この素晴らしい願い事に奇跡を!   作:赤福餅

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36話

 ダンジョンから強力なモンスターが生み出され、仕掛けられたトラップも凶悪になっているが、ダンジョン自体の構造は変化してない。

 だから、ボス部屋に辿り着く前に消耗してしまわぬよう慎重に、最小限の戦闘で、最短距離で行くことができた。

 アンデッドに好かれるという体質持ちだったが、そこはウィズ店長の仕入れた中で、値は張る上に使い捨てだが珍しくデメリットのないアンデッド除けの魔道具を活用して切り抜けた。よほど強力なのかオーガゾンビすら近寄れず逃げていく。警戒すべきはトロールだけであったが、それもデカい図体通りに鈍足であるからすぐ逃げられる。

 そして、辿り着く。

 このダンジョンの中で、最も広い天井の高い部屋、ギルド本館ほどの大きさの、暴れても問題ないよう特別頑丈に造られている、ダンジョン主のいるこの場所へ。

 ほぼ体力魔力を消耗してない万全な状態で望める、理想的なスタートを切ることができた。

 

「『マジックキャンセラ』ーッ!」

 

 リッチー・キールの得意とする爆発魔法が、開幕早々ぶっ放されたが、それに先んじてスクロールを突き出した。

 真っ黒になって崩れ去ったが、相手の爆発魔法の発動を阻止。

 即座にとんぬらは鉄扇の照準を、王座より未だ立つことのないノーライフキングへ合わせる。

 

「『花鳥風月・猫の爪五指』ッ!」

 

 解き放たれた矢のような勢い飛ぶ聖水鉄砲五連発。

 アンデッドに効果的なこの攻撃に、リッチーは右手を向け、

 

「『インフェルノ』!」

 

 業火でもって蒸発。

 聖水一滴すらその身に被ることなく、そして、その猛る勢いのままに炎はとんぬらへ逆襲する。

 人間の骨身を灼き尽くす業火が呑み込む、

 

「すぅーーー……っ!」

 

 かと思いきや、逆に業火を吸い込んで見せた。

 この身は炎熱系のダメージを2/3に軽減する『水の和服(はごろも)』で守られ、また形のないエネルギーをその身に取り込んでしまうドラゴン固有スキル『すべてを吸い込む』を持っている。

 大きく胸を膨らませたとんぬらは、リッチーへお返しする。口から宴会芸スキルの『火吹き芸』に繋げて、吸い込んだ業火を吐き出してみせた。

 まさに竜の吐息の如きブレス魔法に匹敵する威力に、今度は左手を突き出すリッチー。

 

「『カースド・クリスタルプリズン』!」

 

 業火魔法と同じく無詠唱の凍結魔法で出現した氷の壁が、灼熱の息を防ぐ。

 そして、マシンガンのように途絶えることなく上級魔法を連発できるリッチーは、右手に貫通力のある『カースド・ライトニング』を放とうと指先を向ける。

 だが、『火吹き芸』は、口だけの技で、手は自由。とんぬらはこれも防がれるのを見越して、すでに大きく鉄扇を振り切っていた。

 

「『風花雪月』!」

 

 対策を積んできた。ウィズ店長に付き合ってもらいながら、シミュレーションを何度もやってきている。

 そして、今や上級凍結魔法にも匹敵するようになった無詠唱の宴会芸スキルでもって、この空間が、雪精揺蕩う極寒の白霧に染め上げられる。

 目標物を完全に見失う銀世界。

 ブラックコーヒーに大量のミルクを投入したかのようなホワイトアウト。

 その中より、とんぬらは己が得意魔法の虹色の波動を解き放った。

 

「『パルプンテ』ッ!!!」

 

 

 パルプンテ……

  パルプンテ……

   パルプンテ……

 

 

 呪文の詠唱が、山彦のように木霊する。

 このボス部屋の壁に何度となく当たって反響……ただし、何も起こらない。折角、造り上げたチャンスがスカ。

 そして、この一ターンのミスも致命的な戦闘において、もぎ取ったチャンスは容易くピンチに転じる。リッチーは濃密な白霧の中に浮かび上がる人影に、改めて指先を向け、

 

「『カースド・ライトニング』!」

 

 雉も鳴かずば撃たれまい。呪文の詠唱をしてしまったばっかりに位置を気取られた哀れな冒険者は白霧を裂く漆黒の雷に貫かれ、

 

 

「『風花雪月・猫又・猫足』」

 

 

 砕かれた像。それは、白一色の中では本物と見間違うほど精巧な氷像。さらに地面を凍らせ、氷上を後押しして滑らせることで、動かぬ像を動くようにみせた。動く物体に反射的に注意が逸れる、その隙に――本人は懐へ潜り込んでいた。

 

「おお!」

 

 転んでもただは起きぬ万事アドリブ対応の姿勢。

 『山彦のように木霊する』……外れでもこの反響する性質を活かし、気配を散らしていたとんぬらは、忍び入ってリッチーへ抜けば玉散る氷の刃で切りつけた。

 

 リッチーに、物理攻撃は通用しない。しかし、この強力な聖水を固めた斬撃は、ローブを裂いて胸元を斬り、ダンジョン主を王座から立たせてみせた。

 

「『トルネード』!」

 

 暴風魔法が、邪魔な白霧を一掃し、一太刀浴びせてくれたこの冒険者を吹き飛ばす。それも織り込み済みであったのか。装備していた『風の肩掛け(マント)』を張って、凧のように烈風を受け、巧い具合に難を逃れて、リッチーから距離を取るとんぬら。

 

「ほう、この私に一太刀入れるとは驚いた。……次の褒美は何が良い?」

 

「……では、問いの、機会を、もらおう、か」

 

 まだ人間であった遠い過去に、自らが宮廷魔導士として仕えた王の言葉を真似ているかのような、師らしからぬ物言い。

 激しい戦闘で息切れしてるからではなく、この胸を締め付ける感情に、過呼吸しているように言葉を途切れさせながらも、この師に問うた。

 とんぬらが、部屋に入って一目でキールが狂っていると悟ったその要因に、踏み込む。

 

 

「お嬢様は、どこに、おられるの、ですか?」

 

 

 このボス部屋は、元は逃走劇に果てに行き着いた男女の居住空間であった。そして、この部屋の隅にはベッドが置かれ、そこに骨だけとなったお嬢様の死体が安置されていた。

 

 それが、ない。

 小さなベッドの上に、白骨化した骨が綺麗に整えられて横たわらせていたお嬢様の死体が、どこにも。

 

 代わりに、リッチーの玉座、その背後に“人一人がすっぽり入りそうな”大鍋があった。

 さっきリッチーへ一太刀浴びせた際、とんぬらは間近でそれを確認した。そして、玄人でなければ使えない“『ネクロマンシー』の秘薬も扱ってる”魔道具屋で培われたこの見識眼で、否が応にも理解してしまう。この大鍋で何が行われているのかを。

 

 やめろ。

 お願いだから、この予想は否定してくれ!

 

 そんな想いむなしく、“悪い魔法使い”はさっと手を、大鍋へと向けて、言った。

 

「お嬢様は、こちらにおられる」

 

 グツグツと煮込む、澱み濁った鍋、焚かれる不浄の香。それは、死体をゾンビに変える禁呪。

 

「……できない。お嬢様は、そんなことをしたって、会えない!!! リッチー(あなた)の魔力を浴びてもゾンビとならなかったんだ!!! それは、彼女の御霊は現世を彷徨わず、何の悔いもなく安らかに成仏したから……だから!!!」

 

「いいや。お嬢様は、私のモノだ。必ず、呼び戻してみせる! この我が秘術をもってすれば可能なはず!」

 

 いいや、すでに成仏した魂を現世に呼び戻すことなど、ノーライフキングであっても、不可能。それでも大鍋の火を絶やすことなく無理矢理儀式を続けた結果、副産物でオーガゾンビなどというモンスターが大量に生み出されているのだ。

 それが災厄しか呼ばない愚行などと、弟子に言われずともとうの昔にわかり切っていた。いや、そうでなくても、こんなことはありえないのだ。

 

「ウソだ……そんなの信じない!!! 俺はあなたの彼女へ捧げた献身をこの目で見ている!!! ウソをつくのはやめてくれ!!!」

 

『どうだ、鎖骨のラインが美しいだろう? でも、みだりに触っちゃいけないよ。お嬢様が起きてしまうかもしれないからね』

 

 お師匠様は、お嬢様の骸を大事にしていた。その眠りを妨げず、ずっとずっと見守ってきたのだ。

 

「籠の鳥から解放された彼女の死を、貶めるような真似……あなたが、一番許しちゃいけないものだったじゃないか……」

 

「さあ、来い。久方ぶりの余興だ。もうしばらく術比べを楽しませてくれ」

 

「もう少し聞かせてください!! 本当のことを!! 何でこんなことをするようになったのかを!!!」

 

「問いかけにひとつ答えた。次なる褒美を求めるならば、この体を更に斬り祓ってみせよ」

 

「お師匠様っ!!!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

「リッチーに単身で挑みに行くとか! ここまで想定外なことを仕出かすとは思ってみませんでしたよ! あの人間パルプンテ!」

 

 『アクセル』から『キールのダンジョン』まで、徒歩で半日。

 大枚を叩いて、馬車を一台雇い駆け付けようにも、途中から馬の脚ではとても通れない険しい山の獣道だ。深く積もった雪にも足を取られ、どうしても移動に時間がかかってしまう。

 

「まったくこれもゆんゆんがきっちり男の幉を握ってないからですよ! 寝込みをハメようとしたら、逆にハメられるだなんて」

 

「その言い方はなんかやめろめぐみん!」

 

 四人の中で体力が低いめぐみんとカズマが息を切らせながらも、後ろに続く。

 早朝屋敷に駆け込んで頼み込んだが、文句を言いながらもこうして付き合ってくれている。

 

「すみません、めぐみん、カズマさん、アクアさん、とんぬらのために……」

 

「ふん。別に頭を下げなくても良いです。私はゆんゆんとは違って、とんぬらのことなんてまあどうでもいいのですが。昨日は先に『アダマンタイトブレイカー』の称号を奪われましたからね。今日は私が『リッチースレイヤー』の称号を奪ってやるためにダンジョンへ行くんです!」

 

「とまあ、このツンデレの言う通り、気にしなくていいぞゆんゆん」

 

「誰がツンデレですか! 私はただ昨日の仕返しをしてやるために……! ですから、そんなニヤニヤしないでくださいカズマ!」

 

「ダンジョンじゃまったくの足手纏いなくせについてきておいて何言ってんだこのツンデレ。ま、とんぬらのことがなくたって、ダンジョン主のリッチーが暴れてるとなっちゃ、こっちもあの検察官に余計な言いがかりをつけられかねないからな」

 

「プークスクス! なに格好つけてるの。リッチー相手にカズマじゃ何もできないんだから。感謝を捧げるのは私だけで十分」

 

「あ?」

 

「ほら言ってカズマ。この私が誰なのか。『アークプリースト』とは仮の姿。めぐみんとダクネスは頑なに信じようとしないけど、ほら、私の職業を言ってやって」

 

「借金の神様だろ?」

 

「違うわよ、水の神様でしょ! せめて宴会の神様で止めておいてよ!」

 

 何とも騒がしいメンツであるが、その冗談のおかげでどこか焦燥もなくなりはしないが和らいでくれた。

 

(でも、急がないと……もう、とんぬらは行き着いてるはずだから……)

 

 この強行軍に最後までついて行けそうなのは、魔力だけでなく体力も有り余っていて、聖職者ながら健脚を見せるアクアくらい。

 ダンジョンに行くまでに体力を消耗してしまってるし、入る前に休憩を挟まなくてはならないだろう。

 そうなると、もうとても間に合わない――

 

(だめっ! そんなこと考えたらだめっ!)

 

 どうしても先のことを考えてしまって、マイナス思考に挫けそうになるが、頬を叩いて気を入れ直す。

 

(紅魔の里に封印された、名もなき邪神に破壊神、そして女神エリス様! ……あとついでに、水の女神アクア様……! お願いです、どうかとんぬらを守ってくださいっ!!)

 

 ――そのとき、一陣の神風が舞い込んだ。

 

 その山を駆け下りてきたのは、大きな魔獣。初心者殺しの変異種。でも、それはゆんゆんの知る……!

 

「ゲレゲレっ!」

 

「がうっ!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

 ダンジョン最奥にある広大な広間。

 オーガゾンビもトロールも立ち入ることの出来ぬこの領域。その整えられたダンジョンの壁が、自然の洞窟のように土を剥き出しにするほど荒れ果てていた。

 

「『カースド・ライトニング』ッ!」

「『アクロバットスター』ッ!」

 

 業火と暴風、それに凍結魔法とは相性が悪いと判断したリッチーは、闇色の雷撃を右手から連発。白霧を纏い、素早く動いて攪乱しようとする冒険者であるが、乱射を全て逃れるのは不可能であった。

 

 また容赦なく、同時並行で左手に掌握された、膨大な熱量を固めた光の塊が解き放たれた。

 

 爆発魔法。爆裂魔法の下位魔法ではあるが、その威力は十分上級魔法を超えており、『アダマンタイト』でも砕く。そんな並の魔法使いでは、数発撃つのが限度という尋常ではない魔力消費で、制御するも至難な魔法を、元王国一の『アークウィザード』は、上級魔法を片手間でこなしながら放ってくる。

 

「『アストロン』ッ!」

 

 避けるのはできないと判断し、その身を魔法耐性のある鋼塊と化す。

 足を止めて貫通性の高い雷撃とモンスターの群れも一発で殲滅する爆発を一身に受けるが耐え抜き――そして、濛々と舞う土煙を振り払って飛び掛かる。

 

「『ミラクルムーン』ッ!」

 

 限界以上に酷使する肉体に鞭を打ち、回復の波動を放ちながらの前方宙がえりで勢いをつけて、リッチーへと回転斬りを見舞う。

 しかし、その聖水迸る剣の舞を今度は掴まれてしまう。

 

「っ! まずい!?」

 

 斬りつけたのはとんぬらであるのに、膝をつきそうになる。

 直接、または剣などを通して間接的に相手に触れることにより、麻痺や毒などの様々な状態異常をランダムで相手に与えるリッチー固有スキル『不死王の手』。

 その手より伝播される呪毒に侵して動きを止めると、続けてもうひとつの手がとんぬらの身体に伸びる。

 

 あれもまたリッチー固有スキル『ドレインタッチ』。

 『冒険者』のカズマ兄ちゃんのであれば大したことがないにしても、本物のリッチーにやられては堪ったものでない。これまで消耗させた魔力を回復させてしまうだけでなく、このドラゴンの特質を獲得し人以上にタフな身でも体力を根こそぎ吸い尽されかねない。

 

「『花鳥風月・海猫』!」

 

 デッドリーポイズンスライムの変異種の毒を取り込んだことがある。それで免疫ができているため大概の毒は通用せず、『不死王の手』からの立ち直りがリッチーの予想を上回るほど早かった。

 太刀を成形する氷を溶かして放つ強力な聖水鉄砲を至近で食らわせ、リッチーの魔の手から危機一髪で逃れるとんぬら。

 何発も強力な魔法をもらい、呪毒をやられて、やっとまた一撃。なんて割に合わない痛み分けだ。

 懐から数個鷲掴みした『吸魔石』で消耗分を補っていながら気息を整えていると、聖水でびしょ濡れにされてもそれを拭おうとする素振りもなく、淡々と問いを投げる。

 

「次の褒美は、何だ?」

 

「真実を……お嬢様をアンデッドにしようとする真実をお教えください」

 

「ならば、真実を知ってゆけ。彼女を渡さぬためだ、誰の手にも」

 

「渡さぬ――つまり、お嬢様を奪おうとする輩がいるのですか? それは一体……!」

 

「さあ、な。……だが、私は“人でなしのリッチー”であるからに、こうする他ない……では、術比べを続けるぞ、勇者よ……――ぐふっ」

 

「お師匠様!!?」

 

 ぐらり、とリッチーの身体が、頽れかける。

 見ると、リッチーの足元は半透明になっていて、軽く消えかかっている。

 やがて徐々に、半透明になっていた足がくっきり見えるまで戻り、枯れ木のように頼りなさげにも立ち上がった。

 

 師の体が弱っていることは、気づいていた。

 元々、朽ち果てるのを待っていて、現世にあり続けるための活力を得ることの一切を拒み続けたリッチーだ。だから、人間と見た目何ら変わらないように見える店長とは違い、骸骨も同然の姿をしていた。

 そう、本来の、全盛期の力ならば、自分が一太刀でも入れられる相手ではない。

 

(……だがもう、止めることはできない!! たとえここで身を引いたとてお師匠様は、無茶な『ネクロマンシー』を滅びるまでやるだろう。そういう方だ。お嬢様を守る必要があるのなら何だってするような人なんだ! だから、そんな凶行をせざるを得ない“敵”がいる!!!)

 

「考え事とは……驕ったな」

 

「っ! それは――!?」

 

 右手に上級業火魔法、左手に上級凍結魔法を同時行使するその姿を見て、瞠目するとんぬら。

 相反する二つの属性を重ね合わせ、弓矢を引き絞るように錬成する。『カースド・クリスタルプリズン』と『インフェルノ』の合体魔法。

 それは、数えるほどしか撃ったことがなく、またあまりにおっかないため追跡してくる王国軍が相手であろうと使ったことがないため歴史に載ることがなかった元国随一の宮廷魔導士キールのオリジナル魔法――!

 

 

「『メドローア』――ッッッ!!!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

 命中した標的を問答無用で消滅させる、爆裂魔法に並びうるかもしれぬ大魔導士の最強の攻撃手段。直撃すれば一撃必殺、それが極大消滅魔法。

 こればかりは、対策など用意してない。鉄塊となろうが喰らえば消し飛ぶ。避けるしかない。

 

(足がもつれっ!?)

 

 全力疾走での戦闘、それに『不死王の手』の毒素からまだ完全に回復し切ってないのか、転んでしまう。すぐ立ち上がろうにも脚が麻痺していて、思うように力が入らない。

 これでは自力で逃げられない。ならば、残るは一か八かの奇跡魔法か――

 

「いや、まだ奇跡に頼るのは早い!」

 

 とんぬらは、腰のポーチからありったけの起爆札を投げ捨て、鉄扇を構える。

 

「『花鳥風月・猫火鉢』!」

 

 

 ♢♢♢

 

 

 直後、閃光が目を焼き、爆音が脳に突き刺さった。

 

 まるで横殴りで叩きつけられたように、とんぬらの身体がダンジョンの壁へと埋まった。耐熱仕様の水の羽衣を着ていたが、流石にこの自爆行為に、地肌にビリビリとした痛みを感じる。軽度の火傷を負っているのだと、その痛みで理解した。

 それでも、風のマントで爆風に乗って大きく吹っ飛ばされたこの緊急回避のおかげで、九死に一生を得た。

 あとわずかに判断が遅れていれば、すぐ隣のダンジョンの壁のように跡形もなく消し飛ばされていただろうから。大きな風穴を開けられ、随分と風通しの良くなったボス部屋。だが、こちらを押し潰すような重圧まで拡散されたりなどしない。

 依然、ダンジョン主は健在だ。

 

「相変わらず、不幸であったな、勇者よ」

 

 リッチーの枯れ枝のような指先に漆黒の稲妻が弾ける。

 その狙いはピタリとこちらの心臓を指しており、放てば雷撃は貫くだろう。

 

『何か強力な結界の波動を感じるかと思えば、こんなところに子供が……』

 

 ……ああ、まったくついてない。

 こうやって万事尽したところを見下ろされるなんて……初めて出会った時の場面と重なるではないか。

 あの時とは違って、闇から心を救ってくれたはずの師は、己の命を奪いにきている。

 

「あ……」

 

 視界が歪み、気づく。頬を伝う滴の感覚に。

 思えば、ここで闇が怖くて泣きじゃくった時から、流したことがなかった涙が、今、流れている。

 でも、ずっと堪えてきたものを拭ってくれるものは、いない、のだ……

 

 

「『カースド・ライトニング』!」

 

 

 リッチーが撃ち放った暗黒の雷撃は、少年の命を絶つ――と思いきや、軌道が逸れた。

 すぐ隣の極大消滅魔法で開けられた大穴へと勝手に曲がって、その奥の闇へ呑まれるように消える。

 

「早く立ち上がって!」

 

 『雷の指輪』が避雷針となるかのように、パートナーの命を奪うはずだった雷撃を引き付けてみせた。

 

「戦って、とんぬら!! あなたが、決着をつけるの」

 

 尻餅をつくとんぬらに肩を貸して立たせる、その少女は、

 

「ゆんゆん……!!」

 

 ここに来るまで強行軍で、髪も乱れ、服も汚れてる彼女は、それでも強い眼差しをこちらに送っている

 

「なんだ……ここに、いるんだ? 追いつけるはずが、なかったのに……ったく、また随分とボロボロで、どれだけ無茶を……」

 

「あの人が、師匠――」

 

 ゆんゆんは自分の形振りなど無視して、それよりも彼の相手を見据えて、

 

「リッチーについた傷を見れば、とんぬらがどれだけがんばっていたかわかるわよ。……きっと、戦いたくない相手だったはず――でも、逃げなかったんだね」

 

 懐かしむように語る。

 

「紅魔の里で上位悪魔と、『アルカンレティア』と『アクセル』で魔王幹部と、それから機動要塞にだって、とんぬらはいつも一番前で戦ってた。

 そう、一度だって逃げたことがない!

 止めたってきかない!

 呆れたパートナーよ!

 だから――私が支えるしかないじゃない!!」

 

 身も、そして心も弱っている彼を強く抱きしめ、

 

「もうしょうがないから、ずっと尽くしてあげるわよ。そんなとんぬらがどうしようもなく好きになっちゃったんだから!」

 

 リッチーの右手に業火、左手に氷柱。

 それを重ねて合わせる……二発目の極大消滅魔法の準備を始める。次こそは、葬り去られるだろう。

 

「しっかり尽してくれよ、ゆんゆん! 逃げる気はないからな! 師匠越えするぞ!!」

 

 

 極大消滅魔法『メドローア』。

 火属性と氷属性を究めた先に至る究極の破壊魔法。+と-のエネルギーを対消滅させ純粋な対消滅エネルギーの塊を生み、それを弓矢のように飛ばす。

 最難度の技術力が求められるが、その分に見合うだけの威力、『アダマンタイト』すら微塵の欠片も残さずに消滅させてしまい、物理的な防御手段は事実上存在しないと言えるものだ。

 

「だから、防ぐには、回避するか、その魔法そのものを無効化する――そして、相殺するかだ」

 

「とんぬらも、『メドローア』を?」

 

「初級魔法での消滅魔法は、俺にもできる。でも、それで極大消滅魔法には力負けする。かといって、俺は上級魔法スキルを取得していないし、同じようにふたつの上級魔法を操るのは無理だ。

 ……でも、厳密に消滅魔法は魔法スキルじゃなくて、一種の技だ。ひとりで全作業をこなさなくてはならないなんて制約はない」

 

 威力、タイミング、呼吸などを完璧に合わせることができれば、理論上、二人で役割分担することで、同じ現象を起こすのは不可能ではない、

 

「だから、ゆんゆん」

「わかったわ、とんぬら」

 

 まだひとりでは、師を超えられない――だけど、二人なら!

 

 火と氷がまったく同一でなければ成功しない。加減を誤れば、相手の身を滅ぼしてしまう。

 それを承知して、二人の目の光は強く強く強く輝きを放つ!

 

「リードする! ゆんゆんは、俺に尽くしてくれ!」

「うん! 全力でついて行くわ!」

 

 少年と少女は、己らの感覚が赴くままに、最適と思える構えを取る。

 これからダンスをするように見合って左手を組んで、右手に持ったそれぞれの杖、鉄扇と銀ワンドを交差させる。

 青い目の光と赤い目の光を融け合わせるように至近で見つめ合ってから、

 くるりとゆんゆんが回って、とんぬらの胸に背中を預け、腕に抱かれ、手は重ねられる。

 そして、呼吸を合わせ、魔力を解き放つ。

 

「『インフェルノ』!」 「『風花雪月』!」

 

 互いの魔力を同調させ、『錬金術』スキルで少女の焔と少年の氷が混ざり合い、光の矢が出来上がった。

 

 馬鹿なっ!? 本当に二人で極大消滅魔法を……!? それも私よりも早く完成させて……!!?

 

 動揺にリッチーの光の矢の完成がわずかに遅れてしまい、先んじてとんぬらとゆんゆんは放つ。

 

 

「「『メドローア』!!!」」

 

 

 ……後に、『世界一恥ずかしい必殺(ネタ)魔法』として歴史に載る『ラブラブ・メドローア』の誕生の瞬間であった。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 相殺し切れなかった威力に、受け身に回ったリッチーの両腕が、消し飛んだ。

 

「私の、腕を……!」

 

 これで、“悪い魔法使い”の攻撃手段は、封じられた。

 そして、とんぬらはすべてを出し切って尽くしてくれたゆんゆんを壁に寄り掛からせると、ふたつの物を取り出す。

 

「……約束を果たします、お師匠様」

 

 ひとつは、光る石。一昨日、“水の女神の魔力が限界一杯に篭められた”『吸魔石』。

 瞬間、ノーライフキングの全身が硬直するほどの畏怖、とてつもない神聖な波動が少年の身より放たれる。

 

「『パルプンテ』――ッッッ!!」

 

 女神の魔力を借り受け、女神級の御業すら可能とする奇跡魔法の行使。『凍てつく波動』と『ハヤブサのように身軽に』を同時に発動させる。

 

「ノーライフキング・リッチー! この紅魔族随一の勇者にして、奇跡魔法の使い手が、禁呪により停止した時を、今こそ解凍する!」

 

 とんぬらは己が潜在能力を爆発させて、鉄扇を振るう――

 

 

「『グランドクロス』――ッ!!!」

 

 

 静から、動へ。

 祈りを篭めて振り抜かれた十字斬りの軌跡にして奇蹟より、虚空に刻まれる十字架。

 

 本来ならば、神聖なる力はプリーストにしかできない。けれども、『氷の魔女』と恐れられた元凄腕冒険者の『アークウィザード』は、魔法陣を介することで彷徨える魂を天に帰すことができた。

 またとんぬらは、魔法使いでありながら神職の適性を持った賢者タイプの『アークウィザード』だ。

 

「これが俺の積み重ねてきた全てだああああっ!!!」

 

 そして、最後に、女神の力を吸い込んで光り輝く『吸魔石』と一緒に取り出した、懐中時計『時の砂』。

 それを握った右手を、十字架の前に突き出す。

 

「おおおおおおー!!」

 

 十字架より迸る光の衝撃波がキールを呑み込み、手のひらの懐中時計が壊れるほどに激しく火花を散らして回り……

 

「―――」

 

 結果を見届けることなく、とんぬらはゆっくりと後ろへ仰向きに、倒れた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

「…………とんぬらは、生きておるか?」

 

 倒れ込んだとんぬらの身体を咄嗟に掴まえ、胸に抱きとめたゆんゆんへ、くぐもった低い声が訊ねる。

 

「当然でしょ! 力使い切っちゃって気絶しただけよ」

 

「そうか。……よかった」

 

 安堵するダンジョン主リッチー。

 警戒し、杖を構えていたが、彼を本気で心配する態度に、ゆんゆんは調子を狂わされる。

 

「あなた、とんぬらを殺すつもりじゃなかったの?」

 

「そうだよ。どれだけ真実が捻じ曲がっていても、許可なくお嬢様の眠るこの場に踏み入るのならば敵さ。“悪い魔法使い”だからね。とんぬらだけ例外にはできない。

 でも君たちは私の最強魔法を破り、彼は“リッチーを斬り祓った”。負けを認めるしかないよ」

 

 リッチーを斬り祓った……それは、言葉の通り。

 もうここに、リッチーは、いない。

 

「ええ、その通り。私の信者()が、あなたの罪を禊いだわ」

 

 ………

 ………

 ………

 

 ゆんゆんに遅れて、カズマと共にこのダンジョン最奥へと救援に駆け付けたアクアは、その眼で見抜いていた。

 時間が遡ったかのように、禁呪の効果が打ち消せられて、リッチーから人間に戻っていることを。

 そして、女神にも与り知れぬことだが、それは『お人好しのリッチーなどいない』という悪魔の呪いから外れることでもある。だから、呪いの範疇外に出たキールは正気に戻る。真実を捻じ曲げる悪魔のお株を奪うような、辻褄合わせだ。

 

「ありがとう。あなた方のおかげで、やっと私は逝くことができる」

 

 アクアが、ひとつひとつ、言葉を噛みしめるように魔法の詠唱を行う中。

 元偉大な魔法使いで、元アンデッドの王だった、人間の男は、大釜から回収され、またベッドに丁寧に並べ安置されたお嬢様の骨に、手を欠損した両腕を挟むように置く。

 

「その、とんぬらが起きるまで待ってくれませんか?」

 

「今はアンデッドじゃないけど、湿っぽいのは苦手でね。それにいつ揺り戻しがあって、リッチーとなってしまうかわからない」

 

 リッチー化を解いた代償に、壊れた懐中時計を見つめるキール。これがなければ、奇跡は起こせない。

 

「決して、無駄にはできないよ。見事に師匠超えを果たした健闘を。そして、それがくれた機会を」

 

 リッチーではなく、人間に戻ったキール。禁呪から解放されたが、不死王でなくなった彼に来るのは、当然、寿命だ。すでに肉体は、土塊のようにボロボロと崩れていっている。

 

「それに私はすぐお嬢様に謝りに逝かなければならない。……随分と長い間、待たせてしまってるしね」

 

「でも! ちゃんとお別れしないで行くなんて……! とんぬらはあなたのことをずっと……」

 

「もう十分受け取ったよ。このダンジョンを出てから、何を見てきたのかを、何を知ったのかを、彼が外で得たものすべてを私は受けた。あの時の子供が、どれほど成長したのか見届けた。私の技もしっかりと継いでくれて、師としてこれほど嬉しいことはない。だから、未練はないし、これ以上与えてやれる言葉(ほうび)もないんだよ」

 

 部屋を満たす魔法陣の柔らかな光に包まれて、キールはそう弟子から視線を切ってカタカタ笑った。

 アクアが、唱え続けていた詠唱が、終わりを迎えたのだ。

 

「神の理を捨て、自らリッチーと成った『アークウィザード』、キール。この水の女神アクアの名において、その罪は禊がれたと認めましょう」

 

 ……これは一体誰だろうか?

 最も付き合いの長いカズマでさえ、これまで見たこともない優しげな表情で笑いかけるアクア。

 失礼だがアクシズ教のプリーストという色眼鏡があるせいか、ゆんゆんにも、この女神を自称する『アークプリースト』に目を疑ってしまう。

 

「目が覚めると、目の前にはエリスという不自然に胸の膨らんだ女神がいるでしょう。たとえ年が離れていても、それが男女の仲でなく、どんな形でもいいというのなら……彼女に頼みなさい。再びお嬢様に会いたいと。彼女はきっと、その望みを叶えてくれるわ」

 

 部屋を満たす光の輝きが増していく中で、キールはとんぬらを抱くゆんゆんへ苦笑交じりに、

 

「お嬢さん。我が弟子を、よろしくお願いします」

 

 その答えは口にするまでもなく、頷かれる。

 そして、キールは深くアクアへと頭を下げた。

 

 

「『セイクリッド・ターンアンデッド』!」

 

 

 蝋燭の火を吹き消したかのように光が消え、再び暗闇に閉ざされる。

 そこに、伝説的な大魔導士と、一緒にお嬢様の骨も消えて無くなっていた。

 

 

 ♢♢♢

 

 

 ダンジョン主は綺麗に成仏して、それに伴い、ダンジョンのモンスターも自然消滅した。

 気絶したとんぬらはカズマに背負われながら、地上へ帰って、外で待っていためぐみんと合流する。

 それから、カズマパーティと別れた。ギルド本部へ『キールのダンジョン』の異常が解消されたと報告する役を買って出てくれた。

 

『これくらいやらせてくれ。今回、来た時ほとんど終わってたみたいだし』

『流石、私の子ね。女神として鼻が高いわ!』

『いや、とんぬらは、アクシズ教じゃないからな』

 

 カズマとアクアは最後まで騒がしく、

 

『今度はしっかりと捕まえておいてくださいよ、ゆんゆん』

 

 めぐみんは嘆息交じりにそう告げた。

 今回、付き合ってくれたカズマパーティには、迷惑をかけてしまったそのお礼として、ダンジョン奥にあったキールの財産を渡す。『流石にそれは悪い』と最初は遠慮されたが、きっと彼もそうすると言って、受け取ってもらった。借金返済には足らないだろうけど、大きく前進したはずだ。

 

 そうして、このダンジョン前にある『避難所』のログハウスで一夜を過ごすことになった。二人っきりで。

 

「とんぬら、おつかれさま」

 

 布団を敷いて、その上に彼を寝かす。

 アクアに診てもらったが、身体は問題ない。リッチーから受けた呪毒も浄化してもらったし、後遺症の心配もない。あとは体力が回復すれば目覚めるだろう。だから、今日はここで休む。それにパートナーも付き合う。何ら、おかしなところはない。

 ……添い寝すべきか、脳内で検討したが、軽く汗は拭いたけど、やっぱりにおいが気になるというか……

 

「あ~~~っ! もうっ! これもめぐみんが余計なことを言うから!」

 

『知っていますか、ゆんゆん。オスは死にかけると、生存本能を刺激され、自らの種を残そうとするものです。つまり、ムラムラと性欲が滾る。呆れるほど我慢強いヘタレでも男子ですから、きっと目が覚めたら……と、これ以上は子供のゆんゆんには言えませんが、襲われないよう気を付けてください』

 

 去り際にそんなことを余裕ありげに言ってきた。それを見栄っ張りと失笑するゆんゆんであったが、

 

『子供って……そういえば昔、私と発育勝負をしたことがあったわね。どう、またあの勝負をしてもいいわよ』

 

『いえ、私が言ってるのはあくまで精神面で子供じゃないってことですよ。だって、私はもう、カズマと一緒にお風呂に入るような仲ですから』

 

『!?』

 

『ちょっ! お前、やめろよ、それを人に言うのは!』

 

『!!!???』

 

 爆弾発言に呆然自失してしまうゆんゆんへと向けた、あの勝ち誇ったライバルの笑みが今も目を瞑れば脳裏に浮かんでいる。

 思い出すだけで対抗心がメラメラと来るものがあるが、お疲れの彼に付き合わせてしまうのは申し訳ない。というか、寝込みを襲うなんて一乙女としてしてはならない。

 ……でも、看病のためにも傍にいないとならないし、ぴったりと隣にもう一枚布団を敷くゆんゆん。これは、ギリギリセーフのはず。

 

「お、おやすみ! とんぬら!」

 

 眠ってる彼に、就寝の挨拶をして、早めの消灯。

 そちらの方を見て寝るのは顔が熱くなるので、反対側を向いて。

 

 

(そうよ。私だって、とんぬらと一緒にお風呂入ったわよ……背中を流しただけで卒倒しちゃったけど……)

 

 寝付けない。

 

 

(こんなの家と変わらないわ。だって最近は、一緒の寝室で……目を光らせてるエリーはいないけど……)

 

 なかなか寝付けない。

 

 

(どうしよう、今日のは勝負……じゃないし……最初が肝心なのに、それでがっかりされたら……)

 

 ぜんぜん寝付けない。

 

 

(『あら、とんぬら。ごめんね、起こしちゃった?』

 『ちょっとね。色々、前のことを思い出しちゃって……』

 『ううん、別に嫌だったわけじゃないのよ。昔は昔、今は今だもの』

 『ねぇ、とんぬら……そっちに、いってもいい?』

 『いじわる。でも、いっちゃおうっと』

 『愛してるわ、とんぬら』

 そして……――って、何を考えてるのよ私!?!?)

 

 やっぱり寝付けない。

 

 

 もがけばもがくほど沈んでいく蟻地獄に嵌ったかのように、自らの妄想に没頭するゆんゆん……そのせいで、すぐ隣から寝息が途絶えたことに気付かなかった。

 

 ぎゅっと後ろから腕を回される。

 

「え」

 

 背中より伝わるのは、今日でもう覚えてしまった感触。あの時のように、また彼に身体を強く抱きしめられる。

 

「ゆんゆん」

 

「と、ととととんぬら!? 我慢できなくなるのは理解してるけど、その、まだちょっと心の準備とか、それにやっぱり体をちゃんと洗ってからの方が」

 

「ゆんゆん」

 

「う、うん……私、初めてだから、優しく可愛がってほしい、にゃん」

 

「……しばらく、このままでいさせてもらっていいか」

 

「え」

 

 ゆんゆんの布団へと潜り込んだ彼は、抱きしめる手の力を入れる。

 痛いほど締め付けるわけじゃない。暗闇の中でも覚える体熱に安心したいかのように、キュッと全身で密着してしがみつく。

 この状態のまま、くぐもった声が耳に当たる。

 

「暗いと、色々、思い出してな」

 

 その言葉に、茹っていた頭が、徐々に冷えていく。

 まだ顔は火照って高熱を保っているが、それでも、熱暴走はしない程度に落ち着いた。

 

 とんぬらは、頑張った。本当に本当に頑張った。でも、その頑張りに報いる褒美を、彼の師が与えられないまま逝ってしまったのだから、その健闘を誰よりも見た自分が応えよう。

 

「いいわよ、好きなだけ私を抱き枕にして」

 

「ありが、とう」

 

 人肌が恋しくなってしまうのも、無理はない。

 とんぬらが、初めてキールと出会ったのは、暗闇の中だった。

 そして、命と、心を救ってもらった……そんな恩人にして師を、今日、彼は死闘を演じて、成仏させた。約束通りに。

 すべてを終わらせた彼はやっと、涙を流せる権利を許されたのだ。

 そんな零れ出てしまう結晶は、人に見られては格好がつかないだろうし、ゆんゆんはこのまま振り向かず、抱きしめる彼の手の上に自身の手を重ねて、ひとつお願いする。

 

「ねぇ、とんぬら。お師匠様との思い出、聴かせてくれる」

 

「ああ……長くなるが、聴いて、くれるか」

 

「うん」

 

 それから。

 彼の思い出を共有しながら、抱きしめられる実感に浸り、ひとつを確信する。

 

 やっぱり、お嬢様は幸せだった。

 あのリッチーも、彼もお嬢様を幸せにできたのだろうかと言っていたけれど、逃亡生活の間が人生で一番楽しかったに違いない。

 だって、今、とても幸せに包まれているのだから。


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