この素晴らしい願い事に奇跡を!   作:赤福餅

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大変お待たせしました!
申し訳ありません、この最近ネットに投稿することができず……一ヶ月以上ほぼ二か月もストップさせてしまい 
徐々に投稿の調子を上げて再開を……しようと思っていたのですが、今回はおよそ二話分の長文になってしまいました。
ムラっ気な作者ですが、これからも頑張るのでよろしくお願いします!


134話

 白銀の兜の隙間から垣間見える、綺羅と光る金糸のような髪。

 金髪は貴族の証であるけれど、それは一目でも一際流麗とわかってしまう。見事なのは当然。貴族とは一線を画す、至上の存在であるのだから。

 もしも流麗な金髪を風に靡かせて扇状に開けば、さぞかし美しい絵になるだろう。しかし残念ながら、その全身は顔面を除いて鎧に包まれ、外界からの干渉をほぼ断っている。箱入り娘ならぬ鎧入り娘。

 

「――本当に、私と決闘するおつもりですか?」

 

 控えめがちな声で訊かれ、『はい』と頷く。

 目の前にいるのは、自身よりも幼い少女で、しかし凄まじい実力を有する。一つでも扱えれば“勇者”と称される神器。白銀の全身鎧に、黄金の剣鞘と神器を二つも装備できる程スペックが高い。単純な強度であれば紅魔族よりも勝る王家の資質。挑んだこれまでの輩を悉く返り討ちにしている。生半可な実力で勝負すれば大怪我を追う。

 それで、彼女が、こちらの意思を問い質したのも、自分の参加が此度の趣旨にそぐわないと思われたのもあるだろう。

 

「あー……貴殿が、あの魔王討伐に参戦した『アークウィザード』だというのは承知しておりますが」

 

「性別の指定は特にありませんでしたよね?」

 

「し、しかし、これはアイリス様のお相手を決めるための決闘で……!?」

 

 審判役で取り仕切る側近の金髪の女性に対し、いつになく強気で、そして周囲の観衆らにもしかと聴こえるように言い放つ。

 戸惑いは一層にざわつく。

 そんなこと、言われなくても、わかっている。

 強さとかそういう以前の問題で、王女様も、それから自分も、女性。同性だ。『自分よりも強い相手を伴侶に』という話の展開で、端から相応しい資格がないのだから門前払いをされても仕方のない――だけど、私には理由がある。

 

《これは、つまり百合百合な展開……! はい! このアイギス、同性婚には全面的に賛成です!》

 

 じゃない。もちろん違う。

 神器の聖鎧が何か興奮気味に喚くが一切無視した。

 

「クレア、下がりなさい。彼女の言う通りです。私は男女の指定は設けませんでした。ならば、決闘をする資格がある」

 

「アイリス様!?」

 

 私の――仄かに赤い奥底に感情を秘めた――目を見た王女様が、側近の人へ断じて命じる。

 

「しかし、理由がわかりません。どうして、あなたがこうも決闘を望むのか。まさか私と結ばれるためではないんでしょう?」

 

 この問いかけに、こくんと頷く。

 頷いて、そのまま俯く姿勢。長い睫毛をそっと伏せ、緊張に吐息は細く細く零れ、この期に及んで肩の揺れは収まってなんかくれない。でも、第一王女様は、少しの猶予……この言葉を喉元に溜める、そして、それを解き放つ勇気を掻き集めるだけの時間をくれた。

 

 ……いや、勇気なんかじゃない。

 ここへ衝き動かす原動力は、きっと醜いものだ。

 『本気で好きなら略奪するのです!』とめぐみんに発破をかけられたけど、結局のところ、こんなの“八つ当たり”でしかない。()()()()()()()腹いせ、それに、勝手ながら“彼の想い”を知りながら拒もうとするお姫様に対する怒りや嫉妬もある。

 そう。

 これは譲れない勝負なのだ。

 

 ゆんゆんは、きゅっと唇を噛みしめる。

 昂然と、顔を上げれば、顎で綺麗に揃えた髪が揺れる。けれど、ゆんゆんの強い眼差しは少しも揺るがない。

 佇まいは、真っ直ぐに。

 固まった決意が滲んだ瞳は紅く澄んで、やや強気にはにかむように綻んだ頬は薄い朱に色づいて。

 

 

「本気で好きになったから、諦められない。だから、あなたから奪います!」

 

 

 沸々と静かに闘志を燃やして、ゆんゆんは真っ向から宣戦布告にして決意表明を言い放った。

 

 

 ♢♢♢

 

 

「………つまりは、この本には、マサールが考案した『転送装置』なるこことは異なる世界を転移することが書かれていてな。詳細はこちらにしたためてあるが、興味があるのなら読んでも構わない」

 

「ふむ。面白そうな話だ。では、後で読ませてもらおう。それで、これの翻訳はこうで合っているかい?」

 

「うん…………まあ、紅魔族的な難解なまとめ方をしているが大体合ってる。この里にはこっちの方がむしろわかりやすいんだろうなぁ」

 

「それで、とんぬら。『紅魔族の生誕秘話』や『機動要塞『デストロイヤー』の建造記録』も刺激的だったけど、もっと文学的な資料はないのかい?」

 

「それなら、ここら辺にある奴か? 最初の方しか読み進めてはいないが、秘密結社なる悪の組織に改造された怪人が、正義の味方なる勇者たちに邪魔されながらも思うがままに悪行を重ねていく話だったな」

 

「ほう、それは王道からは外れているようだね。魔導大国『ノイズ』はそういう風潮が流行っていたのかな」

 

 地下格納庫で発掘された書籍を、古代(ニホン)語から翻訳する作業。

 読解できるのが自分(とんぬら)だけとはいえ、ひとりでやるには日に日に積もる本の山は大変だ。というわけで、本の類に目がない紅魔族随一の文豪(の卵)が助手につくことになった。

 あるえはこちらが簡単に作った“ひらがな”と“カタカナ”の五十音のまとめ表に照らし合わせてこちらの言語に翻訳し、時にわからない“漢字”なる古代語にはその都度とんぬらに質問し答えるという形を取っている。一度でも教えれば、紅魔族の学習能力は十分で、段々と作業スピードは上がってきていた。

 ……本来であるのなら、この仕事は客人をサポートするようにと言われている族長の娘に任されるはずだったのだが、“あれ”を見られた彼女はどうにも意識してしまい、同じ部屋で空気を吸う程度のスキンシップでも数十分で許容量の限界を超えたように熱暴走を始めてしまうので(わかり易く目が段々と赤くなっていく)、息抜きする冷却期間がどうしても必要になっている。

 『なら、顔合わせは避けた方が良いんじゃないのか?』と提案したのだが、それは当人からの強く『そんなのダメ!』と訴えがあり、一時間おきにクールタイムを設けることで話しは落ち着いた。

 うん、何だか変な方向に拗れていっている気がする。

 

 そんなわけで、紅魔族随一の発育の美少女でもあるあるえと椅子ひとつ分の間合いを空けて、二人きり。書物の山脈をお互いの国境線に挟み、お互いの顔が遠く、声と視線をキャッチボールする、軽い遠投する心地で会話している。

 

「そういえば、話はまた変わるけど……族長の家(ここ)での暮らしはどうだい?」

 

「……どうとは?」

 

「何か面白い話はないのかい? 具体的には……そうだね、ゆんゆんとのことだね」

 

 そう訊ねられて、真っ先に思い浮かんだのは……

 

 ・

 ・

 ・

 

 ――そのブラの第一印象は、控えめにフリルのついたデザインで、サイズに関してならお椀に代用できそうなくらいの大きさであった。

 

『…………は?』

 

 それが、風呂から出て手に取ろうとした籠、バスタオルの上にちょこんと置かれていた。自分の着替え以外は持ち込んでいないはずなのに何故かあった女ものの下着(後になって知ったが、ゆんゆんの母親が“間違って”着替えにおいてしまったらしい)。

 

 で、拾って手に取りは流石にしなかったがそれを、まじまじと、視認した直後、バンッ! と勢いよく更衣室の扉が開いた。

 そこには息を切らしたゆんゆんが。

 そして、ゆんゆんも籠の中の自身の下着に気付き、かぁぁっ! と目を光らせた。

 

 これは、まずい!

 まったくの濡れ衣であるのだが、動かぬ証拠(ブラ)がこうしてここにある以上疑われてもどうしようもない。実際に見てしまっているのだから、いくら見てないふりの無反応をしても言い逃れはできない。

 いや、待て。

 一旦、見てしまったのは認めるとしても、特に見ても大したことがない反応をしていれば、サラッと切り抜けられたりしないだろうか?

 この極限状態の中でそんな思考に行き着いて早速、

 

『うん……まあ、ゆんゆん、“可愛い”感じなんじゃないのか……?』

 

 と防具屋で鎧を寸評するような調子で感想を述べた。

 

『お、男の人が女の下着を褒めるのは……その……そういうのに、飽きが来ないようにと書かれてたけど、いきなりマンネリ化の防止だなんて、私ってそんなにダメなんですか!』

 

 しかし、結局のところどっちに転ぼうが駄目だった。

 

 飽きよりも呆れが今来そうだった。

 その知識が偏っていそうな雑誌を鵜呑みにするな、頼む。

 

『この下着はそういう下着じゃないのにぃ……っ』

 

『そういう?』

 

 つい拾ってしまった。

 すると、暴走娘はそれはもう勝手にぼろをボロボロと出す。

 

『はぅあっ!? ちがっ、勝負下着とか…そんな……っ! べ、べべべ別に勝負する予定とか、相手がいるわけでもないですからっ! ただ、あの、一組くらいは大人っぽい下着を、念のために用意しておいた方がいざというとき安心だって聞いたことがあって……だから……興味本位で、一組だけ……でも箪笥の肥やしになっていて、だから、本当に違います……からね……!』

 

 女の子でも性欲があるし、好奇心もあろう。

 いや、そんな話をしたいわけではなく。

 

『そっ、その下着なら男の人に見られても構わないってわけじゃありませんよっ!』

 

『わかってるわかってる』

 

『私、そんないやらしくありませんからっ!』

 

 わかっていると言っているのに、食い気味に否定してくる。先日の“アレ”を掘り起こす気などこちらにはないのだが、向こうは思いっきり引き摺っており気にしている。こうなるとむしろはっきり言った方が良いんじゃないかとも思えて、

 

『わかってるわかってる。本当にすまなかった。でも、前にも言ったが別にゆんゆんがむっつりスケベだろうとセクシーギャルだろうと全然気にしないから』

 

『どうしてその二択なの!? エッチじゃないって選択肢はないの!?』

 

 そうして、うぅぅぅ~~ッ! と即座に回収していた下着を胸に抱いたゆんゆんはこれ以上この場にいられず、部屋を出ようとして、

 

『とんぬらさんのせいじゃないのはわかってますし、ですから謝らないでほしいけど…………気にしてほしい、です』

 

 ぽつり、と不満を零し――

 

 ・

 ・

 ・

 

「どうしたんだい、いきなり頭を抱えて溜息を吐いて」

 

「いや、何も。気にするな。俺も気にしないように努めているから」

 

「? 何を言っているんだ?」

 

 彼女が出てから、とんぬらも堪えたものを思いっきり吐き出したわけだが、流石にこれを話しのネタにするわけにはいくまい。何か他にあるえの取材に満足できそうなのは……

 

「……そういえば、あるえ。先日、ゆんゆんが髪に芋ケンピをつけてきたんだが、あれはあんたの差し金か?」

 

「うん。ちょっとゆんゆんに相談されてね。そこで、王都で流行りの小説に出てくるシチュエーションを教えたんだ」

 

「とても反応に困ったんだが」

 

 『えぇ、っと、か、髪の毛に芋ケンピをつけてたら、おかしい!?』と思わず固まったこちらの反応の薄さに慌てふためくゆんゆんだったが、普通に変だ。

 

「おや? 私が読んだ物語(ストーリー)では、芋ケンピを取るために、相手の人が迫って、そのまま頭を抱くようにするのがお約束だったのだけれど」

 

「あのな、その手の流行には疎いが普通に考えれば、タレでベタベタになった髪の毛をわざわざ触りたいと思わん。そんな変な人は、ドン引きする」

 

 仮面の眉間部に指を押し当てるとんぬら。

 いや、痴態を見られたその汚名返上に奮起しているのは理解しているが、余計に変な方向に進んでいるというか、転がり落ちている。何というか、彼女だけに限らず、紅魔族は思い込んだら一直線な性格があるように思える。

 

「けれど、ものの本には、女性が自らの身体を器に見立てる“女体盛り”なる話がある」

 

「その本の著者はアクシズ教並の大変良いご趣味をしているようだな」

 

 とりあえず、手は作業に動かしながらもその最近の迷走っぷりの元凶のひとつに軽く説教するよう窘める。

 

「とりあえず、何を相談されたかは、知らんが、あまり変なことを吹き込むなよ。その後の対処がめんどうだったんだぞ、あるえ」

 

「ふっ、わかってる。ちゃんとわかってるさ」

 

「フリじゃないぞ? 紅魔族的なノリでもお約束を求めてるわけでもなく、マジだからな」

 

「ジョークだ。事を荒立てるようなことはしない」

 

「頼むぞ、本当に」

 

「ふうむ。だがしかし、これは今度王都に行くことがあったら私自ら取材をするべきだろうか。やはりこういうのは実体験がないと人には語れ(かけ)ないもののようであるし……」

 

「はあ……いくら小説の為とは言えやめておけよ。そんな男を挑発するような真似をして襲われたらどうする?」

 

「私は、『アークウィザード』だ。悪漢ぐらい無理やりに迫られようと撃退できるよ」

 

「そう簡単に言うな」

 

 あまりの危機意識の薄さに、手を止めて席を立つ。

 そして、眼帯をつけている死角側から近づき、あるえが座る椅子の背後から手を伸ばして、少し脅す意味を含めて、バンッ! と机に手をついて詰め寄ってみせた。

 

「あるえ」

 

 揺れる前髪のかすかな量感すら感じ取れるほどの間合いで、吐かれた息には彼女の名が乗っていた。あるえは自分の名前に圧されたように身じろぎした。

 

「もし本当に襲われでもすれば、集中できなくて魔法詠唱ができない可能性だってあるんだからな」

 

 護身用にナイフを持っているのだとしても、上級職でも魔法使いが前衛職の冒険者には太刀打ちできないだろうし、また『盗賊』のように力を封殺してくる輩もいる。油断大敵……と、

 

「………」

 

「………」

 

 あれ?

 キョトンと素の表情のまま、動じる気配すらないあるえ。

 逆に迫ったこっちが居心地悪くなる始末だ。目をぱちぱちと瞬きさせ、

 

「私でも……襲われるもの、なのか?」

 

「何故そんな不思議な顔をする。私でも、というが……鏡を見ていないのか? 自分の容姿に頓着しなさすぎるだろ」

 

「なに、男の人にこうも近くに寄られたのは初めてでね。……これでも、吃驚している」

 

 今更ながらに、あるえの顔が赤くなる。これが、意外と素直な反応である。たとえ動揺していても飄々と誤魔化すものだと思っていたが

 

「なるほど。痛いぐらい心臓が跳ねてる、とは……こういう状態のことを言うのか。こんなの、初めて……」

 

 とくとくと早まる鼓動を実感するように手を当てていたあるえはそこで、書類を脇に避けて、持ち歩いていた原稿(メモ)用紙を机に上に出し、そして、この刺激が落ち着くよりも早くペンを走らせる。

 

「これが、いわゆる“壁ドン”……ではないな、さしずめ“机バン”というやつか? なるほどなるほど、世の女子はこれに胸をときめかせる訳か……実に興味深いな」

 

「感心するのは良いが、それよりも自身の言動がどれだけ迂闊かわかったか」

 

 この状況下でも頭の中に閃いた発想を消えないうちに文字に起こすことを優先するとは、作家根性が据わっているというべきか。呆れて、“本当にコイツは反省しているのか?”と半目に据わってしまう。

 

「とんぬらさん、あるえ、お茶を用意したから休憩に」

 

「――あっ」

 

 ガチャ、と戸が開く。そこにはお盆を手にしたゆんゆんが、クールタイムがあけて参戦。

 だが、すぐその目が真っ赤に沸点に達した。

 

 まずい……っ!

 他人様の間借りしている家の一室で、机に手をついて迫っている、今にもあるえを襲い掛かりそうなくらい至近距離にあるとんぬら。

 傍目から見ると、勘違いされかねない状況だ。というか、勘違いが加速しているのが徐々に紅度を増す瞳の様子から一目でわかる。

 まだリアクションに追いつかず何も口を開いていないが、ゴゴゴゴゴゴゴ、という背景に文字が可視化されそうなオーラを背中から立ち昇らせる彼女は、『パルプンテ』を唱えたわけでもないのに破壊神も逃げ出す途轍もなく恐ろしい存在がここにあるよう。これを鎮めるには如何なる詠唱(べんご)が必要なのだろうか。

 

「そういうとんぬらも迂闊のようだね。――じゃあ、私は急用があるからこれで『テレポート』」

 

 マイペースなあるえは何事もなかったように避難。

 この時ほど自分も『テレポート』を習得していなかったことを悔やむとんぬらだったが、たとえこの場から脱せれても逃げ切れるビジョンはまるで浮かばなかった。いわゆる、ご当人からも宣告された“魔王からは逃げられない”というやつである。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 カフェのテーブル越しに幸せそうな視線を交わし、談笑に挟みこまれた冗談に二人とも笑顔を弾けさせる。

 それから不意に男の人が身体を乗り出し、何事かと動きを止めた女の子……の髪についていた芋ケンピを取ってあげる。“まさかキス――”と一瞬期待した女の子は恥じらいに頬を染めてはにかんで……

 

 と、何もかも、一から十まで、空想上での光景。

 

『髪に芋ケンピがついているんだが……ひょっとしてそれはツッコミ待ちなのか、ゆんゆん』

 

 善意の苦笑いを隠し損ねたように頬を引くつかせていたとんぬらさんに、一発で目が覚めた。

 うん、これはない。あるえから勧められた本で読んで盛り上がって即実践したのだけど、一度客観的に見返し、思い直すべきだったと後悔。

 それで、とんぬらさんは、やれやれと肩を落としつつも、

 

『食べ物で遊ぶのは後で説教するとして。ほら、じっとしていろ、芋ケンピを取るから』

 

 それに何だか子供みたいで後退り距離を取る。のだが、向こうもそう簡単に逃す気はないようで、

 

『じっ自分でやるから!』

 

『でも、自分の頭についているんだ。見えないんじゃ上手くは取れないぞ』

 

『だっ大丈夫ですから! 鏡を見ながらなら……』

 

『ああ、もういいから遠慮するな』

 

 強引に捕まり、あれよあれよという間に洗面台の前に置かれた椅子へ座らされる。

 それで床屋さんのように、おさげのリボンを解かれ、梳いた指先より初級水魔法(クリエイト・ウォーター)で器用に温水のシャワーを出して、芋とタレのついた髪を洗い洗われる。

 それが…………気持ち、良くて。とんぬらさんに髪を触ってもらうのはすごく恥ずかしいけれども、彼を感じるのはとても気持ちがいい。丁寧に手入れをしてくれるというか、テクニシャン……特に人差し指と親指で耳を挟むように揉まれ、穴の中まで指を入れられたときには、ビクゥッと震えてしまった。

 それで思っていたのとは違ったけれども、声を漏らすのを我慢するのが大変なくらいに刺激的で、その後のクールタイムにはいつもの倍の時間を要した。……でも、た、偶になら触ってもらってもいいかもしれない。

 

 けれど、失敗は失敗。汚名返上とはならなかった。それどころかまた変な子だって思われてしまったに違いない。

 それに彼から、してくる……ってことはないから……

 そんなわけで、クールタイムの合間にまた里随一の(または里唯一とも言う)本屋にやってきた。

 するとそこには、知り合いの少女たちがいた。

 

「あ……。ふにふらさん、どどんこさん……」

 

 そういえば、紅魔族随一の本屋は、ふにふらさんの実家である。今日はふにふらさんが店番をしているようで、どどんこさんもそれに付き合っているみたいだ。

 

「ゆんゆんじゃん、今日はどうしたの?」

「あ、ウチに何か買いにきたの?」

 

「あ、その……」

 

 前にいきなり分かれてしまった気まずさもあるが、元同級生にこれから購入する本を見られるのは妙に恥ずかしい。べ、別に……そんな、人に見られて困るようなものじゃないと思うけど。

 出直そうかと、後ろ足を引きかけた。

 

(でも……)

 

 正直、今、だいぶ迷走している自覚はあるにはある。

 それに、この前、あるえに助言を受けたから、というように、誰かに背中を押してもらわなければ踏ん切りがつかない意気地ない自分というのも理解している。

 

 これは、いい機会かもしれない。

 自分のことを友達だと認めてくれた彼女たちに、これくらいの相談は、できなきゃ――

 

「……よし!」

 

 ゆんゆんは意を決し、前へ。

 ややパーソナルスペースを侵犯するぐらいに前のめりに二人へ迫る。

 

「どっ、どどんこさんっ、ふにふらさん!」

 

「な、なに? もしかしてあたしたちに何か用なの?」

 

「二人は……わっ、わっ、私とエッチなことしたいと思ったことある!?」

 

「はぁっ!?」

 

 思いの丈が迸り過ぎて、暴走したくちがぶっちゃけてしまった。

 これに、ずささぁっ! とふにふらとどどんこは揃って後退り、ゆんゆんから距離を取る。

 

「え!? え!? どういう意味?」

 

「そういえば学園時代で、めぐみんと百合なんじゃないかと噂が立ってたけど、それで今度はあたしたちに……!?」

 

「それは違うからぁぁっ!」

 

 力いっぱいに否定した。もしもここにお相手役の爆裂魔法使いがいれば、その根も葉もない噂を一掃せんと魔力を昂らせたかもしれない。

 とにかく、表現は過激だったけれども、相談内容から大きく外れてはいない。ゆんゆんは口早に発言を訂正する。

 

「そうじゃなくって! 私は、その……女としての魅力がないのかな?」

 

「「は?」」

 

 ふにふらとどどんこは『何を言ってるんだコイツ?』というような目でゆんゆんを見つめる。

 

「その紅魔族随一の発育(あるえ)に次いで育ってる肉体(ナイスバディ)で言うこと?」

 

「あたしたちに対する当てつけだっていうなら、胸をもぎ取ってやるわ!」

 

 身体的クラスカーストほどではないが、その発言にはちょっと女子的にイラっとする。

 眼を爛々と紅くさせ、じりじりとにじり寄る二人にゆんゆんはわたわたと手を前に振り、

 

「ちょっ、ダメっ、そんな揉むのはダメ、とんぬらさんにもまだ揉まれたことないのに……っ」

 

「え? そうなの?」

 

「あ……」

 

 つい欲求を暴露してしまった。口に手を当てるも、塞ぐには遅い。

 でも、ふにふらとどどんこは、あー……と理解ありげに頷く。

 

「うん、まあね。この前のゆんゆんを見れば明らかよね」

「そうよねー。すっごくラブラブ光線乱れ撃ちだったし」

 

「……~~~~ッッ!!?」

 

 か、顔が熱い……!

 両手で頭を挟み抱えで蹲ってしまうゆんゆん。

 

「まあ、仕方ないわよね……ゆんゆんがこれじゃあ」

 

「それに……学院時代のこと、清算するいい機会だし……」

 

 とふにふらとどどんこは顔を見合わせ、互いに共有すると、この悩める友人へ、

 

「わかったわ、ゆんゆん。この紅魔族随一の恋愛マスター(予定になるだけど)が相談に乗ってあげるわ!」

「ええ、男をイチコロで落とす必殺技(必勝法ではないけど)を伝授してあげる……!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「………だから、あるえには男に対する警戒心への足りなさを注意しようと、ああして迫ったわけで、本当に襲い掛かろうとしたわけじゃない」

 

 …………うん。怒って怖がらせるような真似はダメ。

 そんなの嫌われちゃうし……嫉妬する資格は自分にはない。

 

 ――距離を詰めるにはきちんと段階を踏む。

 焦らず、まずはお友達から、一歩……! そう、“全然怒ってないよ”と軽く、それでいて寛容さを表すよう親し気に、加えて女の子らしく可愛くアピールして、もっと距離を縮めていく……!

 

 

 ♢♢♢

 

 

「可愛らしく……軽く……親し気に、可愛らしく、軽く、親しげに、可愛らしく、軽く、親し気に――!」

 

 できるだけ落ち着いて、あるえとのことを弁明を試みた。

 が、向こうの様子がおかしい。というか、自己暗示をかけるようにブツブツと何かに呟いており、とんぬらはゆんゆんに言葉をかけられない。鬼気迫る集中力だ。

 

 すっ、とゆんゆん、頭の上に、握り合わせて一本指を立てた両手を頭の上に置く。

 

 なんだ……あれは?

 わからない。だが、あれはなんとなく角を表現しているように見える。

 ……つまり、これは鬼になるくらい怒っているというアピールなのだろうか?

 

「ぴょ……」

 

 せまる。じりじりとにじり寄ってくるゆんゆん。それで姿勢を低く、突き立ててる人差し指をこちらに向けてる。心なしか左胸――心臓部に狙いを定めているようで。

 本能が急所を庇おうと、後ろ足引いて距離を取ろうとするのだが、そこはまだとんぬらも堪える。何が起こるかわからない。だがたとえそれが心臓を刺し穿つ伝説の暗殺拳であろうとも、とんぬらはゆんゆんからは逃げないと決めている。

 そして――

 

 

「――とんぬらさん! ぴょーん☆」

 

 

 ゆんゆんが、飛びついてきた。

 頭から――それよりも先に立ててる指が当たる感じにグリグリと胸に。反射的に身構えてしまったが、特別ぶっすりと穿たれるほどではなかったものの、内心で軽く驚く。というか、混乱する。

 それでリアクションに困り、固まってしまっていると、ゆんゆんが不安げに上目遣いでこちらを窺う。

 

「………」

 

「……えと……ぴょーん、です」

 

「………」

 

「あ、あれ? こうすれば、いい感じに……その……――ぴょんぴょーん♪」

 

 困った挙句に復唱して、やややけっぱちに指先で胸板をくりくりとひっかいてくる。何というか、甘痒さにたまらず声をあげてしまいそうになる。

 だがくすぐったさはどうにか呑み込んで、やっととんぬらは口を開く。

 

「あー、そのだな。怒ってないのか?」

 

「え? 怒ってないけど別に……今ので、伝わらなかった?」

 

「残念だが、今の行動は意味不明なんだが」

 

 素直にぶっちゃけるとんぬら。

 芸人的に、そのウケなかったネタを解説させるというのは一種の羞恥プレイに当たるのだが、とんぬらにはどう考えてもわからなかった。

 ゆんゆんは、ミニスカートの下の脚を、もじもじと落ち着きなく擦り合わされて恥ずかしそうにしながらも、答えてくれた。

 

「えと、これは、『一撃ウサギ(ラブリー・ラビット)の必殺ポーズ』、です」

 

「ああ、なるほど」

 

 ポンと掌に手を打つとんぬら。

 あれは鬼になっているのではなく、見た目は愛玩系の肉食魔物の真似をしていたのか。

 ……で、それが一体何に繋がってくるんだ?

 

「……もしかして、この前の芋ケンピみたいにそういうのが、女子に流行っているのか?」

 

「これから、流行する予定のオリジナルポーズだそうです」

 

 つまり、紅魔の里の中でも流行っているわけでもなく、とんぬらが知らないのも当然のこと。

 

 それで、この手応えにゆんゆんは首を傾げる。

 彼の反応からして、このふにふらさんとどどんこさんが考案し、伝授された『可愛く肉食系をアピールする一撃ウサギ(ラブリー・ラビット)の必殺ポーズ』がどうやら盛大に空ぶった、のだろうか?

 

「と、とんぬらさん、こう、胸にグッときませんでしたか?」

 

「『ぴょーん』がいきなり過ぎて、こちらも訳がわからんというか……まあ、肩がガクッとはきたな」

 

「ぅっ……ぅぅぅぅぅわああぁぁぁぁぁぁんっ! 見ないで、こんな私を見ないでくださいっ!」

 

 とんぬらが言い難そうにしながらも正直な感想を述べると、しゃがみ込んでしまうゆんゆん。

 これにとんぬらは責任を感じ、すぐさまフォローを入れる。

 

「ゆんゆん、振り向かないのも若さってもんだぞ。正解なんてないんだから、無理しなくていいんだ」

 

「でも、とんぬらさんには届かなかったんですよね?」

 

「あー、届くというか、勢い的には十分だったんだけど力入れ過ぎて斜め上の方向に行っちゃったというか」

 

「もうダメ! 私もうダメです!」

 

 半泣きになりながら、両手で真っ赤になった顔を覆うゆんゆん。

 これはクールタイムとはまた別に、黒歴史を封印できるようになるまで、顔を合わせづらくなるかもしれない。

 

 ……だが、いい加減にこの対応ももどかしくなる。

 “よりを元に戻す”という言い方はしたくはないが、前の距離感に戻ってほしいと思う。

 

 とんぬらは一度深呼吸し、その取り入れた分を言葉にして吐き出した。

 

「ゆんゆん、俺と遠出に付き合ってくれないか?」

 

 いい気分転換になるかもしれない、ととんぬらは誘う。

 これに最初、ゆんゆんは言葉の意味を上手く呑み込めないように、ぴたりと固まってしまったが、やがて、

 

「……~~っ、……~~っ!!」

 

 ゆんゆんは忙しく腕を上げたり下げたり、落ち着きなく右を見たり左を見たり、挙句突然、バッと背後を振り返ったりと、不思議なダンスを踊っていた。

 今度は、不審者の物真似か?

 だが、やがて呆然とした顔のまま、おずおずと自分を指差した。

 

「ひょ、ひょっとして……わた、私を誘ってくれてるんですか?」

 

「ああ、そうだ」

 

「……~~~~っ」

 

 ゆんゆんはそこでまた、今度は感極まったように涙ぐんでしまう。

 

「嬉しいです……わ、私、生まれて初めてっ、男の人にデートに誘われました!」

 

「あー…………いや、何でもない」

 

 “デートではなく、クエストに同行してもらう”調子で頼んだのだが、ここでゆんゆんのはしゃぎようを見ると、その喜びに水を差すのは野暮だと口を噤む。

 ……それに、“この世界の彼女”にも記念となるようなことができて、あまり人には言えない独占心も仮面の下の口を重くした。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 ――草いきれの残り香が鼻に染みる山道。

 時刻は夜。月が出ていなければ真っ暗であろう。その月明りも藪の枝葉に遮られている。

 そんな不気味で怖いはずの山道だけれど、怖くはない。

 彼がいるから――

 

「大丈夫か?」

 

「ひぇ? な、なに?」

 

「いや、さっきから俯いているから、気分が悪いのかと思ったんだが」

 

「あっ……ご、ご心配おかけして、すみません。でも、そういうことではありませんから」

 

「だが、さっきから俯いて……顔も赤いみたいだが、熱があるのか? もしかして」

 

「いえ、そうじゃなくて! そうじゃ、なくて……なんかもう、体が熱くて、暴走しちゃうみたいで……」

 

「体調が悪いなら、無理せず正直に言ってくれ。別に引き返しても構わないのだし、責任をもって、俺が看病をする」

 

「本当に大丈夫ですから。そういう、肉体的な事じゃなくて……むしろ精神的な問題が……」

 

 気持ちを抑え切れない。こんなに、なるんだ……こんなにも自分を制御できなくなるんだ……

 溢れる気持ちが、この身体じゃあ収まり切らない……いっそ、大声で口にしてしまいたくなる……っ

 そうしてしまうと、急かすみたいに心臓が早鐘を打つ。じっとしていられなくなるぐらい、身体が火照る。

 そんなポエムまで胸の中に溢れてくるぐらい、自分の中でその想いはほとんど形が出来上がっていた――

 

(こんなの初めて……やっぱり、私は彼のこと、特別……なんだ)

 

 夜だけど、薄着でも寒くない。

 山の中だけれど、今の時期の気候は暑くなく寒くなく、ちょうどいい塩梅の気温で、時折吹く風も今の自分にはいつに爽やかなものだった。

 目を細めて、そよ風に靡いた髪を抑え、それでいくらか冷めた思考が前髪を慌てて整える。そんな忙しいゆんゆんを見て、とんぬらは足を止めるとそちらの方へ身体を向けて、

 

「怪我病気でなかろうとも問題があるのなら、心配なんだが……。とりあえず、転んでしまわないように、ほら」

 

 最後は少しぶきっちょにだが、とんぬらがゆんゆんへ手を差し出す。

 緩やかながらも傾斜のある、凸凹とした山道の転ばぬ先の補助(つえ)役を買って出た。

 

 そして、ゆんゆんは硬直。

 

 いつまでも胸の中に臆病風が吹き荒ぶ荒野のままではいられない。

 『チャンスには全力で!』と女友達も言ってた。墓穴を掘るのももう慣れっこだ。ここはいつのまにカズマさんと一歩先に進んでるめぐみんを見習って、爆裂魔法をぶっ放すように全力で思い切るべき――!

 ゆんゆんは、肺を満たす深呼吸の後、爛、と目を光らせる。

 

 お付き合いの第一手である手を握るフィジカルな接触。

 既に経験していることだし、これを特別意識することなくできないようでは、この先へは踏み込めない。

 

「じゃあ、その、よろしくお願いします!」

 

 右手を差し出すとんぬらに、ささっとハンカチで手早く手汗をふき取ってから、ゆんゆんは()()を伸ばす。

 

「ん?」

 

 そうして、自分の掌に彼の掌を重ねて、前に踏み込み隣に並んで――握り取った手をそのまま90度ほど回転させる。

 それから相手が何かを言う前にすかさずゆんゆんは言葉を差し込ませる。

 

「こ、この方がしっかりと繋がってられますし! 安全です!」

 

「そ、そうか……」

 

「はい、そうです!」

 

 もちろんそんなの言い訳である。

 押しの勢いで彼の首を頷かせて、ゆんゆんは必死に首を縦に振るよう何度も頷く。

 しながらも、自分のより一回り大きい。その大きな手のしなやかな彼の指と指の間を押し開くように、自分の指が滑り込ませ、ギュッと。

 そうして絡まり合った指先。掌はまるで磁石のように引っ付き合った。

 そう、これが『できれば合格!』と、ふにふらさんとどどんこさんが語っていた、いわゆる恋人繋ぎ――

 

「ぁぅ…………」

 

 状況を一言にまとめられるくらいに理解した途端、小さな吐息がひとつ。我慢できず、足の爪先がきゅっと絞まる。

 ただ片手を握っているだけなのに、全身を抱かれているような、ぞわぞわとした類感を覚えてしまう。指と指の間で動く彼の指から、まるで体内に入り込まれたようなくすぐったい錯覚。おかげでにぎにぎと一押しごとに乙女心が沸点に達して蒸気を噴き上げている。もう蕩け切ってしまいそう。

 

 ただ一緒にいるだけでも十分ドキドキしたけれど、さらに鼓動が激しくなった。激し過ぎて、心臓に痛みを覚えるくらい。でも、こうして指を絡ませることで、よりその相手の実感や体温が覚えることができてる。

 この握り方、好き。

 ただ、手汗が心配になるけど。

 強引だったし、嫌がられてないか?

 

「じゃあ、行くぞ。あと少し先だ」

 

 でもそんな心配は杞憂だったようで、仮面の上からでもそんな彼の嫌がる気配は覚えなかった。

 むしろ、慣れてる?

 最初は驚いたように目の色をふためかせたけれど、今は普通にしている。あるえにもああも迫れていたし、経験豊富なんだろうか。ちょっと不満。

 こうなると、自分と同じようにドギマギ意識してもらうようには胸で腕を抱くくらい密着しないとダメなんだろうか?

 だ、ダメダメッ! そんなの私が無理だから!

 

 そんな心中で激しく変動する情動にゆんゆんの目が(><)となっているも、手はしっかりと繋いだまま、そして、とんぬらは前を向きながら彼女の手をやんわりと引く。

 

 散歩を再開して、しばらく。

 二人の間に会話はなく、夜の静けさが月下の森に染み入る。

 幸いにもここまでモンスターには遭遇していない。でも、こうして手を引っ張ってもらっているという状況に、ふと、ゆんゆんは少し沈んだ声音で囁いた。

 

「……私は、族長になれると思いますか?」

 

 こちらに配慮してか、足を止めず振り返らずに前を向いたままとんぬらは応じる。

 

「どうして、そんなことを訊く?」

 

「それは、やっぱり里の皆とは違うから……私、当たり前の挨拶がまともにできないし、かといって人を引っ張っていける力があるわけでもありません。だから、紅魔族の族長に相応しくないんじゃないか、って」

 

 魔王が討伐されて、こうして里帰りをしたけれど、成長した実感はあまりなく、うまくやれているとも言い難い。一人旅に出て見聞を広めれば何かが変わるかもしれないと期待したけど、やっぱり、紅魔の里の流儀というのは恥ずかしい。やることになってもどうしても体も声も縮こまってしまう。

 そんな胸を張れない人が上に立ってはいけないんじゃないか?

 訥々と、一言一言を丁寧に、まるで懺悔室で告解するかのようにその不安を打ち明けると、一呼吸、言葉を咀嚼するだけの間を入れてから口を開いた。

 

「その先へ行くことが本当に正しいものなのかと悩むこともある。不安になることだって当然ある。

 でも、ゆんゆんがそんな未来像を不安に思うのはそれだけ懸命に、心を定めて前を見れているからだろう。前に進むには、前を向かなきゃならない。前を向けているゆんゆんはちゃんと進んでいるよ。

 だから、俺は紅魔族の族長をやれると思うぞ」

 

 落ち着く声だ。声自体が頼もしいと言うこともあるが、不思議と耳にとても馴染む声音で、また声の主が本当に自分のことを思いやっていることが伝わってくるよう。

 

「ゆんゆん、紅魔族の大事な、“ロマン”というのはなんだかわかるか?」

 

「それは、やっぱり、格好良いこと?」

 

「大まかにはその捉え方でも間違っちゃいない。だが、俺の思う“ロマン”とは希望で、生命力、突破点、新しいもの、幸せになりたいという願望で、自分の道を歩く原動力。そして、周りが決めたルールに囚われず思うがままに進んでいった果てに掴めるものだ」

 

 仮面の奥にあっても隠し切れないほど瞳の光が強いせいか、普段、そこにいることを誰も無視できないほどの存在感を放つ。奇怪な格好、また伊達男だからというだけではない。この人(とんぬら)は常に周囲に影響を与え続ける男だ。

 

「ゆんゆんは、その自分を変えたいと思って里を出て、歩んできた道のりをもっと誇りに思うべきだ。きっとそれは“ロマン”を求めていたのと同じことだろ? つまりは“ロマン”を大事にする紅魔族で認められてしかるべきということになる」

 

 やや段飛ばししているような強引な三段論法だけれども自信を分けさせてくれる力ある声を聴いて、お腹の辺りから強張りが抜けてくるのがわかり、代わりにじんわりと温かいものが胸の奥からこみあげてくる。さらりとこの心細さに安らぎを与えられるなんて、彼の懐はどれだけ深いのだろう。同年代なのに、驚くべき青年だ。

 

「……ありがとう」

 

 ぽしょりとしか声を呟けない。スカートの生地をぎゅっと右手で握り締め、顔を俯かせてしまう。

 でも、はらりと流れて垂れた前髪、御簾のように表情を覆い隠すも隙間から覗く頬はほんのりと色付いて、それを首だけ振り向いた仮面の奥からの視点は拾う。微笑ましげな口元を緩ませて優しい吐息を漏らす。

 

「お礼を言うにはまだちょっと早い。ちょうどこれから俺達は“ロマン”を目指して冒険している最中なんだからな」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「と、ここで到着だな」

 

 山道を抜けた先で広がっていた野原。

 けれど、そこにあるのはまだ蕾の花畑で、

 

「もう時期のはずだが……これは春眠を貪っているところを起こしてやらなければならんようだな」

 

 でも、とんぬらはゆんゆんの手を離して、それを手にする。

 先端に薄衣が巻き付いた横笛『春風のフルート』に口をつけて――春の木漏れ日よりも柔らかな空気を含んだ音色が夜気を塗り替えるように辺りに吹き抜けた。

 

 彼を中心として吹き渡る鮮やかなそよ風は、ミルクをかき混ぜて溶かすようなさらりとした響きを持っていた。

 そんな音が乗った波濤が吹き抜けて、草葉の間からふわりと木漏れ日のような明るみが差す。

 その一本一本の開かれた花弁自体が光を放ち、ぼんやりと辺りを薄く照らしている。

 星灯りしかない夜の中で、その光は花畑を照らして、うっすらと明るく辺りから闇を追い払っていた。ほんのりと温かみのある灯り。それは目を奪われるにおつりが出るくらいに十分な、絶景だった。

 

「すごい……すごく綺麗……! とんぬらさん!」

 

 頬を赤く染めて、感嘆がゆんゆんの口からこぼれて止まらない。

 うわぁ、うわぁ! と熱に浮かされたような表情で、ゆんゆんが隣を見れば、灯篭の花々の灯りの中、静かな瞳に表面で、熾火にも似た光沢がとろりと流れ過る。

 

「学校の図書室で生態を調べたが、『ルラムーン草』は開花すると夜中に光るんだ」

 

 煌びやかな光景の中にあっても映えるその横顔、

 武骨な仮面をつけている分、雪解けのように微笑みに緩んだ面差しに気付くと寒暖差からかその熱のある印象は強くなる。

 夜に光輝く花畑、その花々も綺麗だけれど、今この世界にいるのは二人だけ。感動を共有する素晴らしさは、ずっと知り得なかった。こんなにも色鮮やかな歓喜が世の中にはあったのだ。

 意識を圧倒するほどの感動で、感情にブレーキがかからなくなってしまう。

 そして、彼からの眼差しを向けられるだけでこちらの心も見透かされちゃうんじゃないかと思うと、妙にドギマギする。彼に対する好意は伝わってほしいけれど、彼はあまりにも才覚に溢れていて思考が読めない。

 おかげで、何度も深呼吸を繰り返しても、ちっとも心拍は整ってはくれない。

 

「リスクを恐れて前進を厭う者、未知の世界へ旅しようとしない人には、極僅かの景色しか楽しめない。先行きの見通せない(やみ)の中を歩いて来れたゆんゆんだから、これを見れたんだ」

 

 やっぱり、心落ち着く、顔を見て、声を聴くだけで。それだけで抱えていた不安がかき消えてしまった。心の穴が、すっかり埋まっちゃってる。

 

「……どうだ? 少しは自信が持てたか?」

 

「はい……」

 

 ああ、本当に彼と出会ってから、時間が過ぎ去るのがあっという間、きっと生きていた中で一番早く一日が流れていく、輝かしい色付いた日々だった。

 この気持ち、間違いない。

 

「とんぬらさん……っ」

 

 目元に朱を残しながら、またとんぬらの手を掴み、握り締める。

 驚くとんぬらに今度は顔を近づけ、至近距離から真っ直ぐ見つめた。

 瞳の中の瞳孔の輪郭が見て取れる程近い。酷い動悸がする。息を整えようと深呼吸しても顔は灼けるように熱くなり、早鐘を打つ心臓は今にも爆発しそうだ。

 とんぬらも動揺したように目を瞠るも、ゆんゆんの精一杯に奮い立たせんとする眼差しは仮面の下の唇を縫い留めるに十分な力があったか。

 

「ゆんゆん……?」

 

 彼はその手を振り払いはされず、されるがままに待ってくれる。

 されど思うように言葉が出ず、ゆんゆんは勇気を失くしかける。しかし、今更引き返すこともできない体勢だ。ものも言えずに見つめ合っている内に、いつしか動機は痛みではなく、甘酸っぱい心地良さに変わっていた。

 今の自分は、彼にはどう見えているだろう? 可愛く映っていてほしいと願いながら、ゆんゆんはそっと口を開いた。

 

「あの……ね」

 

 真剣に訴えようとして、つっかえつっかえになってしまう。こんな引っ込み思案で、思い切る時に二の足を踏んで滑ってしまいそうになるのがうらめしく。でも、どんなに拙くても言葉にするのは諦め(にげ)たくなかった。

 ……それに、その仮面の奥の瞳は澄んでいて、呆れた色もなければ、蔑むような眼差しもなかった。むしろ、彼がいつも見せる他人に対する思いやりを内包した視線。それが今、逸らされることなく自分に向けられている、ゆんゆんはそう感じた。孤独に寂しかった心に、甘い幸福の泉が湧いた気がした。

 胸だけが騒ぐ静寂。五月蠅く拡縮する心肺に息が詰まるほどの緊張で、水分がなくなった口の中から、吸い直し吐き出す息に言霊を乗せる力をくれる。

 

 うん、もう一度だけ深呼吸しよう。

 すぅぅぅ―――はぁぁぁ……っ。

 すぅぅぅ―――はぁぁぁ……っ。

 ――よしっ!

 

 挫けかけた自分の膝をいっそ彼に押し付けるように、一歩踏み出す。そして、自分が逃げてしまわぬように、指先がとんぬらの手を強く握る。

 彼の手を握る自分の手は、恥ずかしいほどに熱い。それはきっとゆんゆんの想いの熱だ。

 この人に出会ってから――救われてから――ずっと温めて、大事に大事に育ててきた感情。不用意に曝け出せば、無残に壊れてしまったに違いない、ガラス細工のような感情。

 それを晒すことは、とても勇気のいる事だ。けれど、この想いを渡すべき相手は、この世界に、たった一人しかいない。

 その想いをその人に伝えられる。それはとても幸福な事だ。

 隣で過ごす時間の一秒一秒ごとに降り積もって胸の中で確かな結晶と意識できるようになり、そして、今そう心から思えた時、ようやく、ゆんゆんの想いは言葉になった。

 

「あなたが好きです、とんぬらさん」

 

 ゆんゆんの唇から、堰を切ったように思いの丈があふれる。

 

「あなたといると、私は自分を信じられるの。あなたが見てると思うと、もっと前に出て頑張ろうって思えるの。あなたの傍にいるだけで、私は私が好きな私に、少しずつだけど、近づいていけるの。きっとこれは、とんぬらさんのおかげ」

 

 自分の言葉を頭の中で繰り返し、言い忘れたことがないか確かめる。

 ああ、でも、足りない。一晩中だって、好きだって言いたい。

 でも、この感情を表すには、一言で十分だという気もする。

 ゆんゆんは自分が満足する言葉で、結論を告げた。

 

 

「あなたのこと、愛しています、とんぬらさん」

 

 

 ……その告白は、彼の胸にどう響いただろうか?

 どぎまぎするゆんゆんは、ちらっと薄目でその表情を伺い見る。

 仮面の奥の眼差しは頭脳のキレ味を表すような鋭さも、それにゆんゆんによく見せる優しい瞳とも違っていた。

 

「…………………………………」

 

 小さく口を開けたまま、初めて見る目をしている。……いや、違う。見たことがあった。そう、それはあの理解のかなわなかったあの“謝罪”。だから余計に気になって、そおっと薄目を開けて小首を傾げる。

 

 視界を広げ、その仮面の下を見透かさんとするよう視点を絞り、もっとよく見て――気づく。

 

「………………っ」

 

 とんぬらさんは瞑目して――仮面の下で、顔を歪め。苦痛に耐えるような顔をしていた。

 

 えっ……?

 思いも寄らぬ反応に思わず漏れたその微かな声をきっかけに、とんぬらは小さく首を振り、息を吸い、吐いた。

 

「もし、君と結ばれたら、幸せになるだろうな……俺をそんなふうに想ってくれる、君と一緒なら。……ああ、幸せ、だ。この世界の誰が見ても、な」

 

 仮面の奥の瞼を上げ、純黒の双眸にゆんゆんを映したその瞳は、夜の湖のように深く、穏やかで、そして、悲哀が見て取れた。

 

 切なげにうつむく。なぜ彼が今こんなに“辛そうな”顔をするのか、ゆんゆんにはわからない。そんな自分も望む幸福な将来の展望を語ってくれているのに、どうして苦しそうに喘ぐのか。

 

 生暖かい宵の風が、二人の間を一線を引くようにしゅるしゅると吹きすぎる。

 

 定まらない覚悟を、理性と衝動の感情の揺れを表すよう唇が戦慄いて、そして、深く深く沈めていくような声音で語る。

 

 

「だけど、優しくしていたのは……君に自信を持ってほしかったからで……それ以外の他意は、ない。もしそこに惚れたんだとしても、それは――違う」

 

 

 彼への想いを、彼自身に否定されて、心臓がきゅうと収縮する。

 ゆんゆんは喉に込めた言葉を吐き出せなかった。呑み込むこともできず、しばらく頬に溜めて、その内、ず、ず、ず……と少しずつうつむいて、そうして、地面と相対する角度となってから唇の間から逃した。

 これにとんぬらは乾く喉を唾液で湿らせてから、口を開いて、

 

 

「俺には約束した女性(ひと)がいる。――君の想いを受け取る資格がない」

 

 

 胸を潰され、身が切られるかのような、そんな錯覚を覚えながら、その言葉を吐いた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 まだ日が昇っていない夜更けに、里帰り中のはずの――過剰なくらいに他人に気を遣う――少女がやってきた。

 幸運にも今現在屋敷には一人。カズマは結局『アルカンレティア』で問題を起こしたアクアの保護者として駆り出され(『アクセル』支部長のセシリアに強引に連れてか(らちら)れた)、ダクネスはダクネスで例の婚約騒動に駆り出されているよう。それで自分はまだ過度な爆裂魔法の撃ち過ぎで自宅療養を言いつけられている。

 それでまったく傍迷惑ではあったが、思い詰めた表情をするゆんゆんを放置しておくわけにもいかないので、仕方なく自分(めぐみん)の部屋へと、連れて行った。

 

「あのね、めぐみん……」

 

 これでも長い付き合いだ。

 今のゆんゆんは、言いたいことに自信がなくて背中を押してほしがっていると、めぐみんにはわかる。

 

「なんですか?」

 

 だから、口ごもるゆんゆんに、めぐみんは続きを促した。

 

「とんぬらさんは、私のことが、嫌いなのかな?」

 

「それはないですね」

 

 即答だった。

 ゆんゆんが無言で目を瞠る。

 

「どうしたんです?」

 

「……すぐにそんなこといってくれるとおもっていなかったから……」

 

「だって、ありえませんから」

 

 めぐみんはまたしても、即答でそう告げた。

 こちらもぶっちゃけて眠いし、そんな“わかり切ってるもの”にそう親切に説いたりなんかしない。

 

「ゆんゆんは、トール、いえ、とんぬらが好きなんですね?」

 

「えっ!? ちょっ……なっ……そっ……急に何を言いだすのよ!」

 

 頬が勝手に火照り、言い訳に詰まる。襟足を撫でながらしどろもどろに弁明の言葉を模索する様はどうしようもなく、それ以前に頬が朱に染まり、瞳も赤がかってる。

 この慌てぶりで、誤魔化せるわけがない。

 それにここまで来て、否定を重ねてしまうほど意地っ張りではないし、しばらく無言の圧をかけながら待てば、ゆんゆんはおずおずと盗み見るように、めぐみんの方を窺い、

 

「お……おかしい?」

 

「わからなくはありませんよ」

 

 ライバルは、存外ものわかりよく言ってくれた。ゆんゆんを笑ったりもしなかった。

 

「ぼっちのゆんゆんを助けた人ですし。自分を助けてくれた相手というのは、何か特別のようなものに感じるでしょう」

 

 それが第一印象なら尚更。

 爆裂道を歩むきっかけとなった出来事を思い返しながら、めぐみんは同意するよう頷く。

 

「ぅ――」

 

 だから、止め処なく涙があふれてくる。この想いが勘違いでも間違いでもないと同意が得られた途端、蓋でも外れたように感情がコントロールできなかった。

 

「本当に、とんぬらのことが好きなんですね……」

 

「うん、好き。とんぬらさんのことが好きっ……とんぬらさん以外なんて、考えられないっ……!

 でも……フラれちゃった。それも当然よね。私はぼっちだし、会話するのも苦手で、気も利かないしっ……私なんて、選ばれるはずがっ……!」

 

「そうでしょうか。ゆんゆんにはゆんゆんの魅力があると思いますよ。あのとんぬらがどう考えているかはわかりませんから、安易な慰めはできませんが、私のライバルなんですから、ゆんゆんは十分に魅力的な女性に決まってます。とんぬらが振り向いてくれなくてもそこは変わりませんよ」

 

「ううっ、ぐすっ……振り向いてもらえない……ふえええぇぇっ……」

 

「ああ、もうまったく! それ以上に面倒くさい娘でしたねゆんゆんは! とにかく、とんぬら以外にも素敵な男性は世界中にいっぱいいます。だから大丈夫っ」

 

「……ダメ」

 

 珍しくもめぐみんが励ましの言葉をかけてやるのだが、でもゆんゆんは涙を拭い、

 

「私にはとんぬらさんしかいない。とんぬらさんしか見えない。とんぬらさんじゃなきゃダメなのっ……! 私が好きになった男の人は……とんぬらさんだけなのっ……!!」

 

「そこまで、とんぬらのことを……」

 

「だけど……そんなの全部、私の勝手。とんぬらさんに無理強いなんてできない……とんぬらさんにも選ぶ権利があるし、私のような女など眼中にないかもしれないっ……でも、だとしたら、私はどうしたらっ……」

 

 再びボロボロと涙がこぼれ落ち、拭った頬が再び濡れていく。

 

「あはは、こんな時に泣くことしかできないなんて……本当にダメよね、私って……」

 

「……ゆんゆん、これを使いなさい」

 

 めぐみんはハンカチを差し出し、しかと応えた。

 

「ゆんゆんが真剣だということはよくわかりました。どこまでできるかはわかりませんが、私はできる限り協力しましょう。さしあたっては胸の内にしまっておくつもりだったとんぬらの情報を話してあげましょう。今のあなたならこれに怖気づくことはないでしょうから」

 

 そして、めぐみんは話した。

 あの紅魔族の血を引く仮面の青年は、なんと隣国の王子様であり、この国の第一王女の許嫁なのだと。

 

「最初、パーティに加わった後に、とんぬらは『自分には将来を誓った相手』がいると公言しました。つまり、お姫様のために魔王を倒しに旅立ったと言ってもいいでしょう」

 

「そうだったんだ……」

 

 フラれた挙句、身分違いを教えられたからと言って、気持ちが臆したかと言えば、そんなことはない。

 突き放されても自分の好意がちっとも色褪せないと知って、ゆんゆんは嬉しくなった。

 想いを告げる前は、怖かった。伝えたが最後、絆が壊れてしまうんじゃないかと思った。だが、フラれても、この気持ちは変わらない。欠片も毀れず、壊れない。

 自分のこの想いは軽薄(チョロく)なんかない――!

 

「しかし、これはダクネスから聴いた情報(はなし)なのですが、そのお姫様の方はどうにもとんぬらとの婚約を望んでいないようなんです」

 

「え……?」

 

「これは私の予想ですが……とんぬらがすぐに身を潜めるような真似をしたのは、彼女にフラれるのを予感していたからなのかもしれません」

 

「そんな……っ!」

 

 カッとゆんゆんの目が紅く瞬く。

 そして、語っている内に深夜の徹夜特有のテンションが上がってきためぐみんは饒舌に、発破をかけた。

 

「ゆんゆん、障害があるほど愛とは燃え上がるものです! もし、これだけ聞いても怖気ずくことがないのなら、あなたの気持ちは本物です。――そして、それだけ本気で好きなら、たとえ相手が王族でも振り向かせてみせるのです! それこそ、我がライバルに相応しいでしょう!」

 

「うんっ! めぐみん……私っ、やるわ!!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「…………ん」

 

 ひんやりとした空気でとんぬらの意識が醒めた。

 

 だいぶ酔っていた。

 これほど酩酊するほど酒に溺れたのは初めてかもしれない。

 かろうじて現状を客観的に把握していてもいまだ霞がかった思考に、感覚も周囲が回っているように足元もおぼつかない。

 ぼんやりとしている頭、じんわりと重くなる瞼。だけど、心に刻まれたようにはっきりとあの時の彼女の顔が、零れた涙を覚えている。

 

(泣かせてしまった、か)

 

 あの花畑でゆんゆんと別れてから、ひとり、『ルラムーン草』の群生地近くのこの『ドリス』の街へ下り、フラフラと当てもなく街を歩いていたら、そこで偶然にも、彼女に出会った。

 

「だいぶ飲んじゃってるねぇ、大丈夫、君?」

 

 とんぬらはひとりカウンター席にいるのではなく、温泉街『ドリス』の中心部に程近い一画に軒を連ねる高級店……それも最上階の個室。

 贅沢に一気に煽る盃に満たす酒は、癖がなく、飲み易い。喉の奥が焼けるように熱いし、結構アルコール度数が高いだろう。これは中々のお値段がするに違いない。普段ならそれを遠慮するはずなんだろうが……今はとにかく酒に酔っていたかった。

 

 そして、テーブル越しの対面には銀髪に頬の傷がトレードマークの――元の世界では先輩の――クリスがいた。

 こうして、酒の席に誘ったのもクリスで、こちらの顔を見つめるや初対面ながら『奢るからちょっと付き合って!』とやや強引に酒場へ。それも人の目につかない個室まで借りて……よほど気を遣われるくらい、顔色が酷かったのだろうか。

 空になったそこへ溜息をひとつこぼしてから、顔を隠すほど傾けた酒盃を降ろすと、

 

「しっかし。とんぬら君、だっけ? 君、そんなに辛いのにどうしてゆんゆんって娘をフッちゃったのさ」

 

 それで酒のアルコールに思考のブレーキが鈍っていたのか、それとも元の世界で彼女が

“先輩”だったからか、とにかくクリスが聞き手役になるととんぬらの口は緩んだ。

 今日、ひとりの少女に告白されて、それをフッたことまで話してしまっていたのである。それから、お節介なのか、彼女はこんなどうしようもない他人事の独白を、時折、相槌を打ちながらも、笑うことなく、遮ることなく、自棄酒を呷りながらの吐露を胸に収めて……というより、

 

「まさか、何の理由もなく女の子を泣かせちゃったわけじゃなんだろうね?」

 

 何だかグイグイと来る。この世界でもクリス先輩は耳年魔……ではなく、色恋沙汰には目敏いのか。

 まるで同じ過ちを繰り返させないよう、子供にやらかしたことを自分の口から説明させようとする先生のような調子で、彼女は追及を緩めない。

 

「いや」

 

 ぽつりと。

 とんぬらは呟くように言った。

 

「自分でもわかっているさ。優しくしていたのは自信をつけさせるためだなんて、言い訳だってことは。俺は彼女に嫌われたくなかった。だから、いい顔をしていた。何故なら、俺は、勝手に思い込んでいた。ゆんゆんは俺にしか助けられないんだって」

 

「うん、でも君はそれを間違いだって思ってるの?」

 

「ああ。師匠の時とは、違うんだ。周りの誰もから虐げられ、こちらから救いの手を伸ばさなければ幸せになれなかった境遇なんかじゃない。我儘に正当性を見出せた師匠のように義憤に駆られることはけしてない! むしろ逆だ! こんなの、思うだけも大罪だ!

 俺は、認めたんだ。他の誰でもなく俺自身が、認めたんだ。この世界は俺の世界じゃないけど、それでも素晴らしい世界なんだって。決死で救おうとそう思えたこの世界は素晴らしいに違いないんだ。ああ、魔王が討たれて、平和になろうとしている世界だ。どこに文句のつけようがある。言い訳の余地なんてない。

 だったら、それを壊そうとするのは、ウソだろう? そんなのこの世界を素晴らしいものだと認めたのを否定するのと変わらない!

 人生は失うことの連続だ。でも、ひとつを失ったからと言って、残りは全部失うような真似だけはしてはいけない。

 こんな最初から帰ると決めた男に一時現を抜かされて、その未来を失わせてやるわけにはいかないんだ!!」

 

 まったくもって度し難いくらいひどいワガママだ。

 そんなの許されるわけがない。

 

「だから、俺は決めている。この世界から何も受け取らない。立つ鳥跡を濁さず、全てを身綺麗に清算して帰る。それが正しい選択、最適解……のはずだ」

 

 誰の賛を得られることを望んでいない、一人勝手に行き着いた結論だが、それでも言い切った。

 

「そうかもね」

 

 目の前の相手は綺麗ごとで誤魔化されなかった。

 とんぬらが異世界からの迷子だってことなんて知らないだろうに、その上で、口を挟んでくる。

 

「でもさ、ちょっと確認させてもらってもいいかな?」

 

「何ですか……」

 

「君ってさ、いちいち損得を考えて戦ってきたの? あんまりそんなことにこだわっているように見えないけど」

 

 とんぬらは思わず口ごもった。

 この反応に、少女は小さく笑う。

 

「そうだよね。もらえるはず、ううん、もらうべきはずの報酬も受け取ってないんだから。君は金とか名誉とか、わかりやすい形のあるもののために命を賭けてきたわけじゃないのは明らかだ。事の収支を度外視している」

 

「……だから、何か問題があるというのか。報酬をもらうもらわないは当人の自由でしょう」

 

「うん、あるよ」

 

 吐き捨てるように呟くとんぬらへ、クリスは間髪入れずに軽く反論した。意見を否定しているはずではあるが、その声音は咎めるでもなく、戒めるでもなく、窘めるでもない。はらりと羽根が降り落ちるような儚さで響くその声にそちらへ目を向ければ、彼女は小さく、だけど確かに、首を振った。そして、視線を机に落とし、薄い息を吐く。

 

「こんなのちょっと考えればすぐにわかる簡単な事だよ」

 

 ほんのわずかな間を取ってから、クリスは柔らかな微笑をとんぬらへ向けた。

 

「君はこの世界は素晴らしいものだって思えたから戦えたんでしょ。本当にボロボロになるくらい我が身を惜しまず。でもさ、君はどれだけ頑張ってもそれが報われないなんて変じゃない? そんなのが素晴らしい世界と言えるものなの? この世界に与えるのは遠慮なく、けど何ももらいたくないなんて、それこそ筋が通らない話さ。タダ働きだなんて女神も気を遣っちゃうよ」

 

 そんな畏れ多いセリフに、でもとんぬらは自分がしたのは勝手な、それこそ余計なお世話とでもいうようなものだという意見を頑として譲らない。

 

「俺じゃなくても、他にもっと相応しい奴がいたかもしれないのにか」

 

 ああ、そうだ。この“自分のいない世界”に来て、苦戦の末に撃破してきた魔王軍幹部が、自分という存在が居なくても倒されていたことを知って、きっとこの世界に自分が喚ばれなければ、運命の因果はまた別の要因でその苦難を乗り越えられるよう働きかけるはずだ、と。

 

「そんなの関係ないよ」

 

 と、鈴が転がるような調子で先輩は呟いた。これにとんぬらは即座に反応を返せず、

 

「たとえ誰でもできる簡単な事だったとしたって。居合わせたのはたまたまの偶然で、そこにただいれば他の誰だって全く同じ選択を選べたとしたって。他の誰かが彼らを救っていれば、君の代わりに別の誰かが輪の中に入っていたかもしれないからって」

 

 ほんの些細な、でも、小さな事実を。

 

「実際に、あの時、あの場面で、我武者羅に駆け付けて助けたのは君なんだ。たとえ他の誰にだってできたことであったとしても、仮定の話じゃなくて本当に助けた君は、皆ちゃんと感謝してるんだよ。余計なお世話とかお節介だなんて言わせない、言っちゃダメだ。そんなの彼らをバカにするのと変わらない」

 

「ああ……」

 

 ただの吐息と変わらない返事をしてしまう。

 元よりこの相手はどうにも逆らい難い存在であったが、こうも諭し落とされてはとんぬらの口からこれ以上の反論は出やしない。

 クリスはゆっくりとした声で続ける。

 

「君はきっと見上げた人格者であることも、信念を容易く曲げない頑固者だってことはわかったよ。それで考えるのは良いことだけど、考え過ぎて後ろ向きになっちゃうのは良くないんじゃないかな?

 それにさ、君は自分で言ったよね?

 “自分が一生懸命に進んできた道は誇るべきものなんだ”って。だったら、きっと切り捨てていいもんじゃないはずだよ」

 

 一体それをどこで聞いたのだとか、どうして知っているのかとかそんな疑問は今の酔っていたとんぬらには思い浮かばなかった。思考抵抗力が落ちた分だけ素直に受け入れた。

 そして、彼女は言う。

 

「……とまあね、とんぬら君が色々と複雑な事情があるのはわかったけどさ。それらはいったん置いておいて、もっと簡単に考えてみなよ」

 

 ずいっと机に身を乗り出すようとんぬらの方へと身を寄せ、真っ向から、

 

 

「君は、この世界で出会った彼女のことが好きなのか嫌いなのか、どっちなの?」

 

 

 二択の質問だった。

 零か百かの二択の質問だった。

 それだけに言葉は駆け引きの余地などなく、誤魔化せない直球勝負でとんぬらの胸へと届けられた。

 とんぬらは、しばらく黙っていた。

 盃を満たす酒の表面から漣がなくなり、歪みなく静かなその顔を映す水鏡となっていた。

 時間の流れが早くなったのではない。

 それほどに、とんぬらは固まっていた。

 やがて――――――とんぬらは、ゆっくりとした動きで、震える唇を動かした。

 すとん、と。内面を押し隠してきた仮面が張り付いていた顔から剥がれるように。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 とんぬらは、『“パルプンテ”』、を唱えた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 ………………………………先祖代々の“呪い”が発動した。ついでに、酔った勢いで魔力(ちから)も込めて詠唱したために魔法も発動させてしまっていた。

 この会心の一撃(すべり)に、クリスからの視線から逃れるよう、とんぬらはふいっと顔を逸らす。謝罪するよう若干俯き加減に。

 

「え、なに? 今のってどういう意味……? しかもなんか凄まじい魔力が……っ!!?」

 

 そして、奇跡魔法はあらゆる過程は無視して斜め上を行く、予言の悪魔でさえ予測不能回避不可能な事象を呼び込むことがある。

 

 

「――ヒヒーン!」

 

 

 爆砕、とでも表現すべきか。

 温泉街を一望できる、絶景を縁取っていた窓が、文字通り、粉微塵になって吹き飛んだ。

 

「な、な、なッ?」

 

 『盗賊』の『敵探知』にも引っかからなかった突然の襲撃(じたい)に、クリスは何が何だかわからず、その場に立ち尽くす。

 やがて、窓の残骸と、埃をかき分けて姿を現したのは……嘶きをあげる翼の生えた馬。

 

「え、『ペガサス』!?」

 

 現れたのは、白毛も美しい翼を有する伝説の天馬――『ペガサス』だった。

 “天を翔ける神様や英雄の乗り物”と称される稀少な馬。

 一目でその正体はわかったけれども、何故、こんな所に天馬が現れたのか。何故酒場の最上階に突撃をかましたのか。状況がさっぱり理解できない。

 目を丸くするクリス。そして、白銀の天馬は、彼――同じく呆然と、しかしどこか既視感を覚えるよう目を細めていたとんぬらの元へ駆け寄って、

 

「ああ、お前はもしかして、パトリシア、なのか?」

 

「ヒヒン」

 

 正解だと意思表示するよう一鳴きすると、すりすりと滑らかな毛並み整う首筋を擦りつけてとんぬらに挨拶をする元白馬の天馬。

 魔王城前で別れた、自由に野放しにした白馬が天馬にクラスチェンジしていたことにとんぬらも驚きを隠せない。一体何があった、いや起こしてしまったのか? すぐ傍に女神に愛されているような幸運の持ち主がいるのか、奇跡魔法に確変が起こっている。

 

 ……でも今は天馬よりも現実の方を直視した方が良いだろう。

 無残に破壊された壁面……街のど真ん中にあることからも察せられるだろうが、ここは高級酒場の、それも最上階の一室。

 控えめに言って、ここで一時間有料飲み放題をすれば高難度クエストの報酬がパァになり、馬小屋生活を強いられるのは間違いないくらいに。

 つまりは、所持金皆無の野郎が立ち入るべきではないところなのだ。そんな調度を含めて、全てが“それなり”の物品で占められている場所で起こった天馬の破壊活動が、何をもたらしたのか。想像するまでもないくらい明白だった。

 それを踏まえて、とんぬらはそぉっとクリスの方へ目配せして、

 

「クリスせん――さん、俺、実は一文無しなんです」

 

「え゛っ」

 

 これに天馬突入のリアクションよりも大袈裟に、パクパクと鯉のように口を開閉させるクリス。とんぬらはまた非常に申し訳なさげに、

 

「この酒場に入ったのも、クリスさんが奢ってくれるというからで」

 

「いや、こっちが誘ったんだし飲んだ酒の代金くらいは出すよ。でも、ちょっと、今のあたしの持ち合わせでもこれを弁償するのは無理っぽいかなー……ねぇ、本当に一エリスも小遣い持ってないの?」

 

 恐る恐る窺うクリスに、とんぬらは申し訳なさそうにしながらも懐事情を打ち明(ぶっちゃ)けた。

 

「入用なものがあったら、そのお金はゆんゆんが払ってくれてて……はい」

 

「なにそれヒモじゃん。訳ありな事情に悩む前に、もっとちゃんと自分で稼いで自立しなよ! 女の子にお金を出させるなんて男として格好悪いよ」

 

「違います! 発掘品の鑑定や書物の翻訳で族長からその分の報酬をゆんゆんに預けていてですね! ヒモではなく、財布のひもを握られているという方が正しいんです!」

 

 クリスの説教に、とんぬらは訂正を求めるも、結局そんなことしても状況は改善したりしない。

 

「ああもう、とにかく、どうすんのさこれ!?」

 

 算盤を弾くまでもなく、この部屋の修繕代と飾られていた調度品の弁償金は酒を飲んだ金が、はした金に思えるくらい額になるだろう。

 周囲を見渡せば、調度のいくつかが破片の直撃をうけたか、壊れている。いかにも高級そうな壺やら像やらもあり、桁外れの請求額も仕方ないといえば仕方ないのかもしれない。

 ……『パルプンテ』が喚び寄せてしまったかもしれない天馬は今もとんぬらに物凄く懐いているので説得力はないかもしれないのだが、厳密にいえばこのパトリシアは一旦は野生に離してそれも元々はアクシズ教団預かりの馬である。なので、それがどう店に被害を被ろうとも関係はないと言い張れるかもしれない。けれど、だからといって、そこで知らぬ存ぜぬを通せるほど二人は厚顔ではなく、それにそんなことをすれば、『ペガサス』が街に被害を及ぼしたことで討伐対象にされかねず、責任は取る方向で頭を働かしている。

 

 でも、現実逃避したくなる。それで、視界に高飛びするのにおあつらえ向きな“乗り物(てんま)”がいる。

 とんぬらはハッとそこに何か天啓を得たように目を見開いた。

 この時のとんぬらはまだ酒で頭が回っていたのだと思われるが、それでも素面のように厳かに語り始める。

 

「……きっとこの天馬はエリス様が遣わせたものです」

 

「え?」

 

「この馬パトリシアは元々アクシズ教団で飼われていたんですが、そこにエリス様が翼を授けてくれたんじゃないんでしょうか」

 

 とんぬらの推論は、突拍子がない物であったがそれでも黒でも白と思い込ませるくらいに力のある言霊だった。それこそ道端でこれを説けば信仰深いエリス教徒は信じて、天馬をエリス教の聖獣指定にしようと騒ぎ立てたかもしれない。が、信心深いエリス教徒のはずの『盗賊』には効かなかった。

 

「待って待って! おかしいよ! もしそうだとしてもそれなら先ぱ――アクア様が翼を授けると思うのが普通なんじゃない? アクシズ教で飼育されてた馬なんだし」

 

「でも、エリス教のモチーフと言えば、肩の羽飾りで、奇跡魔法でこんな確変が起こるなんて、幸運の祝福(ばふ)がかかっているようにしか思えない。ほら、クリス先輩が“一エリスも貰わないのはエリス様も気を遣ってしまう”なんてことを言ってたじゃないですか」

 

「そうなんだけどそうなんだけど! これは冤罪だよ!」

 

 とんぬらの発言に、クリスはとても強く訂正を求める。ぷんすか! とオトマノペが視えそうなくらいにお冠で――しかし、それも塗り替える静謐な圧が場を呑んだ。

 

「……お客様? 少しよろしいでしょうか?」

 

「「あ」」

 

 で、言い争っている内に、騒音に駆け付けた店主。義賊と怪盗としては面目が立たないが逃げる行動を起こす前に、見つかってしまった。ピクピクと青筋を浮かべる店長を前にとんぬらとクリスは分度器で測ったように適切な角度で頭を下げた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 その後、どうにか店主と話をつけることに成功した。

 弁償はする。ただ今の所持金では払えないので、知人にお金(エリス)を借りに行かせてほしい。

 しかし、二人で店を出るのを向こうが許すわけがない。それでトンズラされたらどうしようもないのだから。

 なので、ひとりがこの酒場で待機することになった……

 

「クリスさん、頼みます」

 

「うん、待っててね。すぐに戻ってくるから」

 

 クリスが頼もうとする相手は、親友であるダクネス。

 ダクネスは今、“ゴタゴタ”で『アクセル』にはおらず、王都にいる。この『ドリス』からは結構な距離がある。

 でも、ここには千里の道のりもあっという間に飛び越えていける伝説の天馬がいる――

 

「じゃあ、よろしく、パトリシア」

「ヒン!」

 

 跨ろうと近寄ったが、そのクリスを嫌がるように離れ、鼻を鳴らすように鳴く。心なしかその目も冷たい。

 

「え、えーっと、お願いだから君に乗せてくれないかな?」

 

「ブルル」

 

 拝むよう両手を合わせ低姿勢に頼み込むのだが、天馬は素っ気ない。

 

「……クリスさん、やっぱり『ペガサス』を乗るのは難しいんじゃ」

 

「あたし、乗れるよ! 天……――う、馬には乗ったことがあるし、無茶な幉の取り方だってしないから! ね?」

 

「ブヒン」

 

 しかし、現実として天馬には騎乗拒否されている。

 

「あ、あれ? おかしいなぁ……こんなに嫌がられるなんて……ひょっとして、今の私は……だから……」

 

 “走れクリス”が始まるかと思いきや、出だしから躓いた。

 結構自信ありげだっただけに、空気が気まずい。

 そんな中でとんぬらはふと思い出す。

 

『アクシズ教団が洗脳、こほん、調教した大変気高い馬ですから、エリス教徒を乗せたがらないと思いますよ。馬車に乗せず、背教者を縄で縛って引き回すのなら我慢してくれるでしょうけど』

 

 そうだった。パトリシアがアクシズ教で調教されたののだから、エリス教徒のクリスと馬が合わないのは仕方がないのだろうか。

 生憎と今は動物会話の出来る猫耳バンドは持っていないのだが、その様子を見て、とんぬらは試しに自分から手を伸ばし、その身体に触れようとする。クリスには近寄るだけで警戒されるくらいに毛嫌いしていたが……あっさりと触れられた。軽く撫でると、嬉しそうに鳴く。

 

「えー……なんで、あたしはダメなのに、君が乗れちゃうのさ」

 

 これに、がっくりとするクリスだったが、とんぬらはそのまま翼に気をつけながら跨ろうと身を乗り出せば……これまであっさりと乗れた。何の抵抗もない。むしろ軽く蹄を鳴らして闊歩する様子は上機嫌そう。

 これを見て、クリスは落胆の溜息を吐いたが、しばらくして顔を上げるとスッキリとした表情で、とんぬらにも聴こえないほどの小声でぽつりと、

 

「……まあ、正直、まだダクネスとは顔を合わせづらかったし……ちょうどいいのかもね」

 

「クリスさん?」

 

 魔王城でご降臨しちゃった際に素の姿を見られて、それ以来、あの親友に怪しまれている。

 まだ正体を打ち明ける心の準備は整ってないし、それに……

 

 

 とんぬらという青年の仮面の下の素顔を垣間見せて吐かれた言葉。

 それはきっと我執に塗れるもので、決して正しいのだとは言えないだろう。だけど、正直言って安心した。

 “人ならぬ彼女”はほんの僅かに目を細めた。それから少し息を吐く。

 今のこの子を導くのは“みんなの幸せを願う私の”よりも、“思うがままに生きられる先輩の”教えの方がいい。彼は今、誰を優先するのではなく、自分自身を一番に優先させてやるべきなのだ。そうでもしないと、この子はずっとこの世界では聖人君子の仮面をかぶったままだろうから。

 ……うん、決めた。

 

 

「君の方が天馬に気に入られちゃってるみたいだし、君が王都へ行きなよ。あたしがお留守番してるからさ」

 

「それは流石に」

 

「いいからさ。あたしは別に構わないから。まあ、その先で君が大変なことになると予想できるんだけど――機を逃しては幸運の女神に嫌われちゃうよ?」

 

 最後、冗談めかしてウインクを送ると、クリスは空の彼方を指差し、背中を後押しするよう弾んだ声で、

 

 

「いってみよう!」

 

 

 参考ネタ解説。

 

 

 マサール:ドラクエⅥに登場する大賢者。生まれつき二つの地点を繋げる力『旅の扉』を作る力を持っていて、大魔王の作った世界に大穴を開けて魔王の城を地上へ落とすという離れ業をやってのけたりする猛者。これに大魔王も牢獄に幽閉した際には勧誘したが、強い精神力でその誘いを跳ね除けた。

 名前の由来は、『(まさ)る』か、もしくは『サマルトリアの王子』からきていると考察されている。

 『転送装置』は、『戦闘員、派遣します!』に登場する天才科学者が発明した異世界転移装置。

 

 天馬:ドラクエⅥに登場する乗り物。馬車を牽いていた馬が、封印された力を取り戻し天馬になる。異世界へ自由に行き来できる唯一の存在であったために大魔王から力を奪われ、ただの馬にされていた。


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