がしゃん。がしゃん。
狂骨、味野・娯楽が体中の骨を軋ませながら外に出てみると、随分前に朝日は昇っていたらしかった。
照りつける熱視線など死人には感じようもない事ではありますが、ついつい太陽に目を向けてしまう。
地獄に五感を囚われた味野の瞳は、一般人とはこれまた違うのでありましょうが、味野はそれを、『眩しい』と感じた。
すると、ああ、どういった事でしょう。その太陽を背にして、空をかける不埒者。一つばかりの影。
その翼が蝋で出来ていましたならば、あんまりにも身勝手な、あんまりにも太陽神に狼藉を働く無法者に裁きが下っていた事にありましょう。
鴉天狗が空を飛んでいる。最も、味野老に分かったのは残念ながらその程度にございまする。ええ、なんせジジイでありまして。
上空のシャッター娘はようみえへんので、ありましょう。
その代わりと言ってはなんであるが。
ついと視線を下に戻すと、味野は庭先にて小躍りしている不審人物を見かけた。
一号室住人、メフィスト・ヘレスである。
そわそわそわそわ。
大の男が、ちょびひげ男が乙女よろしく、最愛の恋人を待つといった風に身をくねらせていた。
世の婦女子方がこれを見かけたならば、一刀両断、こう表現したことでございます。
きもい。いやいや、一回り回って――ああ、やっぱりきもい。
味野老でさえも、その思いは振りきれなかったようにある。
腰に差した長ドス『片葉の葦』を抜きまして、ズババン! ここに悪魔を一刀両断!
「……そーやった。ワシ、なくしたんやった」
呆けもここまでくれば、一級品にございます。
ぽつんと吹きこぼした独り言にめざとく気がついたのは、何を隠そうメフィスト・ヘレス。
今の今まで生命の危機に晒されていたと言うのに、何と快活な笑みを見せるのでしょう。
「これは老! お昼の散歩デスかな! ちなみに私は、おっと、気になりますカ? 勿論気になりますヨネー!?」
「あー……」
面倒を自分から拾いにいってしまった。
それを理解した時にはもう遅い。懐に忍ばせたチャカ《銃》に手を伸ばしたが、よもやここから当てられるほど、メフィストも耄碌しておりますまい。
哀れ、味野・娯楽は火中の栗をお拾いに。それとは対照的に、メフィストの笑みはこれでもかと明るい。
「実は! 実はデスねー!」
「おー、おー……」
「この度馴染みの古美術商並びに骨董品屋から色々と貰い受ける話になりまして! それがもう、なんとなんと! 曰くつきと言うじゃありませんカ!」
「おー、おー……」
「動きだす人形から始まりまして? 異国の楯、勝手に鳴りだすヴァイオリンにトランペットなどなど! 王道からマニアのツボを抑えた、まさに粒ぞろい! 楽しいデスネー! そうですよネー? もう少しでトラックが来るんデスな!」
「……はっ! ……寝とった」
「味野老―?」
メフィストの話は、老人のお気に召すものではなかったようでございまして。一瞬立ち尽くしていた味野は、見る人が見れば、正に死んでいるかのように眠りこけていると見えただろう。いや、既に死体であるのだからいいのか?
禅問答めいたものはさておき味野の懸念は、メフィストがまたお披露目会を開く事だった。
とかく己のコレクションを見せびらかすのはマニアの宿命とはいえ、それに付き合わされるほうはたまったものではない。
スットゥングの蜂蜜酒という無法者集団の元凶がここにいると誰かに知れ渡りましたならば、足洗邸は明日にも火を点けられるやもしれませぬ。
「おー、それで? その、楯? まーた見せびらかすんか?」
「ンン、今回は仕入れたのも数が多いものでして。皆様方にお見せする前に、少しばかり確かめておきたいのデスよ」
「ほー?」
「配置によっては、住人に呪いをかけるやもしれませんからネ」
それもまた楽しからずやとでも言いたげなメフィストの顔は悪魔然としていて、味野はボリボリとあばらの浮いた胸を掻いた。
かゆーもいたーも無い躰でありやしょう、しかして気晴らしにはなってくれた。
これより出くわす災難を思うと、眼前の男には呆れを通り越して声さえ出ない。
「まー……なんとか、なるんちゃうか」
「ええ、そうでしょうとも」
がしゃん、がしゃん。
座る紫に、立ちっぱおこま。
味野が邸に出戻ると、何時の間にやら八雲・紫と竜造寺・こまが談笑をしている最中であった。こ忙しく動きまわる立ちまわるおこまを、紫が呼びとめたといった所か。
はてさて、ここにて狂い骨は何を思いましたのやら。
仏頂面で居間に躍り出ると、紫とこまの間に入りこむように、ソファの端に座り込みなさった。何とまあ、空気の読めない行動である。
婦女子の語らいを邪魔した揚句、ふんぞり返った表情を見せる味野・娯楽。
其れに対し、おこまの何と慈愛に満ちた笑みであろうか! 単に、空気を読んだとも言えるが。
「ふん」
「おはようニャー」
「おう。子猫、新聞持ってきてくれんか」
「分かったニャ」
とたとたとた、嫌な顔も見せずに新聞をとってくるこま。
手渡された新聞を大げさに広げると、特に意味もなく、並ぶ字面を朗読し始めた。
玉兎よりかっぱらいました眼鏡を装着して、ただ、意味も無く。他意も無く。
「ほー? 新大統領、中央と初会談……」
嫌みの一つでも言ってやればいいのに、紫めはあえて口を閉ざしておりました。
爺が皮肉をそうと分からずに額縁通りに受け取る未来がありありと浮かんできて、それはつまらないからであろう。
「ほー? 天災獣、秀真に直撃か……」
「おこまちゃん? お茶でも下さる? 冷えたのをお願いしたいのだけれど。あ、少なめでお願い」
降って湧いた闖入者にはほとほと呆れ申した。
紫がこまの方を見やると、まあそこには天使の頬笑み。酒を飲まず、茶を飲まんとする。その心意気や良しといったところであろうか。
こまが茶を取りに行っている間、ソファに座る二人は口を開くわけでもなく、ただただ座っていた。
隣同士の爺婆にございますが、ああ、二人の間には不可視の壁が。誰彼がそれを指摘した所で、二人とも素知らぬ顔をお見せするでしょう。
「味野」
「なんじゃ」
「向かいに移ってくれるかしら」
「ワレが動け」
沈黙。
それはおこまがお盆を両の手で支えて持ってくるまで続いた。
お盆の上には、つめてーお茶と、あつーお茶。
「えー、お茶はいらんかねー。いらないかニャー」
「おう仔猫。気がきくの。ホレ、アメちゃんやろ」
裾にお隠れになられた味野の手が再び現れる頃には、そこには一つの大きな飴が握られていた。これ幸いとばかりに、両手を差し出すこま。
包み袋をするすると取りまして、ぱっくんちょ。
口内でころころと舐めまわしまして、幸せそうに顔を綻ばせる。
にゃんにゃんにゃん。感謝が自然と口に出る。
「ありがとニャー」
「ほーかほーか。アメちゃんはおいしいか」
「おこまちゃんおこまちゃん」
八雲・紫が手招き一つ。ちょいちょいと、仔猫を呼び寄せる。
ソファの背側に回り込んだこまに、身を捻って腕を伸ばす。
「ニャ?」
「ちょっと、お手を拝借」
すいと取り上げられる、肉球を蓄えた五指。半分人間、半分猫と言った所でありましょうや。ぱっと広げられる指指。
紫がその手の平の上にて丸めた拳を置く。すると、どうしたことであろう、紫が拳を開いた頃には、こまの猫手にはいくつもの飴がおかれていた。
種も仕掛けもございましょう。しかれど傍目から見れば、それは正に驚きに当たる。
目をまんまるに見開いたこまの表情に釣られるようにして、紫の笑みが深くなる。
「ニャニャ!?」
「こまちゃんにはお世話になっていますし。このぐらい、簡単なことですわ」
「ありがとニャー!」
「ババア! 仔猫がそんなに舐めれるわけないやんけ! アホちゃうか!」
「まあ、アメちゃんは良い子だけのものですのに、欲しいのかしら?」
「誰が!」
味野の野次を碌に取り合わない紫にございますが、すいと一歩下がって第三者の視線を得ますと、他愛のない談笑を繰り広げる爺婆に見えるのは不思議な所でありましょう。
といっても、誰彼がそれについて言及した所で、どの方も否定なさるのは間違いありますまい。
そんな時、階段の方から誰かが降りてきた。
眠そうなあくびを携えた田村・福太郎である。
「おはようさんです」
「おはようニャー! 福チャン、もうお昼ニャ」
「昨日はさんざ付き合わされまして」
田村・福太郎の部屋では、未だに笠森・仙が格闘芸舞に興じていた。
長年空き部屋となっていた八号室は二階において唯一のテレビが鎮座していたり、ゲーム機材が置いてあったり、福太郎が移るまでは住人達の遊び場であったのである。
それに付き合わされる羽目になった福太郎はご愁傷さまといった所か。
眠たげな福太郎は、既に昼先といった事もあり、今日は絵を描きに行かずゆっくりするつもりのようだった。
「…………」
「どうかしたかニャ?」
居間にはこま、紫、味野。
味野の言葉をふと思い出した福太郎は、玄関戸の上っ面に長ドスがぶっ刺してあるのが目に入った。
それをどうするべきか、と不意に福太郎は思案顔となったが、こまの声ではっと気付く。
「田村サンもお茶飲むニャ?」
「あ、お願いします」
「はいニャ」
再び消えたおこまとたち変わるように現れた福太郎。
他の二人に合わせるようにソファに座る。
さて、福太郎がふとテーブルに目を移すと、へんてこな物体が乗っかっているではありませぬか。
「お茶……」
「まあ田村さん。私もたまにはお酒以外をいただきますわ」
「や、別にそんなんじゃ」
「仕方のないお方。そこまで言われたら私も考えないといけないわね」
先ほどの飴と同じく。
福太郎が気付いた頃にはラベルの貼られた瓶――焼酎瓶が紫の手に握られていた。
とくとくとく。浅めの海を作っていたそれに焼酎が注がれていく。
焼酎のお茶割りといった塩梅だが――最初からこうするつもりだったのでは?
だしにされた恰好の福太郎が溜息を吐いたその時、それまで新聞に目を通していた味野が不機嫌そうに言葉を。
「ふん、風情も知らん酒の飲み方やの」
「あら、これでも私、『掟の盃』を掲げておりますのよ」
にんまり。翁の視線を尻目にくいっと一杯。
八雲・紫の語る『掟の盃』とは、かの有名な忠臣蔵における赤穂浪士筆頭、大石・内蔵助、説いたものにあたる。
夜のしじまを破って主君の敵を討ち取った男にあるが、中々の風流人であったという。
一に喧嘩口論をしないこと――喧嘩口論の事。
二に杯を下に置かない事――下におくべからず。
三に無理強いをしないこと。ただし相手にもよる――をさへ申間敷事、但、相手によるべし。
四に徳利を傾けまして、最後の一滴まで飲み干す事――したむべからず。
五に助けない事。ただし女性は別にあたる――すけ申間敷事、但、女性は苦しからず。
「お酒を嗜むようになって、自然と身についた矜持といった所かしら」
さも自慢げに語る紫であるが、大石・内蔵助と言えば、『忠臣蔵・七代目』において連日連夜の遊郭通いを描かれている。
吉良の間者を欺くためとも言われているが、はてさて真相は如何に。
これまた、ストレスとプレッシャーで飲んだくれていただけかもしれない。
「ハ、ワレに大石さんの気持ちが理解できるかい」
「私、本人を遠目に見かけたこともありますのよ」
「何やとぉ!?」
くすくす、真相は闇の中。
千をゆうに超える大妖怪である紫の口から洩れるは、はてさて真か否か。
しばらくねめつけるつける事を止めなかった味野から、途端に溜息が漏れる。飽きたのだろう。
あつーもございやせん。
つめとーもございやせん。
あじなんざ、とんとかんじやせん。
こまの入れてくれたお茶を胃に流し込むと、生身であった頃の淡い思いをちらりとのぞかせた。
「もう一度、仮名手本忠臣蔵を見たかったのォ」
「あの、見にいったらいいんじゃ?」
テケテケでさえ動きまわり、ましてや味野にはしっかりとした二足があるのだから。
そりゃー、ちっとばかり肉つきが足りやせんが、何、ここは『大召喚後の世界《バカみてーに狂った世界》』。骨が出歩こうが、職質などかけられまい。
「誰じゃワレ」
「田村です」
降って湧いた疑問にあったが、まずは自己紹介から始めなければならないようでして。
先日田村・福太郎と味野・娯楽は邂逅を果たしているのだが、老人の頭からすっぽり抜け落ちてしまったらしい。骨の視線が福太郎を貫く。
泥…………や、先日のあんちゃんか。
寸での所で思い出す味野。もし呆けが施しのないほどまでに進んでいたならば、福太郎の眉間には銃口が突きつけられていただろう。
こまにもう一杯のお茶をお頼みに。毛駄物が消えてから、味野はゆっくり口を開いた。
「……ワシは、ここから出れんのよ」
「ここって……足洗邸から?」
「庭が限度ってとこかのォ」
死んだ味野・娯楽と笠森・仙を妖怪化させたのは、他にもならぬ『足洗邸』という邸妖怪にあたる。
邸の庇護下にある以上、彼らはその領域の外には出られないのだ。
何某の力をもって強制的に邸の外に連れ出した場合、最悪、元の死体に後戻りしてしまうだろう。
「二十年前まではオジキに付き添ってよぉ通ったが、ほれ、『大召喚』で、ワシらのシマも滅茶苦茶になってのォ」
味野の回想は続く。
「それから走り回って…………組を継いで…………何時の間にやらジジイになって…………なーんの縁か、今はこんなになって、死に遅れとる」
「…………」
福太郎は何も言いだせずにいた。
二十年間を棒に振った人間が、ここにもう一人。
極道者であったとは玉兎に聞いていたが、その職種、年齢に関係せず、『大召喚』は人々から根こそぎ奪ってきたのだ。
少なくとも、田村・福太郎はそう思っている。
狂骨。底つ者。
いくら汲んでも底の尽きない恨みによって、井戸と結びつけられた妖怪、と文献にはある。
とはいえ、これもまた天井下と同じと言えた。外見と内面が矛盾している。真実が大衆によって歪められるように。第三者の勝手な言い分がいつの間にか通っているように。
「総入れ歯」
「あ?」
「そういえば、長ドス探してはるんですよね?」
掬おうなどと、救おうなどと、そんな大それたことを、福太郎が考えていた訳ではございません。
しかしてしかして、それを求めるためだけに、井戸から這いあがってくるなど、可哀そうなことではないしょうか。
「探してはる長ドスって、あの玄関の上ントコ刺さってるヤツとちゃいますん?」
福太郎の指が玄関戸に向けられる。
確かにそこには、刃の大部分を埋めるようにして片葉の葦が刺さっている様に思える。
身を捻ってそちらに目を向ける、味野。しかし、事態は福太郎が思っているほど簡単なものではございやせん。
くいっと一つ、鼻先にかかっていた眼鏡を上に上げまして、これでもかと福太郎の指した先に視線を向けるが、全く、全く味野には分からなかった。
ただの人間福太郎に見えるものが、この老人には見えないと言うのである。
呆けか、それとも目が霞んでいるのか。とにかく『お目当ての物《片葉ノ葦》』を発見できなかった味野は恨めしそうに体を元に戻した。
「何ンも見えんぞ。ワシおちょくっとんのか、ワレ」
「え? 見えませんの?」
不思議そうに頭を掻く福太郎の所に、いそいそと足を急かしてこまがやってきた。
彼女に浮かぶは焦燥、不安。まるで、いたずらが何時何時ばれてしまうのかと焦るクソガキのよう。
「福ちゃん福ちゃん」
「はい? 管理人ちゃん、見えはります?」
「えーとその。えーとその」
何とまあ歯切れの悪い事か。人を騙してこそ妖怪の本性でありますのに、こまの視線は右往左往。
泥船でもよろしいので、どなたか、彼女に助け船をよこしてやっておくんなまし。
酒に飲んだくれる紫様、どないでしょう。
とはいえ今回は、それがこまの助けとなるとは限らなかった。
「田村さん」
「あ、紫さんも……」
「繋がりにおいては、もはや翁だけの問題とは言えないわ」
「はぁ……?」
つまり、どういう意味でござい?
結論をおっしゃらない紫に、福太郎の頭にはクエスチョンマークがありありと浮かんでいる。
「とはいえ、理に従うも、また一興、これ善哉……」
「…………?」
不思議な面をお持ちの八雲・紫に対し、福太郎は自分で行動を起こす事にした。
てくてくてく、玄関へ。その後ろを心細げに、こまが付き従う。
玄関の真下にやってきまして、上を見上げる。
確かに、刺さっている。長ドスが。
とゆー事は、福太郎が初めてここにやってきた時から、ここにブッ刺さっていたのでありやしょうか?
長ドスは、丁度福太郎めがジャンプすれば取れる所にあった。身をかがめて、その柄に手を伸ばそうしたその時。
「なーにやってんだ?」
玄関戸が開かれて、須美津・義鷹が帰還した。
傍目から見れば、義鷹の胸元に顔をうずめるのかいう位置に丁度良く福太郎の顔がありますので、なんともヘンテコな場面である。
気を取り直しまして姿勢をただした福太郎は、義鷹の疑問に答える。
「いやな、あの長ドス、とろー思うてな」
「何だ、味野の事、成仏させんのか?」
不思議そうに首を傾ける義鷹。
福太郎の後ろでは、未だに何かを言いたげなこまがいる。
「こいつは味野とこの世を結ぶ、ある種の縁だ。心残りとも言うがな。こまが妙な顔をしやがるから放っておいたが……」
義鷹の視線が、福太郎の後ろに向けられる。
やっと発言の機会を得た、そういった面持ちのこまは、しどろもどろに、言葉を選びながら、やっとこやっとこ、言い訳を呟く。
「えと、その、ニャ。福ちゃん、えっと……ニャ?」
と。
その途中にて、こまの言葉が止まる。
それもまた、当然の反応でございましょう。何せ味野が死んでから三年間、ぴくりとも動かず、触りもしなかった長ドスが。
カタカタと動き始めたのだから。
カタカタ、カタカタ。
まるで巻き戻し中のビデオテープを見ているようであります。少しずつ、少しずつ、震えながら埋もれた刃が切り口から這い出てくるのです。
カタカタ、カタカタ。
果たして、ぶっすりと刺さっていた筈の長ドスは完全に抜けてしまい、ついに地面に音を立てながら落下した。
「ほ! ワシの長ドス!」
それまで何もなかったというのに、突如として味野の視界に長ドスが出現する。
がしゃんがしゃん。心なしか早歩きで、骨が長ドスに辿り着く。
いつくしむようにそれを拾い上げると、その口からは思わず感嘆の息が漏れた。
「やっとワシの元に戻ってきたかい。これでワシもよぅやっと成仏できるわぁ……」
その姿を、悲しげに見つめるこま。
福太郎にはそれがどうにも理解できなかった。成仏したがっていた存在が、遂に『死ねる』というのだ。喜んで送るのはまだとしても、悲しむとは。
ぼんやりとその光景を見つめていた福太郎に、いつの間にか近づいてきていた紫が事の真相を露わにする。
「翁は子どもが出来なかったみたいだから、こまの事を自分の娘のように可愛がっていたの」
「紫さん……」
悪い事をしたような気がする。
ぽつぽつと積もってきた罪悪感を紛らわすためには、苦笑いを浮かべるのが福太郎には精一杯であった。
「め、珍しいっスね。紫さんが、自分の足で動いているなんて」
「あら、酷い物言い。気になる事が出来ただけですわ」
紫は何時になく剣呑な雰囲気を醸し出していた。その視線は、今抜け落ちたばかりの片葉ノ葦に向けられている。
「妖刀、片葉の葦。その力は絶大であり、神でさえ手傷を負う代物。それが、勝手に切り口から抜け落ちる。そんな事、普通はあり得ない」
「そいつはどーゆう……」
紫に真意を問おうとした福太郎。しかし、その口が開くよりも早く、彼の目は場の異変を捉えていた。
玄関戸の上。組まれた柱。そこにある妖刀による傷。
そこから、何かが這い出てくる――よく見知った物だ。
黒い黒い、鉤状の足――それは、人間の天敵。
怪しげな煙に誘われるように出てきたそれは、昨日、風呂に出没したばかりである。
「ご、ごき、ごきききき」
端的に表すなら、ゴキブリ。
殊更に描写するなら、でっけーでっけー。
ゴキブリ。
「どぎゃあああああああああ!」
情けない大声を上げながら緊急避難に移る福太郎。あんど、こま。
えまーじぇんしー。えまーじぇんしーでございます。
ああ、語るは恐ろし、言うはおぞまし。はてさて、ここにて今しばらく、今しばらく不快なお話を。
お手洗いはあちらでございます。十五歳以下の方は、親御様の許可なく閲覧できませぬ。
それは全長二メートル。
それは黒い。
それは虫特有の多足。
もはやそれだけで想像できる事でございましょう。ええ、アレです。アレのでけーばーじょんでございます。
これ以上の詳細は不要でござい。
「な、ななななな、なんですん!? アレ!」
「ゴキブリね」
「そ、そんな事は分かってますやん!」
「昔出てきた時に、味野が妖刀で刺したんじゃなかったかしら」
「最初からあんなでかかったんで!?」
「あら、そんなわけないじゃない」
怯える福太郎の隣で、すました表情をかます紫。
さて、くだんのゴキブリめにありますが、そのぎょろりとしたでけー目は、心なしか味野の方を向いているように見える。
味野と言えば、三年前から主を無くしたままであった鞘に、刀身を抑えている所であった。
「カッ!! さてはワシに気付かれんよう『何か《結界》』はっとったなワレ! 化けゴキブリとは知らんかったがの!」
その視線を真っ向から受ける味野。
その姿勢が、低く、低くなっていき。
構える。
愛刀に、白骨化してなお強勢な腕が。
伸びる。
「オモロイのォ! ええ土産話ができたわい」
再び刀身が現れるよりも先に動いていたのは、ゴキブリの方であった。
その前足二本が味野の体に突き刺さる!
「何がズドドンじゃ!」
しかし、狂骨はそれを物ともせず、前進、前進。
前進!
虫ケラが間合いに入った瞬間、
「駄阿呆!」
放たれる一閃。
振り下ろされた妖刀は上から下までを一刀両断した。
虫の口から零れるのは、理解不能の断末魔。
「カッ! ダボが!」
文字通り、虫の息となって崩れ落ちるその体躯。
福太郎から安堵の息が漏れる。
ありがとう味野。君こそが、ヒーローだ!
これで終わってくれと思ったのは、福太郎だけではありますまい。
ここで終わってやっても、よいではないか!
「まだだ」
義鷹が呟く。
えー? と急転直下の面持ちで福太郎がゴキブリに目を向ける。
しかし、そこにはいたのは、もはやゴキブリではない。
「お……!?」
正確には、ゴキブリ以外の虫がいる。それも、一匹だけではない。
無数に。
さらには、窓からも大量の虫が入ってくるではないか。
さすがにサイズは通常のものであるが、その種類が尋常ではない。
甲虫、天道虫、喋々、蛾、蟷螂、芋虫、蛍。
二つに分かたれたゴキブリの体躯がその姿を崩したかと思いきや、蟲の群体がとってかわって現れたのである。
まさに、先ほどのゴキブリは、虫と虫が集結して形どっていた事を示す様に。
「許さん……許さん、このクソジジイ……!」
怨念の声が、虫の群体から聴こえてくる。
「一度ならず二度までも……!」
蟲達が、再び何かの形にまとまり始める。
それは、誰もが知っている形であった。
ヒトガタである。
蟲がそのざわつきを止めると、ヒトガタは人らしい色合いとなった。
表面を蠢いていた虫はなりを潜め、ぱっと見では、それが蟲の群体とは誰にも分からない。
白い上、黒い下、黒いマント、人らしい肌色。
緑の髪の毛と、チャームポイントに一対の触角。
――リグル・ナイトバグ。
三年前この邸を騒がせた存在の正体である。
「私の第二中心核を刺しやがって……そのまま放置しやがるもんだから、ずっとここから身動きできなかったんだぞ!」
リグルは蟲妖怪であり、人型を模す全ての虫が彼女自身であるとも言える。
蟲妖怪ごときが片葉ノ葦に太刀打ち出来る訳もないのだが、群体を構成する他の核が無事であったために死なずに済んだのだろう。
とは言っても、死骸に妖刀が突き刺さったままのせいで、群体自身も不思議町から出られなくなってしまったのだが。
三年の沈黙を破り彼女が動き始める事が出来たのは、玄関戸の切り口に詰まった蟲の死骸で説明できる。
低級妖怪であるリグルでは刀身に触る事も出来なかったが、蟲の死骸で妖刀を包み込み、他の虫達で『死骸を押す』事によって、刀身に触る事無く少しずつ押しだすことに成功したのであろう。
無論それは、邸で三年間妖力を溜めこんだ事による賜物であるが。
「えーっと、ちょっと聞いてもええ?」
「何?」
呆気にとられている住人たちを代表して、福太郎が遠慮がちに声を上げる。
「何で、でかいゴキブリで出てきたん?」
「人間に嫌われた一番哀れな蟲だからさ! 醜いから、きもちわるいから! ただそれだけで迫害される! 許さん、許さん!」
蛍という本来の姿を捨ててまで、ゴキブリを模していたのには彼女なりの理由があった。
二十年前に見知った地を追われて以来、彼女は久方ぶりに外に飛び出た。
そこで彼女を待ち受けていたのは、現実である。
蟲は忌み嫌われ、世界には殺虫剤が溢れている。
稀に好まれる者もいるが、標本にされたり採取されたりと、散散なものしかない。
『大召喚』を経た世界においても、蟲が下位に甘んじていることに変わりはない。
以来、復讐を成し遂げるために町中に散らばっていた訳だが、その核ともいえる存在をよりにもよって妖刀に刺し殺されてしまったわけだ。
「彼らにかわって、私が復讐する! 愚かな人間どもに、足元の命の恨みを示してやるのさ!」
「その、人間に復讐するって、どんな具合に」
「え!? ……人間が寝静まった頃に、口にごき」
「うぎゃあ」
何ともまあ地味で強烈な攻撃であろうか。
さて、このリグルという小娘。本来ならこのような好戦的口調は好みませぬ。
例え先に申した様な決意を持っていたとしても、それですぐに性格が変わる訳でもない。
恐らく先の味野の一閃が、群体を保つための核スレスレを通ったのだろう。
ええ、そうでしょうとも、自暴自棄、ここに極まる。
「とにかく、この三年間力を溜め、やっと解放された! まずはお前たちからだ! 死ね、クソ住人ども!」
「ぐお!?」
間近にいた義鷹、味野に向かって虫の大群が飛来する。リグル・ナイトバグの腕を構成していた蟲達が。
蚊柱に代表されるように、虫が鼻や口に入ると厄介なことになる。
更に、リグル・ナイトバグの躰を構成する蟲はそれだけでは収まらなかった。
「体内に入り込んで脳味噌食い破ってやる!」
義鷹と味野を旋回する蟲。黒い煙。その何割かは、既に体内に入り込んでいる。
所で、残りの住人はどうなったのかと言えば、意外な事に彼らの所にまで蟲は到達していなかった。
正確性を求めるならば、紫、田村、こまの方向に向かった蟲はその尽くが途中にて、嘘のように墜落していくのである。
「どうしてこっち側に虫は来られないんですか?」
「気分良く冬眠している、といった所かしら」
紫の仕業とゆう事は福太郎にもなんとなく理解できたが、彼が理解できたのはそこまでであった。
手も動かず、だからといって足も動かしていない。
何らかのアクションを起こしたのは確実ではあるのだが、事実《蟲が墜落する》を構成する土台に関してはさっぱり見当がつかなかった。
さてさて、男ども《味野と義鷹》に話を戻しましょう。こちらは既に決着がついておりました。
「な、何で死なない!?」
リグルの驚きの声が響き渡る。
蟲に襲われた三、五号室住人は、そりゃあもうピンピンしているのでございまする。
「おー、そりゃあワシ、もう死んどるしなぁ」
片や味野。
体中を蟲に襲われ、黒い群体にその身を包まれている。その顔も体もさっぱり見えないが、何ともないようだ。
もはやその体内にまで蟲は入り込んでいるのであろうが、噛み砕いても噛み千切っても、ウンともスンともしない味野に蟲達は首を傾げているのだろう。
「不味」
片や義鷹。
侵入した蟲達は体内における重要部品の破壊を目指したが、これがさっぱり見つからない。
人型を模しているに過ぎない義鷹にとって、体内の臓器の位置を移動させるのはたわいもない事である。
体内にて生え始めた口が、蟲たちを駆逐した。むしゃむしゃ。碌な味もせず、妖力もなかったらしい。
「あ……あ……」
思わずへたりこんでしまう蟲妖怪。二度ならず三度までも。
それに迫るは、蟲に囲まれたせいでちっとも恰好のつかない味野老。
「ホタルだかヒレンだか知らんが、往生せえよ?」
「ひゃう……!」
片葉の葦の刀身が、蟲妖怪を切り捨てんとした、正にその時。
リグル側に現れた助け船は、思いもよらぬ人物であった。
「ちょ、ちょっと、まっとってや!」
まだ蟲自体は健在であるというのに、一歩踏み出す福太郎。
味野にひっついていた蟲の一部が、新たな標的に矛先を向ける。
「…………」
しかし、またたく間にその蟲も地に落ち始めた。ぼとりぼとり。
味野の周りを旋回していた蟲達でさえ。
紫の鋭い眼光に気付く者は誰もいない。
「その……許してやってもええんちゃうかな」
「ああ?」
福太郎の言葉に、味野が怪訝そうな声をあげる。
「反省しとるみたいやし、な?」
「はい! はい! 反省してます!」
土下座もかくやという勢いで謝罪をし始める蟲妖怪。
その双眸には涙が滲んでいて、今にでも零れ落ちてきそうだった。
「それに……頼むから、俺の前で人の形したモン、殺さんでほしいんです」
「ああ? アイツはオメー、アレだぞ? 蟲の……」
義鷹にとって、蟲妖怪ごときどうなろうが知った事ではないが、福太郎の言葉には違和感を覚えた。
しかし、次の瞬間、何時にも増して真剣な顔つきをして、福太郎は答える。
「そんなん、オマエラみんなそやろが」
ぽつんと呟かれた一言。
義鷹の問いに返された言葉。
誰も、その真意には気付けない。
まだ、今は。
やがて、それまで保っていた姿勢を崩す味野と義鷹。
「……ま、ワシは長ドス取り戻したから、別にええわ」
「……俺も別に構わねえよ」
二人の言葉を聞いて、動いたのは蟲妖怪であった。
その姿が、頭から小さい蟲の群体へと変じていく。
そのまま、丁度空きっぱなしになっていた窓から外へと消えていった。
一言ばかり、ありがとうと聞こえたのは福太郎の空耳でござったか。
しばらくしてから、望月・玉兎が傍らにお風呂セットを持って帰ってきた。
「あれ、味野長ドス持ってんじゃん。成仏しないの?」
「虫ン娘と戯れとる時に、ワシを踏みつぶしよった足に、借りを返しとらんのに気付いてのォ。其れが心残りじゃ」
ニャー、と、こまの嬉しそうな鳴き声が響いた瞬間である。
「あ、まいど」
「おー……」
夜。
女二人とのじゃんけんの結果、電池の切れたリモコンめのためにコンビニに行く羽目になった福太郎。
一階に降りると、一人で思案顔の義鷹と出くわした。
あいさつもそこそこに、さっさと用事を済まそうとしたその背に声が掛かる。
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
「別にええよ」
紫煙を携えた義鷹のほうに振り返る。
福太郎の目には、どこかを見据えるような、そんな義鷹が映っていた。
「おめーよ、朝っぱら言ったよなぁ。味野と俺に対して。人の形したモン殺すなって」
「ん、そやね」
「まあおめぇの主義主張なんざかまやしねえんだが……どーにも分からん事がある」
そこで首を、福太郎のほうへ向ける。
「お前、紫に言ったんだってな。『邪険に扱うな。寂しい』って」
「何時聞いたんや……」
「あの狐は、生きてもねえ。そして死んでもねえ。動くヒトガタに過ぎない。誰もアレを殺せねえ。ただ、機能が停止するだけだ」
別段紫を侮蔑するつもりなど、義鷹にはなかった。
過去を忘れられないそれは哀れではあるが――そういう生き方、もある。あるのだろう。
長い長い時の中、自分とは違う生き方《死人への思い》を選んだ。ただ、それだけの事である。
それはさておき。義鷹の問いは続く。
「お前がそれに感情を向けたのは、どうしてなんだ?」
人の形をしたモノを殺すな。義鷹には理解できない。バケモノだから。
そこに加えて、かねてより紫から聞いていた福太郎評が入り込み、義鷹はある種の混乱に陥っていた。
ヒトガタに過ぎないそれをどう扱った所で、別段何も変わらない筈だ。まして、使い捨てる事に関しては、人間の上を行く存在はいないに違いない。
だというのに、何故?
「言っとくが、アレはただのプログラミングされたエセ式神。主のためだけに動く。命令がないと何も出来ねぇし、付喪神なんかにもならねぇぞ。そいつは紫自身が分かってる事だ。『戻らない事』を承知の上で、アレを使ってるんだからな」
義鷹の瞳は、福太郎の方を向いている。
その一挙一等足を見つめている。
すると、何を思ったのか福太郎は、ポッケに入っていた八号室鍵を義鷹に向かって投げこんだ。
「義鷹、パース」
「お? おう……」
「んで、こっち戻して」
キャッチボールがしたいわけではあるまい。
一通りの戯れを済ました福太郎は、枕詞によー分からんけ
どとつけまして、
「よー分からんけど、命令されて、まったく同じ動きをするっちゅーのが、あの狐さんなんやろ? 丁度、機械みたいに」
ぽんと、投げ返された鍵を上に投げる。
「今やった他愛のないキャッチボールも、ミリ単位で同じ動作するゆー話なんやろうけど」
鍵が下に、再び福太郎の手に。
「人間みたいな短い目じゃなくて、妖怪、それこそ義鷹みたいな長い目から見たら……少しづつ変わっていくんちゃうかな。投げるタイミング、腕の動き、足さばき、最適化、最適化……主人のために、紫さんのために。全く同じ動きが、最善の動きへと。主のために動く、ゆーなら。それこそ、生きとるみたいに」
無機質な瞳。まさに、ロボット。
福太郎の脳裏に、あの姿が思い浮かぶ。
しかして、何時の日か、それが。
「主のため動くってのがあの狐さんなら……何時の日か、寂しそうな紫さん自身に適応して、言葉を紡ぐんちゃうかな。そん時になるまで、紫さんが邪険にあつかっとったら、話の一つもできんやろ?」
「最適化を続け、ある種の『進化』を遂げるってか?」
「そこまで大それた事言ったつもりはないんやけどな」
過去《八雲・藍》を模倣するのではなく。
残骸に過ぎない空っぽの匣自身が歩きだす事があるのではないか。
それに対し紫がどう思うかはさておき、福太郎はそうゆうつもりで、紫に言葉を贈ったらしい。
「もう、ええかな? 上の二人がうるさいんよ」
「おう」
「ほな」
愛用の安全靴に足を通して、外に。
玄関戸に手がかかったところで、再び声がかかった。
「福太郎」
「お?」
「面白い事言う奴だな、お前」
「そうか?」
福太郎は首を傾げた。