「うん……今なんじ……」
カーテンの隙間から光は漏れていない。部屋の中も真っ暗だ。
中途半端な時間帯に起きてしまったのだと、霞みがかかった意識の中でボンヤリとトーカは目を開けた。寝直そうと思い、横向きに体勢を動かす。
「っっ⁉」
声にならない悲鳴を上げる。というよりも、咄嗟に声を飲み込んだ。いきなり人の顔が目と鼻の先に飛び込んできたのだ。驚くなという方が無理な話だろう。
なんで、研さんが。
すっかり目が覚めて、覚醒した頭で考える。
答えは直ぐに出た。一緒の布団で寝た。それだけだった。布団の数の関係でどの組み合わせにするかという話の結果、こうなったのだと思い出した。
今更ながら、トーカは恥ずかしくなっていた。寝る前は金木は背を向けていたこともあり、特に気にはしなかったのだが、距離が近い。金木の規則正しい寝息が耳をくすぐる。寝顔は普段より随分と幼い印象を受ける。たまに子どもっぽくなる時もあるけど、普段は基本的に落ち着いているし、中々こんな顔は見れないだろう。なんだか得した気分になった。
金木の寝顔を眺めながら、金木との出会いを思い出す。
始めは、いい印象ではなかった。突然、血を吸われたんだ、当たり前。これは油断していた自分に責任もあるけど。次に会うことがあれば……と考えていた気がする。
そして次の日、確かに世界が変わった。いつも望んでいたもの、でも諦めていたものが手に入った。思えばあの日からだ。少しでも、依子と向き合うことができたのは。
依子の料理を食べることができた。嬉しかった。だけど、それと同時に怖くなった。過去に、食事目的以外でも、多くの人間を殺してきた。その事実がこれから先、消えることはない。だから、負い目はある。人に近づくことで、今まで自分がしてきたことを、依子に正体を、過去を知られた時のことを考えると、怖い。
そういえば…元に戻った時はただ、絶望したことを思い出す。一度知ってしまったら、もう駄目だった。もう一度。それが望みだった。
再会した時は喜びよりも焦りが大きかった。どんなことをしてでも、と考えていた。
行為を終え、目を覚ました後。何度も確かめながら料理を作っている姿が記憶の父の姿と重なった気がした。父が作っていた料理はどんな味だったのだろう。もう、叶わないことなのに…。
そして今日。また与えてもらった。できるなら、どこにいるかも知れない、弟のアヤトにもしてほしい。また、一緒にいたい。今なら、面と向かっても言える気がする。…最後に会ったのは何時のことだったか。ケンカ別れだったことは覚えている。
入見さん、古間さん、そして四方さん。この人達にもだ。でも、自分から言うつもりはない。与えてもらってばかりの自分が言えることじゃないと分かっている。
改めて、トーカは金木の顔をじっと見た。もう、この人は自分にとって無くてはならない人だ。
ずっと一緒にいたいと思う人。けど、これが恋かと考えれば、しっくりこない。少女漫画のようなドキドキはない。ただ、近くにいると安心する。短い時間で信頼してしまっていた。でないと、一緒の布団で寝たりはしないだろう。
……起きないよね。うん。狭いし仕方ない。トーカは自分に言い訳をしながら、金木の胸に頭を埋めた。……もう、一人じゃないんだ。トーカは安心し、緩んだ顔で二度目の眠りについた。
■
なんだ、この状況。
目を覚まして、困惑した。トーカちゃんに抱き着かれている。それもガッチリと。下から、透き通るような寝息が聞こえてくる。身体のいたる所に柔らかい感触を感じるが、体勢を変えようにも変えることができない。
今、トーカちゃんが起きたらマズイどころの話ではない。現に、特有の、朝の現象が起こっている最中だ。彼女の柔らかさも相まっているのもあるかもしれない。
どうすることもできなかった。もう、考えを放棄する。もう一度寝よう。……あたたかいなぁ。
コトッコトッと、どこか心地よく感じる音で目を覚ます。二度寝したせいか、ダルさがある。
トーカちゃんはもう、布団にはいなかった。まだ寝ていたい欲求を抑えて布団から出ると、もう三人とも起きていた。リョーコさんとトーカちゃんは台所に立って朝食の準備をしてくれていたようだ。机の前に座っているヒナミちゃんの前には、空の長皿がある。もう何か食べたのだろうか。
「おはよう」
目線がこちらに向き、それぞれが朝の挨拶を返してくれた。二人がエプロンをしていないことに気づいた。買っておかないといけないな。少なくともリョーコさんのものは。
「お兄ちゃん!!ヒナミ、食べれたよ!!…ちゃんと、味したよ」
嬉しそうな声だったが、段々とトーンが下がっていった。
「うん。よかったよ。何食べた?」
「……お姉ちゃんが作ってくれた玉子焼き。おいしくて全部食べちゃったの。……本当にすごく嬉しくて…。お兄ちゃん、ありがとう」
目に涙を浮かべたヒナミちゃんに笑って返事をする。……内心では、ホッとしていた。ヒナミちゃんだけ駄目だった場合は、それこそ目も当てられない状況になっていただろう。
「今、お母さんがお味噌汁作っているの!」
味噌の香りがしてきた時点でなんとなく分かっていた。豆腐とワカメかな。……おなか空いてきた。炊飯器を確認すると、もう少しで炊き上がるようだ。
「研くん、どうぞ……」
リョーコさんが茶碗に入った味噌汁を自信無さげに置く。見た目は至って普通の味噌汁。おいしそうだ。先に手を付けたヒナミちゃんも目を輝かせながらすすっている。熱かったのか、間をいれてフーフーと息を吹き掛ける姿が可愛い。
いただきますと言ってから茶碗に口を付けた。
……視界がボヤけている。思わず、涙が出そうになった。思えば、人から作ってもらった味噌汁なんていつぶりだろうか。家庭の味、頭に浮かんだのはそんな感想だった。特別おいしいと言う訳ではなく、そもそもリョーコさんの初料理だ。台所に立つリョーコさんの姿が、幼い頃に見た母の姿と重なって見えたからだろうか。だから、そう思わずにはいられなかった。
「……おいしいです。上手くいえないけど、ホッとする味というか……」
そんな曖昧な感想でもリョーコさんは嬉しそうに笑ってくれた。それを見てまた、どうしようもなく嬉しくなる。身体の中から熱が広がっていくのがわかる。
「あ、お姉ちゃん!また玉子焼き作ったの?まだ食べていい?」
「さっき全部食べたんだから、少しね。……あの、どうぞ。見た目は微妙だけど、味はイケました」
形は…まあ、巻きすもないため仕方ないだろう。フォローして口に入れる。……甘めの玉子焼きだ。出来立てというのもあるだろう。フワフワとして、じんわりと甘さが口の中で広がる。炊きたての白ご飯と一緒に食べるとよく合う。
朝食を作ってくれたお礼ということで、僕とヒナミちゃんで後片付けをした。その最中も、お昼ご飯も楽しみだなぁ、とヒナミちゃんは待ち遠しそうだった。
■
「ここがCCGか……。えっと、あれかな」
時刻は昼前、休日のためかまだ人通りは多くない。金木は一人、CCG二十区支部を訪れていた。その姿は普段とは異なり、黒縁の眼鏡をかけ、髪は後ろに流している。自宅で鏡を前にした本人は違和感しか感じなかったが、セットを手伝った三人には好評だった。どこか野生的な印象で普段とのギャップがあり、新鮮だったためだろう。
手配書らしき紙が貼られたボードを見つけた金木は近づいて目的のものを探した。まず、大きく拡大された懸賞金の数字に目がいくが、それらの記事には二人のことが書かれていなかった。そのことに少しだけホッとする。引き続き目を通していると、
「……あった」
ボードの端の方にリョーコとヒナミ、二人の記事を見つけた。二人の特徴…服装などが載っている。それだけならよかったが、リョーコの似顔絵が載っていることは拙かった。写真でないのは幸いか。髪型を変えた今、化粧をすれば、分かりにくくなるはずだ。しかし、二人で外を出歩くのは控えた方がいいだろう。
「キミ、熱心に見ているようだが……」
どうするべきか、思案していた金木に背後からに声をかけてきた者がいた。
「ああ、すみません」
邪魔になっていたかと思い、場所を空ける。
「っ」
……あの二人組の捜査官だ。拙い。不意を突かれたと言っても今の反応は拙い。内心では焦りながらも言葉を続ける。
「捜査官の方ですか。お疲れ様です」
「ほう。なぜ我々が捜査官だと?」
あっ、しまった。真戸だったか、顔も言動も行動も怖い捜査官が即座に聞き返してきた。
「その、白のコートで判断させてもらいました。それに、お連れの方は如何にもという感じで……」
「だそうだよ亜門君」
「ええ、鍛えていますから」
「そうだな、私はどうかね」
「えっと、そのすみません」
「くくっ、正直なことだ」
少し和んだ空気が流れた。もちろん、気づかれないように警戒はしているが。早く行ってくれないかな。
「そうだ、少し中で話をしないか。せっかくここにいるのだしね」
なぜ、そうなる。だが、同時に少し興味が沸いた。
「えっと、お仕事中なのでは……」
「ああ、問題ない。これから休憩だ」
「真戸さん、一般の方には……」
「いや、亜門君。今、我々は捜査に行き詰まっている。何か切っ掛けになればと思ってね」
「はぁ。まあ、そうですが…」
……内部はスッキリとしている。だが、奥に目を向けると一部以外はバリケードが立っている。なんだろう、あれ。進むために、カードキーがいるのだろうか。
「あ、自己紹介がまだでした。“金本”です。…高校生です」
「ああ、すまない。こっちも失念していた。…こちらが真戸上等捜査官で、私が亜門一等捜査官だ。よろしく」
「真戸だ。よろしく」
受付に確認を取り、奥で話をすることになった。…あのゲートをくぐるのだろうか。だが、それより気になることがある。なぜか真戸さんがニヤついているのだ。更に顔の怖さが増している。ちなみに亜門さんは普通だった。
ゲートの前でもう一度疑問に思い、足を止めると、前から真戸さんが腕を引いてきたため、そのままゲートを通り過ぎた。
「あっ、すみません。ボーッとしていました。ところでこれ何のために……?」
前を向くと真戸さんはポカンとした表情をしていた。
「ああ、それは……真戸さん?」
亜門さんも疑問に思ったようだ。
「……いや、すまない。かんちが、…急用があったことを思い出した。金本君だったか、すまないね。亜門君、代わりを頼んでもいいかい?」
「え、はい。構いませんが」
「では、よろしく」
真戸さんはそう言い残して奥に行ってしまった。どうすればいいんだろう。亜門さんに視線を向ける。
「すまないな。だか、私もこれから休憩なんだ。代わりでよければだが、私で構わないか?……というよりも真戸さんは何の話をするつもりだったんだ?」
「えっと、なんだかすみません。でも、中々こんな機会ないと思うので。色々と聞きたいことがあります。出来ればお願いします」
亜門さんはたしかにな、と納得した様子だった。ゲートをまた通り、近くの応対スペースを借りる。
「さて、聞きたいことはなんだ。可能な範囲だったら答えよう」
話が早くて助かる。
「そうですね……」
そこからは質問攻めになる形になり、亜門さんには申し訳なかった。止めるつもりはなかったが。
簡単にだが、捜査の方法、捜査官になるための訓練方法、CCGの組織の仕組みなど知ることができた。だが、あくまで捜査官について。グールに関しては直接の質問はしなかった。
それでも亜門さんは丁寧に、できるだけ詳しく教えてくれた。聞くところによると、捜査官になるための学校で教鞭を取ったこともあるそうだ。道理で分かりやすかった訳だ。
「あ……すみません。もうこんな時間に……。休憩中だったのにすみません」
「いや、こっちもいい時間を過ごせたよ。君が熱心なものだから、つい熱が入ってしまった。しっかり、メモもとっていたようだしな」
「あ、あはは。その、もう少し大丈夫ですか?」
「ああ、構わない」
ここからがこの場に着いた時に最も聞きたかったことだ。
「亜門さんにとって、グールとは何ですか。」
その質問に亜門さんは真っ直ぐと目を合わせてきた。
「……実は、数日前に仲間がグールに殺された。だが、殺される理由はどこにもなかったんだ。……グールはこの世界を歪めている。私にとって明確な“悪”だ」
亜門さんはそう、言い切った。……数日前、殺害したのはおそらくトーカちゃんだろう。これは、僕にも責任があった。罪悪感から目を反らしそうになる。だが、それでもこの人に聞きたい。
「あなたが、その“悪”になったとしたら?」
「……何?」
声色が物騒なものになる。
「例えば、です。フィクションであるような人体実験などである日、突然グールになったとする。……自分の意思に反して、人肉に食欲を感じるようになる。そうなれば、どうしますか」
□
亜門は突然のその質問に、直ぐに答えることができなかった。
考えたことがなかった。そもそも、ありえないことだ。彼が言うように所詮フィクションの世界の話であり、真面目に答える必要もない。だが、彼の目が真剣の色を帯びていたためか。
もしそうだったら、と考えてしまった。
始まりは幼少の頃の体験から。亜門にとってグールとは、“悪”そのものであった。
人の皮を被った残虐な化け物。それによって、どれだけの仲間が殺されてきたことか。どれだけの子どもが、人がただ一人残され、絶望したことか。
そんな“悪”に自分が。やはり、ありえない。想像ができない。捜査官こそ、自分こそが正義であるはず、だ。
「…私は、喰種捜査官だ。そうなっても、人の心は忘れないだろう。人は殺さない。……死を選ぶ。」
「じゃあ、人を殺さずに、……いや、いいや。…すみません。こんな質問に答えて下さってありがとうございます。」
彼は言葉ではそう言ったが、納得した様子ではなかった。それに、言葉の続きは理解できた。
人を殺さずにすむのならば、人を殺せないのならば、それでもほかに方法がある。…彼が言いたかったことはおそらくそう言うことだ。だが、それでも自分が人の肉を食べることはできないだろう。
だから、自分の考えが変わることはない。それに、ここで変えてしまっては、殺されていった仲間達、残されていった者達はどうなるんだ…。
自分に言い聞かせながらも、亜門の心には、金本の言葉がしこりのように残った。