薄暗い台所にぽつりと照明が着いていた。ザンザスは陰気な光景に小さな不快感を憶えながら水を飲もうと照明の下に近寄ると小さな照明の下で沢田日和が朝食をとっていた。
陰気な明かりの下でなんか食ってんなとザンザスが冷蔵庫から水を取り出しながら横目で見やると彼女は何も塗られていないトーストを齧っていた。見間違いかともう一度確認してもトーストの表面は味気なくカサついていた。ザンザス人生初の二度見である。
机の上にはマーマレードの瓶が鎮座していた。
「おい、それはなんの為に出してんだ。」
日和はチラリとマーマレードの存在を忘れていたのか興味なさげに見やると「ああ。」と言った後にもう一口トーストを齧った。世界広しと言っても彼への返事を待たせるのも待たせて許されるのも彼女くらいだろう。
彼女は口の中のものを飲み込んでからのんびりと返事をした。
「蓋が固くて開かなかったんだ。」
なら自分を起こせばいいだろうと咄嗟に思うが、そんな理由で起こされれば自分は確実にブチギレるなとザンザスは浮き出た言葉を飲み込んだ。
マグカップの中身を覗いてもみると予想通り水だった。大方昨日ザンザスが蓋を開けた物の残りを注いだのだろう。テーブルの上には未開封のオレンジジュースが汗をかいて鎮座していた。
「おい、これは。」
「蓋が固くて開かなかった。」
また一口トーストを齧る。咀嚼する頬の動きを眺めながらザンザスは段々とイラついてきた。指先一つで裏社会の金を自在に操ってみせる女が薄暗いキッチンで水と素トーストで朝食をとっている光景が何故か猛烈に許せなかった。こいつにはもっと似合いのものがある筈だろうになんでこんなとこでこんなものを食っているんだ。
ザンザス人生初の解釈違いである。
そのイラつきのままに目の前のジャムとジュースの瓶を開けてダンッとテーブルに叩きつけるように置いてやった。衝撃でジュース瓶の汗がつたった。
「お〜、ありがとう。」
日和は呑気にパンにジャムを塗り、マグカップにジュースを注いでちびちびと飲み始めた。その光景にまたザンザスの腹の底にイラつきが溜まる。
オレンジが被ってんだよ!!!!
ザンザスである自分がオレンジ被りというワードにキレているという事実が嫌だった。ザンザスは意外とセルフプロデュースをするタイプなのだ、天下のヴァリアーのボスがキレていいワードではない。イラつくザンザスを特に気にとめることもなく食事を終えると日和は席を立った。就寝した時と同じ格好のザンザスに対して日和はカッチリと仕事着を着ていた。
無防備にザンザスに近寄る。そのまま目の前で止まると背伸びをして軽くキスをした。
「いってくるよ。」
そう言い残しスタスタと本日の仕事をこなすために玄関へ向かっていった。ザンザスはそのままの姿勢で玄関のドアが閉まる音を聞いていた。
口にジワっと滲むオレンジの味、今までしたことが無い筈のいってきますのキス、自分たちの関係……そして閃光。
沢田日和は背後の爆発音を聞きながら部下がにこやかな笑みとともに扉を開けて待つ車に乗り込んだ。
「おはようございます。」
「ああ、おはよう。」
部下は彼女が乗り込むのを見届けてから自分も運転席に乗り込むとバックミラー越しに日和を確認してから、ミラーの位置を整えた。
「今朝は何かお召し上がりになりましたか?」
「トーストと水を。」
「それはいけませんね、後ほど紅茶と何か軽食を用意しましょう。」
「好きにするといい。」
沢田日和の腹心として働くこの男は付き合いが長いうえに何かと日和の身の回りの世話をしたがったし、彼女も腹心に自分の世話をさせてやる程度にこの部下を可愛がっていた。
「君のアドバイスは悪手だったようだぞ。」
「おや、そうでしたか…恋人らしくていいと思ったんですがね、いってきますのキス作戦。」
車が静かに滑り出すように発進した。
「おそらく部屋の一部が吹き飛んだ。」
「は、」
そのまま部下は弾けるように笑い出した。ボンゴレ組織内でも古参に入る男はザンザス相手にも遠慮がなかった。車は笑い声を乗せたそのままに滑らかにカーブを曲がる。
「ああ、可笑しい。やはり大成功ですよ。」
「そうだろうか。」
沢田日和は納得しきれないようだった。邸宅の崩壊が世間でいう恋人対応の成功とはどうにも思えなかった。
長年緊張関係にあった二人が突然親密な関係になったことに戸惑う周囲に対して関係の変化を大いに喜んだのは九代目であった。彼は二人のために一軒に邸宅を贈った。お互い機密を抱える身であるうえ、組織内での緊張関係が未だ抜けない現状なことを省みて二人は邸宅を逢瀬の場として利用することにした。先程崩壊したが…。
「まあ、何でもいい。何でも試してみるだけだ。」
「ええ、ええ。楽しみは多い方が素敵ですからね。」
車は目的地に向け走り続ける。
一台の車が港に滑りこむ。小走りに黒いスーツの男が車に駆け寄ると素早く扉を開いたまま一礼した。
別の男が近寄ると「お待ちしておりました。」とまた頭を下げた。
日和はそれに鷹揚に手を軽くあげることで応えると、部下の一人に案内されるまま奥の廃工場に向かう。
そこには一人の両手足を拘束された男が項垂れていた。男は近付いてくるヒールの高い音に顔を上げた。目の前には品のいいレディーススーツを着こなした小柄な女が立っていた。一見して非力に見える女はそれを打ち消すように目だけが凍えるように燃えている。
「やってくれたな、caro vicino」
「ちが、違うんです。」
「お前の倅がボンゴレのシマでクスリを捌いた。それ以外になんの事実がある。」
「ぁ、あの…。」
日和が煙草を咥えると部下が静かに火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出すと紫煙は怪しげに揺めきながら空気に溶けた。
「なあ、分かるだろう。ここイタリアで生きるマフィアなら知らない筈はないだろう。うちでクスリは御法度だ。そんなのスラムのガキでも知っている。」
「息子には!息子にはケジメをつけさせます!だからどうか!!」
唾を飛ばす勢いで懇願する男を遮るように黒いスーツの足が男の顔面を蹴り抜いた。血が混じる唾液を口の端から垂らしながら呻く男を日和は紫煙を燻らせながら無感動に眺めていた。
「哀れだ、あまりに哀れな男だ。私達はなんだ?マフィアだ。ボンゴレ傘下でいながら掟を破る奴らに首一つで納得すると本気で思っているのか?」
「ぁ、う……。」
「我々にとってチンピラ崩れのガキの首に何の価値がある。言ってみたまえ聞いてやろう。」
「……どうか、どうか妻とファミリーだけは………。」
「我々がここイタリアで名を馳せているのは何故か分かるか?ただ歴史と名前に胡座をかいているわけ
ではない。我々は我々の掟を汚す者を悉く許しはしない。その理屈を通すだけの力が我々にはあるのだよ。」
吸っていた煙草をヒールで踏み消しながら語気を強めて宣言する。彼女は一人の女に押し込めておくにはあまりに苛烈な魂をしていた。男は全てを食い殺さんばかりの瞳を見ながら己の運命を悟り、俯いて涙をこぼしてしまった。それは彼女の前ではあまりに悪手だった。もう男は彼女にとって話をする肉の塊となってしまった。
「泣くか、ここで泣くのか……なんて生産性も度胸もない男なんだ。時間の無駄だ、私は帰るよ。」
「この男は如何致しましょう。」
「馴染みの海に還してやれ、愛する者達と一緒ならば楽しい旅路になるだろう。」
「承知いたしました。」
「ぉ、お願いします!!どうか!どうか!!妻と娘だけはッ!彼女らは何も、本当に何も知らないのです!!どうかッ!どうかッッ!!!」
男の悲痛な叫びが廃工場にこだまする。しかし、もう振り返ることはなく日和は存在すらも忘れてしまったかのようにツカツカとヒールの音を響かせて廃工場を後にする。
颯爽と歩く日和にまた別の部下が近寄ってくる。
「何隻まで入れる?」
目も合わせずに尋ねる日和に部下は素早く応対する。
「大型から小型まで合わせて632隻。改築工事をすれば中型のコンテナ船まで可能です。」
「ではそのように。期日は次の取引の一ヶ月前とする。」
「承知いたしました。」
「丁度、港が欲しかったんだ。今日は運がいい。」
「全ては貴女の采配通りに。」
「大袈裟だよ。」
日和を乗せた車のエンジン音が聞こえなくなるまで頭を下げていた部下たちは「さてと、」と呟きながら顔を上げた。工事に入る前に狼藉者どもをコンクリで固めて沈めなければいけない。ああ、忙しい忙しい。
ボンゴレの御旗の元、生まれ変わった港街。その街のシーフードレストランで九代目と沢田日和は食事を楽しんでいた。
「いい街だね、気に入ったよ。」
「恐縮です。」
全てはボンゴレの繁栄のために