降ってわいた足に踏みつぶされた後、その亡骸は義鷹によって地獄に通じる井戸に落とされたわけだが、半身が白骨化しているのはそういう理由があるのであろうか。
「おー、おー、おー……」
彼はもはや息をしていない。する必要もない。
これまた白骨化した右手が、それ、それ、それと居間の住人達を次々指していく。
それと同時に、味野・娯楽の視線は次へ次へ。
クソガキ。
クソ悪魔。
子猫。
そして、紫に。
そこで大きな声が上がった。
「おお!? ムラサキの腐れババア! ワレ、まだ生きとったんか!」
さも驚いたように、ジジイが声を上げる。
ババア。
八雲・紫の長い長い生において、彼女をそのように形容する者はいなかった。
そう、この足洗邸にて、この男と出会うまでは。味野老と出会うまでは。
ともすればカードを握りつぶしてしまいそうな憤怒をゆっくりと鎮めると、紫は味野に答える。
「脳味噌まで腐りきったようね」
「ボケババア! 脳味噌が腐っとったら、何も考えられんわ! そんなのも分からんか!」
「……呆け爺に言われたくありませんわ」
眉がつり上がるのを感じながら、冷静に、冷静に紫は対応する。
妙齢の麗人を地で行く外見の紫にとって、この侮蔑は何にも勝るものであった。
さて、何故味野老はこのような物言いをするのか。照れ隠しだとか翁の淡い恋故などというものであったならばまだ微笑ましかったが、真相は花札で紫にボロ負けした事に所以する。
味野・娯楽はとある事情によって関西から出奔したわけであるが、二度も女に負けた事は、前職からして我慢出来ない事だったのだろう。
この喧騒に眠気を妨げられたのか、こまがうるさそうに苦悶の表情を見せる。
「うにゃ~ん~」
「ババア。まーた仔猫いじめとるんか」
「御冗談を。私、こまちゃんとは仲よしこよしよ、ねえ、こまちゃん?」
「にゃ~、酒臭いニャ~」
「まあ可愛らしい」
もとはと言えば味野の大声が原因であり、その末に紫の酒臭い息をかけられたとあっては、こまにとっては散散な目ばかりである。うにゃんうにゃんと紫の膝もとでぐずるこま。
「おうババア」
「何かしら」
もはや訂正を施そうといった気概さえ消え失せたらしい。
淑女然として、翁の物言いを寛容に受け入れる八雲・紫の何と素晴らしき事か。
そんな彼女に感銘など持つ訳もなく、味野はいつも通りの台詞を放つ。
「ワレ、長ドス知らんけぇ?」
「さあ、何の事だか」
「ババア! 隠しても何にもならんぞ! おお!? いてこますぞババア!」
吠える骨が先ほど申し上げたのは、妖刀『片葉の葦』の事だ。
その逸話は知る人ぞ知るであるが、現在は場所を場所を移した結果、味野の手に在る。在った筈だった。
いかんせん味野自身がボケているので、どこに置いたのかを忘れてしまったらしい。
そういうわけで、時折刀を求めて邸に舞い戻ってきて、刀の事を忘れた頃に井戸に帰っていくのだ。
「おう、クソガキ」
「知らん知らん」
「クソ悪魔」
「存じ上げませんなぁ」
「ほうか。邪魔したの」
がしゃん。がしゃん。
狂骨は二階へと上がっていった。
己の住居に戻ったか、それとも、新たに尋ねにいったか。
残される三人。一猫。
「義鷹。邸の外に捨て置けばよかったものを」
「……かもな」
「ニャ……」
「あらあらこまちゃん。他愛の無い冗談ですわ。そんな顔をしないで?」
それにしては、真顔であった紫である。